後編
典史は肌寒い夜の街をとぼとぼと歩いていた。しとしとと降り注ぐ雨が彼の肩を濡らす。その目は虚ろで、何も映していないようにさえ見えた。
彼に様々なネオンの光が降り注ぐ。その眩しさに彼は足を止め、思わず空を見上げた。歓楽街の人工的な光すら、彼には眩しすぎるように感じた。
突っ立っていた彼の肩に誰かがぶつかる。典史はよろめいて倒れてしまった。のろのろと振り向くと、そこにはいかにも柄の悪そうな青年が三人立っていた。忌々しげな目で彼らは典史の事を見つめていたが、やがて金髪の男が叫びだす。
「あ、あん時の!」
「え……?」
典史は呆然と問い返す。身構えていた三人だったが、『あの時』とは勝手が違う彼の様子に気づき、にやにやと笑い始めた。太った男が典史の襟を掴んで引きずり立たせる。
「ちょうどいいや、あの時の礼をしてやる」
そう言うと、三人は典史をそのまま路地の中に引きずり込んだ。そのまま太った男はビルの壁に典史を叩きつける。彼は抵抗もせず地面に倒れた。
「あの時は良くもやってくれたなあ!」
典史を引っぱり起こすと、茶髪の男が醜悪な笑みを浮かべてその鳩尾に蹴りを入れる。典史は息を詰まらせてうずくまった。その背中を金髪が蹴りつける。からからと笑いながら、典史を踏みつけ、殴り、蹴る。額を切って血を流している典史を再び壁に叩きつけ、三人は典史を見下ろし詰め寄る。
「俺達の痛みはこんなもんじゃねーぞ。女逃したってダチには舐められるしなぁ……全部てめえのせいだぜ、おら」
顔面を狙った蹴りを典史は腕で受け止める。そして、三人をぼんやりと見つめる。
「……暴力振るって、楽しいか」
「お前になら楽しいに決まってんだろ! 避けてんじゃねえよ!」
二人が典史の腕を抱えると、太った男が再び典史の顔面めがけて蹴りを放つ。典史の額に当たり、出血が酷くなる。彼の顔は血で汚れていく。その顔を覗き込み、男はねっとりと呟いた。
「『復讐は蜜の味』って言うらしいじゃねえか……最高の気分だよ。お前を殴ってるとな」
「そうか……」
「典史!」
掠れた声で典史が呟いた時、路地の外で甲高い声が響いた。見れば、冴子が目を見開きこちらへ駆けてくる。
「彼を放して!」
冴子は叫び、太った男にかち上げるような当て身を食らわす。華奢な女性のものとは思えぬその重みに、思わず男は仰け反る。そして、呆気にとられた金髪の男に肘鉄を食らわせ、茶髪の顔面を殴りつけた。不意を突かれた二人は思わず典史を放してしまう。その隙に、冴子は崩れ落ちかけた典史を引っ張り逃げ出そうとする。しかし、そんな彼女の背に男の手が迫った。
「うっ」
彼女の襟を掴み、太った男が引き寄せる。冴子は息を詰まらせた。そして、脱力した彼女は羽交い締めにされる。冴子はもがくが、体力勝負になっては敵わない。
「放せ!」
「やってくれたな、この女!」
金髪の男が冴子の鳩尾に拳を入れる。冴子は悲痛な声で呻く。茶髪の男はその頬を殴り、地面に倒れた彼女を大男が踏みつける。為す術もなく嬲られる冴子を見て、典史は悲鳴を上げた。
「やめろ! やめてくれ!」
「やめる? 喧嘩売ってきたのはこの女じゃねえか。だから買ってやってるだけだっつうの」
太った男に踏みつけられ、冴子は息が出来ず口をぱくぱくさせる。そんな彼女の髪を掴んで引っ張りあげ、金髪が下卑た笑みを浮かべる。
「なんだ。こいつ結構可愛いぜ」
「何?」
男は踏みつけるのを止め、彼女の脇を掴んで引っ張り起こす。水溜りに押し付けられずぶ濡れになった彼女は、身体の線がはっきりと浮き出ていた。そして弱々しく喘ぐその姿に、三人は興奮する。
「ちょっと胸が小せえが、まあこんな女もいいよな」
「じゃあ、ちょっと場所を変えるか……」
「やめて……」
冴子が蚊の鳴くような声で呟くが、金髪の男が再び下腹部に一撃を加えて黙らせた。
「うるせえ。俺を殴った分は、その体で返してもらうぜ」
「うう……」
冴子は唇を噛んで涙ぐむ。しかし、お陰で典史への注目は完全に逸れている。これで典史が助かるのなら。そう彼女は言い聞かせ、これからのため、典史への思いを抱いて心を閉ざそうとした。
「おら、歩けよ」
冴子が大男に背中を押され、おぼつかない一歩を踏み出そうとしたその時、背後でいきなり悲鳴が響いた。
「このド外道がぁっ!」
振り返った大男の左顎に鋭い拳が炸裂する。男はビルの壁に全身をぶつけた。茶髪の男は典史の顔を見て思わず後退りした。有り得ない方向に曲がった肘を押さえて呻く金髪の男。片顎が割れて物も言えない大男。その二人を赤く光る目で見下す青年。血みどろになった化け物のような形相に、茶髪は腰を抜かして失禁した。
「思い出した。女子高生を引きずってたあん時の奴らか。懲りてねえならいっぺん死ぬか!」
「はは……ははははは……」
茶髪は震えながら力無く笑う。そんな彼を起き上がった大男と金髪の男が引き上げ、怪我人とは思えない速度で逃げ出した。典史はその姿を殺気立った目で見据えていたが、三人が見えなくなると、彼はその場に崩れ落ちてしまった。
「ああ、まただ。俺はまた……」
震える右手を見つめ、典史は呟く。蒼白な顔で項垂れ、彼はその目に涙を浮かべる。
「結局自分に閉じこもるのね。典史」
その時、掠れ気味ながらも辛辣な口調で冴子が呟く。どうにかその身を起こし、泥だらけの眼鏡を拾い上げて典史に近づいていく。
「優しいのが嫌なら存分に厳しく行かせてもらうわ」
「さえ……こ?」
茫然とするその左頬に冴子の拳が叩きつけられた。目を見開き、典史は怯えた顔で冴子を見つめる。
「何勝手に戦って勝手にメソメソしてるのよ! あんたはそんなに情けない奴だった? 違うでしょ! あんたは強いのよ! 誰かのために捨て身で何かに立ち向かえる、そんな人間なのよ!」
ぶたれた左頬を押さえ、典史は捨鉢な態度で顔を背ける。
「買いかぶりだ。俺はそんな人間じゃない。気の向くままに暴力を振るう最低の人間だ。思わず命を奪うような、どうしようもない人間だ。あの怪物たちは、元は人間だったかもしれないのに……」
典史の呟きに冴子は一瞬眉を動かしたが、すぐに険しい顔に戻り、典史の袖を掴んでこちらを向かせ、さらにもう片方の頬を殴った。典史は冴子を睨んだが、手は出さない。
「何するんだよ……」
「あなた、今仕返したいと思ってるでしょ」
「……二度もぶったんだ、当然だろ」
努めて静かな声で答えた典史に、冴子は鼻を鳴らした。
「それが反証よ。あなたは私に仕返ししたいと思ってる。でもしない。あなたは暴力を振るいたくなっても我慢できるのよ。決してあなたは最低の人間なんかじゃない」
冴子はそっと微笑むと、彼をそっと抱きしめた。
「それに、あなたは苦しんでる。普通の人だったら、あの獣を野放しにしたら、もっと多くの人が殺される。そう言い聞かせて納得する。でもあなたはそうしない。あんな獣の痛みすらも受け入れて、自分の行動の意味を問い詰めてる。そんな人が、どうしようもない人間なわけない」
典史の目が揺れた。彼は思わず冴子に縋る。
「冴子。俺は……」
「うん。だから言ってるじゃない。あなたはとっても優しいの。誰かのために怒って、戦って。その結果奪った命を思って苦しんでしまうくらい、とても優しい人」
「冴子……」
ゆっくりと彼女は離れ、怯えた顔をしている典史に尋ねた。
「典史。今、あの三人を伸したのは私を守るためなんだよね。ちょっとやり過ぎだけど……」
「あ、ああ」
「あの怪物と戦ったのは、何のため?」
「……誰かが、あれに傷つけられることを許せなかったから……誰かを、守りたいと思ったから……」
「でしょ? その気持ちに間違いなんてない。誰も間違いなんて言わない。……何より、ここにあなたの味方がいるでしょ?」
そう言って、彼女はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、典史には太陽よりも温かかった。みるみるうちに目に涙が浮かぶ。
「冴子。すまなかった。……俺は、俺は……」
その時、典史は目を静かに見開く。その左手に赤い光が舞い降り、真紅の篭手となって彼に取り付く。その篭手をじっと見つめ、典史はその手を握りしめる。頬についた雨水を指で取り、左の瞼の血を拭う。そして顔を上げた彼の目は、ついに生気を取り戻した。
「俺は、戦う!」
典史はコートを脱ぎ、冴子の肩に掛けた。
「その格好じゃ帰れねえだろ。それ貸すよ」
「ありがとう。……死んじゃダメよ。それだけは守って」
「ああ。誰がお前を置いて死ねるか」
典史は右手を天に突き上げた。光が彼を包み込み、右手に天使の聖画を形作る。炎の剣を携える天使のプレートは、それまでと違い、縁が真っ青になっていた。
「変身!」
典史はレグナへと変わる。肉体が黒変し、服は白い鎧、白いマントへと変わる。そして腕と足が青い炎で覆われ、青い腕環と脛当てとなって彼に力を与える。そして兜から覗くその目は、刺々しい赤ではなく、静謐な蒼色となっていた。
「行ってくる。お前は家で飯作っててくれ」
「うん。了解」
典史は翼を広げると、助けを呼ぶ声が聴こえる方角へと飛び出した。冴子は立ち上がると、彼が曳いた白い光を晴れ晴れした顔で見つめていた。
その頃、街の一角では火事が起こっていた。人々が逃げ惑い、機動隊が誘導し、護る中で衛士は空を飛ぶ巨大で醜悪な蛾と戦っていた。
「食らえっ!」
衛士は拳銃とサブマシンガンを手に蛾と対していた。地上に立った蛾は長い腕の先についた爪で典史を引っ掻きにかかる。その手に一センチの鉄板をぶち抜く銃弾を撃ち込むが、手に食い込む程度、怯ませる程度にしか効果が無い。
その間にもう一方の手が衛士を襲う。衛士はスウェーバックでかわし、その腹にサブマシンガンを突き付け乱射した。蛾は喚いて飛び上がる。その腹には尖った弾丸が幾つも刺さっていた。それを片手で取り払い、体液を滴らせながら蛾は上空から舞い降りてくる。
これが厄介だ。蛾の何百倍と巨大になりながら、その素早さは決して失わない。拳銃だろうがマシンガンだろうが、戦闘機顔負けの機動でそれを回避し、確実に一撃を当ててくる。
「くっ」
蛾の蹴りを胸にもらい、衛士は二、三歩退く。いくら装甲を固めても、中は生身の人間だ。怪物の重い一撃を受けると苦しい。
「ティルロフクサ、イ!」
衛士の目の前で、蛾は燃える木材を取り、止まっている車に突き刺す。ガソリンが漏れ出し、車は爆発を起こした。その爆風で衛士は吹き飛ばされる。
「うぐっ」
衛士は道路に背中を強か打ちながらも、爆風で空高く飛び上がった蛾をマシンガンで狙い撃つ。しかし、やはり蛾の動きにはかなわない。
「くそっ……」
Dアルファの空戦力の低さに舌打ちした時、月光を浴びて真っ直ぐに飛んでくる天使の姿を見た。
「こいつめ!」
典史は蛾の首を押さえ、そのまま地面に急降下で叩きつけた。そのまま一歩飛び退き、典史は起き上がる蛾と正面切って向かい合う。衛士は目を見開き、思わず叫んだ。
「何故また来た! 来るなと言っただろうが!」
「でも来なきゃまずかったんじゃないですか?」
典史は戦闘態勢に入りながら静かに尋ねる。一瞬言葉に詰まるも、衛士は弾かれたように立ち上がりながら再び声を張り上げる。
「迷いを現場に持ち込むお前は危険だ! さっさと下がれ!」
「いいや! 俺はもう迷わない! 本当の本当に迷わない!」
典史は青白く輝く右手で蛾に手刀を食らわせる。その一閃は易易と蛾の肩を切り裂き、黄色の体液を散らす。そのままその右手で燃える白刃を抜き放ち、蛾の脇腹を切りつける。
「グゥッ!」
「俺は戦う。……俺は誰かが傷つけられる光景を黙って見てなんかいられなかった。だから俺は獣を……殺した」
たまらず飛び上がった蛾を追いかけながら、典史も飛び上がる。低空での戦いならばお手の物だ。ビルの間を飛び交い、背後を取り合った末に、典史は蛾の羽を一枚切り落とした。地に落ちる蛾の前に降り立ち、典史はじっと蛾を睨む。
「俺にはいるんだ。こんな俺を支えてくれる人が。だから、俺は戦う。戦って……怪物から、人を護る!」
握りしめた右手が、左腕の聖画が眩しく輝く。典史は顔を上げ、ふらりと立ち上がる蛾に突進した。
「そのために俺は、このレグナの力を、使う!」
正拳が蛾の腹を撃ち抜く。蛾は体液を口から撒き散らし、激しく身体を地面に打ちつけながら吹っ飛んだ。
典史は息を深く吐きながら、構えをゆっくりと取り直す。重い鉄拳を受け、蛾は起き上がることも出来ないままにもがき始めた。その全身が白く輝いていく。
「レグナアァァッ!」
蛾は爆炎と共に弾け飛ぶ。その炎を見つめるレグナの目は、澄んだ青い輝きを放っていた。
「これでもう、後戻りは出来ないな……」
典史は右手を開いたり閉じたりしながら構えを解く。そんな彼に向かって、衛士は黙って詰め寄った。バイザーだけを上げると、典史を一睨みしてバイクに跨り、避難者達の誘導へと移っていく。典史は長く息を吐き出すと、腕組みをしてそんな衛士の姿を見つめる。
「何だかなあ。あいつ」
典史は翼を広げると、寮へ向かって再び滑るように月下を飛んでいった。
そんな典史を見つめる影が一つ。彼はにやりと歯を剥きだし、愉しげに呟いた。
「さて、奴は今一つ伸びたようだな……いい。このまま戦え。戦って、その身を成長させ続けるがいい……」
影は高笑いを始めた。天を仰ぎ、絞りだすような笑い声を上げる。火事が収まりかけた街中で、彼の高笑いは怪しく夜の中に響き続けていた。
「おはようございます。笹倉教授」
翌朝、典史は冴子と連れ立って笹倉の研究室にやってきた。典史は額に大きな絆創膏を付け、冴子は冴子で頬に湿布を貼っている。その異様な風体に笹倉は唖然としてしまった。
「ちょっと……君達、一体何があったんだい?」
「昨日ちょっと色々あって。全然大丈夫ですよ。な?」
「はい」
二人はそう言って頷く。やたらと機嫌の良い様子がむしろ引っかかり、笹倉は首を傾げてしまう。
「ふうん……それならいいんだけどねえ……」
二人はそれぞれ席に座ると、いつもの通りカバンを置いて机の整理を始める。その時、典史がちらりと頬を赤く染め、冴子にそっと耳打ちした。
「なあ冴子。先日の話だけどさ――」
「はぁ?」
「はひっ」
しかし、冴子がドスの利いた調子で典史の言葉を遮ってしまった。虚を突かれて変な悲鳴を上げる典史に向かって、冴子はその人差し指を突きつける。
「あんだけこっぴどく振っといて今更なに? しばらくあの話はご破算だと思いなさい!」
「お、お前、声でけえよ……」
一気に青くなってしまっている典史を見て、ついに笹倉は会心の笑みを浮かべた。
「その情けない声はまさに君だねぇ。良かったよ。本当に君は元の姿を取り戻したようで何より」
「あ、ちょっと。教授は俺をそんな風に思ってたんですか?」
「そんな風にも何も、冴子くんに口撃を浴びせられてヒイヒイ言うポジションに甘んじてるのが君じゃないか」
「うーん……何だか釈然としないですねえ」
「勝手に毒舌家にしないでくださいよ。教授もヒイヒイ言わせましょうか?」
典史どころか冴子にまで不満な顔をされ、笹倉は慌てて目を逸らした。
「いや、いやいや。心外だなあ。冴子くんまで貶めるつもりは無かったんですがねえ。あっはっは」
そう言うと、笹倉は机の引き出しから何やら取り出し、いきなり含みのある笑みを浮かべた。
「まあ、その話は置いておこうか。典史くんもどうやら自分の立場を受け入れたようだし、私もそろそろ自身の本懐を明かさないとねえ……」
いきなり影のある顔をした笹倉に、二人は狐につままれたような顔をして首を傾げてしまった。
「病院じゃ、何だって?」
『そうねえ。もう厳しいかもって言ってたよ』
「そうか……俺が帰るまで頑張れって、言っといてくれ」
衛士は携帯を切る。その険しい作りの顔に哀愁を湛え、彼は携帯の待受をちらりと見つめる。そこには、シェパードを抱く少年の姿が映っていた。




