後編
獣が現れたという報告もなく、平和に昼を迎えた衛士は、大学の食堂で昼食を取ることにしていた。制服姿で構内をウロウロするわけにはいかず、今はスーツ姿である。
そばを目の前に置き、衛士はため息をつく。普段ならば有事に備えてしっかりと食事を取るところだが、どうにもそういう気にはなれなかった。割り箸を取り、ろくに具も入っていないそばをすする。一口食べただけで胸焼けしてしまい、衛士は箸を置いてしまった。
「どうしたんですか?」
いきなり柔らかい口調で声をかけられ、衛士はおもむろに顔を上げると、整った顔立ちの女性と目が合う。彼女は衛士に微笑みかけてきた。
「む、冬木冴子、だったか?」
「ええ。……それにしても、どうしてあなたがここにいるんです?」
冴子が首を傾げると、衛士は肩を竦めて目を逸らした。
「安いからな。たまに使わせてもらっている。一般の人間もいるんだ。誰も疑いはしない」
「なるほど……そこ、座ってもいいですか?」
「構わん」
「じゃあ失礼します」
冴子は盛りそばの乗ったトレーを彼の前に置き、そっと腰掛けた。冴子は割り箸を取り、皿に乗ったわさびを麺つゆに溶く。そしていざ食べようとしたが、衛士の視線が気になり手を止めた。彼は自分の食事にはほとんど手を付けず、ほとんど呆然として冴子の手元を見つめているのだ。冴子は再び優しく微笑み、箸を静かに置いて尋ねた。
「どうかなされたんですか?」
衛士は冴子の言葉に反応する素振りを見せたが、すぐに俯いてしまった。冴子は首を傾げたが、やがて彼のある言葉を思い出し、彼女はおずおずと話しかけた。
「もしかして、飼い犬を亡くして落ち込んでいるんですか」
今度こそ衛士は顔を上げた。普段の険しい顔はやつれ、すっかり弱々しく見えた。彼は捨鉢な笑みを浮かべ、目を冴子から逸らす。
「……情けないな。大の男が犬一匹亡くした程度で。だが……ガキの頃から一緒に遊んできた家族なんだ。ついでに奴は嘱託警察犬で……俺が警察を目指したのは、奴がいたからだった。……何故、俺が帰る前に死ぬ……」
衛士の頬を涙が伝う。気づいた彼は何とかそれを拭い、震える声で笑った。
「……すまない。お前犬嫌いだったな。全く、お前に話してどうするのか」
冴子は静かに首を振った。
「いえ。私も猫を亡くして、一週間くらい部屋に閉じこもったことありますし、良くわかりますよその気持ち。……武藤さん、いっつも怖い顔してますけど、本当は優しい方なんですね」
「……フン」
衛士はちらりと冴子の方を見た。目つきや顔立ちは涼しげだが、その目は温かな光に満ちていた。
「……話して少し楽になった。礼を言う」
「いえいえ。典史のこと、よろしくお願いします。あれ、いつも無茶ばっかりするんで……道路に飛び出した子どもを救い出したり、不良を捻り上げたり、何したりかにしたり……もう見てるこっちの寿命が縮みそうで」
冴子は唇を噛みしめ、肩を竦めながらとうとうと訴える。衛士は腕組みをしながらその話を聞いていたが、ふとにやりと笑って冴子の目を覗き込んだ。
「心配している割には、ちょっと熱っぽく話してるな」
「あ、え、それは……」
冴子は思わず赤面して俯いた。衛士がその様子を見て彼女を鼻で笑う。彼女はますます赤くなり、手をばたばたと動かした。
「だ、だって……格好はいいですから。昔から……」
「あんた、案外可愛いんだな」
「な、なな何を言うんですかいきなり!」
さらに動揺する冴子を見て、衛士は一頻り笑った。
「安心しろ。彼氏持ちを口説くつもりは無いさ」
「彼氏だなんて! 典史はただの友達ですよ。一応」
「ふむ……いつも一緒にいるものだから勘違いしていた」
「全然、そんなんじゃありませんよ……」
「そうか。そいつは悪かったな」
衛士は苦笑すると、再び箸を取ってそばをすすり始める。ただ、そんな心の奥には引っかかっていることがあった。獣が荒らしたドッグフードは、常に彼の飼い犬へ与えていたものだった。ソーセージは、時たまに与えるご馳走だった。そう思うと、一瞬見たその焦げ茶色の体毛も、彼の面影と等しく見えた。
(そんなわけはない。そんなわけはないんだ……奴はただの獣だ。駆除すべき獣だ。迷うな。迷うな、迷うな……)
街中の大きな公園では、四体もの怪物が暴れていた。イナゴのような姿の怪物が二体、ザリガニに似た姿の怪物が二体である。イナゴもザリガニも、その硬い身体で象にすら致命傷を与えるはずの銃弾をものともせず、隊員をその顎で、その鋏で切り裂く。たまらず彼らはバリケードの裏で守勢に入った。
「一斉に撃て! 牽制しろ!」
彼らはライフル銃を一斉に四体の怪物へ向かって放つ。イナゴはその衝撃を受け後方へ吹き飛んだ。しかし、それよりも硬い身体を持つザリガニには通用しない。ザリガニはギロチンのように鋭い刃を鳴らし、隊員へと飛びかかり、バリケードをその鋏で砕いた。
「ヴヴ……」
「うう……」
隊員は震える。ライフルが今やただの棒っ切れに見えた。イナゴが跳び上がり、まさに隊員へと飛びかかろうとする。だがその時、そのイナゴの肩を鋭く飛ぶ白刃が貫いた。叫んだイナゴに向かって、さらに白い光が襲い掛かる。
「うおおっ!」
地面に叩きつけた黒いイナゴに、その青白く光る拳打を浴びせようとする。しかし、そこへ茶色のイナゴが襲いかかって彼を突き飛ばす。さらにそこへ二体のザリガニが襲い掛かる。典史は慌てて飛び上がり、二体の鋏をかわした。
「これが『ホワイト』……」
機動隊の男達はすっかりレグナの姿に目を奪われ、棒立ちになって固まってしまった。その間を縫って、一台の白いバイクが突っ込む。
「神原、邪魔だ!」
バズーカを構え、衛士が叫ぶ。典史は一瞥し、慌てて組み合っていたザリガニから離れる。砲弾が炸裂し、ザリガニを吹き飛ばした。ザリガニは地面に倒れ転がるが、その殻には全く傷など付いていなかった。さしもの衛士も驚き目を見開く。耳元に笹倉の声が響いた。
『ザリガニっぽいのは後にした方がいい! まずはイナゴを狙うんだ!』
「了解した! 神原!」
「言わんとすることはわかるさ!」
典史は吼えると、噴水の中に飛び込んだ。その中で典史は青く輝く鎧を纏い、イナゴへと疾駆した。懐深くへ潜り込み、その顎を撃ち抜く。激流がその手の先から飛び出し、怪物を空高くへと吹き飛ばす。そこへ三体の怪物が迫る。衛士が割り込みイナゴの拳と一体のザリガニの腕を押さえこむが、もう一体の刃に襲われた。その腕を典史が発した水流が押し戻す。
「助かった、武藤」
「……お互い様だ」
二人は肩を寄せ、四体の怪物をそれぞれ見比べる。
「どうにもキツイなあ、これは」
「……やはりザリガニを何とかするしかない……」
その時、いきなり遠くで銃声が鳴り響いた。思わずそちらに目をやると、四足で猛然と走る焦げ茶の獣に向かって、機動隊達がライフルをこれでもかと撃ちかけているところだった。そのうちの一発が獣の足元を捉え、獣は悲鳴を上げて転んだ。その鳴き声を耳にした途端、衛士は思わず息を呑んだ。そこへ四体の怪物が飛びかかる。
「こいつら!」
典史が叫び、水の壁で怪物達を押し返す。そして、呆然となっている衛士を睨みつけた。
「行け!」
「何?」
「迷うな! お前がそう言ったんだろうがよ! 冴子から犬の話は聞いた。俺もバカじゃないからちょっとは分かる……あいつに何かを感じるんだろ? なら迷わず行け!」
「……す、すまない……」
衛士は怪物を押し留める典史を目に焼き付け、獣に向かって駆け出した。
「ミハエル! お前なのか!」
低い銃声をかき消すように、衛士は悲痛な声で叫んだ。そして、なんと、獣はその血走った目を衛士に向けたのだ。
「そんな……どうして!」
その時、傍目に見ても口径が大きいライフルを機動隊の一人が獣に向けた。衛士ははっとなり、射線に向かってその体を突っ込んだ。
「ダメだ!」
ライフルの弾が衛士のプロテクターを捉える。激しい音と共に、弾はプロテクターにめり込み、さらに衛士の胸を軽く刺した。
「ぐ……」
『何をしているんだ! 武藤君!』
笹倉の叱咤に小さく首を振り、衛士は掠れた声で彼をじっと見つめる獣に訴えた。
「駄目だ……ミハエル。どうしてそうなったのかは知らない。でも、お前は俺の家族だ。お前がどんなになっても!」
その時、獣は目を見開いた。目から血が引いていき、澄んだ黒い瞳が顕になる。同時に筋肉が引き締まり、毛並みが整っていった。すくと立ち上がると、振り返った衛士に向かって敬礼した。
「衛士殿」
「ミ、ミハエル?」
衛士は掠れた声で尋ねる。獣は、否、ミハエルは頷き、歯を剥き出して笑みを見せた。
「いかにも、その通りです。衛士殿に死する姿を見せられなんだことを悔いに悔い抜き、こうして黄泉より帰った次第に御座います」
「……はぁ?」
「な、何がどうなってんだよ!」
青の転身が解け、何とか飛び回って怪物たちを牽制している典史が獣と衛士を見て叫んだ。衛士はその姿を見て、ようやく我に返った。
「ミハエル。本当にお前なんだな」
「犬は嘘などつかないです。衛士殿」
「なら手を貸してくれ。警察犬の意地を、改めて見せてくれ!」
「了解!」
ミハエルは低く唸ると、ザリガニを睨みつけて飛び出した。ザリガニの殻の縁を掴むと、ミハエルは叫んだ。
「衛士殿の敵は、我が敵である!」
叫ぶと同時にミハエルはザリガニの殻を全力で引っ張った。ザリガニは甲高い声で悲鳴を上げる。殻は強引に引き剥がされ、地面に投げ捨てられた。そこからは体液がにじむ。ミハエルはそこへ向かって鋭い爪を突き立てた。そして肉を引きちぎり、骨をもぎ取り、その臓物に深々と手をねじ込み、ザリガニに埋まったプレートをもぎ取った。
「ギャアァ!」
プレートを奪われたザリガニは砂と化し、一気に崩れ落ちた。ミハエルはザリガニの体液でベトベトになっていた。その姿を見て、典史は思わず兜の顎当てを押さえてしまう。
「おおう……恐ろしいことするぜ……」
言いつつ、典史は黒のイナゴの傷口を掴んで地面に突き倒し、白く光る拳をイナゴの腹に叩き込んだ。イナゴは体液を吐き散らし、全身を白く光らせた。
「レグナ……!」
典史は飛び上がり、イナゴは激しく爆発した。その有り様を見て、典史は自嘲気味に呟く。
「まあ、俺も似たようなもんか……」
一方、愛犬の予期せぬ復活に激しく昂揚した衛士は、茶のイナゴを圧倒していた。ナイフでイナゴを切り裂き、その胸に止めの信管を突き立てる。
「災難だったな、お前は」
「ヴゥッ!」
ピンを引き抜き、衛士はイナゴを蹴り飛ばした。途端にイナゴの胸は吹き飛び、プレートを失ったイナゴはその姿を砂と変える。その背後で、ミハエルは二体目のザリガニを狩っていた。
「衛士殿の敵は! 私が成敗!」
「ギィイ!」
ミハエルは同じく殻をひっぺがしてその胸からプレートを奪い取る。ザリガニは倒れ、これもまた砂と化した。プレートを握り締め、ミハエルは静かに呟いた。
「私は、衛士殿と共に……」
あっという間に片付いてしまった怪物たちの跡を見つめ、典史は戸惑いの眼差しを澄んだ眼の獣に向ける。
「……結局何が起きてるんだ?」
「事実とは小説よりも奇なり。そういうものだ」
「どうして犬がそんな言葉を知ってるんだよ」
典史は全く参ってしまった調子でうなだれる。一方、衛士はヘルメットを外し、潤んだ目で、変わり果てたかつての愛犬を見つめた。
「いい。何であれ、お前が戻ってきてくれたなら……」
「『ホワイト』! 武藤!」
遠くから太い声が響いた。見れば、機動隊が拡声機で二人に向かって話しかけてきていた。相変わらず、ライフルはミハエルに向けたままである。ミハエルは思わず両手を挙げた。
「その未確認生物は安全と見ていいのか!」
「折り紙つきです。これは僕達、未確認生物対策係の管理としたいのですが、それでよろしいですか?」
機動隊員達は一瞬顔を見合わせる。その奥から、彼らを取りまとめる上司がやってきた。彼は部下から拡声機を受け取ると、以前の部下に向かって頷く。
「了解した。笹倉教授に一任しよう」
その様子をビルの屋上から見つめていたローブの男は、目を剥いてその黒い拳を柵に打ちつけた。
「こんな……こんな馬鹿なことが……犬畜生がぁ!」
息を荒らげ、男はふらつきながら強張った笑みを浮かべた。
「まあいい……飼い慣らされた犬はもう使うまい……他にも我が手先はいる……」
男は典史達にブルーシートを被せられて歩き出した獣から血走った目を逸らさぬまま、低く笑い始めた。しだいにその声は高くなり、しまいには天を仰ぎ、狂ったような高笑いを続けていた。
「おおぅ……怪物だ……」
笹倉の地下研究所にてブルーシートが剥がされ、中から焦げ茶の毛皮に覆われた獣が現れる。衛士の報告で敵意は無いと知っていても、やはり近くでみると迫力がある。冴子はその獣然とした見た目に気圧され、僅かに青くなった。その様子を見て、ミハエルは澄んだ目で彼女を見つめる。
「やはり私の姿は恐ろしいか」
「は、はい……迫力が、あって……」
「ふむ。ならば愛嬌ある姿になろう」
ミハエルは一人呟いて頷き、腕を組んで目を閉じた。途端に彼の身体は光りだし、みるみるうちに縮み、変形する。そしてミハエルは、若々しいシェパードの姿へと身を変えたのだ。
「ひいぃっ! イヌぅっ!」
冴子は甲高い悲鳴を上げ、血の気を失って腰を抜かした。ミハエルは全く訳が分からず首を傾げた。
「何故だ。女よ、かの姿よりこの姿の方に何故怯える。衛士殿は『かわいい』『格好いい』などと言ってくれたものだが」
「あー、いや、ふむ……」
衛士は困った顔で頭を掻く。
「ミハエル、彼女はその姿が大嫌いだ」
「何と!」
冴子は涙を浮かべて左袖をめくり、犬に向かって突きつける。彼女の左腕には、引きつれたような跡が残っていた。
「これ! あんたくらいのにやられたのよ! 十何針も縫うことになって……感染症にでもかかったら切断してたかもしれないのよ! 怖くもなるに決まってるでしょ!」
「いや、それを私に言われても……私は命令がない限り噛まないよう訓練されている。心配するな」
「ううむぅ……」
話の噛み合わない一人と一匹の有り様に、典史は腕組みをして溜め息をついた。
「武藤、何とかならないのか。このままやっていくのは冴子の精神衛生上良くないぞ」
「わかった。こいつと散歩しながら考える」
一旦言葉を切ると、衛士は僅かに目を逸らしつつ、呟くように付け足した。
「……神原、今日の件は感謝する。お前の言葉で、あの時吹っ切ることができた。お前に散々なことを言っておいて、情けない」
静かに頭を下げた衛士に、典史は目を丸くする。やがて顔を綻ばせると、典史は頷いた。
「いいさ。躓いた時はお互い様だ」
「……ありがとう」
二人が微かに笑いあったのを見て、笹倉も安堵の溜め息を漏らす。しかし、そこへすかさず冴子の悲鳴が二人の間へ割り込んだ。
「ねえちょっと! こいつを何とかしてよぉっ!」
見れば、ミハエルが冴子に向かって前足を差し出していた。どうやら握手代わりにお手でもしたいらしい。しかし彼女は恐怖で右手を差し出せず、青くなって機材に引っ付いていた。
「分かり合うためにはまず歩み寄らなければならん。衛士殿と神原殿のようにな。だから、私の手を取ってくれ」
「無理! 絶対に無理よ!」
衛士と典史は互いに目配せし、思わず苦笑してしまった。




