蜜蜂とフィッツロイ
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
ヘルブラウの母親代理はマリアンです。
154 蜜蜂とフィッツロイ
明け方、マリアンはふと目を覚ました。隣に寝ている筈のヘルブラウが居ない。
「……」
そっと掛け布団を持ち上げてみると、マリアンの着ているパジャマの胸側が膨らんで、もそもそと動いていた。ヘルブラウが狭い空間の中で居心地の良い場所を探しているのだ。肌に直接温かく柔らかい毛が当たりくすぐったい。
──ちゅく、ちゅく。
間もなく聞こえてきたのは、ヘルブラウが乳を吸う音だった。勿論、マリアンの胸から乳は出ないので、暫くするとヘルブラウが焦れてぐずりだすのだが。
(夕御飯、少し足りなかったかしら)
ヘルブラウは身体が小さいので、一度に食べられる量が少ない。その為明け方にお腹を空かせてしまう事があった。
「ミルク温めましょうね」
パジャマの上からヘルブラウを抱いて、マリアンは静かにベッドから起き上がった。
冬の窓の外はまだ暗い。起き出すのにも少し早い時間だ。
部屋のドアを開け、居間の奥にある台所へ向かう。ついでに就寝時に温度を下げている鉱石暖房の温度を上げる。
胸に吸い付いているヘルブラウを片腕で抱きながら、保冷箱から牛乳の瓶を取りだそうとしたマリアンの肩にショールがふわりと掛けられた。いつの間にかリュディガーが背後に立っていた。
「お早う、マリアン」
「お早う、リュディガー、起こしちゃった?」
「ううん。丁度目が醒めたんだよ」
囁き声で会話しつつ、リュディガーは保冷箱から牛乳の瓶を抜き取り、小鍋にコップ一杯分程注ぎ入れて焜炉に掛ける。水を入れた薬缶も焜炉に掛け、リュディガーは鍋の牛乳にスプーンひと匙の楓の樹蜜を溶かした。
お湯で温めた哺乳瓶に、猫舌のケットシーの飲み頃に温めた牛乳を入れて、飲み口の付いた蓋を閉める。
「はい、どうぞ」
「有難う」
椅子に座りパジャマの釦を二つ外せば、胸に吸い付いているオレンジ色にも見える明るい茶色の仔ケットシーの後頭部が現れた。肉球でふにふに胸を押して乳を出そうとしているが、生憎出ないのだ。
「ヘルブラウ、ミルクよ」
乳首に吸い付いているヘルブラウの口元に哺乳瓶を近付ける。
「う」
目を閉じたままヘルブラウは甘い牛乳が出る吸い口に、ぱくりと移動した。ちゅくちゅくと牛乳を飲みながら、マリアンの胸をふにふにしている。
「やっぱり完全に寝惚けてるんだよね」
「ええ」
ヘルブラウのこの行動は、〈針と紡糸〉に預けられて直ぐに始まった。離乳は済んでいるとギルベルトに聞いていたものの赤ん坊には違いなく、マリアンは今日と同じようにヘルブラウに哺乳瓶で牛乳を与えた。
牛乳を満足するまで飲んだヘルブラウは、そのまま寝入ってしまったのだが、マリアンは朝になってからこの事をギルベルトに尋ねたのだった。
ギルベルト曰く、ヘルブラウは親の乳の出が悪く他のケットシー達の貰い乳で育ったのだと言う。
腹が空いて寝惚けたヘルブラウがマリアンに乳を求め、そこで満足するまで牛乳を飲ませたので、恐らく母親認定されただろうと。
「満足するまで飲ませてくれたから、多分ヘルブラウは自分専用の乳だと思ってるぞ」
それでも起きている間はねだらないのがいじらしい。
ギルベルトは両前肢を合わせてマリアンを見上げた。上目遣いがやたらと可愛い。
「これからもヘルブラウが乳を欲しがったら上げてくれないか?」
「良いわよ」
これにマリアンはあっさり了承した。ギルベルトの「お願い」が可愛かったのもあるが、ヘルブラウはルッツに似ていると思ったのだ。ルッツも甘えん坊でテオにたっぷりと可愛がられている。あの位の愛情が必要なのだろう。そう解ったから。
「全部飲んじゃったかしら」
哺乳瓶を空にしたヘルブラウの背中を擦り、けぷりと飲み込んだ空気を出させる。
満足したヘルブラウは、マリアンの胸に片耳を押し当て寝息を立て始めた。
「心臓の音で落ち着くんだっけ?」
「ええ、人の赤ちゃんと同じね」
叡知があっても少年のようなギルベルトに比べて、ヘルブラウは本当にまだ赤ん坊だ。
思いがけず子育てする事になったが、マリアンは嬉しく楽しかった。
「雪が降って来たぞ。届け物に行くんじゃなかったか? マリアン」
その日の午後、リュディガーが彫った〈王と騎士〉の駒を、布に包んで潰した胡桃の実で磨いていたギルベルトが、視線を窓の外に向けたまま言った。
「あら、本当」
窓の外はいつの間にか雪模様になっていた。それも結構な降りだ。
昨日まで領主夫妻の礼服を仕立てていたマリアンとアデリナは、出来上がった服を今日届ける予定だった。黒森之國の礼服は刺繍が付き物なので、時間が掛かる。今回はイシュカと孝宏の礼服も<Langue de chat>から頼まれていたが、こちらの刺繍はヴァルブルガとヨナタンがしてくれたので仕立てだけで済んだのだ。
「にゃう……」
マリアンが出掛けると聞いて、反応したのはヘルブラウだった。マリアンの膝の上に座って絵本を眺めていたヘルブラウが涙目になる。
この所マリアンとアデリナは忙しく、夕食後の団欒と入浴時間位しか構って貰えなかったのだ。ヘルブラウは特にマリアンに懐いているので、休日の今日を楽しみにしていたのだ。
「服届けたらすぐに帰って来るからね、ヘルブラウ」
「やーん」
マリアンの胸にヘルブラウがしがみ付く。それ見て、ギルベルトが前肢で頭をぽしぽしと掻いた。
「ギルベルトがマリアンとアデリナを送って行くから、ヘルブラウも一緒に来ると良い。アルフォンスとロジーナが試着している間、温室で遊ばせて貰おう」
「俺は留守番かな」
リュディガーはヴァイツェアの継承者の一人なので、行けば却って手間を掛けさせてしまう。
領主館への訪問時間に合せて外套を着こみ、ギルベルトはマリアン達を連れて〈転移〉したのだった。
マリアンがドアノッカーを叩いて間も無く、執事のクラウスが扉を開けた。雪に濡れない様に布に包んだ箱を抱えたマリアンとアデリナ、そしてヘルブラウを抱いたギルベルトを見ても、クラウスは眉を微かに動かしただけだった。
「お待ちしておりました。ご案内致します」
さっそくマリアン達を領主夫妻の元へ案内しようとするクラウスに、ギルベルトは待ったを掛ける。
「クラウス、ギルベルトとヘルブラウは温室で待たせて貰っても良いだろうか」
明らかにヘルブラウが退屈するだろうとクラウスも予測出来たらしい。「どうぞこちらに」と、領主夫妻の待つ部屋に行く途中で、温室のある応接室へとギルベルトとヘルブラウを案内してくれた。
ぱたんと背後の扉が閉まる音を聞きながら、ギルベルトは応接室の硝子戸を開けた。暖かな風がふわりと顔に吹き付ける。
「ヘルブラウ、散歩しよう」
「あい」
青々とした芝生の上にヘルブラウを下ろし、好きな様に歩く後ろに付いて行く。泉に落ちるのさえ気を付ければ、危険な物はない。
ヘルブラウは生垣に咲く花や、ひらひらと飛んでいる鮮やかな蝶を楽しそうに眺めつつ、温室の奥へと歩いて行く。
「ん?」
木立の間の小路を抜けた先の泉のある広場に、双子のコボルトが居た。毛布を広げた上に座っている。ギルベルト達に気付くと、しゅっと右前肢を上げてから口元に人差し指を当てた。それから二人揃って自分達の隣を指差す。
「お?」
そこにはコボルト達より少し大きい銀髪の幼児が寝ていた。近くにメイドが控えているのも見える。
「ヴォルフラムか」
たまたまクヌートとクーデルカの二人とヴォルフラムの散歩が重なったらしい。温厚なコボルト兄弟は自由に温室に出入りしても良いと領主から許可を貰っている。
「にゃー」
ヘルブラウはとてとてと彼らに近付き、フード付きのケープを上掛けにしてヴォルフラムの隣に寝転んだ。時間的にお昼寝の時間だ。ケットシーも幼い方が本能に正直なので仕方がない。欠伸をして居心地のいい態勢を取って丸くなるヘルブラウに、クヌートとクーデルカも昼寝に入る。
ギルベルトは毛布の端に腰を下ろした。自分のフード付きのケープを傍らに置き、〈時空鞄〉から〈王と騎士〉の駒と磨き布を取り出し磨き始める。リュディガーの作った駒は人気で、予約注文が入っているのだ。磨き担当ギルベルトもせっせとお手伝いをするのだった。
子供達のすぴょすぴょという寝息を背景に内職に励んでいたギルベルトは、館の方から聞こえてきた足音に耳をひくひくさせた。
「ギルー? ヘルブラウー?」
「こっちですか?」
木立の間からマリアンとアデリナが現れたが、毛布の上で寝ているヘルブラウ達に気付くと声を抑えた。
「あら、ごめんなさい。お昼寝していたのね」
「あう」
耳の良いクヌートとクーデルカが起き上がり、くあっと欠伸をしながら目を擦る。後頭部の毛が跳ねているのをお互いに撫でて直す。相変わらず仲が良い。
「うー」
いつの間にかヘルブラウに抱き付いて寝ていたヴォルフラムが可愛い唸り声を上げ、顔を顰めた。抱き付いているヘルブラウの頭に頬を擦り寄せ、ぴたりと動きを止め呟いた。
「にゃんにゃ、ちがう……?」
どうやらヴァルブルガに編んで貰ったケットシーの編みぐるみと勘違いしていたらしい。しっかりとした編み目の編みぐるみと、ふわふわの仔ケットシーの毛並みは違う。
「にゃうー」
頭にぐりぐり頬擦りされたヘルブラウも流石に目を覚ます。
「……」
「……」
至近距離で見詰め合ったヴォルフラムとヘルブラウは、無言で起き上がった。ヴォルフラムがじっとヘルブラウを観察した後、首を傾げた。
「……にゃんにゃ、みつばち?」
「あい!」
ヘルブラウが右前肢を挙げる。
にゃんにゃ、とはケットシーの事だろう。そして蜜蜂とは蜂蜜色の蜂の巣模様のセーターと、焦げ茶色のズボンを履いたヘルブラウを指しているのだと、ギルベルトにも解った。
「あー、返事したなぁ……」
「お友達になったのかしら?」
ギルベルトの隣にしゃがんで様子を見ていたマリアンが囁く。
「友達と言うか、ヘルブラウがヴォルフラムに憑いたみたいだ、マリアン」
「ええ!?」
「あ、まーりぃ!」
マリアンに気付いたヘルブラウが前肢を振る。マリアンとアデリナに手を振り返してもらい、ご機嫌だ。
「だが預けるには早そうだな。親離れが出来ていないから」
「それって……」
「甘やかし過ぎだと言う意味ではない。幼いケットシーはたっぷり可愛がられないといけないから。グラッフェンの場合はクルトとアンネマリーが居るし、ルッツやシュヴァルツシルトの場合は主が成人しているだろう? だが、ヘルブラウの場合は主が子供だ。何かあった時にヘルブラウを守る人間が居ない環境だからな」
領主館の使用人なら、有事にはヴォルフラムを守るだろう。ヘルブラウは二の次になる。そんな環境へ、預かっているギルベルトは送り出す訳にはいかない。
「だからまずは通いだな。それと何かあったら戦わずに、ヴォルフラムを連れて〈転移〉で逃走しろと教え込まないと」
クヌートとクーデルカが〈時空鞄〉から出した飲み物を飲み始めたヘルブラウとヴォルフラムに、ギルベルトが大きな緑色の目を細める。ギルベルトは駒と磨き布を〈時空鞄〉にしまって立ち上がった。
「後はアルフォンスに会わないとなあ。一寸行ってくる。すぐ戻るから待っててほしい」
「ええ」
ポンッと音を立てて執務室に現れたギルベルトに、アルフォンスは持っていた万年筆を机の上の筆皿に戻した。ギルベルトは椅子に座るアルフォンスの隣へと歩いていった。
「ギルベルト? マリアンとアデリナは先程温室に案内させたぞ」
「うん、合流したんだがアルフォンスに伝えておこうと思って」
「何だい?」
「ヴォルフラムにヘルブラウが憑いたんだ」
一瞬、アルフォンスが目を瞠る。
「……何故?」
「ヘルブラウがヴォルフラムを気に入ったんだろう」
ケットシーが憑く理由はそれしかない。
「問題はヘルブラウがまだ幼くて親離れが出来ていないのだ。幼いケットシーは親から離れると親の代理を求めるから。アルフォンスとロジーナはヴォルフラムとヘルブラウに付きっきりにはなれないだろうから、ケットシーの親代わりには選ばれない。リュディガーとマリアンをヘルブラウは親に選んでるんだ」
「ならば暫くは領主館には来れないのかな?」
「通いになる。朝来て夕方に〈針と紡糸〉に帰る──ギルベルトが送り迎えする」
「そうか。館の皆にそう伝えておくよ」
「頼む。リグハーヴスなら大丈夫だろうが、ヘルブラウは寝惚けてマリアンの乳を吸うくらいには懐いているから、注意してくれ」
親として慕っている人間を害されれば、幼いケットシーでも本気で呪う。
「それはヴァイツェアに言った方がいい気がするが……」
「そうか。そうする。リュディガーに頼む」
大きくて胸毛の白い黒いケットシーは、素直に頷く。
「そう言えば、ヘルブラウの新しい名前は何になったんだ?」
「蜜蜂。多分、ヘルブラウの格好が蜜蜂みたいだからだと思う」
蜂蜜色のセーターに焦げ茶色のズボンを履いているのだ、と言うとアルフォンスは想像したようだ。
「……それは可愛いな」
「うん、可愛がってくれ。何かあったらヴォルフラムごとエンデュミオンの温室に避難するようにヘルブラウに教えておくから」
「ああ」
何となく普通にエンデュミオンの温室に遊びに行きそうな気もするが、その時にはエンデュミオンが気付いて教えてくれるだろう。
アルフォンスの心労が増えた気もするが、後々ヴォルフラムの守りになるのだし、構わない筈だ。
「では又な」
ポンッと音を立ててギルベルトは温室に戻った。
結局のところ、領主アルフォンスと大魔法使いフィリーネ、騎士団長マインラートと騎士隊長パトリックと打ち合わせをする羽目になったのは、避難先に指定された温室を作ったエンデュミオンだった。
育ての親の無茶振りに「仕方ないな」の一言で引き受け、エンデュミオンは気分を落ち着かせる〈薬草と飴玉〉の薬草茶をアルフォンスにそっと渡した。
ヘルブラウ(ビーネ)にも主が出来ましたが、まさかの通いケットシーです。
貰い乳で育ったケットシーは親代わりを見付けると、とても甘えます。
たっぷりと愛情をあげるのが親代わりの役目。ギルベルトは勿論、マリアンとリュディガー、アデリナに可愛がられるヘルブラウです。
そして、色々とやらかすケットシーやコボルトに、街の守備は堅牢になっていくものの、他の領から「なぜ?」という眼差しで見られるアルフォンス。「そんなのこっちが知りたいわ!」という心境です。
エンデュミオンも自覚はあるので、そっと薬草茶を差し入れるのでした。




