5章 季師走睦月より
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「……さっきからどうにも、家ん中が焦げ臭いと思ったら」
そこそこに豪奢な家の、二階のベランダ。
いや、そもそも面積ばかり広くて、階層は二階分しかないような背の低い家を、果たして豪奢などと言い表せるかどうかはともかくとして――――そのベランダに、一人の女が立っていた。
オレと同程度の、女にしてはかなり高い背丈。
烏の濡れ羽の如き黒髪。
理知的な雰囲気には似合わない、気だるげな目。
この家――――黒嵜家の第二子にして長女、黒嵜冥奈だった。
「あなたたちだったんだ、原因は。…………取り敢えず初めまして。黒嵜冥奈よ」
「…………季師走睦月だ」
形骸化した儀礼的な動作で、表面的には恭しく見えるような礼をする冥奈に、オレは少しだけ迷って、結局同じように挨拶をすることにした。
こいつを殺しに来たというのに…………なんだか力の抜ける話だ。
「季師走、睦月……変わった名前ね」
「冥途の『冥』なんて字が名前に入っている奴に言われたくはねーよ」
「ふふ、それもそうね。で、睦月さん。一体なんの御用かしら? 生憎あたしは、あなたのことを欠片も知らないのだけど」
「安心しな、オレも知らねーよ、あんたのことなんか。オレはただ、連れがここにいる奴に用があるって言うから一緒に来ただけだ。連れって言ったって、ほんの10分前に連れになった奴なんだけどな」
「そう…………要するにお友達と一緒に来た訳だ。美しき友情って奴かしら?」
「片や殺人鬼で、片や復讐者だ。友情なんて、そんな綺麗な言葉は似合わねーよ」
「あらそう」
ベランダの手摺りに凭れかかりながら、冥奈はつまらなそうに呟いた。手足のどこにも力が入っていない、リラックスし切った姿勢だ。敵意もなければ覇気もない、それどころか抵抗しようという気力すら感じられない。
なんなんだ? こいつ。
怖くねーのか?
「あんた…………分かってんのか? オレはあんたを殺しに来たんだぜ?」
「あら、そうなの? 意外だわ、恨みを買うとしたら、あたしじゃなくて兄貴の方だと思ってたのに」
「いや、連れの目的はあんたの兄貴――――黒嵜王雅さ。あんたは、そうだな、差し詰めオマケってところか。兄貴のついでで、オレに殺されるんだ」
「ふぅん、そう…………そうか、あたしはついでなのか……、うん、まあ悪くはない」
「…………なんだかなぁ」
やり辛い。
そりゃ、ぎゃあぎゃあ喚かれて命乞いをされるよりは気分が楽だけど、ここまで無抵抗っつーか、心底どうでもよさそうだと、こっちのモチベーションまでどうにかなっちまう。こいつ、殺されても構わないのか?
「そんなことはないわよ? 他人に殺されたいだなんて、思う訳がないじゃない。どこまで被虐趣味者なのよ」
呆れたように苦笑しながら、冥奈は肩を竦める。
「ただまあ、物心ついた時から、死んじゃいたいなぁ、とは思っていたわね」
「はぁ? なんだそりゃ。自殺志願って訳か?」
「いやいやそういうんじゃなくてね。なんて言うか、こう、あたしはこんな所にいたくはないなぁっていう、そんな感覚。分かる? 生まれる家庭を間違えたっつーか、育つ過程を間違えたっつーか、そもそも仮定する条件を間違えたっつーそういう後悔みたいなの、あなたにはない?」
「悪い、意味が分からねぇ」
「う~ん、なんて言うかなぁ。…………つまりさ、あたしはこんな家には生まれたくなかったのよ。こんな家、消えて無くなっちゃえって思ってた。両親だって、嫌いだったなぁ。家と金のことしか頭にないし、差別主義者だし、あたしと趣味は合わないし…………うん、白状しちゃうとさ、ぶっちゃけ死んでほしいと思ってた」
「んだよ、なにかと思えばそんなことかよ。その程度のこと、ちょっと知恵付いてきたガキなら誰でも考えんだろ。なんも特別なことじゃねーよ」
「まあね。だから、なんて言うか、こう、死んで生まれ直したいって感じ。周りの環境を一切合財リセットしてさ、また零から始めたいっていう想いがある訳よ、このあたしには」
「はぁん、オレ辺りにはさっぱり分かんねー感情だな。尤も、感情なんてものが他人にホイホイ理解できる訳がねーんだけど」
言って、オレは腰からナイフを抜いた。
さっき、こいつの両親を切り刻んだ、血に飢えた凶器。
「話は終わったか? 長過ぎてどれが遺言の要なんだか分からねーけど、そろそろ終いにするぜ? さっさと脱出しねーと、オレまで燃え尽きて灰になっちまうからな」
「…………ああ、臭いの正体は火か。変に穿って考える必要もなかったわね。それに…………なんだ、もうあのバカ親二人は殺しちゃったのか」
へ?
あれ? オレってば、まだこいつにそのことを言ってはいないと思うんだけど……?
あれぇ?
「な、なんで……?」
「ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら。でも、大したことはないのよ、すぐになんでもかんでも観察してしまうのがあたしの癖でね。…………そのナイフ、血がまだ残っているじゃない」
言われて見てみれば、振るい切れなかったのか、赤黒い血がナイフの側面に微かにこびり付いていた。だが、それだけの事実から、両親の死を見抜いたとは思えない。何故なら、この血は別に両親のものだとは限らないからだ。こいつの兄貴のものかも知れないし、来客のものかも知れないというのに。
なんで、両親の血だと断定出来た?
「今日は来客の予定はないし、こんな時間に来るような客もいない。ハウスキーパーのおばさんは今留守だし、兄貴の部屋はここと同じ二階。そして、二階に人が上がってくれば、あたしには気配で分かるわ。あなたがここに来るまで、二階には誰も来なかった。つまり、あなたが殺したのは、この家の中に限定してしまえば、うちの両親以外にあり得ないのよ」
「…………うわーお」
すげぇ、こいつ。
なにが凄いって、その冷静な観察力でもなければ洞察力でもない。
冷徹なまでの論理展開でも、思考力でもない。
両親が殺されて、その仇が目の前にいるにも関わらず、ここまで冷静でいられるっていうことが、凄過ぎるのだ。
心が、ないみたいだ。
「凄いな、あんた。その人でなしっぷりと、ついでに洞察力。立派な探偵になれるぜ」
「探偵、か。それもいいかもね、生まれ変わったらやってみたいかも」
「んじゃ、六道の辻にでも行ってこいよ」
くるり、と手の中でナイフを回転させ、目の前の獲物に向ける。
なのに、冥奈はこの期に及んでも怯えたような表情一つ見せず、オレに向けて指を一本立てた右手を向けてきた。
…………切って欲しいのか? その指。
「あたしを殺す前にさ、一つお話ししない? 季師走睦月さん」
「生憎だが、話なら散々したぜ」
「まあ、そう言わないでよ。あたしってば無駄に頭がいいものだからさ、ポンポンと余計で余分で余剰で、どうしようもないことばっかり考えちゃうのよねー。まあ、死に逝く女の戯言だと思って、テキトーに聞いといてよ」
「…………なんだよ、さっさと話せ。このままじゃ、あんたを殺す気さえ失せてきそうだ」
「あら、それなら張り切って話さなくっちゃね。そうね…………ねえ、あなたは一体、なんの為にあたしを殺すの?」
「『テキトーに聞いといて』とか言ってた癖にいきなり質問かよ…………。なんの為って、そりゃ、オレの復讐の下準備ってところか」
「復讐?」
「ああ、オレはオレを殺した奴に復讐をしたい。オレを殺した奴を、このオレの手で殺したいんだ。その為にこうして、腕が鈍ってないかの確認ついでに、人殺しを研鑚してんのさ。なにか文句あるか?」
「ない訳がないでしょう。まさか、ないとでも思ったの? …………でも、それってかなりの堂々巡り、下らない鼬ごっこ、マッチポンプに過ぎないんじゃない?」
「あ?」
堂々巡り? 鼬ごっこ? マッチポンプ?
それになにより、下らないだと?
会って数分の人間に否定される謂れはないんだがな、オレの目的は。
「あなたはあなたの復讐の為に、無関係なあたしを殺す訳よね? するとどうかしら。今度はあなたが、復讐の対象となるんじゃないかしら? あたしはこう見えて知り合いは多いから、その内の誰かが、あたしの無念を晴らす、とか言って復讐に駆られる可能性は、少なくはないわよ?」
「…………だからなんだよ」
「いえ、いいのかな、と思ってね。復讐なんてしようと思ってるくらいだから、あなたはその人のことが――――復讐の対象となっている人間のことが酷く憎いんでしょ? それこそ、殺してやりたいくらいに憎んでいるのでしょう? ここで今、あたしを殺せば、あなたもその憎むべき人間と同じような存在になるのよ? あなたは、それでいいのかしら?」
「……………………」
「怖気が走らない? 自分が最も嫌っているものと同格になる、己の最も嫌悪するものと同一になるなんて、耐え切れないくらいに悍ましいわ。例えばあたしは、兄貴と両親とゴキブリが嫌いなのだけど、ゴキブリになって地に這い蹲って触覚うねうねやってるくらいなら、便所スリッパで叩き潰された方がマシね」
「………………」
「復讐は復讐しか生まない――――下らないマッチポンプよ。仮にあなたが復讐を果たしたとしても、今度はあなたが、復讐した相手の関係者から復讐されるかも知れない。それに、あたしを殺したらあたしの関係者から、ううん、もしかしたらあなたと同じように、このあたし自身が復讐に訪れるかも知れないわね。それでもいいのかしら? あなたが忌むべき殺人者に、今度はあなたが成り果てるのよ?」
「………」
「ねぇ、気持ちが悪くない? 復讐をする側だったあなたが、復讐をされるだなて、考えただけでも吐き気が――――」
「言いたいことは、それだけか?」
「え…………!?」
多分、こいつにとってオレの殺人は、一瞬にすら感じなかっただろう。
所要時間、0.004秒。
斬撃回数、4回。
切断場所――――両手両足の付け根。
「――――っ!?」
「生憎だが、そんな安いセンチメンタリズムは持ち合わせちゃいねーんだよ。死にてーんならさっさと死ね。復讐? したきゃ好きなだけしに来いよ。そういう刺激があった方が、人生っつーものは面白い」
四肢を切断され、達磨のようになった頭と胴体が、ベランダから真っ逆さまに転落していく。
綺麗な血のリボンを閃かせながら。
がさがさり、と、茂みの中に落ちた音が聞こえた。
「……さて、さっさと脱出しねーと、オレまで焼け死んじまうからな。そんなのはごめんだ」