〈黒き森〉の仔ケットシー
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
<黒き森>はベビーラッシュの様です。
112〈黒き森〉の仔ケットシー
初夏に近付きうららかな晩春の日、孝宏とエンデュミオンは午後の休憩で、一階の居間に居た。
おやつのプリンを硝子の器に入れ、お茶にしようとしたところで、ポンと言う音と共にギルベルトが現れた。ケットシー達が<転移>で居間に直接来るのは珍しい事では無い。
「いらっしゃい、ギル。プリン食べる?」
「食べたいが、まずは用件を済ませたい」
孝宏のおやつの勧めに、ギルベルトは両前肢で抱えていた籠をラグマットの上に置いた。
「……これは?」
籠の中にはきちんと折り畳まれた数枚のおしめと共に、エンデュミオンの半分の大きさも無い仔ケットシーが居た。籠の動きが落ち着いたと気付いたのか、縁に掴まり顔を覗かせる。
灰色の鯖柄で口元と腹、四肢の先が白い所謂<鯖白>と呼ばれる毛色だった。明るい黄緑色の瞳で、エンデュミオンを見上げている。水色のおむつを着けているので男の子らしい。
「可愛いねえ」
「みゃうー」
孝宏が指先であやしながら額を撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
「鯖柄だからかな?エンデュミオンに似ているね」
「うん。この子はエンデュミオンの実の弟だからな」
「は!?」
孝宏とエンデュミオンはギルベルトの顔を凝視してしまった。
「今年の<黒き森>は戻って来たケットシーも多く、子沢山だったのだ。しかし、それでも常と変わらず離乳を済ませたケットシーの親が<黒き森>を出てしまってな。王様の許容量を超えてしまったのだ」
「いつもなら二人から五人だからな……。つまりギルベルトに子守を頼んで来たのだな?」
「うん、三人連れて来た。だがギルベルトも主を持つ身だから、三人は難しい」
仔ケットシーの養育費は兎も角として、主持ちのケットシーは主を第一に守護するからだ。
「エンデュミオンとラルスに一人ずつ頼めないかと思ったのだ。ラルスの方も弟だったから、引き受けて貰えた」
「少し待ってくれ。エンデュミオンだけでは返事が出来ない。ここの家主はイシュカだから、イシュカに訊いて来る」
エンデュミオンはすぐさま居間を出て、今日は工房に居るイシュカの元へと走った。
「イシュカ」
「ん?どうしたんだ?そんなに慌てて」
工房の戸口で声を掛けるエンデュミオンに、重ねた紙を糸で綴っていたイシュカとカチヤが顔を上げた。窓際の椅子の上でレースを編んでいたヴァルブルガも、こてりと首を傾げる。
「ギルベルト、どうかした?」
ギルベルトは<転移>で来たので、ヴァルブルガも誰が来たのか気付いていたらしい。
「ギルベルトがエンデュミオンの弟を連れて来た。今年は<黒き森>で赤ん坊が多く生まれて手が足りないらしくて、エンデュミオンに預かって欲しいそうだ」
「解った。構わないぞ、エンディの弟なんだし。赤ん坊用の揺り籠が物置にあった筈だから出して来る。手入れしないといけないから、カチヤも手伝ってくれ」
「はい、親方」
「お布団作らないとなの」
イシュカとカチヤは三本脚の椅子から立ち上がって物置へと向かい、ヴァルブルガもレース編みを籠に入れて椅子から飛び降り廊下へ出て行く。二階に行って布と眠り羊の毛で布団を縫うつもりらしい。とたとたと階段を上がっている足音と「ヨナタンー」とコボルトを呼ぶ声がした。
何だか大掛かりな事になった気がするが、エンデュミオンは一先ず居間に戻った。
「イシュカが引き受けてくれたから、この子はエンデュミオンが預かる」
「頼む」
ほっとした顔でギルベルトがぺこんと頭を下げた。
「グラウ、お前の兄のエンデュミオンだ」
「でぃー?」
「そうだ」
そっと肉球で仔ケットシーの頭を撫で、ギルベルトが言った。<でぃー>とはエンデュミオンの事らしい。
「グラウって?」
「名前は主が着ける物だから、普段は体色か目の色で呼ばれるのだ」
灰色の鯖柄だから<灰色>なのだ。エンデュミオンも<黒き森>に居た時はグラウと呼ばれていた。
「ラルスの弟は<黒色>で、ギルベルトが預かったのは<水色>だ」
ラルスの弟は黒毛で、ギルべルトの元に居るのは蜂蜜色で水色の目なのだそうだ。
「離乳が済んでいるのならプリン食べるかな?」
ギルベルトのプリンと一緒に、孝宏はカラメルの付いていない部分のプリンを器に掬って来た。
「来い、グラウ」
「でぃー」
マリアンかアデリナが作ったらしきおむつ姿が可愛いグラウを、エンデュミオンが籠から抱き上げ膝に乗せる。兄弟だと匂いが近いので落ち着くのか、グラウはご機嫌だ。
「はい、どうぞ」
小さめの木匙で孝宏はプリンを掬って、大人しくエンデュミオンの膝に座るグラウの口に入れてやる。
「……!んまー」
吃驚した顔になった後、グラウは小さな桃色の肉球をぽむぽむ打ち合わせた。
「んまーんまー」
「もっと欲しいらしいぞ、孝宏」
「甘いからもう少しだけね」
数匙のプリンと白湯を貰い、グラウはエンデュミオンの膝の上でうとうとし始めた。孝宏が浴布を持って来てソファーに寝かせる。
ギルベルトもプリンを食べ終え、ベストのポケットから出した紙をエンデュミオンに渡す。
「これにも書いてあるが、食べさせるのは人間の離乳食と同じで構わない」
「解った。ギルベルト、領主と魔女グレーテルには仔ケットシーが居ると教えた方が良いと思う」
一時的かもしれないが、ケットシーが三人増えるのだ。幼いケットシーは呪いが発動しやすいので、注意が必要だ。せめて一年位育たないと、誰かに憑かせる訳には行かない。
グレーテルには病気が無いか、検診に来て貰わなければならない。
「そうだな、これから行って来る」
「ギル、突撃訪問するならクッキー持って行って。ギルの家の分は明日届けてあげるね」
慌てて孝宏は<Langue de chat>の紙袋にクッキーを詰めた物を二つギルベルトに持たせたのだった。
ギルベルトはまず魔女グレーテルの診療所へと<転移>した。患者の居ない待合室に出て、診察室の扉を開けて「こんにちは」と声を掛ける。
「はいですー。こんにちはですー」
返事をしたのはマーヤだったが、診察室の奥の居間のドアを開けたのはグレーテルだった。
「こんにちは、ギル。どうしたね?」
「<黒き森>のケットシーの集落から、仔ケットシーを三人預かる事になった。ギルベルトとエンデュミオンとラルスの所で一人ずつだ。今のところ病気にはなっていないが、時々検診に来てほしいのだ」
「今年は子沢山なのだね。じゃあ、明日にでも最初の検診に行こうかね」
「頼む。エンデュミオンとラルスの所は弟を連れて来たのだ。良く似ているぞ」
「おや、それは会うのが楽しみだね」
微笑むグレーテルに、ギルベルトはクッキーの入った紙袋を一つ渡す。
「孝宏からだ」
「気を使わせてしまったね。明日検診の時にお礼を伝えるよ。ギルは<針と紡糸>に戻るのかい?」
ふるふるとギルベルトは頭を左右に振った。
「ううん。領主の所に行って来る。ケットシーが増えた事を知らせた方が良いと、エンデュミオンに言われたから」
「そうだねえ。驚くと思うから、ドアから訪問するんだよ」
「解った」
グレーテルは目の前に<転移>されても大して驚かないが、領主館では騒ぎになりかねない。
グレーテルの言葉に素直に頷き、ギルベルトは<転移>で領主館へと飛んだ。表玄関のドアについているノッカーを背伸びした前肢の先で三度跳ね上げる。
暫し後、ドアが開いて執事姿の男が現れた。一度リュディガーと挨拶に来た事があるので、執事の名前がクラウスだとギルベルトは覚えていた。
「こんにちは、クラウス」
「こんにちは、ヘア・ギルベルト」
微かに目を瞠ったが、クラウスは取り乱したりはしなかった。
「アルフォンスが居たら会いたい。居なければロジーナに会いたい」
「少々お待ち頂けますか?」
「うん」
ギルベルトはロビーのソファーに腰掛けた。成人男性の腰丈まで身長があるので、普通に座れるのだ。床に脚は付かないが。
脚をぶらぶらさせてロビーに置かれた調度を眺めていると、然程待たずにクラウスが戻って来た。
「お待たせ致しました。ご案内致します」
「うん」
ポンと床に下り、クラウスの後に付いて行く。クラウスは前回通された応接室ではなく、邸の奥へとギルベルトを案内した。
「こちらでございます。……ケットシーのヘア・ギルベルトをお連れしました」
クラウスが室内に声を掛け、ドアを開ける。ギルベルトはクッキーの袋を抱えたままとことこと部屋の中に入った。そこは居心地の良い居間になっていた。薔薇色と銀で誂えた家具で整えられている。
室内には領主アルフォンス・リグハーヴス公爵と、夫人のロジーナが居た。ソファーの近くには子供用のベッドが置いてある。
「こんにちは」
「こんにちは、ギルベルト」
アルフォンスとロジーナはソファーから立ってギルベルトを迎えた。元ケットシーの王様であるギルベルトは、黒森之國の王族もしくは公爵と同等に遇せられるのだ。
「急に来て済まない。これは孝宏が持たせてくれた菓子だ」
ギルベルトは紙袋をロジーナに差し出した。受け取ったロジーナが顔を綻ばせる。
「まあ、嬉しい。クラウス、お茶の用意をお願い出来るかしら」
「承知致しました」
クッキーの袋をロジーナから受け取ったクラウスが、ロジーナ付きのメイドに指示を出し、控えの間にある簡易台所でお茶の支度をさせる。
「どうぞ、掛けてくれ」
「うん」
ティーテーブルを挟んで置いてある一人掛けのソファーに、ギルベルトは腰を下ろした。
「リュディガーは一緒では無いのか?」
「うん。ギルベルトが一人で届け物をした後でここに来たから。伝えておいた方が良いと言う事になったのだ」
「何かあっただろうか」
アルフォンスの問いに、ギルベルトは頷いた。
「<黒き森>から仔ケットシーを三人預かった。ギルベルトとエンデュミオンとラルスで一人ずつだ。子供のケットシーは呪いが発動しやすいから、静かに見守って欲しい。特にエンデュミオンとラルスの所は弟だから、もし仔ケットシー達を人質に取ってエンデュミオンを再び拘束しようなどと考えたら、<黒き森>のケットシー総出で呪うだろう」
ギラリとギルベルトの緑色の瞳が光った。エンデュミオンとは異なる王者の威圧に、アルフォンスの背筋が震えた。
國中のケットシーに呪われたら、國が滅ぶではないか。
「解った。公にする事はしないと約束しよう」
「うん。なら良い。エンデュミオンとラルスはギルベルトが育てたのだ。邪魔はさせない」
ふふ、と笑うギルベルトに、アルフォンスの背中に汗が伝う。<親>である以上、ギルベルトがエンデュミオンとラルスを手加減せず護るのは当然の権利だと解ったからだ。
恐らく今まで<黒き森>を出た事が無いギルベルトの方が、エンデュミオンより余程箍が外れているだろう。
メイドが運んで来た適温のミルクティーを美味しそうに舐め、ギルベルトは子供用のベッドに視線を移した。
「……エンデュミオンとヴァルブルガから名着けの祝福を貰ったか」
「ヴォルフラムと言うのだ」
「<重き石>か」
ギルベルトは一人掛けのソファーから下り、子供用のベッドに向かった。柵の隙間から覗くと、ヴォルフラムは起きていた。
「おー」
突然現れた大きなケットシーに紫色の目を真ん丸にして声を上げ、寝がえりを打って起き上がる。柵を掴んで立ち上がり、手を伸ばしてギルベルトの耳の先を掴む。
「ふむ。ギルベルトを恐れないか」
ぱたぱたと耳を動かしヴォルフラムの手から逃れつつ、ギルベルトは逆にヴォルフラムの頬を肉球で撫でてやる。
「きゃー」
嬉し気な声を上げるヴォルフラムに、ギルベルトは目を細めた。
「良く育っているな。……ふうん?その内守護が要るか」
ヴォルフラムをあやしながら、ギルベルトは独り言ちた。とことことソファーに戻り、残っていたミルクティーを綺麗に舐める。カップをティーテーブルに戻し、ギルベルトはアルフォンスとロジーナをじっと見た。
「ごちそうさま。美味しかったから、一つ忠告しておく。時が来るまでヴォルフラムには<木葉>を付けておくと良い。では、ギルベルトはリュディガーの元へ戻る」
「それはどう言う──」
アルフォンスが問う前に、ぱちんと音を立ててギルベルトは消えてしまった。
「にゃー」
残念そうにヴォルフラムが声を上げた。ぺたんと布団に尻もちを付き、お気に入りのケットシーの編みぐるみに抱き着く。ロジーナはソファーから立ち上がり、息子の頭を撫でた。
「……旦那様、もしかして、ギルベルトは<先見>が出来るのではありませんか?」
「ヴォルフラムに何かあると言うのか?」
公的にはアルフォンスの実子となっているが、現王の血を引くヴォルフラムに考えられるのは王位継承問題だ。現在のところ王太子がいる上、庶子になるヴォルフラムには継承権はない。しかし、王族の養子となれば話は変わって来る。
「将来的に何か起きるかもしれぬのか……」
ギルベルトがわざわざ忠告して来たのだから。
「クラウス、リグハーヴス公爵家の<木葉>の親方を呼んでくれ」
「承知致しました」
アルフォンスに忠実な執事は、直ぐにロジーナの居間を出て行った。
王家、四公爵家はそれぞれ別系統の<木葉>の一族を手駒に持っている。普段は各領の情報収集などに使われる<木葉>だが、ギルベルトは護衛としてヴォルフラムに付けろと言ったのだ。素直に従った方が良いだろう。
「何故リグハーヴスの街にばかりケットシーが固まっているのだろうな……」
思わずアルフォンスはぼやいてしまう。他の領ではもっと点在しているものなのに。
ケットシーが集団で居ると言うのは、ある意味脅威なのだ。どちらかと言えば、リグハーヴスが恐れられる立場になる。確実に王都よりケットシーが居る。しかも現在の王族にケットシー憑きは居ないと来る。会議などで王宮に行った時に、嫌味を言われるのが目に浮かぶ。
「ケットシーは自由に移動するのですから、誰の責任でもありませんわ」
「そうだがな……」
「新しく来た子達が誰に憑くのか楽しみですわね」
にっこりと微笑むロジーナに、敵わないなと苦笑するアルフォンスだった。
エンデュミオンの弟ケットシー・グラウ登場。
鯖白のグラウ、顏はエンデュミオンとそっくりです。でも、性格は陽気。初めての弟に、エンデュミオンは内心嬉しくて堪りません。
元王様ケットシーでも、人族の公爵と同じ扱いを受けます。立場としては人間の王と同等です。
王様ケットシーでなくても、人間の王と対等に口を利くエンデュミオンというのもいたりしますが。




