1◆転落
このショートストーリーは、2014年の旧暦の端午に発表した、端午をモチーフとした中国語の短編から日本語に翻訳した試みです。屈原、伍子胥、龍船、白蛇伝などの中国の端午ネタをSF風味にパロディするという趣旨でしたが、一応ネタ抜きでも話は成立するので、翻訳し甲斐はあると思いました。台湾人である自分の日本語力はネット上の会話や短い文章なら問題無い程度ですが、叙事文学の体裁には詳しくないので、おかしいところが多々あるかもしれません。ご容赦ください。
もし屈大尉が艦から転落して消息不明になった突発事件を日誌に記入するという用事が無かったら、D-5が地球離脱から丁度4000太陽年目を迎えていることに、彼女は気付かなかったのだろう。
【飛竜級】星間移民母艦五番艦、略してD-5は、通常は航宙日誌のマニュアル記入を必要としない。母艦AIが艦内各所のサーヴェイランス・システムからデータを収集すれば、自動的に歴史を編纂することができる。信憑性高くて肌理細やか、検索もし易い上に、事実には絶対忠実である。もっとも、彼女が自動生成した日誌をわざわざ編集しに派遣されてきたのも、「事実には絶対忠実」が問題になっているからなのだが。
正直に言って、軍上層部がどんな「事実」を隠蔽しようとしているのかなど、彼女にとってはどうでもいいことだ。軍の内部は秘密だらけだということぐらい、民間人にも想像がつくはず。にも拘らず、何千年も何万年も黙認されてきたのだ。彼女はこの何千何万年もの文化を尊重することにしている。それに、屈大尉が水陽門から艦外に落ちた事件の裏に、どんな複雑な事情が有り得るというのだ?せいぜい上層部に不利な働きをして、口封じされた程度のことだろう。編集のついでに元の日誌を一目見れば答えが判る事だが、どうせ編集が完了した時点で元のデータは永久に無くなる。それでその歴史は「幻想」となり、軍が彼女に記入させたデータの方が、「正史」となるのだ。
「知ってるよね?『史』というのは、象形文字では筆を握って記録を書いてる手、から来てるの」と、彼女の直属上官から解説を聞いたことがある。「文字体系によって様々な由来があるけど、いずれにせよ、人間の大半にはこういう共通認識があるの。ズバリ、事実よりは情報、ということ。知ってるよね?ワンステップ前の状態に戻すだけでも難しいこと極まりないのに、もっと遠くの昔を再現するなんてバカげた夢さ……。私たちが縋れる復元ポイントは、すべて現在どこかに保存されている情報なんだから。そして現在まで生き残れなかった『過去』は無価値、というわけ」
ヒューマノイドからすれば確かに説得力のある理屈だが、そもそも直属上官がヒューマノイド相手に説得力という比較的弱い影響力を行使したのは、彼女の思考を直接決める権限を持ち合わせていないからだった。
実際、彼女は階級としてはしがない下士(コーポラル)だが、彼女に「直接アクセス」できる権限を持つ人間は、全D-5の中にもほんの数人しかいない。これが記録士(アーカイヴコーポラル)の特権だ。例え大将レベルの長官が今日のような歴史改竄を命令したとしても、彼女は即座に拒否する権利を持っている。もっとも、拒否権を行使した記録士など、彼女には聞いたことも無いが。歴史情報を一件データベースに入力するぐらいで死傷者は出まいし、母艦の航行にも何ら影響は無いからだ。
入力を完了して、自分の脳内にあったバックアップも削除した彼女はアーカイヴ室から出ると、屈大尉の部下の二人が待ち構えていた。
「……一歩遅かったようだな」左翼防衛部隊第55分隊の許副官が険しい顔をしている。「全部書き換えたか」
「白のアネキが指示したのか」隣に、筋肉質でトゲトゲした金髪のファーレンハイト副官が暑苦しい視線で見詰めてくる。
「無駄な質問はよせ」と許は冷やかに言った。「コイツが何をやるとしても、命令を出すのは白だ。それに白はただの少尉(セカンド・ルテナント)だ。上の奴がいるに決まってる」
ファーレンハイトは軽く舌打ちをして、また彼女に視線を当てた。「で?証拠はもうパアになったのかよ?」
彼女は頷いた。次の瞬間、自分の頚部の断裂を感知した。周りが廻り始めた――正確に言うと、彼女の頭部が身体から吹き飛んだのだ。無重力の廊下で、彼女の頭は壁に数回ぶつかって、ようやく止まっていった。
「けっ、気持ち悪ぃ」と、ファーレンハイトの声が右斜め後ろから聞こえる。「この一発をログして、白に報告ったらどうだ!」
頚部関節と耳との接続がロストしている状態で、頭部単体に大した駆動力を持たない彼女は、頷くことができなかった。でも、身体の方からこのトラブルに対応してくれるのに、10秒はかかるまい。
艦外に落ちた屈大尉は、どんな気分だったのだろう。こんな風に世界が廻っている感じだったのだろうか。D-5が10秒以内に助けてくれると、彼は信じていたのだろうか。