前編
「こっちこっち! 早く来なさいよ!」
ごった返す人混みの中、眼鏡をかけた若い女が遠くで周囲をきょろきょろと見回している男に向かって手を振った。彼はその姿に気づくと、慌てて駆け寄って来た。
「冴子! ごめんごめん!」
男――神原典史は苦笑いしながら女――冬木冴子にその頭を下げる。冴子は口を尖らせ、その頭に軽く拳骨を食らわせた。
「ごめんじゃない。十分も遅刻して……」
「道に迷ってたおばあさんを助けてたら遅くなったんだよ。頼むから勘弁してくれよ」
典史は手を合わせ、さらに深く頭を下げた。スーツ越しにもわかる引き締まった体格、男らしく引き締まった顔立ちの彼だが、これでは台無しである。冴子は溜め息をつき、その顔を上げさせた。
「これが典史じゃないなら、嘘だ! ってとこだけど。あなたのことだから本当の事なんでしょ」
「そりゃもちろん。嘘なんかつくかよ」
「全く……分かった分かった。許してあげる。別に危ない橋を渡ったわけでもないし」
冴子はその生真面目な仏頂面をようやく緩め、典史に向かって小さく微笑んだ。典史は再びばつの悪そうな顔をする。
「まあな。あはは……」
「ほら、笑ってないで。さっさと中に入るよ」
冴子に手招きされ、典史はその後に従って歩き出す。十河コンベンションセンター。二人の前に立つ大きなこの会場が、全ての始まりの地であった。
大ホールに入ると、最早席はほとんど埋まっていた。ようやく並んで座れたのは、二階自由席の隅だった。当然ステージの様子はよく見えず、冴子は残念がった。
「もう……典史が遅くなるから」
「さっき許してくれるって言ったろ。ほら、双眼鏡貸すから」
典史が小さな双眼鏡を冴子に手渡すと、彼女はようやく機嫌を直す。
「ふうん。準備はいいのね。どれどれ……」
その時、一気にホールの照明が落ち、人々はステージに注目した。その中央へ、白髪交じりの初老の男性が上ってくる。今日の主役となる、考古学者の荒俣教授だ。典史はその誇らしげな表情を見て、小さく唸る。
「うーん。随分張り切ってるな。これはとんでもない掘り出し物が出て来たか」
「でしょう。じゃなきゃ一般人まで呼び込んでこんなことしないって」
「ま、お陰で笹倉教授のお手伝いができるわけだけどな」
典史は荒俣教授の長い前置きを適当に聞き流しながら呟く。冴子は双眼鏡を膝に置き、僅かな照明を頼りにパンフレットをめくる。
「それにしても、X線に当てたら岩石が変成して装飾品になったって話、本当なのかね」
「まあな。眉唾な話だけどよ……そこで嘘をついてどうする、っていう考え方もできるぜ。そもそも今回の遺跡が遺跡だし。何が起きても不思議じゃないさ」
典史は冴子の開いたページを横から覗き込む。そこには、今回の装飾品が見つかったとされる現場の写真が載せられていた。そこはドイツのシュヴァルツヴァルト。その日までただただ鬱蒼と広がる暗い森の奥に、ある日突然廃墟となった城が現れたというのだ。
荒俣教授は自分の苦節を話していた。ヨーロッパの研究チームと協力し、未知の事態を警戒しながら共に調査を行ったこと。その中で大量の骸骨やミイラを見る恐怖、そして、崩れに崩れた大広間らしき空間で見つけた筒状の岩石。自分はインスピレーションを感じるも、向こうからは全く受け入れられなかった悔しさ。しかし、それ故に今回の発見に至ったということ。
そして彼は息を深く吸い込み、ステージの袖を指した。
「そう! これが今回発見した装飾品です!」
助手と思しき人物が、ガラスケースの載った台を押してくる。その中には、遠目にも鮮やかな真紅の物体があった。冴子は双眼鏡を構え、その物体をじっと見つめる。
「うーん。あれは鎧の腕の部分?」
「ちょっと貸してくれよ」
典史は冴子から半ば強引に双眼鏡を取り返し、自分でもステージ上にある真紅の装飾品を見つめた。彼女の言う通り、そこにあったのは西洋甲冑の篭手の部分だった。
「へえ……」
「申し上げた通り、この装飾品は我々が発見した岩石をX線解析する際に変質してこの形となりました。しかし、この装飾品の不可思議な要素はこれだけには留まらないのです。まず一つ、この装飾品は見た通り金属で出来ているのですが、調査したところ、これは現在我々が知っているどの物質とも符合しない。そう、この金属は我々の与り知らぬ存在なのです」
荒俣教授の自信に満ち溢れた言葉を聞き、典史は眉間にしわを寄せた。
「なるほど。これは笹倉教授が見て来いって言ったのも頷けるな。……未知の金属か。自信たっぷりに言いやがって……」
「笹倉教授、きっと意地になって自分で再現しようとするわね。オリハルコン合金が完成した途端にこれじゃ」
彼らは笹倉教授の下、助手として働いていた。彼は合金研究に秀でており、つい二ヶ月ほど前に高い強度と耐熱性をもったオリハルコン合金を作り出したばかりだった。それが、同じ金属の分野で未知の物質がぽっと出てきたとあっては、彼も気に入らない思いをしたに違いなかった。
「また実験に次ぐ実験か……オリハルコン合金の実用化研究もあるし、どうなるかなぁ。この先……」
典史がうんざりしたように呟いたその時、ふとホールの外が騒がしいことに気がついた。ちらりと入り口の方に目を向けた時、いきなりその扉が開き、外から人が飛び込んできた。
「皆さん逃げて下さい!」
会場を包んでいたざわつく空気を吹き飛び、人々は沈黙して飛び込んできたスーツ姿の男を見つめる。荒俣教授は呆気にとられ、彼に向かって尋ねる。
「逃げてとは一体……」
答えを聞くまでも無かった。その男の背後を、得体のしれない何かが襲ったのだ。彼はその何かの腕に生えた爪で肩を切り裂かれ、鮮血を噴き出しながらその場に崩れ落ちた。
途端にホールで悲鳴が爆発した。人々は競うようにして二階の非常口を目指す。あちこちで人々がもつれ合って転び、そこへイナゴの様な頭や外骨格をもった怪人が襲い掛かる。ガードマンが飛び込み、刺叉で抑え込もうとするが、そんなものは全く通用しなかった。
「うわぁ!」
刺叉を跳ねのけられ、ガードマンは怪物の拳で殴られ、床に叩きつけられてしまった。ガードマンを追い払ったイナゴは、ステージの上で腰を抜かしている荒俣教授に目をつけた。その醜悪な顎を開き、怪しく首を傾げながらイナゴは教授へ近づいていく。
「ひい……」
典史は逃げ出そうとする人の後ろにつきながら、蒼白な顔でその光景を見た。そして、一人逃げ出すその足を止める。
「ちょっと! 何してるの!」
冴子がそれに気づき、慌てて引き返してきた。典史の腕を彼女は引っ張るが、彼は梃子でも動きそうにない調子である。
典史は正義感の強い男だった。無論彼は怖かった。目の前で人が切りつけられ、血が飛ぶのを見ては当然である。しかし、彼の正義感はその恐怖に勝った。
「冴子! お前は逃げてろ!」
「え、典史? ちょっと!」
彼は冴子を逃げ出す列に向かって押し出すと、座席を乗り越えながらステージに向かって飛び出した。階段を駆け下りると、典史は全力で飛び上がってイナゴの頭に飛び蹴りをかます。いくら得体の知れない怪物でもこれは効く。それは頭を床に強く打ち付け、軽く呻いた。典史はそれを見下ろし、呆然としている教授へ駆け寄った。
「大丈夫か?」
「あ、あ、ああ……」
「なら早く逃げろ!」
典史は荒俣教授を引っ張り立たせると、その背中をステージの外へ向かって押し出した。そこへ、首を捻って鳴らしながら、怪物がのそりと立ち上がる。改めて見てもグロテスクな外見だ。典史は冷や汗が背を伝うのを感じた。まだ人々は出口で喚きながら押し合い圧し合いしている。時間を稼ぐに越したことは無かった。典史は拳を固め、きっと怪物を睨みつけた。
「来るなら来いよ!」
怪物が襲いかかってきた。その鋭い爪で典史を引っ掻きにかかる。典史はそれを屈んでかわし、脇を抱え上げて床に投げつけた。彼は義憤に駆られれば強盗だろうと構わず突っ込んでいく男で、その為に彼はかなり自らを鍛えていたのである。
しかし、怪物相手に生身の人間が敵うわけもない。何ら傷を受けた様子もなく立ち上がると、怪物は再び襲いかかってきた。典史はそれをかわしてその腹に拳を叩き込むが、その鋼鉄の様な硬さに典史は呻いた。
「いってえ……」
思わず飛び退いて右手を見れば、うっすらと血が滲んでいた。
「くそっ」
典史ははっと顔を上げ、怪物の爪をかわす。しかし、さらに襲った怪物の拳を典史は避けきれず、その腹にまともに受けてしまった。
「ぐあっ」
典史はもんどり打ってステージ上に倒れる。何とか身を起こすが、腹筋をやられた衝撃で身体に力がこもらない。怪物はそんな典史を見下ろし、腕の爪を顎の刃で研ぎながら近づいてくる。
「典史!」
悲鳴のような叫びを上げ、冴子がステージに上がってきた。そして腕を引いた怪物の前に立ちはだかろうとする。典史の目に、血を流して倒れる男が映る。彼は息を呑み、無我夢中で冴子を押しのけた。
「よせっ!」
その時である。ガラスケースの中に放置されていた紅い篭手が、いきなり真紅の光となってそこから消え、典史の左腕に装着されて怪物の爪を受け止めた。
「何だ?」
典史は反射的に怪物を押しのけ、篭手を見つめる。それは鮮血のように怪しく輝き、その上を金色の筋が幾何学的な模様を描きながら走っている。そして手甲の背には、長方形の黒い凹みがあった。それを見た途端、彼の脳裏に、稲妻のようにあるイメージが浮かび上がる。
典史は目を見開き、襲いかかる怪物を見据える。そして、流れこむイメージのままに、彼は右手を天に向かって突き上げた。その瞬間、彼を球状の光が包み込み、怪物を吹き飛ばす。その光は彼の右手に集まり、一枚の純白のプレートとなった。
「これは……」
プレートには、少女と天に立って向かい合う天使の姿が描かれていた。その大きさは、彼の左手にはまった篭手の黒い凹みと全く同じ大きさである。
「そうか、そういうことか……!」
運命に選ばれた青年は、何をすべきか悟り、そのプレートを篭手に嵌め込んだ。途端に彼の身体は再び光に包まれた。その中で彼は変身する。筋肉は盛り上がって黒く硬い皮膚に覆われ、服は純白の鎧、兜と変わって彼の身を固める。そして、背には白いマントが翻った。
「レ……グ、ナ……」
こうして変身した典史を目の当たりにし、怪物は低く、唸るような声で呟いた。典史は自分の変身した姿を見渡し、怪物を兜の隙から覗く真紅の目で見つめた。
「レグナ。それが名前か……」
「典史……?」
冴子は目を見開き、茫然自失のまま呟いた。今まで危ない橋を渡り歩いてきた親友が、ついに人ではない何かに変身してしまった。冴子は頭の中が真っ白になってしまい、ただただ怪物へ立ち向かっていく彼の姿を見つめるしか無かった。
「食らえ! 今傷つけられた人の分も、たっぷり仕返してやるよ!」
典史は拳を握り締め、目にも留まらぬ速さで怪物の顔めがけて振り抜いた。怪物は真正面からまともに受けて吹き飛び、人の居なくなった会場の中に叩き込まれる。
「ガ……グ……」
顔の半分が潰れ、体液をぼたぼた垂らしながら怪物は神々しさすら漂わせて立つレグナの姿を見つめた。彼は飛び上がると、怪物に向かって飛び蹴りを見舞う。怪物は身を捻ってかわす。典史は座席に突っ込み、幾つかを派手に壊した。
「このっ!」
典史は咄嗟に裏拳を怪物の腹に見舞う。怪物は体液を吐き散らし、呻きながら後退りした。典史は立ち上がると、腰に差さっている剣を一瞥した。彼は柄を握り締め、迷うこと無く引き抜いた。その刃もまた、レグナの鎧と同じく純白に煌めいている。その光を見た途端、怪物は肝を潰して逃げ出した。
「おい! 待て!」
典史は叫んで追いかけるが、怪物は近くの窓に向かって飛び上がり、それを突き破ってそのまま遁走してしまった。
「くそっ。……あのイナゴ、次にあったら佃煮にでもしてやる」
典史はイナゴに向かって悪態をつくと、溜め息をついて剣を鞘に収め、プレートを左腕の篭手から抜き取った。途端に彼から光が発散し、彼は元の典史に戻る。そして、篭手はプレートごと赤い光となって消えてしまった。
「……結局何だったんだ、あれは……」
典史が言葉を失っていると、ステージの方から鋭い足音が響いた。ハッとして振り向けば、そこには元々ツリ目気味の目をさらに吊り上がらせている冴子がいた。
「典史!」
「はひっ」
その剣幕に、先程のヒーロー然とした態度はどこへやら、情けない声を上げて仰け反ってしまった。冴子はそんな典史へ詰め寄ると、人差し指を立てて典史の喉元に突きつけた。
「典史! あんたねえ、いきなりあんなわけのわからない生き物に飛びかかっていく人がいる? 危うく大怪我するところだったじゃない!」
「……人の事言えた義理かよ。お前だって俺の前に飛び出してきた癖に」
縮こまりながら典史が言うと、冴子は腕組みしてさらにきつく睨みつけた。華奢な体格から発せられるその威圧感に押され、典史はさらに萎縮してしまう。
「す、すいません……」
「そうよ。あなたがまずあんな事しなきゃ私だって怪物の前に飛び出したりすることも無かったし……」
冴子が鼻を鳴らして言うと、典史は俯いたままでちらちら官女の表情を窺いながら呟く。
「でもよ、あのままじゃ荒俣教授危なかったぜ」
「確かにあなたの言う通りね。けどねえ、だからって友達が危ないことしでかすのを怒らない友達がありますか? いないでしょ?」
「は、はい。……いかにも……」
いつもこうだった。典史が義心に駆られて立ち上がった後、決まってそれを窘めるのが冴子だった。時にはくどくど時にはガミガミ叱りつけるのだ。彼女の言い分ももっともなので、典史はなるべく刺激せず、適当に彼女の説教に付き合っていた。
こうしてしばらく時間が経った時、微かに物音がした。典史が慌てて振り向くと、最初に肩を切られた人が僅かに身動きをしていた。二人は顔を見合わせると、慌てて怪我人の方へ駆け寄っていった。