前編
薬の匂いが鼻につく。腹の辺りに重みを感じる。瞼を透かす光が眩しい。意識を取り戻した典史は、息を吸い込みゆっくりと目を開いた。
「……典史ぃ」
首を起こすと、そこには腹の上に突っ伏して寝ている冴子がいた。その顔は安らかで、陽だまりに眠る猫のようだった。典史はその頭を軽く撫でてやる。すると冴子は静かに目を覚ました。
「ん……やっと起きたのね。典史」
「ああ……痛っ!」
起き上がろうとした典史だが、全身に痛みを感じて再び倒れてしまう。布団をかけ直しながら、冴子は諭すように言う。
「まだ動いちゃダメよ。一応命に別状はないけど、まだ傷口が塞がってないし、出血が激しかったせいでかなり消耗してるんだから」
「あの野郎はどうなったんだ」
『野郎』を衛士の事と勘違いした冴子は微笑んでみせる。
「衛士くんは無事よ。多少怪我したみたいだけど」
「衛士のことじゃねえ。あの化け物だよ」
途端に冴子は顔を曇らせた。典史は一気に表情を強張らせ、再び身を起こす。僅かな殺気を感じ取った冴子は、慌てて彼をとりなした。
「大丈夫よ。衛士くんが撃退したから。あなたが倒れてから三日経つけど、また現れたって話は出てないわ。だから、まだ怪我も治ってないんだし、探しに行こうとか考えないで」
「……わかった」
典史は脇腹を貫く痛みに顔をしかめ、ベッドに倒れ込んだ。そんな彼を、冴子は労るような優しい微笑みで見つめる。その顔に軽く戸惑い、彼は思わず冴子の笑顔を凝視した。
「あの……」
「ん? 何?」
「あ、いや……お説教とか、無いんだなあって……このレベルの怪我は銀行強盗に肩撃たれた時以来だと思ったんだけど」
冴子は腕組みをして軽くうなった。そして彼のそばに近寄り、間近で悪戯っぽく微笑んでみせた。その涼やかな目つきからサディスティックな雰囲気を感じ、典史は青くなる。
「そんなにして欲しい?」
「い、いや。無くて済むならねえ方がいいよ。決まってんだろ」
「でしょうね。冗談よ」
冴子は姿勢を戻すと、典史の肩を優しく撫でる。
「私は典史が死んじゃったらどうにかなっちゃうだろうし、傷つくのも見てられない。……でも、今は我慢して、あなたのことを見守るって決めたの」
冴子は立ち上がると、初雪のちらつく外の景色を眺めて話を続ける。
「苦しんで、壊れそうなあなたを見て、そこから立ち直って、誰かを守るために戦うあなたを見て思ったの、今私がすべきなのは、戦うあなたを否定するんじゃなくて、支えてあげることなんだって」
「冴子……」
典史は振り返った冴子を見つめる。光の加減か、冴子のはにかむような笑みが普段よりもさらに可愛らしく見えた。典史が彼女に惹きこまれていると、冴子は小首を傾げる。その仕草は、荒みかけていた典史の心に安らぎを与える。ゆっくりと起き上がると、典史はようやく表情を和らげた。
「ありがとう冴子。お前がいてくれて、お、俺は――」
典史は目を逸らし、若干口ごもりながら何かを言おうとする。しかし、その時病室の外で大きな声が響いてきた。
「無理だって! スーツもアーマーもかなり損傷してるし! すぐになんて直らないよ?」
「だが神原は重傷だ。無理だろうが何だろうが、戦える状態に持って行ってくれ。でなくては次に奴が現れた時に対処できない」
「そこの犬っころがいるじゃん!」
「早乙女! いい加減犬っころと私を呼ぶのはやめろ!」
「確かにミハエルがいる。だがあれはミハエル一人でどうにか出来る相手じゃない。見ただろう、あの異常な治癒力を。ミハエルは俺の大事な家族だ。無下に危険な目には遭わせられない」
「で、でも!」
扉が開き、衛士に倫香、そしてミハエルが入ってくる。典史は不機嫌になる余り、顔を思い切り歪めて吼えた。
「うるせえよ! ここがどこだと思ってんだ!」
「ご、ごめん……」
倫香は口ごもり、そそくさと隅に腰掛ける。衛士は目覚めた典史を見て口端に笑みを浮かべた。
「ようやく目覚めたんだな」
「まあな。お前こそ大丈夫なのか」
「ああ。Dアルファはお前が思ってる以上に頑丈なんでな。プラスチック爆弾の爆風に巻き込まれても全然問題ない」
「そんなことしたのかよ……」
平然と答える衛士に典史は半ば呆れた。衛士は典史の肩を励ますように叩き、力強い笑みを見せる。
「ああ。俺は全然戦える。だから、神原は安心してその体を治すことに集中しろ。今度あの怪物が現れたら、今度こそミハエルと一緒に仕留めて見せる」
「ふん。無茶苦茶言うんじゃねえよ。スーツは今ボロボロで使えないんだろ?」
典史が衛士の態度を鼻で笑うと、衛士は戸惑い、猛禽のように鋭い目を小動物のように丸くしてしまった。
「お前、何故それを知っている」
「知ってるも何も。さっきの会話全部筒抜けだぜ。お前案外天然だな」
「な、なに? 天然だと?」
動揺して言葉を失ってしまった衛士の肩を叩くと、衛士は肩を竦めて溜め息をつき、その肩に優しく手を置いた。
「いいよ。俺の命を助けてくれただけで十分だ。お前が無茶して死んだら悲しむ人はたくさんいるんだぜ? そことかそことか、こことかな」
衛士はぼんやりと周囲を見渡す。向かい合うようにして座っているミハエルも、隅で大人しくしている倫香も、真剣な顔で頷いた。衛士が典史の顔を窺うと、彼はふと真面目な表情になって正面の壁を見つめ始めた。
「それに、あの怪物は俺がけりを付けなきゃならないんだ。……あれの素体は荒俣教授だ。篭手を失くして全てを失くしちまった、哀れな最低野郎だからな」
「荒俣……教授?」
冴子は唖然として呟く。権威的な部分が強い教授であり、それがあの派手な講演会に繋がっていた。だが、ただそれだけの人物であり、百人単位の死傷者を出す殺人鬼になるとは想像できなかった。
「その人がどうして怪物の素体なんかになって、そしてあんなとんでもないことをしたのよ」
典史は歯ぎしりをする。眉間にしわを寄せ、拳を握り締めて、煮えくり返る腸を何とか押さえて吐き捨てた。
「奴は、伝説になりたいんだとよ」
典史の目は、怒りで爛々と輝いていた。
とある山の中、呻きながら怪鳥はあてもなく歩き続けていた。吹き飛んだ腕の傷口を押さえ、怪鳥は唸る。
「おのれ……許せん。許せん……」
切り株に力なく腰を下ろすと、怪鳥は血が滴る左腕を見つめた。すでに治癒は始まっており、吹き飛ばされた時よりも腕が伸びている。だが、一週間たってもまだ肘にさえ届いていない。このままではいつ回復したものかわからない。
「あの男がいなければ! あの男さえいなければ私は!」
傷つきながらも自らに爆弾を植え付け、左腕を吹き飛ばしてみせた男。あの男さえいなければ、自分は再び赤い篭手を取り戻していたはずなのだ。荒俣は悔しさの余り切り株をその爪で切り裂く。
「ぬああっ! おのれホワイト! お前さえいなければ、お前さえいなければぁ!」
その時、いきなり心臓が握り締められたような感覚に襲われる。その場に膝をつき、震えながら荒俣は周囲を見渡す。
「な、何だ?」
「哀れなものだな。人間。復讐心に凝り固まり、己を結局見失うか」
「お前は……」
そこには黒いローブの男が立っていた。暗闇の中、その男の赤く光る目だけがくっきりと浮かび上がっている。それはにやりと笑うと、右腕を持ち上げ荒俣に向ける。
「だが、お前はよくやった。新たなる絶望を際限なくこの地に撒いてみせた。更なる絶望を人間に与えるため、お前に力を授けよう」
ローブの男は右手を開く。途端に怪鳥は目を見開いた。その場に崩れ落ち、息を荒げながら失われた左腕を見つめる。その時、いきなりその傷口が泡立ち、新しい腕が生えてきた。
「お、おお……」
荒俣は感嘆に息を詰まらせながら腕を見つめる。羽毛の一本、爪の一片まで確かに揃っていた。荒俣は慌ててローブの男に平伏す。
「か、感謝致します」
「よい。我が授けし恩はその働きを以って報いるのだ。……その名を世に残したいのであろう?」
「……はいっ! 私は永遠に私という存在を愚かな人間どもに知らしめてみせます!」
「ふふっ……ならば動け」
「直ちに!」
荒俣は歓喜に叫び、より巨大になった翼を広げて飛び上がった。それを見送り、ローブの男はさらに崩れた笑みを浮かべる。
「せいぜい捨て駒となるのだな。……天使の、進化のため」
「うわぁっ!」
典史は突如襲い掛かった苦痛の余り叫んだ。脳裏に浮かぶあまりに壮絶な光景に、典史は蒼白になって呻く。隣でリンゴを剥いていた冴子は、はっとなって典史の顔を覗きこむ。
「ちょっと、大丈夫? 看護師さん呼ぶ?」
「あの野郎が動き出したんだ……また、とんでもないことしてやがる……もう戦場だ……!」
息も絶え絶えに呟くと、典史は苦痛を堪えながら起き上がる。冴子はその姿に目を見張る。スカートをきつく握り締め、冴子は典史に尋ねる。
「どうしても、行くの?」
「当たり前だ。耳で悲鳴が響きまくってるんだ。それなのに見捨てちゃ置けねえ。それに、このけりだけは俺が付けなきゃならないんだよ」
ふらふらと立ち上がり、左手に篭手を嵌めた典史をじっと見つめ、冴子は小さく頷いた。
「……そうね。心配だけど、典史が行くって言うなら、私には止められないよね」
そう言うと、冴子は大きなカバンから彼のコートを取り出し、そっと彼に差し出した。
「絶対帰ってきてね。それだけ守ってくれれば、私は何も言わない」
「任せろ。絶対帰る」
典史は患者服の上からコートを羽織ると、右手を天に突き上げた。その手に光が集まり、一枚のプレートを形作る。典史は闘う天使の姿を見つめ、篭手に嵌め込んだ。
レグナに変身した典史は、冴子と頷き合うと、力を振り絞って窓から飛び出し、翼を広げて飛び出した。




