やんごとなきお客様(後)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
<Langue de chat>の本は、売り物ではございません。
13やんごとなきお客様(後)
メイドが馬車の窓を閉めるなり、ロジーナは言った。
「<Langue de chat>に向かって頂戴」
「奥様、今日は広場で市場が立っておりますが……」
「もう、片付く頃でしょう」
ロジーナが譲る気がないと解り、メイドが御者に行き先の変更を告げる。
馬車は丘を下り、石畳の道に入ると速度を落とした。
街の住民は、黒い車体に〈鷲と剣〉の紋章を見ると急いで道の端に寄る。これは、リグハーヴス公爵の紋章だからだ。古王家に繋がる王家と四公爵は皆紋章に〈鷲〉を掲げる。西の湾内にある小島、聖都シルヴィアナも、古王家の血を引く聖女が治めるので、同様に〈鷲〉を掲げている。
街の中は路地でも馬車が通れるだけの広さを持っている。ロジーナの馬車は、片付けの済んだ広場から一本内側の路地に入り、〈本を読むケットシー〉の青銅の吊り看板がある店の前で止まった。
御者の隣に座っていた従僕が飛び降り、馬車の扉を開けた。先に降りて来たのは黒いワンピースに白い襟と袖、白いエプロンと言うお仕着せ姿のメイドだった。肩には茶色いケープを着けている。
そのメイドが手を取り、ロジーナが馬車を降りてくる。明らかに平民とは仕立ての異なるワインレッドのドレスに、白い毛皮のケープを身に着けていた。
ちりりりん。
「いらっしゃいませ」
いつものように、ドアベルを合図に挨拶を口にしたイシュカは、メイドと共に入って来た女性を見て、内心顔を顰めた。
会うのは初めてだが、それがリグハーヴス公爵夫人ロジーナだとすぐに気付いたからだ。
イシュカはリグハーヴス公爵の招きでこの地に店を構えた経緯がある。その為、街に来た当初商業ギルド長と挨拶に行ったのだが、入れ違いで王都に公爵夫妻が出掛けていて、執事にだけ挨拶をして帰って来たのだった。
ロジーナは店内に入って来ると、上品な仕草で見回し、棚に並ぶ本に目を向けた。
「やっぱりここの本だったのね」
ロジーナは薄く鞣した革で作られた上等な白い手袋を着けた手で、〈薔薇の輪の下で〉を取り上げた。
棚に並んでいる本は誰でも開ける様になっている。ロジーナは表紙を捲り、数枚頁を眺めてから本を閉じた。
「こちらの本を一冊ずつ頂けるかしら」
「申し訳ありませんが、そちらは売り物ではございませんので、どなたにもお売り致しておりません」
イシュカはきっぱりと断った。
「店主、こちらは公爵夫人ロジーナ様ですよ」
メイドが鋭い口調で囁くが、イシュカは折れる気は無かった。
「<Langue de chat>の本は貸本のみです。一回一冊銅貨三枚。期限は二週間でお借り頂いております。どなたであろうとも、それは変えるつもりはございません」
「そうなの……。ではこちらをお借りするわ」
「では、会員証をお作り致します」
イシュカは慣れた手付きでロジーナの会員証を作り、貸し出し手続きを行った。
「あちらの場所は何かしら?」
「閲覧場所です。一休みなさる方にはお茶とお菓子をサービス致しております」
「休んで行っても構わなくて?」
「どうぞ、お好きな席にお掛け下さい」
そしてイシュカはカウンターの奥にいた孝宏に声を掛けた。
「孝宏、ご休憩のお客様がお二人だ」
「はーい」
返事が帰って来たのを確認し、イシュカはカウンターに戻った。
<Langue de chat>で一番大きなソファーは、二人掛けの緑の布張りの物だ。
そしてこのソファーはエッダの特等席だった。
<Langue de chat>の常連客の中で最も若くそして最古参の少女は、他の客からもそこに座っていて当然の存在だと認められていた。
エッダの師匠をしているエンデュミオンとしても、教えやすい席だった。
今日もお昼御飯を食べ終え、片付けを手伝って来たエッダは、若草色の本を抱えて<Langue de chat>に来ていた。
昨日家に帰ってから読んで解らなかった単語を、エンデュミオンに教えて貰っていたのだ。
テーブルに置いて読んでいた本に影が射し、エッダとエンデュミオンは顔を上げた。
「場所を移ってくれるかしらお嬢ちゃん」
目の前にお仕着せを着た気の強そうなメイドが居た。その後ろには身分が高そうな女性が立っている。ぽかんとするエッダの代わりに、エンデュミオンが口を開いた。
「他にも空いた席があるのだから、そちらに座ると良いだろう。ここはこの子の席だ」
メイドはエンデュミオンが口を利いたので、ぎょっとした顔になった。
「言っておくがこの店に身分の差は無い。誰もが本を借り、休んで行ける店だ。客ならば、それに習え」
「この方はリグハーヴスの公爵夫人ですよ、それを……」
続きそうになる言葉をロジーナが遮る。
「およしなさい。どの席でも構わないわ。折角の読書の邪魔をしてごめんなさいね」
「奥様!」
ロジーナはエッダとエンデュミオンに謝り、壁際の席に座った。そして自分の前の席を軽く叩く。
「あなたもお座りなさいな。他の方が落ち着かなくてよ」
他の席には家事の合間の休憩に来たヘンリエッテや、研究に行き詰まったクロエも居た。
「お待たせ致しました」
孝宏が二人分のお茶を運んで行くと、メイドは再びぎょっとした顔をした。黒髪黒目の人間は黒森之國では珍しいとは聞いていたが、街中の人には無い反応だった。このメイド、良い家の出なのかもしれない。
お茶とお菓子をテーブルに置き、おしぼりの説明をしてから、孝宏はエッダとエンデュミオンの頭を撫で、カウンターに行った。そっとイシュカに囁く。
「どなた?」
「ここの領主夫人」
「成程」
閲覧スペースの空気が微妙な訳だ。
孝宏とエンデュミオンは商業ギルドに<Langue de chat>の店員として登録してある。ギルド登録すると、所謂市民権が貰える。つまり、納税義務が生じる。
もしあのメイドが孝宏についてとやかく言ったとしても、納税者ではあるので大丈夫だろうが、余り姿を見せない方が良いだろうと、夕食の仕込みに戻る孝宏だった。
目の前に置かれた湯気を立てる紅茶と、何か香りのする焼き菓子。
ロジーナは手袋を取り、手を拭くものだと先程の店員に教えられた、おしぼりで手を拭った。
「奥様、毒味を」
「要らないわ」
こんな所で毒を盛る馬鹿など居ないだろう。下手に毒味などしたら、あそこにいるケットシーの逆鱗に触れそうな気がした。
ロジーナは魔法使いだ。さほどの使い手にはなれなかったが、精霊の気配は解る。
あの妖精猫はただの妖精では無い。先程メイドが話し掛けた時、辺りの精霊がざわついた。窓際にいる魔法使いギルド長のクロエが、一瞬宵闇色の本から顔を上げた位だ。
この店と店員、あの少女はケットシーの保護下にあるのだ。下手な事をしてはならない。
ロジーナならば、あのケットシーの頭を撫でるなど到底出来はしないだろう。
ロジーナは紅茶に白い砂糖を一つ入れ、ミルクを注した。木匙でそっとミルクティーを混ぜ、一口飲む。
(美味しいわ)
領主館で飲んでいる物よりも安い茶葉だろうが、丁寧に淹れてある。ポットもカップもきちんと温めてあるのだろう。抽出時間も計っている様だ。
小皿に乗っているのは、上流階級では見ない焼き菓子だった。例え出て来たとしても、大きさはもっと小さい物になるだろう。
独特の香りのする茶色の焼き菓子には、黒っぽい物が混ざっていた。ぱくんぱくんと四つに割り、その一つをロジーナは口に入れた。
(これは……)
素朴な小麦の味と楓のシロップ、それに何か解らない薫りが鼻に抜ける。
「店主、良いかしら」
「何でしょう」
「このお菓子を作った料理人はどなた?」
「先程お茶を運んだうちの店員です」
「少しお話しをさせて頂いても良いかしら?」
「少々お待ち頂けますか」
イシュカが孝宏を呼びに行く間、ひしひしとエンデュミオンの視線を感じていたロジーナだったが、どうしても知りたかったのだ。
「孝宏」
台所から出て来て横を通った孝宏を呼び止め、エンデュミオンは自分を抱き上げさせた。孝宏はエンデュミオンを抱いたまま、ロジーナとメイドの居るテーブルに近付いた。通訳が必要になるかもしれないからだ。
「お呼びですか?俺は孝宏、この子はエンデュミオンです」
「大魔法使いエンデュミオンと同じ名前なのね」
「その様です。お話は何ですか?」
語彙が少ないので、回りくどい話し方は出来ないのだ。
「この焼き菓子には何が入っているのかしら」
「小麦粉と塩と菜種油と楓のシロップとお茶の葉です」
「この香りは何で付けたの?」
「このお茶の葉の香りです。ベルガモットという柑橘類の香油で、香り付けされています。普通に飲用としても飲めますよ。試してみますか?」
「お願いするわ」
時々エンデュミオンに単語を捕捉されながら説明してから、孝宏は紅茶を淹れに一度台所へ行った。暫くして孝宏は盆にカップを載せて運んで来た。辺りにベルガモットの香りが広がる。
「どうぞ」
テーブルにカップを置く。
「そのままでも、ミルクを入れても美味しいです」
「頂くわ」
ロジーナはまずはそのまま飲み、次にミルクを入れて飲んだ。
「良い香りね。美味しいわ。これはどちらで求めたのか教えて貰っても?」
「街の食料品店で買いました。アールグレイと言えば用意してくれます」
「良い事を聞いたわ。有難う」
ぺこりとお辞儀をしてテーブルを離れた孝宏を、クロエが呼び止めアールグレイを所望する。孝宏は笑ってポットを取りに行った。エンデュミオンは孝宏の足元に居たが、ロジーナの用事が済んだのを確かめ、エッダの元へ戻った。
それからロジーナは二杯のお茶を綺麗に飲み干し、帰って行った。
馬車に乗り込むと、ロジーナは領主館への帰宅を命じさせた。最初は領内を馬車で走らせようかと思っていたが、気が変わった。早くこの薔薇色の書を読みたい。
「アールグレイと言う茶葉を手に入れて頂戴、気に入ったわ。旦那様にも飲ませて差し上げたいから」
「はい、奥様」
「それからあの店の事はまだどこにも報告しない様に。もしお父様から問い合わせがあれば、真っ先にあなたを疑うわよ。宜しくて?」
「……承知致しました、奥様」
ロジーナは背凭れに背を預け、目を閉じた。数か月前に執事が新しいルリユールが挨拶に来たと言っていたのは、あの店の事だったのだろう。
(説話集とは違う物語の本を貸し出すルリユール、ね)
出来るだけ早く公爵にも話す必要がありそうだ。
(あの人も気に入りそうだけれど)
くすりと微笑み、ロジーナは膝に乗せた薔薇色の書を撫でたのだった。
やってきました公爵夫人ロジーナ。意外とまともな人かも。
魔法使いなので、研究好き。クロエやフィリーネと地味に同類。
父親は騎士だったので、自分は脳筋にならない様に頑張りました。