リグハーヴスの妖精犬風邪
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
妖精犬風邪到来です。
160リグハーヴスの妖精犬風邪
白いコボルトのシュネーバルがエンデュミオンの温室に現れてから一週間後、リグハーヴスにも妖精犬風邪が到達した。
最初に倒れたのは冒険者ギルドに勤める人狼のトルデリーゼだった。次に杖職人のクレスツェンツが夜中に熱を出し、木の妖精ゼーフェリンクがエンデュミオンの温室にカモミールを取りに飛び込んで来た。
更には、身体を鍛えている筈の冒険者アーデルハイドも妖精犬風邪に掛かり寝込み、魔女グレーテルはリグハーヴスの街をあちこち往診して回っていた。
「いやはや、ここまで一気に来るとはねえ。今日は騎士団のエリアスの往診に行ってきたよ。領主館まで直ぐに広まりそうだね」
「皆カモミールを予防に飲んでいても発症したんですね」
「お陰で命に関わる様な重症者は居ないけどねえ」
往診帰りに〈Langue de chat〉に預けていたマーヤを引き取りに来たグレーテルに、孝宏は霊峰蜂蜜入りのジンジャーミルクティーを出した。流石のグレーテルも疲れた顔をしている。
「今回の妖精犬風邪は、今までにない型なんですかね?」
「型?」
「俺の元居た場所だと、こう言う流行り風邪なんかには何種類かの型があって、大流行する時は今までとは違う新しい型の時が多かったんですよ。今までに一度も掛かった事がないから、身体がその病気を覚えていなくて感染や重症化しやすいらしいです」
「ほう、確かにそんな感じだね。しかし問題はカモミールがもつかだねえ。今は冬だから備蓄されている分でどうにかしなければならないが、ハイエルンからはリグハーヴスに回せる量はなさそうだよ」
「グレーテル、それなら手は打ってあるぞ」
シュネーバルとヨナタン、マーヤにおやつを渡しながら、エンデュミオンは言った。今日のおやつは薄くクリームを塗ったクレープ生地に、実がコロコロ入った苺のジャムを巻いてある。
シュネーバルは手掴みで食事をするので、孝宏は食べやすい物にしたらしい。
「どこかに備蓄があるのかい?」
「ギルベルトが少し持っているんだ。それは〈薬草と飴玉〉に卸してもらう。それでも足りなかったら、ケットシーの里に頼む。あそこでは年中生えているし、ケットシーは妖精犬風邪を引かないからな。アロイスの干し肉一樽と薫製肉のシチュー大鍋一杯でカモミールを集めてくれる」
お気に入りのアロイスの肉と引き換えなら、ケットシー達は喜んでカモミール集めをしてくれるだろう。カールの黒パンを追加しても良い。
「奥の手だから、内密にな」
「解っているさ。あと感染していないのは、クヌートとクーデルカとゲルトかい?」
「あの三人は同じ場所に住んでいるからなあ。誰かが引いたら移るな……」
近い内にリグハーヴス中のコボルトと人狼に感染するだろうと、エンデュミオンとグレーテルは溜め息を吐く。
シュネーバルとマーヤと仲良くおやつを食べているヨナタンは、幸い鼻水が出る程度で済んでいた。妖精犬風邪にしろ妖精猫風邪にしろ、早い治療だけが重症化しない方法なのだった。
─ととさま、ととさま。
頭の中に子供の声が響き、ゲルトは目蓋の重い目を開けた。
「……ピゼンデル?」
─かかさま、ご飯。
「うん……」
枕に翼の無い紺色の鱗を持つ極東竜ピゼンデルが降り、前肢でゲルトの頬をふにふにと触る。
ピゼンデルはゲルトが孵した竜の卵から産まれたが、訓練中はイグナーツに預けていた為か彼の事も親認定していた。ピゼンデルの声も二人に聞こえる。
「うう」
何だか目の奥が熱いし、鼻の奥が渇いているし、身体の節々が痛い。獣耳もへたりと垂れているのが解る。
「ピゼンデル、かかさまを呼んで来てくれないか」
─はーい。
枕元からふよふよ宙に浮かび上がり、ピゼンデルが居間の方へ飛んでいった。
─かかさま。ととさま、呼んでる。
「ゲルト?」
ピゼンデルに呼ばれて、直ぐにイグナーツが寝室にやって来た。ベッドに横になったままのゲルトの額や獣耳に触れてから、ベッド脇の小物箪笥から紙を取り出して読み始める。
「ゲルト、妖精犬風邪かもしれません」
「俺はコボルトじゃない」
「人狼も感染するとドクトリンデ・グレーテルからの精霊便に書いてあります。だからカモミールティー飲んでもらっていたでしょう?」
「……今まで掛かった事がないのに」
「それは運が良かっただけですよ。ゲルトが引いたとなると、クヌートとクーデルカも危ないですね」
ディルクとリーンハルト、ヨルンに手紙を書き、イグナーツは窓から風の精霊に配達を頼んだ。
「問題はカモミールがこの部屋に残り少ない事かな……」
残っていたカモミールを紅茶に混ぜて淹れ、蜂蜜を足らしてゲルトに飲ませてから、イグナーツは台所で唸った。
イグナーツは虜囚の為、一人で領主館から出られないのだ。
─ととさま、お熱?
「そうですよ。ととさまと一緒に居てくれますか?」
─ピゼンデル、一緒にねんね。
ふよふよと寝室に飛んで行くピゼンデルを見送り、イグナーツはグレーテルからの手紙を読み返した。
「カモミールが無くなった時は、〈薬草と飴玉〉に連絡か。あと往診も頼まなきゃ」
手紙を書いて精霊便を送り、イグナーツが台所の後片付けをしていると背後でポンッと音がした。
「ゲルトも妖精犬風邪を引いたんだな、イグナーツ」
そこに居たのはエンデュミオンだった。一緒にヴァルブルガも居る。
「え、あれ?僕〈薬草と飴玉〉に手紙出したと思うんですけど」
「ドロテーア達はコボルト向けにカモミールの薬草飴を作っていて手が離せないんだ。グレーテルは今クヌートとクーデルカの往診に行っているから、そちらが終わったらゲルトを診に来る。先にヴァルブルガが診る」
とことこヴァルブルガが寝室へと入っていく。
「ヴァルブルガは長く魔女と暮らしていたから安心しろ。カモミールは一先ず温室に生えていたのを摘んできた。後で追加を持ってくる。イグナーツはヴァルブルガの診察を手伝ってやってくれ」
ではな、と言ってエンデュミオンは〈転移〉していった。慌ただしい事この上ない。
「ヴァルブルガ?」
寝室ではゲルトの胸に、ヴァルブルガが小さな折れ耳を押し付けていた。
「……」
ヴァルブルガが器用にパジャマの釦を閉じて、ゲルトに掛け布団を掛け直す。肉球で額に触れて熱を確認してから、よじ登っていたベッドから腹這いに降りてイグナーツを見上げた。
「ゲルト、今まで妖精犬風邪掛かった事無い?」
「はい、そうみたいです」
「コボルトより人狼の方が症状が重いの。暫くゲルトは安静にしてて」
「解りました、寝かせておきます」
「熱が辛そうだから、一寸待ってね」
ヴァルブルガは〈時空鞄〉から白い布と針、青い糸を取り出して、おもむろに床に座って縫い物を始めた。チクチクと速い運針で布に模様を描き出していく。五分程で歯で糸を切り、布をイグナーツに差し出した。
「水と氷の魔法陣なの。ゲルトの枕に敷いてあげて」
「有難うございます」
布は乾いているのに、ひんやりと冷たかった。
その後「はな垂れコボルトが増えたよ」とぼやきつつグレーテルが往診に来て、ヴァルブルガと同じ診断を下した。
どうやらこれでリグハーヴスの全コボルトと全人狼が妖精犬風邪に感染したのだと言う。
「カモミールはエンデュミオンかギルベルトが届けに来るからね。そうしたら、カモミールのお湯で吸入をしておやり。カモミールティーをマグカップに入れて湯気をゆっくり吸うんだよ」と言い、グレーテルは霊峰蜂蜜を置いてヴァルブルガの〈転移〉で帰っていった。
「……街のコボルトと人狼にも感染したんだな」
けほ、とゲルトが咳き込む。ヴァルブルガが胸に耳を当てて確認していたので、肺に炎症が起きているのかもしれない。
「妖精犬風邪と言う位ですから、ハイエルンの病気じゃないんですか?」
「普段はハイエルン内だけで終息するんだがな……」
「少し眠って下さい。ヴァルが冷たい布を作ってくれましたから」
ゲルトの頭を浮かしてヴァルブルガに貰った布を枕の上に敷いてやる。
「あ、冷たくて気持ちいいな」
「それは良かったです」
─ととさま、ピゼンデルも冷やす。
ぺとりとピゼンデルがゲルトの額の上に腹這いになった。ゲルトの体温より鱗が冷たいので、ひんやりと感じる。
「有難う、ピゼンデル」
─ととさま、温い。
ゲルトとピゼンデルがうとうとし始めたので、イグナーツはそっと寝室を出た。
粥かスープと、口当たりの良い菓子を作ろうと思ったのだ。孝宏に教えて貰ったレシピの中に何か良い物があった筈だ。
レシピをめくって鍋を取り出しつつ、イグナーツはふと思った。
エンデュミオンは一体どこからカモミールを手に入れて来るのだろうかと。
妖精猫風邪はケットシーにしかかからないのですが、妖精犬風邪はコボルトと人狼に掛かり、感染力が非常に高いのです。
エンデュミオンはカモミール集めに奔走しています。
ゲルトが治った後、<冷やす布>はイグナーツのお菓子作りに活用されます。
洗っても繰り返し使える、ヴァルブルガ謹製。




