後編
「典史。典史」
暗闇の中、柔らかな呼び声が典史の心を包む。典史は歯を食いしばり、何とか重い瞼を開いた。薄暗い空間の中で、冴子が今にも泣き出しそうな顔で見つめていた。
「冴子……」
「典史! 良かった……」
冴子は覆いかぶさるようにして抱きついた。典史は驚きに目を丸くしながら、呆然と周囲を見つめる。辺り全てが白い調度品で占められている。おまけに薬品独特の匂いまで漂っている。紛れもなく病院だった。
「俺は、一体……?」
冴子はゆっくりと離れると、今度は難しい顔をしながら呟くような声で言った。
「お医者様が言うには、一酸化炭素中毒だって」
「一酸化炭素中毒?」
彼女が言うには、昨日警察によってこの病院に担ぎ込まれた彼は、すぐさま純酸素の吸入を受けてどうにか窮地を脱したらしい。処置が早かったため無事で済んだが、もう少し遅れれば後遺症が残ったかもしれないという事だった。言ううちに、冴子の目はみるみるうちに涙で濡れた。
「本当に無事でよかった。本当に……」
呆然と冴子の涙を見つめていた典史だったが、いきなり目を見開いた。獣の醜悪な笑みがフラッシュバックし、彼の心を怒りの炎に狂わせる。
「あああっ! あいつは俺が! あいつは!」
喚き散らしながら起き上がり、典史はベッドから飛び出そうとする。冴子が必死にベッドに押し戻そうとする。
「典史、落ち着いて。落ち着いて!」
「うるさい!」
我を失った典史は冴子を突き飛ばした。冴子は壁に背中を強かに打ちつけ、苦悶の表情を浮かべる。丸腰で病室を飛び出そうとした典史に、冴子は鋭く叫んだ。
「典史!」
その声でようやく典史は我に帰った。蒼白な顔、焦点の定まらない目で典史は冴子を見つめる。
「さ、冴子……」
「ねえ……どうして典史は私を頼ってくれないの。何で一人で抱え込もうとするの!」
掠れ声で冴子は叫ぶ。典史は唇を震わせ、首を振った。冴子は唇を血が滲むほど噛み、呻くように呟いた。
「私じゃだめなの……? ねえ……」
「ごめん、冴子。ごめん……俺は……」
その時、再び典史は目を見開いた。薄闇の中で彼の目は僅かに赤く光る。そして、左手を赤い光が包み、真紅に禍々しく光る篭手が現れる。典史は顔を歪ませ、獣のように吼えた。想い人の変貌に、冴子は怯えて縮こまる。
「ぐううっ!」
典史は唸ると、窓を開けて飛び出した。冴子は蒼白になって窓の下を見つめる。白い光が一瞬煌き、赤い翼が夜の闇に紛れて飛び出していった。
「典史……」
一晩越して、獣はさらに凶暴になっていた。機動隊の警備車をその鋼鉄のように硬い拳で叩き潰し、機動隊に襲いかかる。隊員は必死にライフルで応戦するが、獣には全く効き目がない。獣は銃を握り潰し、爪で隊員を引き裂いた。
「フフ、ハハハ!」
血に塗れながら、獣は歓喜の声を上げる。世界が自らの思うままになるこの有様に、獣は会心の咆哮を上げた。ナイフを手にして立ち向かってきた隊員を虫けらのように潰し、獣は周囲を見渡した。
「ああ……最高だ。至福だ。快感だ。この他にこれを何とすべきか。いやいや。ああ、楽しい楽しい……」
「ほざけ! 化け物がぁっ!」
爆音と共に白い閃光が襲い掛かる。獣は吹き飛び、もんどり打って地面に転がった。激しい痛みに顔を歪めながら顔を上げると、紅いマントを翻し、全身に怒気を纏った白騎士がいた。
「お前は、昨日の……」
「良くもこんなことが出来るな! こんなことをして楽しいと言えるな! こんなことをして人間だってほざけるな!」
「そうさ。俺は人間だ。借金取りに追われて死のうと思っていたら――」
激高して叫ぶ典史に対し、低く笑いながら獣は語りだす。しかしそれはすぐ典史に遮られた。
「黙れ! お前は人間じゃない! その醜い姿を見ろ! それがお前の本性だ! 俺は……俺はお前を絶対に許さねえ!」
典史はバイクを飛び降り、周囲に轟く雄叫びを上げた。その瞬間に彼の両手両足は炎に包まれる。典史は獣を鋭く指差した。
「許さねえぞ!」
「勝手に倒れたくせに、何を言っている……」
獣は歯を剥き出し、宙へ跳び上がる。典史は真紅のマントを翼に変え、強く蹴り立った。そのまま獣の上を取ると、首根っこを押さえて地面に叩きつけた。
「ぐうっ」
右手の炎に焼かれ、獣はたまらず呻いた。獣はその馬鹿力でもがき、典史を振り落とした。そのまま反転し、倒れた典史に一撃を見舞おうとする。しかし典史の蹴りが獣の腹を焼き、たまらず獣は仰け反った。
「ぐああっ」
さらに典史は跳ね起き、炎を纏った拳で獣の顔面を殴りつける。途端に毛皮が燃え上がり、獣は悲痛な声を上げて道路を転げまわり、顔を叩いて炎を消す。その間に典史は紅い刀身の剣を抜き放ち、一歩また一歩と怪物へ向かって歩いていく。
「ま、待てっ。話を聞け。俺は人間だ。人間なんだ。死のうとしてたら、何かを埋め込まれて、こうなっちまったんだ。そしたら俺の耳元で殺せ殺せって、何かが言うんだ。本当だ。俺は逆らおうと思ったんだ。だが身体が勝手に動いたんだ。本当だ。俺だってこんなことしたくはなかったんだよ!」
典史はふと足を止めた。獣は口角を持ち上げ、爪を光らせ身を起こそうとする。その瞬間、典史の一閃が脳天を直撃し、獣は道路が割れる勢いで地面に叩きつけられた。
「な、何で!」
「何でもかんでもない! 言い訳にもならない言い訳を! お前はもう人間じゃない! こんなことをできる奴が、人間なものか!」
典史は青く燃える剣を獣の背中に突き立てた。獣の硬い肉を焼きその剣は深く突き刺さっていく。獣の絶叫を聞きながら、典史は上ずった声で言い放った。
「鏡見てみろよ。お前はただの化け物だ」
典史は断罪すると、一歩飛び退り、剣を横に振り薙いだ。炎の竜巻が獣に襲いかかり、容赦なく焼き尽くし始めた。今度はいくら暴れても消える気配が無い。
「ぎゃああ! やめてくれ! 助けてくれえ!」
しかし典史は動かない。獣の断末魔を聞きながら、ただただ立ち尽くしていた。その間にも獣の肉は焼け落ちて行き、地面に倒れた。獣は力無く呻きながら呟く。
「……フン。お前も鏡を見てみろよ……俺とお前、どう違うんだ……? フフフ、ハハハ……」
獣はついに事切れた。典史は、炎が獣の骨すら灰とするまで、兜の隙から光る赤い目で見つめていた。
冴子が虚ろな目でもぬけの殻になったベッドを見つめ続けていると、ゆっくりと病室の戸が開いた。焦げ付いた臭いを漂わせ、典史がふらふらと戻ってくる。涙を浮かべ、冴子は思い切り怒声を浴びせようとする。
「この――」
しかしその声はつっかえた。彼はもうすでに打ちのめされた顔をしていたのだ。典史は力無く椅子に腰を下ろし、頭を垂れる。今まで叩きつけようと思っていた言葉をすっかり忘れ、冴子はおずおずと尋ねた。
「典史、一体どうしたの……?」
「どうしたも、こうしたも……俺は、ろくでもない人間なんだ。ようやく分かった」
放心状態の典史が発した突然の独白に、冴子は耳を疑った。
「ろくでもない? ねえ、どうしたの、本当に……」
典史は胸に手を押し当て、嗚咽混じりに呻いた。
「お、俺は……キレて、何も考えられなくなって……何の躊躇も無く俺は暴力を振るうんだ。俺は俺が怖い、怖いんだ」
冴子は弱々しく俯く典史の姿に掛ける言葉を見つけられなかった。彼女は静かに立ち上がると、そっと彼の隣に寄り添い、その肩を抱きしめようとする。しかし、その手は典史に払われてしまった。
「やめてくれ! お、俺はそんな人間なんだぞ。下手したら……お前にまで……」
典史はまるで小動物のように震えていた。冴子はきっと顔を上げ、あらん限りの力で典史の頬を叩いた。乾いた音が病室に響く。驚愕の表情を浮かべる典史に、冴子は毅然とした表情で向かい合った。
「目を覚ましなさい、神原典史。あなたはそんな人じゃない。 ちょっと見た目は荒っぽそうだけど、誰にでも優しく出来る、温かい人よ。そうじゃなきゃ……私あなたのことなんか好きにならない!」
「あう……」
冴子がきっぱりと言い放つと、典史は情けない声を上げて呻いた。冴子は頬を紅潮させながら、典史の肩を掴み、必死に訴える。
「だから、だから。自分のことをろくでもないなんて言わないで!」
「あ、うぅ……」
典史の目が激しく揺らぐ。震える手で彼女の手を掴み、そっと自分の手を重ね合わせる。
「さ、冴子……」
「典史」
冴子は微笑みかけようと頬を緩める。しかし、典史は三度冴子の手を払った。真っ青な顔で、典史は首を振った。
「冴子。お前は俺に優しすぎるよ……」
典史はそう言うとおもむろに立ち上がる。そして、目を見開いて硬直した冴子をその場に残したまま、彼はその場を立ち去ってしまった。
「のり、ふみ……?」
取り残された冴子の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。