6章 無々篠甘瓜より
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「ひっ…………ひぃ……!」
「……お久し振りね、黒嵜王雅君」
後ろから漂ってくる、木が焼けていく心地のよい匂い。
先程壊したついでに燃やした扉のものだろう。何度嗅いでもこういった匂いは心が落ち着く。物体を余すとこなく破壊し尽くす滅亡の権化である炎を、自分が意のままに操っているという全能感。そして燃やされているものの命さえ掌中に収めているという絶対感。何物にも代え難い恍惚と悦楽に、自然と頬が緩んでくる。
服装が服装なだけに、風景を切り取ってしまえば誤解されそうな絵だが。
でも、見間違えようのない惨劇の地獄絵図ではあるだろう。
部屋には、燃え盛る扉から徐々に炎が燃え移っていく。
その部屋の主はといえば、突然現れた半裸の少女に追いつめられて、今にも泣き出しそうだ。凶暴な顔つきも、耳に開けたピアスも、今や虚仮威しに成り下がっている。股を開いて尻餅を衝き、後退りするその姿など、まるで無力な赤子同然だった。
無駄に広い部屋には、ベッドと本棚と机があるだけだったが、そこら中に如何わしい雑誌や丸まったティッシュ、なにかを壊したような跡があることから、結構満足のいく生活を送っていたであろうことは容易に想像出来た。
イライラしたら、街で人に絡んで殴ればいい。蹴ればいい。唾を吐きかければいい、罵ればいい、犯せばいい、壊せばいい。
それはそれは、さぞかし楽しい人生だったろう。
だが――――それも今日で終了だ。
「な、なんなんだよ、お前…………お、俺は、お前なんて、し、知らねえぞ……!」
「……ふぅん、知らないんだ。あれだけのことをしておいて、あたしにあれだけの苦痛を与えておいて、なんにも覚えちゃいないんだ…………。へぇ~、ふぅ~ん」
まあ、そんな人間だろうなとは思っていたけど。
この男にとって、他人なんてものは自分のストレス解消の為の、いくらでも代えの利く玩具に過ぎないんだ。殴って蹴って汚して罵って穢して壊した玩具になど、なんの関心もないのだろう。
その場に在ったことすら、覚えてはいまい。
だったら、やっぱりこいつはここで殺しておこう。
これからの平和の為に、世界から苦痛を少しでも消し去る為に。
正義の為に――――こいつを殺そう。
「ひ、ひぃっ!!」
情けない悲鳴を上げたかと思うと、青年――――黒嵜王雅は、どこから取り出したのか、似合いもしない、細長いゴルフクラブを振り翳してきた。座ったままの姿勢で腰を思いっ切り捻り、遠心力を最大限に活用して、あたしの腰を打ち据えてきた。
「――――つっ!!」
迸る激痛。
腰骨が砕ける衝撃。
肉が、血管が、神経が爆ぜていく、いやな感覚――
「――で、これがなに?」
「っ!?」
一瞬だけ、まるで勝ち誇ったかのように笑顔を浮かべた王雅に、あたしは平気な顔をしてそう訊ねた。
確かに痛い。
耐え難いほどに、痛い。
でも、それでも、あたしは死なない。
死なないのなら、大したことはない。
「この程度? 殺されるっていうのに、たかだかこの程度の反撃しかできないの? そんな体たらくの癖に、あんな偉そうに踏ん反り返って、身も知らぬ他人に暴力振るってたんだ。へ~…………これはもう、ますますもって許せないよね。あたしの正義にとことんまで反する、人間の屑だよ、あんた」
言いながら、あたしは王雅の震える手からゴルフクラブを取り上げ、そのままこいつの身体を壁に押し付けた。女の子のようなか弱い悲鳴を上げる男の姿は、哀れで、惨めで、どこまでもみっともない。
気持ち悪いほどに。
嫌悪感すら覚えるほどに。
「た、助け……お願いだ……殺さないで…………」
「殺さないよ、少なくともあたしは、あんたを殺さない」
こんな下らない奴、あたしが直接手を下すまでもない。
こいつにはもっと、相応しい死に方がある。
相応しい死に様がある。
「じゃ、じゃあ……!」
希望に満ち溢れた顔になる王雅。
間抜けにも開かれたその口に、あたしは兄から押し付けられたナイフを思い切り捻じ込んだ。
「――――――――っ!?」
ざくり
口の奥、喉の入口にあたる部分の肉を、ナイフはやすやすと貫き、壁と男とを繋げる楔と化した。唇が裂けんばかりに口が開かれ、ナイフの刃が触れている歯茎からも血が縷々と流れている。舌も刃によって固定されている為、悲鳴を上げるという無様さえできない。
あまりにも滑稽な、死刑囚の姿だった。
まるで、おしゃぶりでも咥えているみたいだ。
「あっははは! いい格好じゃん不良少年君。いや、もうあんたの歳を考えると、少年、なんて言えないかな? 調べた結果だと、確かあんたって26歳なんだよね? うわ、あたしの一番上の兄と一緒だよ。そんないい歳ぶっこいといて、未だに親の脛に齧りつきまくりとか、あり得なくない? 情けないにも程があるよねぇ、今のあんたみたいにさ! あっはははははははははは!」
「……………………っ!」
両手を押さえつけられ、大口を開けて壁に磔にされている青年。
そんな格好を嘲笑ってみるが、返ってくるのは恨みがましい視線だけで、泣き言は何も帰って来ない。まあ、返したくても口が動かないのだから、何も言えないのだろうけれど。そこがまた、滑稽で面白い。
恐怖と痛みで動けないのか、フリーになっている足で反撃することすらしない。
それとも、忘れているのだろうか。
まさか、あたしの開けた胸や性器を凝視しているなんてことは…………ないか。こいつがロリコンでない限り、それはあり得ない。
……まあ、ちょっとした自虐ネタは置いておいて。
「さて…………準備は整ったし、このままいつまでもあんたの格好笑っていたら、最悪あたしも焼け死んじゃうし……さっさと仕上げを終わらすかな」
そう言って取り出したのは、睦月が拾ってきてくれた、あの水風船だ。
ガソリンが詰まった、凶器の水風船。
況して、こんな炎が燃え盛る火事の現場で使えばどうなるか――――それは、殺人鬼でありながら放火魔でもあるこのあたしが、何よりもよく知っている。
「……、…………っ!」
「あっはは、怖いの? 可笑しいね、人に暴力を振るうことは平気な癖に、暴力を振るわれるのは怖いんだ。知ってる? そういうのって、自己中っていうんだよ? 最低の同義語だけど…………知っている訳がないか、あんたって見るからにバカっぽいし」
「…………、…………!」
「あたしってさぁ、生まれた時から全然死なない殺人鬼でさぁ。正直、あんたみたいに死ねるっていうのは、ある意味羨ましかったりするのよねぇ。どんなに切られようとどんなに殴られようとどんなに壊されようと――――容器に入れられた水みたいに直っちゃうあたしにとって、なんでもかんでも壊してくれる火っていうのは、最高の憧れなのよね」
だから。
羨ましくって妬ましくって――――そして何より、憎らしいから。
「せめて最後は、派手に焼けて燃えて死ね」
その台詞と共に、あたしは男の頭上で水風船を割った。
大量のガソリンが、男の頭へと降り注ぐ。
まるで、洗礼を施す神父にでもなったような感じだ。尤も、あたしが導くのは信仰でも神の国でもなく――――救いなんて欠片もない、業火に塗れた地獄なのだけれど。
「――――っ! ――――!?」
自分にかけられた液体の正体を臭いから看破したのか、王雅は泣きそうな目をして身体をくねらせている。だが、いくら暴れようと口の奥の楔は外れず、寧ろどんどん深く突き刺さっていくだけだった。
じきに、彼にも火が灯る。
断末魔の叫びすら上げられずに、彼は消し炭と化すだろう。
肌を焼き、肉を貪り、血管を焦がし、神経を燃やし、骨まで食らい尽くす炎は、彼に安らかな死など許さない。悪行の数々に相応しい、苦悶の末の絶望的な死を彼に与えることだろう。
それでいい。
それが、こいつに許された唯一の死に方だ。
あたしの正義は、絶対の炎によって完了する。
自分の命で、処刑終了の鐘を撞け。
紅蓮の炎を目に焼きつけながら死ね。
「これが、あたしの正義よ、悪の根源」
毒を食らわば皿まで。
雑草を引き抜くなら根まで。
文字通りの、根絶。
根絶やし。
今日も綺麗な炎によって、この世界は浄化されていく。
家そのものが醸し出す焦げ付いた臭いは、どこかあたしを清々しい気分にしてくれた。