〈氷祭〉の前夜祭
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
命に関わりそうな事にはとっても怒るヴァルブルガです。
164〈氷祭〉の前夜祭
「良いよー」
火蜥蜴のミヒェルが余熱が済んだ事を教えてくれたので、孝宏は抹茶生地を流し込んだ天板をオーブンに入れた。
「宜しくね、ミヒェル」
「うん」
ミヒェルが来てから出来上がりを教えてくれるので、その間に気兼ねせず他の事を出来るので有難い。
使ったボウルや泡立て器を一度洗い確りと水気を拭き取る。
「あとはクリーム泡立てて渋皮煮の栗を刻んで混ぜる、と。あ、シュネーバルの目薬注してないや」
小皿に大きめの渋皮煮の栗をナイフで半分に切った物を乗せ、カモミールミルクティーをコップに注いでストローを挿す。小さめのティーポットに作って置いておいたので、程よく冷めている。
「シュネー」
カチカチカチと爪音が近付いてきて、テーブルの縁からシュネーバルが顔をひょっこりと出した。野生児シュネーバル、ケットシー用の椅子によじ登るのは御茶の子さいさいである。
「目薬注すよ」
椅子にきちんと座らせて、紅茶色のくりくりとした目にグレーテルから処方された目薬を注す。保冷庫に入れておいたので、冷え冷えの目薬に一瞬シュネーバルの耳が伏せる。
「はい、良いよ」
余分な目薬を拭き取ってやり、たっぷりと頭と耳の付け根を撫でてやる。
うるる、と喉を鳴らすシュネーバルに孝宏は栗の渋皮煮の小皿とカモミールミルクティーを出す。
リグハーヴスの妖精犬風邪は終息したものの、冬の間は流行期になるので、カモミールティーをコボルト二人に飲ませなければならない。
今日のヨナタンは、カチヤと店を手伝っているので、二階にはシュネーバルだけだった。
「……」
小皿の渋皮煮を片手に一つずつ掴み、「あー」と口を開けて食べる。誰も取らないのだが、森で一人で暮らしていた時の習性なのだろう。
ふるふると白い巻き尻尾を振りながら、うるると喉を鳴らす。
チューとストローで飲むのも上手くなった。
一度に食べる量が少ないので、シュネーバルには時々おやつを与えるのだ。お腹が空いても黙っているので、様子を見て食べさせていた。
食べ終えたシュネーバルの前肢を拭いてやり、孝宏はそのままクリーム作りに入った。
「今日はね、〈氷祭〉の前夜祭なんだよ。警備をする騎士団の人達が見る日なんだ」
「……」
「エンデュミオンも手伝いに行っているから、これは差し入れ。後でシュネーバルも一緒に見に行こうね」
「……!」
しゅっと右前肢が挙がる。
〈氷祭〉は光鉱石でライトアップするので、陽が落ちてからも見られるのだ。
実はテオも氷魔法が使えたので、何か作れとエンデュミオンとルッツに訓練場へと連れていかれていた。
孝宏達は仕事終わりの夕方に、騎士団の人達と一緒に前夜祭に参加予定だ。
「焼けたよー」
オーブンからミヒェルの声がした。
「有難う、ミヒェル」
オーブンの扉を開けて天板を引き出し、クーラーの上に蝋紙ごと焼けたスポンジケーキを置く。これが冷めるのを待って、クリームを塗って巻く。
しかし今日はエンデュミオンが居ないので、孝宏はシュネーバルと布の絵本を見ながら過ごした。
この布の絵本を作ったヴァルブルガが一階に居るのでスポンジケーキを冷ますのを頼んでも良いが、たまにはこういう日も良い。
シュネーバルは読み書きが出来なかった。ヴァルブルガの布の絵本は肌触りの良い布で果物や野菜、動物がアップリケされて、その物の単語が刺繍されている。シュネーバルのお気に入りだった。
「これは眠り羊だよ。地下迷宮に居るんだって」
「……」
眠り羊のアップリケのくるくるふかふかな布地を撫で、シュネーバルが楽しそうだ。
最近膝の上の温かさを覚えたのか、孝宏やイシュカの膝の上に乗って来る様にもなった。テオやカチヤの膝の上に行かないのは、先着者が居るからである。
コボルトは魔法の勉強をしながら自分の本を作るので、読み書きが出来なければならない。それにシュネーバルの杖をまだ作っていない。
とは言っても、シュネーバルは身体が小さい為、前衛魔法使いには向かないので、杖型でなくても良いのではないかとエンデュミオンは検討している。
「そろそろクリーム巻こうか。端っこ一緒に味見しようね」
「……!」
両前肢を上げて喜びを表すシュネーバルを抱え、孝宏は台所に向かったのだった。
冬の夜に外に行くにはそれなりの用意がいる。暖かな服は勿論、熱鉱石を入れた行火。鍛冶屋のエッカルトが作ったポケットに入る大きさの行火に熱鉱石を入れて、ヴァルブルガの作ったキルトの巾着に納める。それを外套のポケットに忍ばせるのだ。
「慣れないだろうけど寒いからね」
シュネーバルの下肢に綿と毛糸の靴下を重ねてから、その上から柔らかい革靴を履かせる。外を歩き回っていたシュネーバルの肉球は硬いのだが、雪の中を歩くのには向いていない。
靴屋のオイゲンに頼んで、柔らかい革靴を作り、防水油を塗り込んで貰ったのだ。
イシュカがヴァルブルガとシュネーバルを両腕に抱き、孝宏はロールケーキの入った籠を持った。カチヤはヨナタンを抱いて、〈Langue de chat〉のドアに鍵を掛ける。
「行こうか」
冬場は閉店時間には陽が落ちてしまっている。家々の玄関先には光鉱石のランプが下がっているが、街灯等はない。
ヴァルブルガが光の精霊に頼んで、光の玉を出して足元を照らしてくれる。
騎士団の建物の裏手にある訓練場には、光の玉があちこちに浮かび、紺青の世界に幻想的な雰囲気を醸し出していた。
滑らない様に細かな石が撒かれた緩い坂を下ると、屋台が並んでいた。グリューワインのスパイシーな香りや、腸詰肉の焼ける脂の芳ばしい煙が漂う。
ぐぅーとシュネーバルからお腹の鳴る音が聞こえた。今日の夕食はここで食べる予定なのだ。
エンデュミオンと合流したら、何か食べさせなければならないな、と思っていたら鯖虎柄のケットシーが一つの屋台の前で前肢を振っていた。
「孝宏!」
「エンデュミオン、ご苦労様」
エンデュミオンが居たのは、お菓子置き場の屋台だった。
前夜祭は会場作りをした者達の慰労祭なので、飲食代は領主持ちだ。
お菓子置き場には、騎士団の食堂の料理人や、騎士の家族達が手作りの菓子を持ち寄って置き、自由に取って貰う屋台だ。
孝宏は籠から一切れずつ蝋紙で包んだ抹茶ロールケーキを浅い木箱に並べた。
「さ、ご飯を食べてから氷像見ようか。ルッツ達は休憩所に居るぞ」
休憩所は魔法陣で暖かくしてテーブルと椅子を置いた場所だった。
毎度お馴染み肉屋アロイスとパン屋カールの屋台で、腸詰肉をパンに挟んだ物を貰う。それとこういう時に食べると美味しい揚げ芋とピクルス、グリューワイン。孝宏とカチヤ、妖精達には葡萄ジュースで作った物を。
食べ物は孝宏が持っていた籠に入れ、飲み物はエンデュミオンが〈時空鞄〉に入れた。
「ごはーん」
丸テーブルの一つでルッツがテオの膝の上に座っていた。テーブルにはカボチャのタルトが載っている。好物を見付けてお菓子の屋台から先に持ってきていたらしい。
テーブルの上に持ってきた物を載せ、皆で食べ始める。ピクルスでシュネーバルが噎せていたが、他の物は好き嫌いなく食べていた。
「なんか随分氷像建ってるね」
「魔物系は〈氷祭〉が終わった後、訓練にも使えるから多目にあるな」
「成程」
食べ終えた器を屋台に返し、氷像会場の方へと歩きだす。孝宏が持っていた籠はエンデュミオンの〈時空鞄〉に入れて貰ったので身軽だ。
「シュネーバル、一人でどこか行っちゃ駄目なの」
「……」
ヴァルブルガにシュネーバルがしゅっと右手を挙げた。
雪の上をシュネーバルがヴァルブルガと手を繋いでとてとて歩いていく。目立つ様にシュネーバルにはヒヨコ色のフード付きケープを着せているが、後ろ姿の可愛さに顔が緩んでしまう。
「はー、凄い……大きい……」
騎士団長マインラートの氷像は素晴らしかった。恐らく実物大で魔物を再現しているのだ。
「ねえ、やっぱり絶叫鶏ってさ……」
「ああ、うん、家禽の鶏とは大きさ違うよ」
実物を知っているテオが応える。
鶏が孝宏が知っている牛サイズなのだ。倍率がおかしい。凛々しく威嚇している姿に、ヨナタンとシュネーバルの尻尾が肢の間に入っている。
狂暴牛も倍率がおかしい牛だった。眠り羊も大きかったが、この魔物に関しては怒らせなければ大人しくて、普通に毛刈りをさせてくれると言う。
氷像の足元には解説の板が置いてあり、そんな豆知識が書いてあった。
竜のコーナーには、黒森之國に居る竜の種類が紹介されていた。
「テオとルッツつくったー」
氷の魔法が使える者が作った氷像のコーナーには、テオとルッツが作った花冠を作るケットシーとコボルトの氷像があった。騎士団員の子供達に人気で、回りに子供が多い。
「エンデュミオンは何か作らなかったの?」
「エンデュミオンのはあれだ」
氷像は全てが水晶を削って作ったかの様に澄んで美しい氷で出来ていたが、会場の中心にあるそれは一際光の精霊の放つ光を受けて煌めいていた。
「月の女神シルヴァーナが、ケットシーの里に遊びに来た時の姿を作ってみた」
「眩しい……」
美しすぎて長く直視出来ない。頭部に星の冠を戴く豊かな髪が足元まで流れ落ち、ほっそりした腕を伸ばしてケットシーを撫でている月の女神の姿に、皆ポカンと口を開けて見惚れている。と、氷像の足元で司祭イージドールと大工のクルトが何かやっていた。
「イーズ? 何してるの?」
「やあ、皆で見に来たのか。女神様にお供えをされる方が居るものだから、供物台を置いてくれと頼まれたんだよ」
硬貨を氷の上に置かれると、氷が溶けて硬貨が沈んでしまうからだろう。
クルトが雪の上に板を置き、横長のテーブルとお祈り用の膝置きクッションを乗せる。テーブルには蝋燭の代わりに光の精霊が二人降りてきたので、イージドールが飴玉を渡し、司祭服のフードに入っていたシュヴァルツシルトにも一つ渡した。
「なんか……ここで皆お祈りしそうだな……」
「聖都から巡礼者が来るかもしれないな」
魔法使いギルドの〈転移陣〉を使えば不可能ではない。テオに真顔でイージドールが応え、ルッツやヨナタンにも飴玉を渡す。
クルトがエンデュミオンの頭を撫でた。
「エンディは何事も手を抜かないな」
「……何でこうなった?」
目の前で何が起こっているのか理解していないエンデュミオンがそこに居たのだった。
「あれ? 黄色いケープの子は?」
飴玉を配っていたイージドールがヴァルブルガの隣の空間に視線を向けた。
はっと、孝宏は辺りを見回した。
「シュネーバル?」
気が付くとシュネーバルが居なかった。
「うわ、どこ行った!?」
独立妖精で子供のシュネーバルなので、行こうと思えばどこでも行ってしまう。
「……」
「ヴァルブルガ?」
無言のヴァルブルガにイシュカが話し掛けた。
「捕まえてくるの」
ぽつりと呟き、ヴァルブルガは姿を消した。
目の前を白っぽくて長い尻尾が通り過ぎ、シュネーバルは釘付けになった。ふさふさでふかふかそうに見える。
「……」
ふらふらとその尻尾を追い掛ける。そして止まったところで飛び付いた。
「わあっ!」
尻尾が叫んだ。
「……?」
「おやおや、何を釣ったんだ? エリアス」
ひょいと胴体を抱き上げられ、シュネーバルはウーと低く唸った。
「エリアスの尻尾が気に入ったのかい?」
「……」
シュネーバルを掴んでいたのは白い髪に蒼い瞳の男だった。一目で〈善人〉で〈長級〉の男だと判断したシュネーバルは、唸るのを止めて巻き尻尾を振った。戦う意思はない。掴んでいた尻尾を離し、大人しく男の腕に抱かれる。
「マインラート、その子コボルト?」
「ああ。迷子だな。ちゃんとギルドカードをしているね。……名前はシュネーバルで〈Langue de chat〉の子だ」
「抱っこしていい?」
「ああ、届けに行こう」
シュネーバルをマインラートはエリアスの腕に渡した。
「可愛いなー」
「……」
白に近い灰色の毛をもつ人狼のエリアスに、シュネーバルは尻尾を振ってみせた。人狼とコボルトは友好関係にある。
「おっと」
マインラートとエリアスが歩き出した目の前に、ポンッとヴァルブルガが現れた。
「シュネーバル!」
「……っ」
ヴァルブルガの澄んだ緑色の瞳がギラギラ光っていた。怒気を察知したシュネーバルの尻尾がしゅるっと肢の間に入りぷるぷる震えた。ヴァルブルガとの約束を思い出したのだ。
「ヴァルブルガ、今送って行くところだったんだよ」
マインラートはヴァルブルガを雪の上から抱き上げた。
「皆はどっちかな?」
「あっちなの」
ヴァルブルガの丸い前肢が示す方へ、マインラートとエリアスは進んだ。
「いたいた」
月の女神シルヴァーナの氷像の近くに孝宏達は居た。マインラート達を見て駆け寄ってくる。
「シュネー!」
「マインラート達が見付けてくれたのか?」
「いや、エリアスの尻尾で釣れたんだ」
マインラートの答えにエンデュミオンが「ふかふかに弱すぎるだろう」と頭を抱えた。
「どうしたの? ヨナタン」
カチヤのズボンを掴むヨナタンの尻尾が内側に巻いていた。
「シュネーもだ」
孝宏がエリアスから受け取ったシュネーバルも、尻尾を抱えている。
「ヴァルブルガが怒っているからだろう」
イシュカに渡したヴァルブルガの頭に、マインラートがポンと掌を置いた。
ギラギラした瞳のままシュネーバルを見詰めているのだ、尻尾も内側に巻くだろう。ヴァルブルガがここまで怒るのは珍しい。
「ああ……」
そう言えば、ヴァルブルガは「一人でどこかに行くな」とシュネーバルに言っていた。シュネーバルはそれに「はい」と手を挙げたのだ。約束を破ったのだから怒りもするだろう。
孝宏は顎先でシュネーバルの頭をぐりぐりと擦った。
「シュネーバル、もしかしたら知らない人に拐われたかも知れないんだぞ? 気になったのなら、ヴァルに一緒に行ってと頼めば良かったんだよ」
「……ごめちゃい」
「ん」
シュネーバルの謝罪に、ヴァルブルガが重々しく頷いた。
ぷるぷる震えて謝るシュネーバルに、ヴァルブルガの底知れない強さを知った一同だった。
ちなみに〈氷祭〉の会期中、月の女神シルヴァーナの氷像にはお供え物が絶えず、リグハーヴス女神教会には意外な臨時収入がもたらされるのだった。
このあと自分がもっとしっかり見ていれば良かった、と落ち込むヴァルブルガです。
ちなみにシュネーバルのふかふか好きは治りません。




