4章 黒嵜源凱より
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黒嵜家、と言えばこの辺一帯で知らぬ者はいない、莫大な財産を持った地主の一族だ。
その当主たる私のことを知らないものなど、この地域には存在しないだろう。それは、日本国に住んでいながら総理大臣の名前を知らず、アメリカに住んでいながら大統領の名前を知らないような、そんな不届きなことだ。
貧しい彼らが生きているのは、私たちの庇護下にあるからだということを肝に銘じておいてもらいたい。いや、肝に銘じておくべきなのだ。それはこの区域に生まれた者に課せられた、当然の義務である。
「…………毎夜毎夜、よく飽きもせずにそんなアルバムなんか眺めていられるよね、父さんは」
不意に後ろから聞こえてきた声。振り返るとそこには、私が誇る娘の姿があった。
「おお、どうした冥奈。なにか父さんに用事か?」
「あたしに対しては子煩悩だよね、父さんって。その子供に対する溺愛っぷり、少しはあの兄貴にも分けてあげれば?」
「? おかしなことを言うな、お前は。あんなものは、お前の兄でもなんでもないよ」
「そうですよ、冥奈さん」
私の言葉に続くように、妻が娘に声をかける。説得に尽力するような、どこか必死な口調だった。
「あの子は――――王雅は、我が黒嵜家の恥晒しです。あんなものを、兄などと敬う必要はありません。冥奈さん、あなたは次期黒嵜家当主として、もっと凛として、分別を弁えた人にならなければなりませんわ」
「齢20を疾うに越えた娘に、なにを人格の矯正みたいなことを期待してんのよ」
「…………そうですね、失礼をしました冥奈さん。あなたは私如きになにも言われないでも、既に当主として相応しい器を持っていますものね」
妻の表情が一気に緩む。嫌味を言うような顔でも口調でもない、心の底から娘を称賛している顔だ。それに続いて、私も同じように娘を褒め称える。お世辞などは一切交えない、純正の本音で、だ。
「ああ、まったくだ。冥奈、お前は私の跡継ぎとして相応しいよ、私はお前を誇りに思う。あとは…………欲を言うなら、早く結婚をしてくれるとありがたいんだが」
「いい人がいたらね」
何故か不機嫌そうに顔を歪めて、冥奈は部屋から出ていってしまった。きっと照れ隠しだろう、そう納得して、私と妻は二人して笑った。
凛とした顔つき、スラリと長い脚、美しい黒髪。
どこを取っても完璧な、才色兼備の愛娘の成長を、私は再び、膝に置いたアルバムを眺めて確認する。
それに引きかえ…………息子の王雅は、とんだ失敗作だった。
「……ねぇ、源凱さん」
妻が私の名を呼ぶ。
「王雅のことなんですけど……やっぱり、追い出した方がよろしいんじゃないかしら? あの子、また街で騒ぎを起こしたようですし、これ以上は黒嵜家そのものを貶めることになりかねませんよ」
「……そうだな、木乃江」
私は妻の名を呟きながら、顎に手を当てて思案していた。
確かに、息子をこの屋敷から追い出してしまうというのは、なかなかにいい案だとは思う。厄介者がいなくなれば、冥奈も愚兄のことで気を揉む必要がなくなるだろうし、いくらか気は楽になるだろう。あの顰め面も改善されるかも知れない。
だが、それはギャンブルでもある。万が一王雅が、この邸宅から追い出されたことを恨みに思い、私や妻、冥奈を襲うなどということがあっては堪らないし、金に困って強盗や殺人などを行われては、それこそ黒嵜家の存亡に関わる。
いっそのこと勘当してしまってはどうだろうか。
いや、それだって賭けだ。犯罪をあの愚息が行った場合、責任を問われるのは既に縁が切れている筈の私たちである可能性もある。あのような危険人物を野に放ったという、その責任を追及されるかも知れない。そうなってしまっては、矢張りこの家名に瑕がつくのは避けられない。
ああ、どうせなら殺してしまえればいいのに。
あのような出来損ないなど、死んでしまえばいいのに。
ピーンポーン
「……ん?」
来客を告げる、インターホンの音が鳴った。
だがおかしい。時刻は既に深夜11時。こんな時間に訪ねてくるような不躾な知り合いなどいないのだが。
ピーンポーン
「誰でしょうか…………」
「さぁな。しかし、このような時間に訪ねてくるなど、非常識にも程がある。放っておきなさい、その内諦めるだろう」
妻を説き伏せて、私は再びアルバムに目を落とした。
だが。
ピーンポーンピーンポーンピーンポーン
「……しつこいな」
ピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーン
「うるさいですねぇ」
ピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーンピーンポーン――――
「えぇいっ! うるっさいっ!」
いい加減にしろっ! 今が一体何時だと思っているんだ!
追い返してやる!
文句の一つでも叩きつけてやる!
鼻息も荒く、私は妻と一緒に玄関まで向かった。こんな時に限ってハウスキーパーは留守にしているし――――まったく、使えない奴だ! 明日には即刻クビにしてやるっ!
そんじょそこらにはないような、広々とした豪奢な玄関。
私は怒髪天を衝く勢いで、そのドアを開けた――――。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
なにかを叫んだ、筈だった。
でも、それは言葉にならなかった。
扉を開けた瞬間、私と妻の身体は、一瞬にしてバラバラにされたのだ。
悲鳴を上げる暇すら、ない。
「なんだ、ようやくお出ましかよ。寝ちまったのかと思ったぜ、なぁ甘瓜」
「まあ、どうせこの程度のちゃちい扉なら、不慣れなあたしでも軽く切り刻めたんだけどね」
「あー、やめとけやめとけ。無駄にナイフを傷めることはねーよ。こいつらが鍵開けてくれて、ラッキーだったじゃねーか」
「うん、そうだね、睦月」
二人の女が、崩れていく私たちを見て、嗤っていた。
肉片になって散らばっていく私たちを、嘲笑っていた。
死に装束のような白い着物を着た長身の女と。
ほとんど裸同然の、布を纏っただけの少女が。
私たちのことを、嘲笑って――――…………
「それじゃ、あたしはあたしの正義を貫くとしますか」
「あぁ、いい腕試しができるといいんだけどな」