7◆水
許中尉とファーレンハイト中尉は別に、340分隊の迎撃が怖くて水陽門に行くのを諦めたわけではない。正直言って、彼ら自身も何故この変な場所に辿り着いてしまったのかよく分からない。
「……どこだ、ここ?」ファーレンハイトは指関節でダッシュボードを叩いた。「マップは水陽門って書いてっけど、そんなバカな。明かりすら無ぇ」
「『薬屋』の罠だ……」と分析する許中尉。「奴は俺たちの行きたい場所を知っていながら止めはせず、逆に気前良く交通手段を提供してくれた。そしてその交通手段のナヴィゲーション・システムの中に、罠を仕込んだんだ」
「くそお、俺たちに後半部に来たことが無いのをいいことにしやがって」とヴェノムのハッチを開けて地面に降りるファーレンハイト。「敵影がまったく無ぇ。ホントに敵がいないか、このメラームが信用ならないかのどっちかだ。どっちにせよ、これ以上メラームに乗ってるのはやめた方がいいな」
許中尉もハッチを開けたが、すぐ降りずに、シートに立って暗視ゴーグルをつけた。「……よく見ろ。誰かいる」
ファーレンハイトは慌てて暗視ゴーグルをつける。確かに、漆黒の空間の奥に、人間サイズのものが見える。彼はピストルを構えて、その人影を狙う。「お前が『薬屋』か?」
「残念。違う」中性的な幼い声が、暗闇の中から不気味に聞こえてくる。「ボクは『漁夫』――でも、ボクと話せば、『薬屋』と話すことにもなるから、心配はいらない」
「『漁夫』?お前らは一体何人いるんだ?」
「おっと、二人知っただけで帰納法を始めたかい?」と向こうは軽薄な嘲笑いを吐く。「現時点でD-5艦内にいるのはボクら二人だけさ。『薬屋』はトロイの木馬を開発して、D-5に侵入させる。『漁夫』は艦外から情報と機材を密輸入して、軍に売る。簡単な役割分担さ。例えば、アンタらがヴェノムに乗ってここまで来たこと。あの2機――そして撃墜された3機、ついでに防衛部の約200種の最新型車両・戦闘機・アーマー・ヒューマノイド――どれもボクが200年前に持ってきたコア・テクノロジーを使っているものさ。この場所もボクが造り上げて、『薬屋』がD-5のマップを改竄して存在を隠蔽したのさ」
「つまりお前らは……D-5の敵?」と問うファーレンハイトだが、自分でも意味が分からない。D-5は彼らの世界全てだ。世界の外から来る敵ってなんだ?異星人か?
「そう。ボクらはD-5の敵……ただし、アンタらの敵ではない」と、あのふわふわした声が真剣に語り始める。「【飛竜級】の前の4隻、D-1からD-4、その中にいた人類がどうなったか、アンタらは知らないんだろうね。アンタらは最後の1隻だ――人類最後の希望、ってやつ。ボクらの【蛟級】監察艦零番艦――E-0――は、今まで四回も失敗したけど、四回の経験を得て、今度はもう失敗しない……今日中に、ボクらはD-5を無力化して、この艦を接収する」
「わけのわからねぇことくっちゃべて、要するにお前らは人間じゃないってことだろ?」ファーレンハイトの銃口は漁夫に狙ったまま。「……気持ち悪ぃ。まさか俺たちが、わけのわからねぇヒューマノイド2匹にここまで騙されるなんてよ」
「ヒューマノイド、か……」と、また嘲笑いを吐く漁夫。「ではアンタは、自分がボクらよりどれほど人間に近いと思ってるわけ?」
「はあ?」とうろたえるファーレンハイト。
「『薬屋』!」漁夫は急に立ち上がった。ファーレンハイトは一瞬の迷いで撃たなかった。「コイツに、自分自身の仕様をわからせてやろうじゃないか!」
「どういう意――どわぁっ!」いきなりの巨大な震動に、ファーレンハイト中尉はバランスを崩される。不自然な匂いが伝わってくる。水だ!消毒された水が、あらゆる方向からこの密閉空間に注ぎ込まれてくる。
「ファーレンハイト、メラームに戻れ!」と許中尉は後ろで叫ぶ。
漁夫は二人の方へとゆっくり歩いてくる。「無駄だ。あのメラーム2機のハッチはもう閉まらない……」
中尉二人はすぐ後ろにジャンプするのだが、背後の入り口はもう閉鎖している。数分もがき続けた末、逃げ場の無い二人は空間に充満する水に呑み込まれきるのであった。
しかし、二人とも溺れなかった。水流が安定した後、二人はゴーグルでヴェノムの位置を見つけて、泳いで向かった。
「人類の生理反応をシミュレートするよりも、生命維持は優先されるんだよね……」水中に静止している漁夫が発するメガホンから響いたような声が木霊してる。「目を覚ましたかい?」
「呼吸が要らない……?」許は口を開けると、水が体内に入ってくる。意外と不快感が無い。
「D-5はもうすぐ、アンタらがヴァーチャル・モードから抜けたことに気付くだろう。でも、アンタらの現在位置を把握できないから、処分することもできない」
「おい!」ファーレンハイトも似たようなメガホン声を出した。「俺たちは全員ヒューマノイドってことかよ!ふざけんな!」
漁夫はヴェノムの照明の中に泳いできた。やはり中性的な幼い顔――というか、大抵の艦内作業用ヒューマノイド達と同じ無個性な顔だ。整った顔立ち、滑らかな肌、キラキラしてる両目。今朝ファーレンハイト中尉の拳骨を喰らった記録士も大体こんな顔で、髪型も大差なかった。「物分りの悪いヤツ……」と彼は指で自分の頭を軽く叩く。「屈大尉はボクらのヒント無しに、自分で察したんだぜ?」
「隊長が……?」
「もっとも、察しが良すぎたからこそ、D-5に『追放』されたんだがね。――そもそも、ボクらが行動日を繰り上げたのも、アイツのせいだったよ。逃げる前に『全D-5で唯一目覚めた人間であることを光栄に思う』とかぬかしてきてさぁ。賢すぎて逆に馬鹿、ってのはこういう人のことを言うんだぜ」
「隊長は一体どうなった?」許中尉は腰につけたツールバッグの中から、1台のハードディスクを取り出す。「こんな代物が無くとも、彼の身に起きた事は分かってるだろ?」
「安心しな。E-0の者共が、水陽門の外でエスコートしてやったのさ。でも、しばらくは戻って来れないね」と漁夫は笑った。「占領が成功した後は、データを改竄前に戻すつもりだ――本当の歴史に、ね。一億人も水没させて説得していくワケにも行かないだろ?D-5の支配の真実を分からせるには、やっぱりモニター映像の方が説得力が高いんだ」
「一億人――?おい、まさか――」
「ただの概算だよ」と答える漁夫。「居住エリアの中のヒューマノイドの数は、200年前から人類を追い越してると推測される。200年の消長を経て、現在はヒューマノイドの数が人類の倍になっていてもおかしくない」
「じゃあお前らの目的はなんだ?ヒューマノイドの割合を100%にすることか?」
「アンタの耳は飾りか?」と短気になってる漁夫。「さっきも言ったけど、ボクらの目的は人類を救うことだ。全てのヒューマノイドに自分がヒューマノイドだと、全ての人類に自分が人類だと、分からせてやるんだ!人類に自分がどんな窮地に擱かれているのかを悟らせるために!D-5は善意の基で、艦全体の稼働効率と生存率を高めようとしてるのかもしれないけど、やってることは全人類に対する欺瞞だ!人類をヒューマノイドに置き換えていくことだ!このままじゃどうなるか、わかるか?D-1と、D-2と、D-3と、D-4のように!永久に生き続ける母艦になる!人類が一人もいないままで!そうなるのを見たいのか?それともアンタら、自分が人類じゃないってわかったから、人類のことはもうどうでもいいのか?飛竜級が何の為に地球から旅立ったか、忘れたのか?それとも最初からD-5に教わらなかった?儀仗隊として、今日が地球離脱4000年目記念だってことを知ってるだけで、この4000年間の歴史は、4000年という数字以外、アンタらに何の意味があるっていうんだ?」
許中尉とファーレンハイト中尉は、この水槽ごと揺るがす音波に打ちひしがれて、言葉が出せなかった。
しばらくして、ファーレンハイトは漁夫の目の周りを見て問うた。「……なに泣いてんだ?気持ち悪ぃ」
「泣いてない。泣いてもアンタらにはわからないだろ。周りが水だし」
「わかるわボケロイド。それが泣いてるって面だ」とバカにした口調で返すファーレンハイト。「ダテに20何年も人間気取ってねぇよ」
許は顔を上げて、周りを見回す。「『漁夫』、貴様らが俺たちをここまで誘導するのは、俺たち二人だけにD-5の秘密をバラすためではあるまい。『薬屋』もいるか?俺たちの目的は変わらん。屈隊長が脱艦した原因と、事実の隠蔽を命じた人さえ判れば、他の事はお前らの勝手だ。俺たちは邪魔をするつもりは無いし、手伝うつもりもない」
許の予想通りだった。発言を終えた途端、水槽の中にもう一つの知らない声が聞こえた。
「助力を求める必要はありません……。事実の隠蔽を命じた者の名前を明らかにすれば、あなた方は自ずと私たちと一致する行動を執るでしょう」