前編
「おはようございます……」
昼下がり、数日体調不良を訴え休み続けていた典史が、気まずそうな顔をして研究室に入ってきた。しかし、冴子と笹倉は柔和な表情で彼を迎え入れる。
「やっと来る気になったのね。典史」
「無理しなくていいんだよ? 別に冴子くんと二人でも何とかなるし」
笹倉が言うと、典史は小さく首を振り、力無く微笑んだ。
「……すいません。でももう大丈夫です」
頭を下げ、そっと椅子に座る。作業用具を取り出していくその手つきも大人しい。まるで借りてきた猫だ。すっかり覇気が失せてしまった彼を見て、冴子は微かに表情を曇らせる。そんな彼女に典史は細い声で尋ねた。
「プレートの件は進めてくれたんだっけ」
「ええ。一応ね」
冴子はメモを取り出す。そこには丁寧に縁の模様が一つ一つ書き出されていた。下には縁の模様を数列にまとめられている。
「模様の種類は全部で二十二。それが組み合わさっている様子から見て、間違いなく何かの意味を表してるはず。……これ以上の資料が無いからなんとも言えないけど」
「へえ……」
メモを見つめて典史が唸っていると、笹倉も彼の前に一枚のレポートを置いた。
「後で目を通しておいてほしいが、可能な範囲でプレートを検査したら非常に興味深いことがわかったよ」
「興味深いこと?」
「ああ。試料が貴重品だから無碍に扱うわけにもいかないだろう? だから試料を傷つけずに実験できる電気抵抗率の調査をしてみたんだよ」
「はあ。それで一体何がわかったんです?」
「まともな結果が出なかったんだ。電圧計がおかしな値を提示してね。無理に計算すると電気抵抗率がマイナスになってしまうんだ。つまり、このプレートから電気が発生したということになる」
典史は耳を疑った。プレートをもう一度観察してみたが、特に変化があった様子は無い。
「え? 化学反応も無しにですか?」
「そうだ。これは非常に興味深い事実だよ。そう思うだろう?」
「はい。……獣の中から出てきたことといい、何かとんでもないものを見つけたのかもしれないですね……」
典史がじっとプレートの獣と睨み合っているのを見て、笹倉は不敵に微笑みながら頷いた。
「ああ。これを調べないわけにはいかないだろう? 早乙女くんにも戻ってきてもらうことにした。彼女もすごく興味を持ってくれたよ」
「早乙女が? まあ、確かにあいつなら……」
早乙女倫香。典史達と同じく笹倉教授の助手である。科学分野で非常に広汎な知識を持ち、巷では才媛との呼び名も高い。ただ、少々変わり者なのも確かだった。
「でも、倫香はつい一ヶ月前に『自分探しの旅だぁっ!』とか言って旅に出たばっかりじゃないですか。あの子がそうすぐ戻ってくるとは思えないんですけど……」
「まあね。でも、我々にとっては丁度いいところに彼女は今いるんだ……」
「つまり、彼女は今、例の廃墟となった城辺りにいるんですね。そういうことでしょ?」
典史が笹倉に先回りして言ってしまい、彼は思い切りずっこけた。渋面を作って典史を睨んだ。
「そ、その通りだよ。例の紅い篭手が持ち込まれてからあの怪物は現れ始めたわけだし、何らかの関連性があると見てまず間違いないからね。彼女は今あっちの方に執心らしいし、何か色々探ってきてくれると私は思うよ」
「あの篭手か……」
典史が忌々しげな顔で呟いた時、いきなり貫かれるような頭痛で目を見開いた。野太い断末魔が脳裏に響き続けるのだ。典史が苦痛に呻いていると、左手にその篭手が現れた。蒼白な顔で典史は篭手を睨みつけ、無我夢中で怒鳴った。
「お、お前は……お前は俺に何をさせたいんだ!」
そうしている間にも、耳には惨劇の様子が再生され続けている。典史は耳を押さえて呻いた。冴子は慌ててその顔を覗き込む。
「典史、典史! しっかりして!」
「……くそっ!」
典史は冴子の手を払い除けると、血走った目で研究室を飛び出した。舌打ちをし、階段を猛然と駆け下りていく。
冴子は呆然と払いのけられた手を見つめ、そして開けっ放しの扉を見つめた。狂気すら宿るその血走った目が蘇り、冴子は涙を浮かべながら呟いた。
「典史……どうして……」
笹倉は普段の緩みきった顔を引き締め、冴子の肩を静かに叩いた。
「冴子くん、今は見守るしかない。彼は君のことを信頼している。それは君が一番良く分かってるはずだ。……辛くなったら彼は君を頼るさ。今は辛抱だ」
冴子は目に浮かんだ涙を拭い、静かに頷いた。
「はい……」
歓楽街の一角に構えられた、とある組の事務所。暗黙の了解となって誰も近寄らないその建物に、のっそりと近づいていく一匹の獣がいた。泣く子も黙る組合員達も、異形の熊といった趣のそれには警戒の眼差しを送っていた。
ふと獣が上を見上げ、組合員達と目を合わせる。獣は酷く醜悪な笑みを浮かべた。背筋を伸ばして仁王立ちになり、事務所の扉を叩き壊す。机のバリケードを押しのけ、階段を四つ足で駆け登る。男達が踊り場に立ち、拳銃を獣に向かって撃つ。しかし獣は物ともせず、男達の頭を巨大な掌で吹き飛ばした。
獣は吼えると、人の臭いがする部屋に乗り込んだ。途端に大量の銃弾が獣に襲いかかる。しかし獣にとっては雨に打たれるのと変わらなかった。獣は組の男を睨みつけ、その頭を鷲掴みにしてそのまま引き抜いた。そして腕を振り薙ぎ、三人の首を刎ねる。ブランド物のスーツに身を包んだ男は、地獄から飛び出してきたような怪物を前に腰を抜かす。
「あわ、わわ……」
「フフフ」
怪物は血まみれの爪を見て低く笑うと、男の両肩を掴み、真っ二つに引き千切った。大量の鮮血を浴びながら、怪物は狂ったように笑い始めた。
「最高だ! 最高だ! 最高だ!」
怪物は狂喜乱舞すると、壁を拳の一撃で穴を開け、そのまま外へと飛び出した。大通りへと飛び出すと、目についたトラックに体当りして吹き飛ばす。さらに近くで止まったワゴンに飛びかかりって押し潰した。中から男を引きずり出し、ビルに向かって放り投げる。男は強化ガラスに頭から突っ込み、そのまま絶命した。
怪物は逃げようとする人々に目を付け、その集団に突撃した。若い女性を爪で引き裂き、その肉に喰らいつく。
「クク……美味い」
人々の悲鳴と血の臭いが通りを埋め、人も車も我先に逃げ出す。女を喰い荒らした化け物は、次の獲物を求めて駆け出す。そんな獣は、視界の端の白い影に気が付かなかった。
「この野郎がぁっ!」
絶叫した典史は、バイクに跨ったまま剣を抜いて獣に突っ込む。その一撃は、怪物の巨体を撥ね飛ばした。道路に倒れ込んだ熊の怪物を睨むその目は、一層鋭く輝いた。
「許さねえ……許さねえ!」
バイクを飛び降り、典史は切りかかった。獣は吼えて丸太のような腕で殴りかかる。間一髪かわし、横薙ぎで腰を切る。しかし刃が通らない。獣は典史の肩口を掴み、アスファルトに叩きつけた。
「ぐっ」
強い衝撃に呻く典史を、獣は鎧の首元を掴んで無理やり引き上げた。そして、血走った目で典史を眺め回す。
「何だあ? 貴様は?」
「な、何っ!」
典史は驚愕に目を見開いた。怪物は歯を剥き出して笑い、硬直した彼を獣は潰れた車に向かって投げつけた。受け身も取れず、典史は道路に転がる。
「ぐあっ」
典史は霞む視界に獣を捉える。訳が分からなかった。今までの怪物は意味の分からない言葉を二言三言話すくらいだったというのに、この獣は、何故かはっきりと日本語を話している。下手な想像まで湧いて頭がくらくらし始めた。しかし、その時ふと横を向き、典史は目を見開いた。
そこにあったのは、車ごと押し潰され、そのまま事切れた女性の姿だった。それを見た途端、今まで燻り続けていた何かが完全に燃え上がった。
「ああ……うあああっ!」
典史は起き上がると、狂った悲鳴を上げて飛びかかった。獣が伸ばしてきた爪を右腕で受け止め、左の拳を獣の腹に叩き込む。
「どうした。その程度で……ァアア!」
肉の焼ける耳障りな音、毛の焦げ付く悪臭。獣は悲鳴を上げて後退りした。その腹には丸い焦げ跡がはっきりと付いている。
「何だ、何がどうなっている……?」
低く唸りながら、典史は構えを取り直す。その両拳と両足からは、紅の炎が噴き出していた。やがてそれは紅蓮の腕輪、脛当てとなって鎧に変化をもたらす。白いマントも真紅へと変わり、手甲のプレートも、炎の剣を携えた鎧姿の天使へと変わる。典史の怒りが、そのまま炎となっていた。炎を宿した手で鋭く獣を指差し、典史は叫んだ。
「絶対に! 絶対にお前は許さねえ!」
取り落とした剣を拾い上げ、典史は駆け出す。剣は炎を纏い、獣に高熱をもって襲い掛かる。肩口を焼かれ、再び獣は無残な悲鳴を上げた。
「ギャアァ!」
典史は一瞬剣を止めたが、すぐに固く握り直して再び切りかかった。今度は胸元に炎を当てられ、獣は大きく飛び退ってうずくまった。典史は深く息を吸い込み、剣を握りしめて一歩一歩と獣へ迫る。
その時であった。獣は苦し紛れに叫んだ。
「やめろ! やめろ! 俺は人間だ。人間だぞ。俺を殺せばお前も人殺しだぞ。いいのか!」
「なっ……!」
典史は剣を今度こそ止めてしまった。典史は目を裂けそうなほどに見開き、ひっくり返った震え声で彼は叫ぶ。
「ふざけるのも大概にしろ! お前のどこが人間だ!」
「言う割には動揺しているな?」
「違う。違う! お前は許さない! 許さないんだ!」
典史は悲鳴を上げて駆け出した。しかし、その足は突如として止まった。突然息が浅くなり、剣を取り落とす。崩れ落ちた拍子に変身が解け、典史は頬を紅潮させたまま道路に倒れ込んだ。あまりに突然の出来事に、典史は全てを忘れて茫然とする。
獣はその姿を見て高笑いを始めた。
「ざまあ無いなあ。お前は簡単には殺さんぞ……」
獣は舌なめずりをしながら典史へと近づいていった。しかしその時、一発の銃弾が獣を吹き飛ばした。
「ぐぬっ」
獣は睨みつける。その先には一台の警備車があった。その中から、機動隊達がライフルを構えて獣を狙っている。その鋭い弾丸は怪物の身を貫くには至らないが、それなりには突き刺さる。
「ぬう……ここは引くか」
獣は身を翻し、一目散に駆け出していった。歪む世界の中心にそれを捉え、典史は呻いた。
「人間、怪物、人間……俺はどうなってるんだ……」
そのまま典史は力尽き、暗闇の中へと落ちていった。