カチヤと妖精犬
ルリユール<Langue de chat>は、製本及び痛んだ本の修復を致します。店内には素材の見本の他、製本後の本の見本もございます。本の試し読みも出来ますので、詳しくは店員にお訪ね下さい。
コボルト憑きになったカチヤです。
106カチヤと妖精犬
頬の辺りがふわふわしている。何かそんな柔らかい物を枕元に置いただろうかと思いつつ、カチヤは目を覚ました。
(そうだった)
隣でコボルトのヨナタンが寝ていた。ヨナタンの厚めの立ち耳の先が、カチヤの頬をくすぐっていた。
ヨナタンは小麦色の毛並みのコボルトだが、耳の内側や口元、尻尾の裏が少し白い。爪は白、肉球はピンクだ。
触ると肋骨に触れる程痩せているヨナタンは、ルッツと同じ位しか大きさがない。恐らく小さい頃からの栄養不良で育たなかったのだろうと、エンデュミオンが呟いていたのだが、本来コボルトはもう少し大きいらしい。
(まだ子供だって言うし、もう少し大きくなるかな?)
すぴょすぴょと寝息を立てているのが、可愛い。じっと見ている内に、ぱかりとヨナタンが目を覚ました。
「……」
カチヤを見て、布団の中で尻尾が動き始める。
「おはよう。私は起きるけどゆっくり寝ていて良いよ?」
しかし、ベッドから出るカチヤに、ヨナタンは付いて来た。歯を磨き、一緒にシャワーを浴びる。カチヤの身体を見ても、ヨナタンは特に反応を見せなかった。服を着ているカチヤの外見は少年なのだが、肉体の性別は匂いで解るのだろうか。
身体を乾かした後、まだ着替えが無いので、ルッツの服を借りてヨナタンに着させる。指先を繋いで二階の居間に行けば、もう台所から美味しそうな香りがし始めていた。
ぐうー、とヨナタンの腹の虫が鳴く。
「……」
両前肢でお腹を擦るヨナタンの後頭部を撫でる。
「お腹空いてるなら、ご飯は美味しいよ」
「……」
しゅ、とヨナタンが右前肢を挙げた。同意らしい。
「おはようございます」
「おはよう、カチヤ」
ヨナタンを居間のソファーに座らせ、台所の孝宏を手伝いに行く。入れ替わりにケットシー用の椅子に座っていたエンデュミオンが、ヨナタンの元に行った。ソファーの隣に座り、ヨナタンが頭を擦り付けるのを嫌がりもせず、肉球で撫でてやっている。
ヨナタンもエンデュミオンが歳上だと解るのだろう。甘えている様だ。
「ヨナタン、眠れていたみたい?」
ホットケーキを引っくり返し、孝宏がフライパンに蓋をする。
「夜中に一度私が目を覚ました時もちゃんと眠ってました。お腹も空いているみたいです」
「お腹も大丈夫そうだね」
朝食は腸詰肉と目玉焼き、馬鈴薯を滑らかに潰した物と、ホットケーキだ。苺も食後のおやつ用に洗った物がガラスの鉢に入って調理台に載っていた。フィッツェンドルフかヴァイツェア産だろう。
イシュカとヴァルブルガもやって来たが、テオとルッツは来ない。きょろきょろしているヨナタンの脚をエンデュミオンが安心させる様に叩く。
「心配しなくても大丈夫だ。ルッツは朝に弱いんだ。後で元気に起きてくる」
「……」
こくこくとヨナタンが頷く。
エンデュミオンとしては、朝食の時間にテオとルッツが現れない事は予測出来た。椅子が足りないからだ。主にケットシー用の椅子が。
「イシュカ、可及的速やかにヨナタンの椅子が要る。孝宏、エンデュミオンはメープルシロップがいい」
「はい、たっぷりね」
放射状に切り分けたホットケーキにメープルシロップを掛けて貰う鯖柄ケットシーに、イシュカは口の中の腸詰肉を飲み込んだ。
「今日は土の日だからエッダとカミルが来るだろう?その時に頼もうと思ってる。クルトが図面を保管している筈だから」
「うん」
ヨナタンはホットケーキの半分にメープルシロップを、半分に苺ジャムを載せて貰っていた。フスフス!と興奮気味に鼻が鳴っている。やはりミルクが好きらしく真っ先に飲んだが、少し固まった後、首を傾げる。
「今日のは霊峰蜂蜜なんだよ」
孝宏に教えて貰い、しゅっと右前肢を挙げた。巻き尻尾も振っている。
用意された朝食を食べ、おやつにクリーム掛けの苺も貰い、ヨナタンは嬉しそうに食べている。ヴァルブルガも器用にカトラリーを持つが、人に近い指を持つコボルトは危なげなくフォークで苺を刺していた。
先陣組が朝食を食べ終わった頃、半分眠ったルッツを抱えてテオが居間に来た。
ラグマットの上に下ろされたルッツが寝直そうとするのを、ヨナタンが肩をぺしぺし叩いて起こす。
「……」
「あいー。ごはんー」
丸い前肢で目を擦り、ルッツはヨナタンに頬を擦り付けてから台所にとことこ歩いて行った。ヨナタンが前肢を振って見送る。
「有難うな、ヨナタン」
テオはヨナタンの後頭部に掌を当てて擦る。上から覆い被さる様に手を出さなければ、ヨナタンは怯えない。
「……」
ぱたぱたと尻尾が振られる。
孝宏を手伝って食器を拭いていたイシュカが、台所から出て来た。
「カチヤはドクトリンデ・グレーテルとフラウ・マリアンが来るから、ヨナタンと一緒に居ると良い」
「でも、仕事は……」
「はい。今日はこれを読んで」
先程から居間のテーブルに置いてあった、透かし模様入りの角金が付けられた緑色の革装本が渡される。
「これは……?」
「製本の手順が書いてある。俺のだから書き込みもしてあるけど、これをカチヤは自分で写本して自分で製本する事になる」
それが黒森之國のルリユールの徒弟が最初に作る本だ。代々師匠から弟子へと、内容が受け継がれる。
「表紙の革や布は好きな物を選んで良い。角金も鍛冶屋のエッカルトに頼めるから、自分好みにすると良い」
「はい!」
「……」
じっとヨナタンがカチヤの手の中の本を見詰める。
「綺麗な本だよね、ヨナタン」
「……」
しゅ、とヨナタンが手を挙げる。
カチヤは魔女グレーテルとマリアンが来るまで、ヨナタンとイシュカの手順本を読むのだった。
グレーテルと、マーヤを抱いたマリアンは午前中の内に来た。途中で会ったらしい。
床に下ろして貰ったマーヤはいつもの様にルッツに駆け寄り掛け、「あれ?」と言う風に立ち止まった。
ルッツがヨナタンを紹介する。
「マーヤ、ヨナタンだよ」
ヨナタンがしゅっと右前肢を挙げる。
「マーヤですう」
スンスンとマーヤの匂いを嗅ぎ、ヨナタンが巻き尻尾を振る。魔物でも善人判定出来れば気にしないのは、ケットシーと同じだ。
「マーヤ、まずはヨナタンを診察させておくれ。遊ぶ時間はあるからね」
「はいです」
マーヤの後ろから現れた大人の森林族二人に、ヨナタンの尻尾がへなりと垂れた。
「おや、驚かせてしまったね。座ろうかね」
「ええ」
ラグマットの上に座り、グレーテルとマリアンはヨナタンと視線を合わせた。
「あたしはヨナタンが病気に掛かっていないか調べに来たんだよ。痛い事はしないからね」
クウ、と鳴いてヨナタンがカチヤに抱き付く。
「喉が痛くないかと、胸の音聞いて貰うんだよ」
カチヤはヨナタンをグレーテルに向けて膝の上に座らせた。
診療鞄から聴診器、籠の中の瓶から琥珀色の飴が先端に巻き付いた細長い棒を取り出したグレーテルに、カチヤは訊いた。
「それ、いつもの喉飴と違いますか?」
「これは霊峰蜂蜜の飴さ。ドロテーアに特別に作って貰ってね。ほら、ルッツ」
差し出された飴を、ルッツは素直に受け取り口に入れた。きゅっと目を細める。
「おいしー」
「甘いですー」
マーヤも貰ってにこにこだ。
「この飴で舌を押さえて、喉の奥を診せて貰うんだよ。口を開けておくれ」
「……」
かぱ、とヨナタンが口を開ける。
「どれどれ。……虫歯も無いし、喉も腫れてない様だね。良い子だ。はい、この飴は舐めておいで」
グレーテルに飴の棒を渡され、尻尾をふりふりしながら、ヨナタンは飴を口に入れた。
胸の音も大人しく聞かせ、触診で痩せすぎだとグレーテルが顔を顰めた以外は、目立った異常は無かった。
「栄養不良から肺病になっていたらどうしようかと思ったが、大丈夫そうだね。咳もしていないし。栄養のある物を食べさせて、良く遊ばせて、たっぷり寝かせてやれば良いよ」
「はい」
診察に付き合っていた孝宏とカチヤはほっと息を吐いた。
「次は私ね。コボルト織の資料って事だったけど、この子の服を作らなきゃならないわね。ルッツと殆ど同じかしら。採寸して良いかしら?」
「……」
しゅっとヨナタンは右前肢を挙げた。カチヤの膝から立ち上がり、マリアンが採寸するのを待つ。
「あら、織り子なのね」
腕の長さを測っていたマリアンは、ヨナタンの爪に気付いた。孝宏が用意した紙に、ヨナタンの採寸した数字を書きながら微笑む。
「実はうちにコボルト用の織り機があるのよ。小物用に使おうと思って取り寄せたの。まだ使ってないんだけどね。ヨナタン、もし使うんなら譲るわよ?」
「……」
しゅっ。ヨナタンの右前肢が挙がった。
「ヨナタン、欲しいの?」
再び右前肢が挙がる。カチヤは慌ててしまった。
「フラウ・マリアン、良いんですか?」
「私も暫くは使いそうにないし、また取り寄せれば良いもの。それほど場所は取らないけれど、置く場所あるかしら」
「ええと……」
徒弟のカチヤに決める権利はない。代わりに孝宏が答えた。
「イシュカと相談して、良い場所を決めますよ」
実際の大きさを見てみないと解らないのもある。マリアンは織り機に張る糸や織り糸も、取り寄せてくれる事になった。
マーヤを置いてグレーテルは診療所に戻り、ルッツとマーヤ、ヨナタンを居間で遊ばせて、テオとカチヤそしてマリアンは台所でコボルト織の資料を見ていた。孝宏はテオと交代で店に下りた。
ヨナタンの声に関しては、グレーテルは一階の居間でテオに話していた。
話さない様に脅されていた可能性もあるし、たんに本人が話すのが苦手なのかもしれないと。
「本人が不便じゃないのなら、大きく構えて待っててやれば良いさ。ひょっこり喋り出すかもしれないよ」
とりあえず、ヨナタンは困っていなさそうなので良しとする。
テオはテーブルの上で風呂敷を開いた。
「これがヨナタンが着ていたズボン」
「確かにコボルト織ね」
色とりどりの縦糸が使われている。横糸は生成の糸らしい。
ぱらぱらと資料の頁をマリアンが捲る。生地の端切れが貼り付けてある、仕立屋用の生地見本だ。
「近いのはこれかしら」
「本当だ、似てる。ハイエルン側の〈黒き森〉の中にある隠れ里か……。完全に拐ったのは冒険者だな」
一般人は隠れ里がある程深く〈黒き森〉には入らない。そこまで入らなくても兎や鹿などは狩れるのだ。
コボルト織の織り子であるコボルトなら、小遣い稼ぎ以上に高く売れただろう。想像するだけで、腹立たしい。
「俺も、ハイエルンの〈黒き森〉には入った事無いんだよなあ」
「大抵リグハーヴス側よね、冒険者が入るのは。ハイエルン側って言うと、人狼の集落もあるでしょ?」
「うん。これ、アーデルハイドとトルデリーゼに教えなきゃ。ゲルトはリグハーヴスから出ないけど……教えといた方が良いか」
人狼は妖精や精霊を大切にする。彼らが危害を加えるとは思えない。リグハーヴスの人狼三人を怒らせたらかなり怖い事になるが。
「アーデルハイドはそろそろ地下迷宮から戻る筈だし。スヴェンに戻ったら<Langue de chat>に来て欲しいって伝えて貰おう」
それに気になる事もある。
「実はさ、ハイエルンから発つ日、同じ宿屋にコボルトを探している奴が居たらしいんだよ。ヨナタン連れているのばれない様に、確認しないで帰って来たけど」
「それはギルドに照会掛けて貰った方が良いわね」
「だよねえ」
ハイエルンでコボルト拐いが横行していると、馬小屋の青年の口調からも解った。
「まあ、カチヤがヨナタン引き受けてくれて良かったよ」
「え?」
しみじみとしたテオの声に、カチヤは驚いてしまった。
「誰でも良い訳じゃ無いからね?妖精憑きになるのは」
「それ解るわー。うちにも居るから」
マリアンがくすくすと笑う。〈針と紡糸〉には元王様ケットシー・ギルベルトが居る。
「妖精憑きは、ほら〈呪う〉からさ」
呪うのは妖精なのだが。憑かれた主を他の者は攻撃しにくくなる。もし主に危害を加えると、漏れなく呪われる。
「ケットシーの呪いは聞きますけど、コボルトもですか?」
「コボルトってね、噛むのよ」
「……大人しいですよね?」
「主に危害を加えられたら、コボルトでも怒るわよ。で、噛まれたら痛いらしいわよー」
「冒険者ギルドの資料で読んだけど、噛まれた腕を切り落としたくなる程痛いらしいよ。聖女の〈浄化〉でないと治癒しないとか」
「聖都に行くまで激痛よ?気が狂いそうでしょうね」
ふふふふ、とテオとマリアンが笑う。二人ともケットシーを可愛がっている。同じ妖精であるコボルトも同じなのだろう。
酷使していたヨナタンを、のこのこ捜しに来た者がリグハーヴスにやって来たら。
(命があるだけ感謝する羽目になるのかも)
五人のケットシーを有するリグハーヴスの報復がどの様なものになるのか、少し背筋が寒くなったカチヤだった。
ルッツとヨナタンは同じ四歳位です。身体の大きさも同じ位で小柄です。
マーヤと三人仲良しになります。
コボルトに噛まれると、聖都まで行かないと本当に治りません。ある意味、コボルトの呪いなのです。
滅多な事では噛まないコボルト。噛まれた者の有罪は確定です。




