ギルベルトの幸福
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ギルベルトは大魔法使いエンデュミオンより少し年上です。
166ギルベルトの幸福
ギルベルトは普段リュディガーと寝ているが、時々ビーネと一緒に眠る。何故なら、リュディガーとマリアンには仲良くしてもらいたいからだ。
幸いビーネはギルベルトともアデリナとも、喜んで一緒に寝てくれるので問題ない。
二の月は黒森之國でも一際寒さが厳しくなる。一日中氷点下の事も多いが、晴れた朝は朝陽に雪の結晶が透明の魔石のようにきらきらと光り輝くのが美しい。
冬には常時熱鉱石暖房で家を暖めているが、明け方には室温が下がる気がする。
「……」
むくりと起き上がり、ギルベルトは太い前肢の甲で閉じた目を擦った。それからにゅーっと前肢を伸ばす。こうすると身体が目覚めていく感じがする。
ふと、肉球の間から毛が伸びているのに気が付いた。ギルベルトは長毛気味なので、どうしても桃色の肉球の間から伸びてくる。里にいた頃は風の精霊に頼んで切って貰ったりしていたが、リュディガーを主にしてからは彼に整えて貰っている。
リュディガーの両脚の間に座って、先が上向きに少し曲がったお手入れ用の鋏で肉球の間の伸びた毛を整えて貰うのは、ギルベルトの楽しみにしている時間だ。
ケットシーは主に甘える権利がある、と教えてくれたのはエンデュミオンである。実際、「肉球の間の毛を切って」と頼めばリュディガーは快く引き受けてくれる。毎日お風呂に一緒に入ってくれるし、絡まりやすい背中の毛を丁寧にとかしてくれる。
リュディガーは良い主だ。
まだ眠っているビーネを起こさない様に静かにベッドから降り、ギルベルトは窓辺へ行ってカーテンをそっと捲った。身体の大きいギルベルトは、椅子を使わなくても何とか外を見られる。
窓の外はまだうっすらと青く、完全に太陽が上がっていない。
「ぎるーぅ」
「どうした? ビーネ」
ビーネも目を覚ましたらしい。ベッドで半分目を閉じたまま、両前肢をギルベルトに伸ばす。
「しっこ」
「そうか。つれていってやろう」
もそもそと起き上がったビーネを抱き上げ、ギルベルトは部屋を出てバスルームに向かう。
「ふふ」
森から出てからの方が、目新しい物が一杯で面白い。
「ぎる、もれる」
「頑張れ」
ビーネのオレンジ色にも見える毛に頬擦りし、ギルベルトはバスルームに急いだ。
朝食はリュディガーが焼いたパンケーキだった。皮がパリパリの腸詰肉と若菜のサラダ、エンデュミオンの温室で摘んできたブルーベリーが入ったヨーグルトもある。そして濃い紅茶。
ギルベルトとビーネのカップにはたっぷりの牛乳が入ったミルクティーだ。
人族の美醜はギルベルトには判別つかないが、マリアンもアデリナも好ましい容姿だと思っている。人族の中では〈美人〉と言うらしい。
〈Langue de chat〉の孝宏は少し雰囲気が違うとエンデュミオンに言ったら、「孝宏は黒森之國の人族より幼く見えるのだ」と言っていた。骨格も華奢で、黒森之國の少年のまま時を止めたのではないかと思ってしまうのだが、成長していると言う。
「リュディガー、ビーネ送ってきたらギルベルトの肉球の間の毛を切って欲しい」
「良いよ。床滑らない?」
「まだ大丈夫」
床で滑って転ぶ前に、肉球からはみ出た毛を切って貰うのだ。
〈針と紡糸〉は受注した服を誂える仕立屋だ。昨日で仕立て仕事が一段落しているので、マリアンもアデリナも今朝はゆっくりしている。
朝食を食べてからリュディガーに全身の毛を梳かして貰い、服を着る。マリアンとアデリナが縫ってくれた服は、どこもきつい場所がなくて、とても着心地が良い。
ビーネもマリアンに服を着せて貰ってご満悦だ。今日はクローバーの模様が編み込まれた明るい緑色のセーターだ。
防寒用のフード付きケープを上から着て、ビーネを抱き上げる。
「では送ってくる」
ギルベルトは領主館へと〈転移〉した。
ビーネはアルフォンス・リグハーヴス公爵の息子ヴォルフラムを主に選んだ。しかし、ビーネ自身がまだ幼い為、通いで領主館に通っているのだ。領主館を縄張りにするケットシーはビーネが初めてなので、何かあれば直ぐに解るし、領主館には騎士隊もいるので、ヴォルフラムの守りとしては現在のところ充分なのだ。
ギルベルトは領主館の玄関前に〈転移〉した。いつもの事だ。
むふーと白い息が盛んに出る。今日は特に寒い気がする。朝陽に照らされた雪の結晶が眩しく輝いている。
「ビーネ、頼む」
「あい」
ビーネの両脇を支えて持ち上げ、ドアノッカーを跳ね上げさせる。コンコンコン!とノックして直ぐに扉が開いた。今日はいつもより速い。
「おはようございます、ヘア・ギルベルト。ビーネ」
慇懃に執事のクラウスが軽く頭を下げる。この男は結構な腕前の魔法剣士だ。強い者がビーネの近くに居るのは良い事だ、とギルベルトは思っている。
元王様ケットシーのギルベルトは、人族の世では公爵位として扱われる。その為敬称を着けて呼ばれる事もあった。当人はどちらでも構わないのだが。
「ビーネを送ってきた。ヴォルフラムの所へ連れていってやってほしい」
「承知致しました」
大分慣れた手付きでビーネを抱き取ったクラウスが、いつもならそのままギルベルトを見送るのだが、今日は再び口を開いた。
「聖女様がご滞在なさっていますが、お会いになられますか?」
「聖女……? 今代はフロレンツィアだったか?」
エンデュミオンが聖女の話をする時そう呼んでいた気がする。
「左様でございます」
一瞬エンデュミオンが何かをやらかしたのかと思ったが、幸運妖精シュネーバルの事かと気付いた。独立妖精だから、好きにさせる以外はない筈だ。エンデュミオンと珍しくヴァルブルガも手ずから育てる気配を見せている。
「呪われでもしたのか?」
「呪われておりません。〈Langue de chat〉とは友好関係を築かれておられる様ですので」
即反論された。どうやら普通に挨拶をするか聞かれた模様だ。
以前聖女がリグハーヴスに来たのは孝宏が〈異界渡り〉かどうかの判定だったらしい。ギルベルトが街に来る前の話だ。
「解った、挨拶してくる」
「温室に側仕えの修道女様といらっしゃいます」
「うん。クラウスはビーネを頼む」
既に勝手知ったる領主の温室である。温室に通じる応接室のドアだけ開けてもらって、ギルベルトはとことこ歩いて硝子戸を開けて温室へ入る。
外の寒さとは打って変わった春の陽気の温室だ。コボルトのクヌートとクーデルカが日参しているだけあって、以前より植物の状態が良い。庭師の腕も良いが、あの二人が何かしら精霊に働きかけているのは間違いない。
温室の奥へと向かって行くと、人の気配が近付く。
いつもの泉がある広場の木の下で、敷物代わりに毛布を敷き、クヌートとクーデルカが座っていた。そこに平原族の若い女性二人も居た。
「ギルベルト!」
クヌートがギルベルトに気付いて前肢を挙げる。
「まあ!」
銀色の前髪の見える修道服の女性が声を立て、紫色の瞳を瞠った。アルフォンスと同じ色合いだから、こちらが聖女フロレンツィアだろう。
急ぎつつも優雅な所作でフロレンツィアが立ち上がり、側仕えの少女もそれに倣う。
「王様ケットシーでいらっしゃいますか」
「元王様だから、ただのギルベルトだ。畏まらなくて良い」
「承知致しました。私はフロレンツィアと申します。こちらはエルネスタです」
「うん。エンデュミオンから聞いてる」
前肢で座るように促し、ギルベルトも毛布の端に腰を下ろす。
「お茶あげる」
「お菓子もある」
いそいそとクーデルカが水筒から湯気の立つお茶を木のコップに注ぎ、クヌートが薄い木の皮の上に載った黒糖と生姜を使ったケーキを勧める。料理好きなクーデルカが作るお菓子は素朴だがとても美味しい。
コボルトが使う木のコップは、薄く薄く削られた一級工芸品である。クーデルカは時々蜂蜜を買いに里に戻るので、その時に仕入れて来て〈Langue de chat〉で置いて貰っている。イシュカの手帳が置いてある棚の空いている場所に、インクやペン先とペン軸、コボルト細工がそっと置いてあるのだ。ペン軸もコボルト細工の物もあり、美しい彫刻が施されている。
コボルト織以外のコボルトの工芸品があるのは、〈Langue de chat〉だけである。ハイエルンでも取り扱っていないのだが、エンデュミオンがクーデルカのコップに目をつけて、売るようになったのだ。代金はエンデュミオンが魔石や塩や砂糖、胡椒や小麦粉に交換して作り主に支払っている。
「あの、私達もお茶を頂いて宜しいのでしょうか」
「コボルトは客をもてなすのが好きなんだ。クーデルカのお菓子は美味しい。断るとがっかりする」
種族の性質としてもてなしたり、お世話をするのが好きなのがコボルトだ。友好関係を築けば、憑いて来て主の家の世話をする者もいる。クーデルカはその気質が強いのだろう。クヌートもディルクとリーンハルトと暮らす部屋の片付けやお茶を淹れたりはしている筈だ。
つまり──根本的にハイエルンのコボルトへの対応は間違っているのだ。コボルトは本来好戦的ではない。対等な立場で友好関係を持とうとしてさえいれば、もっと繁栄しただろうに。現在棲む場を追われた多くのコボルトは、人狼に保護を求め同じ集落で暮らしている。
「んんっ、美味しい!」
ケーキを食べたエルネスタが、がしりとクーデルカの前肢を握った。
「レシピを交換しましょう! 干し葡萄は好きですか? ラム酒に漬けた干し葡萄で作るケーキのレシピがありますよ。香辛料がピリッとするケーキです。殿方が好まれますよ」
「……!」
クーデルカの藍色の瞳がきらりと輝き、〈時空鞄〉からレシピノートと紙を取り出す。ピスピスと鼻を鳴らして、青い芯の鉛筆でレシピを紙に書き写し始めた。
エルネスタの方はこう言う時の為にお薦めレシピを紙に書き写しておいてあったらしく、それをそのままクーデルカに渡していた。
「フロレンツィアの側仕えは面白いな」
「私もそう思っております」
「……」
フロレンツィアの隣では、クヌートがあぐあぐとケーキを食べていたが、唐突に〈時空鞄〉に前肢を突っ込み、「はい」と丸い小さな魔石を差し出した。
「あげる」
「これは?」
フロレンツィアの掌に置かれたのは中で緑色の光が炎のように揺らめく透明な魔石だった。
「それは〈解毒〉の治癒魔法を魔石に封入した物だな。身に付けておくとお腹を壊さない」
クヌートの代わりにギルベルトが説明してやる。
実際はお腹を壊さない所ではなく、危険な毒は効かないと言う規格外の代物だ。クヌートが気に入った者に与えている。
「エルネスタとユルゲンにもあげる」
「まあ、有難う存じます」
「へへ」
お礼を言われ、クヌートの内側が白い黒い巻き尻尾がふるふる揺れる。
「あの、ヘア・ギルベルト。お訊ねしても宜しいですか?」
「なに?」
「私は女神様のお声が聴こえないのですが、このままで良いのかと……」
「……?」
大きな濃緑色の瞳をパチパチさせ、ギルベルトは前肢で張りのある髭を撫でた。たわんだ髭がぴょんと元に戻る。
「普通、聴こえない。いつも聞こえたら、フロレンツィアは生活出来ない。ケットシーでも直接降臨された時位しか話さない」
「そ、そういうものなのですか?」
「うん。だから気にする事ない。必要な時はちゃんと聴こえるから。フロレンツィアはちゃんと女神様に黒森之國の事をお知らせしてる。女神様は知ってる」
ギルベルトは肉球でフロレンツィアの頭を撫でた。
「フロレンツィアは良い子」
軟らかい肉球に、フロレンツィアの顔が和らぐ。
「ふふ、大きい肉球ですね」
「うん。王様は皆を護らなくてはならないから」
ぎゅっと小さなケットシーを抱き締められる様に大きい身体なのだ。
「フロレンツィアはいつまで聖女をやるんだ?」
「現王太子か第一王子に御息女がお産まれになったら退役、でしょうか。私は教会以外の暮らしを存じませんので、降嫁しなければ一般の修道女として過ごすと思いますが」
「その時にはリグハーヴスの女神教会に来ると良い」
「宜しいのですか?」
「誰も困らない」
新しい聖女に交代すれば、フロレンツィアの立場は微妙なものになるだろう。それが暫く先の事であろうとも。
「聖女様、私も同伴させてくださいましね」
「まあ、エルネスタ」
「リグハーヴスは雪があって寒いですが、妖精が多くて楽しいです」
同調するようにクヌートとクーデルカの尻尾が振られる。
「フロレンツィア達はエンデュミオンにも気に入られているからな。安心すると良い」
ふふ、と笑ってギルベルトは飲み頃に冷めたお茶を舐めきり、コップをクーデルカに返した。
「美味しかった、クーデルカ」
「また飲みに来て」
「うん」
クーデルカは領主の温室やエンデュミオンの温室で、良くお茶を振る舞っている。趣味なのだ。
ギルベルトはフロレンツィアとエルネスタをぎゅっと抱き締め、額にキスをした。
「また会おう。ではな」
ポンッとギルベルトは〈針と紡糸〉の二階に帰って来た。
「お帰り、ギル」
「ただいま、リュディガー」
ラグマットの手前でモカシンを脱ぎ、ソファーに座っていたリュディガーに抱き着く。リュディガーはリュディガーとマリアンの匂いがする。仲が良いのは良い事だ。
「肉球の毛切ろうか?」
「うんっ」
ずりずりとソファーを背に座り直したリュディガーの脚の間に収まり、肉球を見せる。リュディガーは小さな櫛と専用の鋏を、細長い木箱から取り出した。
丁寧に肉球からはみ出た毛を櫛ですき、先が上向きに反った鋏で切っていく。
「ふふ、くすぐったい」
「じっとしててね」
チョキチョキと微かな鋏の音がする。耳元でリュディガーの声がするのもくすぐったい。
「はい、肢もね」
「うん」
ころんと俯せに寝転がる。肢を軽く掴まれて、チョキチョキ、チョキチョキ。
「はい、おしまい」
切った毛を紙に集めて畳み、リュディガーはギルベルトに両腕を広げた。勿論すっぽりと収まりにいく。
リュディガーはギルベルトをちゃんと甘やかしてくれる時間を作ってくれるのだ。頭を擦り付けてしまうし、尻尾をくるんとリュディガーの脚に巻き付けてしまう。
「今日は領主館に聖女達が来ていた」
「へえ? 誰か何かやったっけ? エンディ?」
やはりそう考えるんだな、とは思ったが、エンデュミオンがリグハーヴスに来てからやらかした数々の出来事をギルベルトは知らない。だが、自分が育てただけあって、今まで何かしらやったのだろう事は解る。
「妖精犬風邪やシュネーバルの事だと思う。あとは何かあったかな……」
ギルベルトも里のケットシー達がリグハーヴスに祝福の光を降らせたのは知らなかった。
「あとは〈氷祭〉でも見に来たのではないか?」
「エンディの女神像かな」
「それもあったか」
光の精霊が悪のりする程精巧に、月の女神シルヴァーナを氷で作っていた。随分、女神教会にお布施が集まったのではなかろうか。きっと孤児院の子供達の食事内容が良くなったに違いない。ベネディクトとイージドールがお金を掛けるなら、まずそこだ。
「エンデュミオンは色々やるなあ」
「ギルベルトもエンディの温室に、里を繋げちゃっただろ」
「むう、あれは温泉に入りたかったから」
大魔法使いフィリーネにエンデュミオンが取り成してくれたと、後で知ったギルベルトである。
「……温泉入りたい」
思い出したら入りたくなった。
「夕方に皆で入りに行こうか? アデリナ達と交代でシチュー作れば良いかな」
「うんっ」
肩口に頭を擦り付けるギルベルトの耳の付け根を、リュディガーが掻いてくれる。ぐるるる、と喉が鳴ってしまうのは止められない。
王様を辞めたギルベルトがリュディガーと暮らすのは、余生であり新たな生活だ。それがとても楽しくて仕方がない。
春になればまたリュディガーと薬草摘みにあちこち出掛けられる。
それより、まずはケットシー達に作る今日のシチューの材料を買いに行かなくては。
マリアンとアデリナが作ってくれた服を着て、靴屋オイゲンが作ってくれた靴を履いて、リュディガーと手を繋いで。
「ご機嫌だね」
「ふふ」
ギルベルトは今、とても幸せだ。
ギルベルトの日常です。
ビーネを領主館に朝送って行って、夕方お迎えに行くまでリュディガーと内職するのが冬の生活。
背中の毛を梳かすのが苦手な、ギルベルトです。




