前編
「いなくなった?」
笹倉は普段の余裕たっぷりな表情を忘れ、冴子の嗚咽混じりの話を聞いていた。彼女は目を真っ赤に泣き腫らし、大粒の涙で袖を濡らす。
「はい……あれから三日も経ったのに、まだ帰ってこないんです……」
「ああ、えっと……」
常に冷静沈着で、助手三人組のブレーン役だった冴子。激しく取り乱す姿など今まで見たことも無く、笹倉は狼狽えてしまった。
「あー、た、確かに心配だが、彼の事だ。きっと立ち直って帰ってくるよ。うん」
「何を言ってるんですか!」
冴子が不意に怒鳴り、笹倉は仰け反ってしまった。大きくしゃくりあげると、今度は脱力したように呟く。
「典史は苦しんでいた。戦うことに迷って、自分を見失ってた。でも、私じゃその苦しみを和らげてあげることは出来ないんです……」
鼻をすする彼女を見つめ、笹倉は溜め息をついた。その肩を叩き、冴子に顔を上げさせる。
「全く、冴子くんまで諦めてどうするんだい?」
「え?」
ぼんやりと冴子は笹倉を見つめた。彼は静かに微笑み、諭すようにゆっくりと語りかける。
「君が諦めたら、本当に彼は自分を見失ってしまう。彼が自分を失っているなら、君が取り戻させてやるしかないよ」
「私が、典史を?」
「そうとも。彼には親もいなければ兄弟もいない……とすれば、彼を助けてやれるのは、君しかいないんじゃないかな」
「典史……」
冴子は俯く。あの夜の典史の顔が脳裏に浮かぶ。小動物のように怯える彼。狂獣のように吼える彼。どちらも本当の彼ではない。そして、彼女は瞼を閉じる。そこには、快活に笑う典史の姿があった。
「すいません。教授……」
冴子は涙を拭き、きっぱりと顔を上げた。真剣な顔で笹倉を見つめ、静かに頭を下げる。
「私、典史を探してきます」
「ああ。彼も私の優秀な助手だ。連れて帰ってくるのも立派な仕事だ。行ってきなさい」
「はい。失礼します!」
冴子は身を翻すと、脇目もふらず研究室を飛び出していった。それを見送り、彼は長い吐息を漏らした。
「さて……彼女には悪いが、厄介払いが済んだというところかな……ま、もうすぐバラすんだけど」
笹倉は独り呟き、その後を追うようにして研究室を後にした。
とあるマンションの屋上に、一人の男が立っていた。その男は虚ろな表情で、屋上を囲う塀を掴んで立っていた。ちょっと乗り越えれば、道路に向かって真っ逆さまだろう。まさに、彼は今それをしようとしてそこに立っていたのである。
まさに塀を握る手に力を込めたその時、その背後に何かが立つ音がして彼は振り向く。そこには、全身を黒いローブに包む正体不明の人間がいた。
「お前はなぜそこから飛び降りる。飛び降りたら死ぬではないか」
既に生きる気力を失った男は、首を傾げるばかりで答えない。だが、そんな事は気にも留めず、ローブの人物は続ける。
「まだお前は健康体だ。勿体無いほど健康だ。それなのに、お前は死ぬのか」
やはり男は答えない。それに対し、ローブの人物はその隙から覗く口が裂けるように開き、白い歯を剥き出してにやりと笑った。そして彼は懐から紫紺の煙に包まれたプレートを取り出す。そこには、牙を剥き出し走る猪が描かれていた。
「ならば、こいつにその体を寄越せ」
雰囲気の変わったローブの男に、欄干にもたれていた男は途端に恐怖を覚えた。自殺しようとしていたことも忘れ、必死にその場を逃れようとする。ローブの男はそんな彼の背中に向かってプレートを投げつける。それは逃げ出す男の背中に突き刺さり、そのまま肉体の中へと潜り込んでいった。
「あ、あああ……」
言葉にならない呻きを上げ、男はその場に倒れ伏す。そして苦しみにもがきながら七転八倒した。その間にその体はみるみるうちに変貌していく。顔の形が歪み、身体が剛毛に覆われ、筋肉が盛り上がっていく。その姿を眺めながら、ローブの男は高笑いを始めた。
「いい……いいぞ」
死のうとしていた男は、既に猪のような化け物へと変貌していた。死んだように横たわっているその怪物を見つめ、男はさらに高笑いをする。
昼の団地の静寂の中に、男の高笑いが虚ろに響いていた。
打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた暗い一室。その中心に武藤衛士は立っていた。青いプロテクターで身を固め、手にはバイザー付きの黒いヘルメットをぶら下げている。その姿を部屋の外からガラス越しに見つめ、笹倉教授は静かに尋ねる。
「さあ、調子はどうかな」
「問題ありません。パワードスーツのお陰で動きは快調です」
顔の下半分を覆うマスクのせいで、ただでさえ険しい衛士の目つきがさらに強調されている。その一方で、声はよく弾んでいた。ついに『ディフェンダーシステムタイプアルファ』、略してDアルファが我が手に渡る事が嬉しいのだろう。笹倉教授は静かに微笑み、計器を動かし始めた。
「さあ武藤くん。始動テストを行う。ヘルメットを被ってくれ」
「了解」
衛士はヘルメットと一瞬向かい合う。装備者に選ばれて以来、待ち望み続けた力だった。衛士は素早くそれを被る。そして、緑色のバイザーを力強く下に降ろした。背に負ったバッテリーが光り、プロテクターの縁も黄色に光る。
「システム、全て正常。起動テストは完了です」
「よし。ならば次のフェイズに移ろう」
笹倉はエンターキーを叩いた。途端、黒い的が衛士の周囲に飛び出す。衛士は腰のホルスターから銀色の拳銃を取り出すと、素早くその的に撃ちこんでいく。前の三つに、振り向きながら横の一つ、そして後ろの二つを撃ち抜いた。銃を戻し両腿の部品を外して組み合わせ、一丁のサブマシンガンにする。そして背後に現れた巨大な的に向かって大量の弾丸を放ち、木っ端微塵に破壊した。
「……戦闘簡易テスト、完了」
「素晴らしい。君も随分鍛錬したようだ」
笹倉の満足そうな声を聞き、衛士は頷き、固くマシンガンを握りしめた。
「当然です。いつまでも、一般人に戦いを任せておくわけにはいかないですから」
バイザーの下で、衛士は静かに表情を固くする。笹倉は頭を掻くと、気負いが強い彼を諌める。
「とは言ってもね、まだそれは試作段階の意味合いが強い。無理は禁物だよ」
「もとより承知しております」
その時、地下室にサイレンが響き渡った。衛士ははっと顔を上げる。笹倉は勝ち気な笑みを浮かべると、マイクを手に取った。
「さて……初仕事の時間がやってきたね」
「ええ。Dアルファ、武藤衛士、出ます」
猪は市街地に乗り込み、走るもの――車を目の敵のようにして突進していた。その正面から突っ込んできた乗用車を無理矢理止め、ひっくり返す。そして反対車線からやってきたワゴンを側面から突進してビルの方へ吹き飛ばす。通りで猪の姿に呆然としていた人々が巻き込まれてしまった。
車は必死にその場を逃げ出そうとする。しかし、猪はその背後から追いつき、突進して軽乗用車を撥ね飛ばす。先にひっくり返された乗用車から火が上がった。その炎を見つめ、猪は叫ぶ。そこへ、一筋の赤い光が突っ込んできた。
「あああっ!」
紅い翼を広げた白騎士が舞い降り、悲痛な喚き声を上げながら猪の顔を殴る。紅い目が兜の奥でぎらつき、白騎士は白熱した拳を狂ったように叩きつける。
「ギィイッ!」
「ううっ! ううっ! うううっ!」
猪は悲鳴を上げるが、狂った白騎士はその殴る手を止めない。全身が焼けただれ、猪はもがき苦しむが、白騎士は猪をいたぶり続ける。不意に白騎士は頭を下げ、兜に生えた角で猪を突き刺した。そしてそのまま突き飛ばし、白く燃える剣を抜く。
「うわああっ!」
紅い目が一際強く輝き、倒れた猪に剣を振り上げて襲い掛かる。思わず猪は両手を上げて身を庇う。しかし、猪にその白刃は振り下ろされなかった。その剣は、猪に触れるか触れないかというところで止まっていた。
「嫌だ……もう嫌だ……」
典史は掠れた声で呟いた。兜の奥に光る紅い目が消え、マントも右の篭手も、脛当ても全て白に戻る。脱力し、剣は彼の手を離れて地面に落ちた。これぞ好機とばかりに、猪は身を起こして典史を突き飛ばし、さらに突進を加えた。
「うあっ」
建物の壁に叩きつけられ、典史は地面に倒れ込む。変身は解けないが、目眩がして立ち上がれない。そんな典史を見下ろし、獣はその太い腕を振り上げた。
その時、幾つもの銃弾がその腕に命中し、獣は横ざまによろめいた。典史と獣は思わず弾が飛んできた方角を見る。そこには、黒いスーツ、青いプロテクターに身を包んだ人物が、白バイに跨り、サブマシンガンを担いで立っていた。
「下がっていろ、『ホワイト』」
「お……俺?」
「他に誰がいる」
典史は首を傾げつつも、そろそろと身を引いた。新たな戦士はバイクから降り、マシンガンを構え直す。獣は右腕から血を滴らせながら、戦士に向かって吼える。
「来い。すぐに始末してやる」
獣は一直線に突進してきた。衛士はマシンガンを構え、胸元に集中して撃ち込む。生身で扱うものより遥かに強力だが、それでも獣は仰け反るだけで、大きなダメージは与えられない。
「致命傷は与えられないか……」
衛士は呟くと、白バイの側面に付いたラックを開き、中から二つのパーツを取り出し、組み合わせて剣にした。殴りかかってきた獣の一撃をかわし、脇腹を切りつける。刃がずぶずぶと食い込んで血が噴き出し、獣は叫んで飛び退いた。
「ならばこれは」
白バイのもう一方に付いていたバズーカを取り出し、獣に撃ち込んだ。弾頭は獣の胸に炸裂して吹き飛ばす。分厚い胸板は傷つき血まみれになるが、それでも獣は立ち上がる。衛士は鼻を鳴らすと、腰に差してある丸い筒を手に取った。
「終わりだ」
よろめいている獣の胸に、その筒の針を突き刺す。そしてそのピンを抜き、大きく飛び退いた。その瞬間、筒は爆発して獣を爆炎の中に呑み込んだ。白い砂が飛び散り、一枚のプレートが空高く舞い上がる。炎が消えると、そこには何も無くなっていた。飛んできたプレートを手に取り、衛士は静かに呟く。
「任務完了」
プレートを腰のポケットに収めると、ヘルメットを取り、歩道で固まっている『ホワイト』に目を向けた。
「ホワイト、お前の力はもう必要ない」
「お前は……」
典史は身を乗り出し、戦士の目を見つめる。紛れも無く、それは幾度と無く獣達の現場で目にした例の機動隊員だった。じっと典史を見下ろし、隊員は呟いた。
「一般人が戦う必要は無い」
「な、何?」
「もう一度言う。もうお前の力は必要ない。もう関わるな」
典史は返す言葉もなく、ただ隊員の目を食い入るように見つめる。大量の血飛沫を浴びながら、彼は顔色一つ変えていない。
「何か文句あるのか」
「お、お前は……」
脳裏を今までの戦いが過る。大量の血を浴びるおぞましさ、暴力を振るう自分への恐怖。それに対して、何ら躊躇なく獣を『始末した』目の前の男。典史は、尋ねずにはいられなかった。
「お前は何も感じないのか! あっさりと命を奪うことに!」
隊員は眉間にしわを寄せる。意味がわからないとでも言いたげだ。
「感じる? 何を感じる必要がある。獣は人を殺し街を破壊するんだ。しかも捕獲しても仕方がないと来ている。始末するのが当然だろうが」
「確かに理屈じゃそうだ。でも、でも何でそう割り切れるんだ。肉を切る感触、獣の悲鳴を聞いて、どうして何も感じない!」
隊員は目を細くした。軽蔑の色すら浮かぶその眼差しで、静かに言い放つ。
「……だからだ。だから関わるなと言ったんだ。もう何も言う事はない。さっさと帰れ。繰り返す! お前はもう必要ない!」
目を見開き、隊員は鋭く叫んだ。典史はだらりと手を垂れる。上目遣いに典史は隊員を見据え、小さく呟く。
「ああ。そうか……」




