やんごとなきお客様(前)
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
一生懸命な人には、たまにご褒美があります。
12やんごとなきお客様(前)
待ちに待った休日、エルゼは賄いの朝食を終え、私服のワンピースに着替えた。既にリグハーヴスは薄い雪に覆われているので、ワンピースの上からコートを着てショールを巻き付ける。茶色いブーツの紐を締め直し、銅貨三枚が入った財布代わりの革袋をポーチに入れて肩から斜めに掛けた。
それから枕の下に置いていた薔薇色の本を取り出す。
薔薇色の本は回し読みされたあげくメイド長に取り上げられた事件の後、借りた人以外は開けない仕様に変更された。お陰でエルゼから本を取り上げる人は居なくなった。
本の事を聞いて来るメイドには「<Langue de chat>なら銅貨三枚で、誰にでも貸してくれる」と教えている。
メイドの中には借りに行っている者も、ちらほら出て来た様だ。先日、騎士のリーンハルトとディルクが<Langue de chat>の革袋を持っているのを見てしまった。彼らも常連客らしい。
精霊が招待状を持って来てくれた〈読み聞かせ会〉には行けなかったが、その時読み聞かせをしたと言う本は借りられた。
(<怪談>は怖かったわ)
暫く夜の窓の外が覗けなかった。
「今日は晴れてるけど寒いわね」
吐き出した息を白く濁らせて薄い色の青空を眺め、エルゼは裏口から領主館を出て丘を下った。並木道に入ると風が少し穏やかになる。ここは領主であるリグハーヴス公爵家の馬車も通るので、いつもきちんと整備されていた。
街に下りると、いつもより賑やかだった。今日は広場で農家の奥方達が市場を開いているのだ。野菜は根野菜か、今時期まで収穫出来る青菜だけだが、ふんだんに取れた苺やプラムなどをジャムにした瓶詰め、いつもなら家族にしか振る舞わない菓子なども売られていた。
夏場と冬場では売られる物が違う楽しさがある。
「フラウ・エルゼ」
「え?」
声を掛けられ振り返ると、孝宏とエンデュミオンが立っていた。正確にはエンデュミオンは孝宏の肩に乗り、後頭部にしがみついていたのだが。
「エルゼ、<Langue de chat>に来たのか?」
「ええ」
常連となり、エンデュミオンは気安く話し掛けてくる様になった。孝宏は黒森之國語を覚えている最中らしく、長い言葉になるとまだ話せないし聞き取れないらしい。
「一緒に行きましょう」
「お買い物は良いんですか?」
「買いたいジャムは買いました。あそこのは美味しいです」
恰幅の良い農家の婦人がいる売場を示し、孝宏が微笑む。以前も同じ人から買ったのだろう。
野菜とジャムの瓶が入った買い物籠を持った孝宏とエンデュミオンと共に、エルゼは<Langue de chat>へ向かった。
ちりりん、りん。
「ただいま」
「お帰り。いらっしゃいませ、フラウ・エルゼ」
ドアを押さえてエルゼを店内に通してから、孝宏がドアを閉める。
「お茶をお持ちしますから、ごゆっくりどうぞ」
孝宏はエンデュミオンを肩に載せたままカウンターの奥に入って行った。
イシュカがその姿に何も言わないのは、市場の混み具合を知っているからだろう。店売りより安いので、街中の主婦が集まるのだから。
「フラウ・エルゼ、今日は薔薇の書で新しい本がありますよ」
「まあ、本当?」
返却手続きをしてから、エルゼはうきうきと棚に向かった。
開店当初からの常連客であるエルゼは、ここにある本は全て一度は読んでいる。その為、イシュカ達は彼女が読んでいない本が入ると教えてくれるのだ。
棚に並んでいる薔薇色の本の一番右端に〈波間によせて〉と言うタイトルがあった。これは読んでいない。
エルゼは早速その本を借りた。
「雪が降るかもしれませんから、革袋を使って下さい」
イシュカは<Langue de chat>の文字が空押ししてある革袋を、本に重ねてエルゼに渡した。革袋は本を入れて余る部分を二つ降りにし、ベルトで止める物だ。
本を中に入れないのは、エルゼが閲覧スペースで少し読んで行くのを解っているからだろう。
<Langue de chat>の閲覧スペースにある丸テーブルと椅子は、バラバラの意匠だ。恐らく有り合わせのものを使ったのだろうが、それが却って良い味を出している。
エルゼは最近お気に入りの布張りの一人掛けソファーを選んで腰を下ろした。深い緑色の地で小花柄をしていて、肘掛けが付いているソファーだ。
「お待たせしました」
孝宏が紅茶と焼き菓子を運んで来た。
「今日のクッキーは紅茶の葉を入れてみたんですよ」
「良い薫り」
孝宏は食料品店でアールグレイを見付けたのだ。早速それでクッキーに風味付けしてみたのだが、イシュカやテオ、ケットシー達にも好評だった。
孝宏がカウンターに戻りがてら、二人掛けのソファーに居る少女にお茶のお代わりは要らないか聞いている。長居する客にはお茶のお代わりをくれるのだ。少女はコートを脱いできたエンデュミオンに読めない単語を聞いていた。
あのケットシーは望んだ客には文字を教えているらしい。
エルゼはおしぼりで手を拭いてから、焼き菓子を半分に割って、さくりと齧った。
(んー、美味しい)
ふわりと鼻に抜ける独特の薫り。平民はこんな香りのあるお茶は買わない。そもそもこんなお茶がある事すら知らない。
リグハーヴスの公爵でさえ、飲んでいるだろうか。キッチンで働いているエルゼは、こんな香りのお茶を公爵婦人のロジーナ付きのメイドが淹れていたのを見た事が無かった。
他國の輸入品なのかもしれない。だとしたら、やんごとない方々は冒険したりしないだろう。彼らは意外と食に関しては保守的なのだ。
いつも通りお昼近くまでゆっくりと、誰にも邪魔されずに読書を堪能する。カップが空になれば、孝宏はそっと近付いて来て、熱いお代わりを注いでくれた。
〈波間によせて〉は、人魚と青年の恋物語だった。今までの薔薇の書と違うのは、一つ一つのお話に出て来る人魚と青年は全て違う、それぞれ独立した物語らしいと言う事だ。
その中には結ばれる恋もあれば、悲恋もあった。
(そろそろ戻りましょう)
本を革袋に入れて、エルゼはソファーから立ち上がった。
「ご馳走さまでした」
「こちらこそ、いつも有難うございます。それからこれを。孝宏とエンデュミオンから。顔や手に付けると良いそうです」
差し出された広口の小瓶が、蜜蝋で作ったクリームだと言われ、水仕事で荒れた手が見られていたのだと気付き、エルゼは顔から火が出るかと思った。
「お仕事を頑張られているご褒美だそうですよ」
「そんな、ここでゆっくりさせて貰えるだけで充分ですのに」
「あの二人の気持ちですから、受け取ってあげて下さい」
「有難うございます」
「お気をつけて」
カウンターのイシュカに見送られ、エルゼは<Langue de chat>を出た。
太陽が高くなり、朝より気持ちだけ気温が上がった気がする。
広場の市場は終わりが近付き、片付けが始まっていた。賑やかにお喋りしながら片付けている、農家のおかみさん達の邪魔にならないように広場を横切り、エルゼは街を抜けて丘の並木道を上る。
並木道を半分程上った所で、エルゼは領主館の方から馬車が来るのに気が付いた。一頭立ての小型の黒い箱馬車だ。
(奥様が外の空気を吸いにお出掛けになられたのね)
ロジーナの「外の空気を吸う」とは、馬車に乗ってリグハーヴスの領地を走らせると言う意味だ。
公爵婦人であるロジーナは、王都に仕える一等騎士の家系の娘だ。
黒森之國には貴族は古王家の血筋を引く公爵達四家しかいないが、一等から五等までの位を与えられたものも貴族に準じる扱いを受ける。但し五等は、貴族よりは平民に近い扱いを受ける。例えば騎士に叙勲されたばかりの者が、五等だ。上官や雇い主に縁故が無ければ、退官するまで五等と言うのも珍しくは無い。
馬車が近付き、エルゼは並木道の端に寄り、革袋を両手で抱えたまま軽く頭を下げて通り過ぎるのを待った。
(あら?)
普段なら勢いを緩める事無く通り過ぎる筈の馬車が、エルゼの横で停まったのだ。
「顔を上げて頂戴」
「は、はいっ」
聞き覚えのあるロジーナの声に、エルゼは言われるまま顔を上げた。
二十代前半の存分に手入れされて美しい顔をしたロジーナに、エルゼは直ぐにでも顔を伏せたくなる。
(私は手荒れで悩んでるのになあ)
自分がとても矮小に感じる。それが身分の差なのだろう。
「あなたが持っているのは本ではなくて?」
「はい。そうですが……?」
「それはどちらの物かしら」
「下の街の広場を一本内側に入った所にある<Langue de chat>です」
「そう、有難う」
「いえ……」
するすると馬車の窓を同乗していたメイドが締め、御者が鞭を鳴らす。蹄と車輪の音を立てて、馬車は丘を下って行った。
「何だったのかしら……」
呆然としたエルゼだったが、冷たい風にぶるりと身体を震わせ我に返った。とぼとぼと領主館まで、丘を上る。
部屋に戻りエルゼは孝宏とエンデュミオンがくれたクリームの入った瓶を開けてみた。僅かに黄色味を帯びた乳白色のクリームからは、ほんのりとラベンダーの香りがした。
その香りは、少しだけささくれていたエルゼの心を優しく包んでくれた。
6話「薔薇の書」で目の前から消えた本が気になっていたロジーナが、ついに<Langue de chat>に辿り着きます。
エルゼは落ち込みましたが、ハンドクリームで元気回復です。