エピローグ
ドアを開き、スーツ姿の衛士が小さなオフィスに訪れる。そして、一際大きなデスクで書類に目を通す壮年の男性に頭を下げる。
「おはようございます。笹倉さん」
「ああ、おはよう。夕べいい仕事が入ったよ」
笹倉はコーヒーをすすりながら書類を振る。衛士は自分のデスクに座ると、鞄からパンを取り出しながら尋ねる。
「何です? 久しぶりに要人警護ですか」
「いいや。一週間後に後楽園でヒーローショーだ」
衛士はあからさまにうんざりとした表情で溜め息をつく。前回も前々回も仕事は『本当に』日ノ出市を救ったご当地ヒーローという触れ込みでショーを行うことだった。
「ああ……ディフェンダーシステムがデモンストレーションシステムになっている……こんなことなら笹倉さんの口車に乗って警察を辞めるべきじゃなかった。最近昔の同僚にからかわれるんだ。『昨日は格好良かったぜー』ってな」
「そんなこと言って、結構楽しんでるじゃん」
隣の倫香がからかうように言う。衛士は口を尖らせ、顔をしかめる。
「むう……」
倫香は椅子に身を預けると、指を一つ立てる。
「それに、こんないい労働環境無いと思うよ。まず、社内恋愛オーケーなんて、中々の点よ」
「そもそも夫婦一組、カップル一組でスタートだからな」
衛士はぼそぼそと呟く。倫香は懲りずに二本目の指を立てる。
「躾けてあればペットの持ち込みも可能」
「……おい」
衛士は窓辺で寝っ転がっているシェパード姿のミハエルを見つめて低い声で呼ぶ。ミハエルは欠伸をすると、もごもごと答えた。
「いいではないですか。冴子殿がいると、この格好ではいられませんからな」
「全く……オフィスの掃除が大変になるから、今も人間姿で居てもらいたいもんなんだがな」
ミハエルは欠伸をする。要望ならば聞かぬという態度だ。生意気になったものである。しかし、命令する気にもなれず、衛士は顔をしかめたままパンを食みはじめた。
「……こんな大変なときに、奴らは羽根を伸ばしているのか。羨ましい限りだ」
「じゃあ、結婚する? そして私達もハネムーンに行こうよ」
倫香がしなを作りながら尋ねると、衛士は顔を赤らめ、何度も首を振った。
「いいやまだいい。転職したばかりだ。早い」
「ならわがまま言わない。ほら。台本作ったから覚えて」
「ヒーローなんか、普通台詞いらないじゃないか……」
倫香が突き出したプリントをぺらぺらとめくり、衛士は溜め息をつく。今回は舞台が大きなお陰で彼女のやる気もひとしおだ。
「典史め……帰ってきたら絶対にふざけた長さの台詞を言わせてやるんだ」
「分かった。台本書いとくね」
倫香が再びパソコンに向かい始め、衛士が台本を読み込んで頭を抱える。最近は日々繰り返される光景だ。しかし、平和とはすなわち平凡だ。そう考えれば、今日は本当に平和である。笹倉はコーヒーを啜り、光の降り注ぐ町並みを見つめる。
「ああ。いい天気だ」
典史と冴子は砂浜の上に敷いたシートの上に座り、人々が楽しそうに海水浴を楽しんでいる姿を見つめていた。他愛もない話で盛り上がっていた二人だったが、ふと典史が呟く。
「冴子がいてくれて良かったよ。本当に……」
「も、もう。いきなり何さ」
冴子は頬を赤らめ、典史の腕を左肘で小突く。その時、典史は彼女の左腕を取り、そっとそこに残る傷跡をなぞった。
「冴子はもう忘れてるみたいだけど、この傷は、小さかった頃に俺を野良からかばって出来た傷なんだよな」
「あれ? そうだったっけ? ……犬が怖いぐらいしか覚えてないよ」
冴子はさっと左腕を引くと、右手でその傷跡を隠す。典史は微笑むと、波間に浮かぶ小さなヨットを見つめた。
「ま、やった方はけろっと忘れるけど、やられた方は一生覚えてるって奴かな」
典史は冴子の肩を抱いてそっと引き寄せる。
「血まみれの左腕押さえてわんわん泣いてる冴子を見て、俺は絶対に冴子を守らなきゃって、そう思ったんだ。絶対にあんな風には泣かせないってさ」
「そうだったんだ……」
「ま、今じゃもうただの性分になってるけどさ。習い性って怖いよな。泣き虫だった小さい頃の俺が、一年前の俺見たら、何て言うか」
典史は昔を懐かしむように呟く。冴子は一旦離れると、改めて彼の顔を見つめた。
「……改めて言っとくけど、無茶はダメだからね」
典史の鼻先を指差して釘を刺す。典史は肩を竦めて空を見上げた。二羽のカモメが、並んで輝く青空を飛んで行く。
「分かってるって」




