遠き國より来る
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
異國は遠くにありて思うものです。
16遠き國より来る
その日、孝宏はエンデュミオンと買い物に行った食料品店で、運命の出会いをした。
チチチ、と小鳥の声が耳に入り、テオは目を覚ました。十二の月に入り、熱鉱石による集中暖房がある黒森之國の家でも、朝晩は何となく寒さを感じる。
象牙色のカーテンの向こうはもう明るい。ドアの向こうからイシュカや孝宏が動く物音が聞こえる。
(起きるか……)
軽量配達専門の冒険者をしているテオとルッツを、この家の住人は好きなだけ寝かせてくれる。
一階で店をやっているから、彼らの朝は早い。もしテオ達が起きて来なくても、朝御飯は用意されていて、温め直せば良いだけにしてくれている。
(こんなに至れり尽くせりな下宿無いよなー)
テオはそっとベッドから抜け出した。
「みゃ……」
同じベッドで寝ているルッツがころんと寝返りを打つ。俯せで苦しくないのだろうか。
朝の寝起きの悪いルッツを置いて、テオはバスローブを片手にバスルームへ向かう。
この家にバスルームは二つあり、開いている方を使う決まりだ。二階のバスルームが開いていたので、そのまま入り歯を磨き顔を洗ってからパジャマを脱いでシャワーを浴びる。
生活魔法で蜜蝋色の髪を乾かし、テオはバスローブを着て部屋に戻った。
衣装箪笥から服を取り出し、着替える。大抵、白いシャツに幾つかあるベストからどれかを選び、インディゴで染めた厚地のズボンだ。今はベストの代わりに孝宏が編んでくれたセーターを着る。ヘルガが眠り羊の毛糸をくれた後、紺色の毛糸でもセーターを編んでくれた。
インディゴのズボンは王都では流行っていないようだが、冒険者の多い四領では彼らを中心に売れ始めている。
インディゴは虫を寄せにくいし、厚い生地は傷みにくい。孝宏も私服はこのズボンを履いている。
厚地の靴下を履き、布製の部屋履きに脚を突っ込む。
「ルッツ、起きろ」
「ううんー」
俯せのまま肯定だか否定だか解らない声を上げる、錆柄のケットシーをベッドから抱き上げる。
そのままバスローブと一緒にバスルームに連れて行き、濡らした手拭いで顔と手を拭いてやる。持って来たバスローブは琺瑯の盥に入れておく。
夜脱いだ物は自分達で洗うのだが、朝の物は後でエンデュミオンが洗っておいてくれる。
何しろ、ルッツは朝の寝起きがすこぶる悪い。
身体にブラシを掛けてやってから部屋に戻り、まずギルドカードを着けてやる。
ギルドカードは二センチ×四センチの魔法加工された魔銀のカードで、両端に穴が開いている。これを鎖や革紐を付けて、首や手首に着けるのが普通だ。
ギルドカードは身分証明書になるし、無くすと再発行に金が掛かる。これで預けてある金も下ろせるため、無くさない様に、皆身に着けるのだ。
テオは銀鎖で首から下げているが、イシュカと孝宏は革紐で手首に着けていた。ケットシー二人は、寝る時に外すので、長さを調節出来る様に結んだ革紐で、首に着けていた。
「はい、下着着て」
「あい」
「シャツ着て」
「あい」
「ズボン履いて」
「あい」
「寒いからセーター着て」
「あい」
返事をしているが、着せているのはテオである。ルッツはまだ半分寝ているのだ。
布製のモカシンを履かせてやり、テオはルッツを抱き上げた。自分で歩かせたら、確実に廊下の途中で寝る。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます、テオ、ルッツ」
「おはよう、まだ眠いのか?ルッツ」
二階の台所にはまだイシュカ達がいた。これから朝御飯を取るところだ。今日は一緒に朝御飯が食べられそうだ。
「すぐに注ぐね」
スープカップを二つ持ち、孝宏が鍋に向かう。
「有難う」
テオはルッツを大工のクルトに作って貰った、ケットシー用の椅子に座らせた。なにしろ人間の膝までしか身長が無い。人間の椅子だと、テーブルに顔を出すには立たなければならないのだ。ならば作ってしまえ、と注文した。イシュカが。
サラダ付きのオムレツと黒パン、それに薄い茶色のスープが出て来た。嗅いだ事の無い香りがする。
「はい、ルッツ。ご飯だよ」
孝宏がルッツに木匙を持たせる。
「ごはんー」
ルッツが寝惚けながら木匙でスープを掬い、口に入れる。
「にゃう」
瞬間、カッと琥珀色の目が開いた。
「何!?」
「これ、なに?これ、すごい」
にゃうにゃうと言いながら、ルッツがスープを飲み始める。熱かったのか、はふはふとしながらスープの中に入っていたジャガイモを食べる。
「何のスープなんだ?」
テオも一匙飲んでみる。それは初めての味だったが、舌がぎゅとなる美味しさがあった。ジャガイモやニンジン、豚肉、玉葱の甘みに、生姜のピリッとした刺激がある。
「豚汁作ってみたんだ。食料品店で味噌売ってたんだよ。倭之國からの輸入品だって」
「味噌?」
「味噌は日本人の心だよ!」
イシュカは既に孝宏のはしゃぎっぷりを見ていたらしく、最早何も言わない。
『いやー、この世界にも味噌はあるんだね。鰹節もあったから、買っちゃった。やっぱり出汁あると違うよね』
思わず日本語で言う孝宏に、ぼそりとエンデュミオンが呟く。
「鰹節は良いな」
「かつおぶし?」
「これだよ、テオ」
孝宏はこれまた一緒に買った削り箱の中から、木の棒の様なものを取り出した。
「これは、魚。特殊な技術で加工されてる。旨味成分たっぷりで……」
そこまで言って、孝宏は二匹のケットシーが鰹節に熱い視線を向けているのに気が付いた。
つい、と鰹節を動かしてみると、ケットシーの顔も一緒に動く。逆に動かすとやはりついてくる。一寸怖い。鰹節ジャンキーみたいだ。
(妖精猫も鰹節好きか!)
「ええと、後で少し削ってあげるからね」
孝宏は削り箱に鰹節をしまった。ご飯を食べて貰わないと困る。
「これで米があればなー」
「米、あったぞ?食料品店で、紙袋に入ってた」
「見逃してたー!買わなきゃ!インディカ米かな!?ジャポニカ米かな!?」
「こ、米?って何?」
米が何か解らないテオがつい聞いてしまう。
「米は日本人の魂だよ!」
熱く孝宏に言われるが。先程から気になる単語がある。
「日本人?やっぱり孝宏は黒森之國の人間じゃないのか?」
孝宏はきょとんとした。
「俺、この世界の人間じゃないよ」
「へ?」
「えーと、何だっけ?〈異界渡り〉らしいよ」
「……これ、俺が聞いて良かったのか?」
豚汁を飲み干したイシュカにテオは聞いてしまう。イシュカは隣に座る孝宏の髪をぐじゃぐじゃと掻き回した。
「魔法も使えない人間が〈異界渡り〉でも、大した事にはならないだろう。領主が気付いた様だから、聖都の関係者は来るかもしれないが」
「ああ……。大丈夫なのかな」
特殊な力を持つ〈異界渡り〉の場合、所有権争いがある。聖都が孝宏に<力>を見出だした場合、月の女神シルヴァーナの思し召しとして、國に取り上げられるかもしれない。
「それは、大丈夫。最初に見付けたのはエンデュミオンだから」
〈異界渡り〉は最初に見付けた者に、所有権がある。平民が見付けた場合領主に<献上>と言う形で取り上げられるかもしれないが、ケットシーには手出し出来ない。何しろ、ケットシー自体が月の女神シルヴァーナの庇護を受けるからだ。
「じゃあ、一先ずは安心なのか」
「ああ。聖都関係者が来るにしても、年明けだろう」
リグハーヴスは、十一の月の終わりから三の月迄は雪が降る。馬車が埋まるかもしれない季節に、来たりはしない。
「春か……」
春はまだ数ヵ月先だった。
「食べ物が似ているのなら、倭之國って孝宏の住んでた国に似ているのかね」
食事の片付けを手伝い、皿を拭いていたテオが首を傾げる。
「倭之國がどんなとこか知らないからなあ」
テオが拭いた皿を食器棚に戻し、孝宏は濡れ布巾でテーブルを拭いた。
「……倭之國の事が解るものか。一寸待っていろ」
イシュカは「仕事部屋に行って来る」と階段を下りていった。
ケットシー二人は、居間でラグマットに座り、のんびり食休みをしている。ルッツも漸く目が覚めたらしい。
「あったぞ」
戻ってくるなり、イシュカは拭き終わったテーブルに、綺麗な色の付いた紙を数枚乗せた。
「版画か」
かなり精巧に彫られた木版画だ。しかも何枚も版木を使った多色刷りだ。
『王朝絵巻?』
その版画に描かれていたのは、平安時代と思われる寝殿造に十二単、束帯を着た人物達だった。
「俺の親方が貿易業者に頼んで倭紙を輸入した時、梱包材として入ってたのを貰ったんだ」
「これ、現代の服装なの?」
「ああ。以前王都で到着したばかりの倭之國の大使を見た事がある。こんな服装だったぞ?」
「倭之國って、平安時代なのかー」
黒森之國も少し古い時代の感じはしていたが。しかし衛生面などはそれなりに発展している。電気はないが各種鉱石があるので、独自に進化発展しているのだろう。
(平行世界みたいな感じかなあ)
もとの世界にあるものもあれば、無いものもある。
「黒森之國の人にとって、倭之國ってどんな感じ?」
「そうだな……遠い國かな」
「船で二ヶ月近くは掛かるんだって聞くよ」
「そんなに?」
この世界には飛行機は無いが、船はあるらしい。
孝宏は極彩色の版画をじっと眺めた。
「遠い國の話、書こうかな」
「書けるのか?」
「俺の知っているこの時代の話を書いてみる。多分、倭之國っぽい話になると思うよ」
「へえ、楽しみだ」
書こう、と思うと孝宏な頭の中に物語が湧き出てくる。
どんな話が良いだろう。解りやすいのならば〈落窪物語〉の様なシンデレラストーリーだろう。
名前も黒森之國風にはしないでやろう。書くならばきちんと。
「書くのなら今日の仕事は良いぞ。ルリユールの仕事はないから、エンディとカウンターに立つから」
「あ、俺とルッツも休みにしてるから手伝うよ」
「うん。書いてみる」
孝宏は寝室に置いてあるリュックサックを持って、執筆に使っている部屋に行った。
扉を閉め、窓近くに置いてある机の椅子に腰掛ける。ぐるりと部屋を見回すと、本棚が目に入る。直射日光が当たらない場所に、今まで書いた本が並んでいた。店の他に、この部屋にも保存用が置いてあるのだ。
『えーと、資料資料』
リュックサックからスマートフォンと太陽電池の充電器を取り出す。このスマートフォンには、色々と資料をダウンロードしていた。今のところイシュカにも、持っていると伝えていなかったりするのだが。何しろ、この世界の技術ではない。
『んー』
引き出しから手帳を取り出し、スマートフォンで知りたい資料を読みながらメモして行く。
そうして孝宏は新たな物語を紡ぎ出して行った。
知っている様で知らない、遠き國の物語を。
倭之國の話題を少し。
この世界の國々は大使を交換しています。倭之國も黒森之國の大使が居ます。
黒森之國にいる倭之國の大使は普段は王都に居ます。