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冬。数珠市は比較的温暖な気候だが、それでも寒いことに変わりはない。暖かな気候の代わりに風は強く、気温は平均よりも高いが、体感気温はそれよりもずっと低い。
豪は昼休み、例の如く校舎の裏で煙草を吸っていた。午前中、木の机を枕にして快眠し、昼食(豪にとっては朝食だが)を取った後の一服が最高なのだ。そして煙草は何よりもコーヒーに合う。特にブラックに。そういう理由から、豪はブラックの缶コーヒーを片手に持ち、もう片方の手では煙草を指に挟んでいた。
冬は空気がきれいだから、煙草も吸っていて気持ちがいい。綺麗な空気の元で吸う煙草は格別である。しかもコーヒーもある。最高のシチュエーションだった。
しかし、その最高のシチュエーションは壊されることになる。
その原因は、彼の目の前に立った長身の男子学生にある。
「七紀、ちょっと職員室まで来てもらうぞ」
豪は、今コンクリの上に座っているため、自分に声をかけた男子学生を見上げた。しかし、ちらと見上げただけでは視線が顔まで到達しない。猫背を正し再度見上げると、そこには仏頂面の夏輝が立っていた。
夏輝は学ランのボタンを一番上まではめ、全てが校則以内だった。眼鏡の奥にある目は豪を冷たく見下ろしていた。
対する豪は銀髪に剃った眉、左耳にはピアスが一つ。ズボンは腰で穿き、Yシャツは全開、中には赤色のロングTシャツを着ていた。胸元には龍を象った無骨なネックレスが光り、右手の人差し指と左手の中指にはこちらも無骨な銀色の指輪をはめていた。全てが校則外である。
「あ?ウゼーぞ生徒会長さんよぉ」
豪は立ち上がり、下から彼を睨み上げた。しかし、夏輝は何も動じずに手を後ろで組んだまま、毅然と言い放った。
「職員室まで一緒に来い」
そんな夏輝に豪は乾いた笑いを顔に浮かべて、煙草を一口吸った。夏輝のおかげで煙草はすっかり不味くなった。
「お前、きっと今まで殴られたことねぇんだろうな?だからそういうこと言えるんだろ。…今なら見逃してやる。とっとと失せろ」
そっぽを向いて早々に視界から夏輝を消した豪だったが、その耳にここから遠ざかる足音は聞こえない。
「来い、七紀」
その代り、再び夏輝の声が聞こえた。
豪はそこでぷつんと何かが切れるのを感じ、次の瞬間には夏輝の胸倉を掴み上げ拳を振りかぶっていた。しかし―
「よーう、七紀ィー」
突如介入してきた声によって、その行為は中断される。
豪が声のした方を見ると、そこには五人の不良達がいた。彼らはいやらしい笑みを顔に張り付けて、こちらに近づいてきた。
「あぁ?何か用かコラ」
豪は基本的に一匹狼で、他人と群れることをしない。つまり、彼に声をかけるのは逆ナン目的の女子か彼を目の敵にしている男達である。
「ちっとツラ貸してよ。心配ねぇよ、すぐ終わる」
豪は夏輝から手を離し、その五人に向き合った。数を揃えてきたつもりだろうが、所詮は烏合の衆。すぐに片はつく。そう考えた。
だがしかし、その緊迫した空気は空気を読まない男の一言によってあっさり壊れることになる。
「喧嘩をするなら謹慎だ」
皆の注意が、夏輝に向く。彼は相変わらず堂々とした態度で全員を見下ろしていた。
「オイオイ、会長ぉ~勘弁してよ。俺ら別に喧嘩してないっしょ?だから行った行った。お前に用はねーよ」
大声を上げて笑う五人の不良達に対して、夏輝は少しも笑わない。
「元々七紀に用があったのは僕の方だ。ここから退くのは君たちのはずだが?」
背筋を伸ばし、胸を張って言い切る夏輝に、五人は黙った。その中でリーダー格の生徒が一歩歩み出て夏輝にガンを飛ばす。
「お前さぁ、状況わかってる?消えろって言ってんの。それとも、その綺麗な顔腫らしたいかよ?」
「状況がわかっているからこそ、お前達に退けと言っている」
「へぇ、そう?」
そこでリーダー格の生徒はニヤリと笑った。その刹那―
「がっ…!」
夏輝はその生徒に殴られ、バランスを崩して地面に倒れた。右の頬が熱く脈打っている。痛みを感じるのと同時に、胸倉を掴まれて無理やり起き上がらされる。
「テメェ、調子乗ってんじゃねーぞコラ。誰相手にしてんのかわかってんのかオラァ!」
再び殴られて地面に転がると、すかさず腹に蹴りが飛んできた。咳き込んでいる暇を与えられないほど、何度も蹴りを叩き込まれる。
「いい子ぶってんじゃねーぞコラァ!ぶっ飛ばすぞああっ?」
最後に頭を蹴られ、蹴りのラッシュは終わった。夏輝はぐらぐらとする頭を押さえ、何回か咳き込んだ。しかしそれでも何とか立ち上がり、彼らを睨みつける。
「謹慎間違いなしだな」
目の前がぼやけている。きっと眼鏡はどこかに飛ばされたのだろう。そんなくだらないことを思っていたら、今まで蹴りを放っていた生徒が笑い出した。
「はっ…、ははっ…ふざけんじゃねーぞコラァッ!」
彼は再び拳を振りかぶる。夏輝はぐっと奥歯に力を入れた。…しかし、その拳は空中で止まった。いや、止められた。豪の手によって。
「お前さぁ…楽しいかよ?弱い者いじめが、そんなに楽しいのかよ?」
「あ…?」
「オレにも体験させろよ、な?」
次の瞬間、豪はアッパーカットを男子学生に叩き込んだ。リーダー格の生徒は軽く上に飛び、そのまま頭から地面に倒れた。
「テメーら…あんまつまんねぇことしてっと、消すぞ?」
豪の睨みが生徒達を支配する。残りの四人の学生達は出るに出られず、歯軋りをしている。
「…っ!ちっくしょお!」
残りの学生達は、拳を握り固めて夏輝を見た。豪にはきっと敵わない。しかし、夏輝なら―。
そう思った一人が、夏輝に殴り掛かる。その拳が夏輝の横面を捉える。しかし、彼はそこで倒れず、何とか足腰を踏ん張って耐えた。そして、元に戻ろうとする回転そのままに、今しがた自分を殴った不良生徒を、全力で殴った。
「ぐあっ!」
不良生徒は地面に倒れ、起き上がれない。周囲の生徒達は、豪含め、何が何だかわからない表情だ。生徒会長である夏輝が、不良を、殴った。それだけのことが、理解できない。
しかし、時間が経つにつれ現状は把握できる。不良達は一斉に夏輝に殴り掛かった。夏輝は身構えて、若干腰を落とした。夏輝に向かってくる不良達の内一人の拳が彼に届こうかという時、その拳は豪の手によって止められた。
「オイオイ…相手はオレじゃねーのかよ?」
不良が豪を見ると同時に、殴り飛ばされる。そのまま地面を転がり、動かない。残り二人になった不良達は、それぞれ豪と夏輝に狙いを定め、二対二の喧嘩が始まった。その瞬間。
「お前ら何してる!」
大きな声が校舎裏に響き渡る。四人がそちらを見ると、高校の教師が立っていた。教師の男は喧嘩に割って入り、掴みあっている豪と不良を引きはがした。
「お前ら、こんなことしてタダで済むと思うなよ!」
教師の突然の介入に、豪は今まで咥えていた煙草を捨てて、煙を吐き出した。
「あーあ」
職員室
「七紀、またやったのか!」
教師による説教が始まろうとしていた。職員室で、夏輝と豪は接客用のソファに座らされていた。喧嘩を仕掛けてきた不良グループは保健室で怪我の治療を受けている。夏輝も手当をしてもらいたかったが、それよりも呼び出されたのが先だった。
「お前、何回目だ!」
「知らねーよ。いちいち数えてるとでも思ってんのかよ」
豪はソファにふんぞり返って、テーブルの上に足を乗せている。社長室の社長よりも偉そうである。
「しかも夏輝、お前まで喧嘩するとは一体どういうことだ!」
夏輝は目を伏せて、小さな声で「すみませんでした」と言った。
「お前ら二人、謹慎は免れんぞ」
厳しい声で言う教師に、夏輝は合わせる顔がなく下を向いたままだった。
「言っとくけどよ」
そんな中、豪が口を開いた。
「夏輝は何もやってねーぜ。寧ろ被害者だ。あいつらは夏輝が殴ったとか言ってるけどよ、本当は何もしてねーよ」
なんてことない口調で言う豪に、夏輝は驚きで目を見開いた。丸い目で豪を見る。しかし豪本人は相変わらずの態度で、煙草が没収されてなかったら一口吸っているだろう。
「生徒会長が自分から喧嘩するわけねーじゃん」
豪が教師に言うと、教師の男は唸った。相手のグループが嘘を言っているかもしれない。確かに、夏輝が自ら喧嘩をするとは考えにくい。寧ろ被害者となっていたところに自分が割って入ったのかもしれない。しかし。
「七紀、嘘を吐くな!」
その言葉に反論したのは、他でもない、夏輝だった。彼は立ち上がり、豪に向かって怒号を張り上げた。
「僕が自分であいつらを殴ったんだ!嘘をつくなんて、謹慎日数を長くしたいのか!」
その言葉に、職員室にいた全員の職員と豪が呆気に取られた。全員が夏輝に注目している。
「はぁ!?」
豪も立ち上がって、夏輝に真っ向から立ち向かう。
「テメェ、人がせっかく嘘ついてやってんのに、んだそれ!」
「だから嘘を吐くのがいけないと言っているんだ!」
「テメーのためを思って言ってやってんだろうがよ!」
「僕のためにならないから言っているんだ!」
「どういう理屈だよ!」
「お前こそ!」
今度は職員室で口喧嘩が始まった。夏輝と豪はお互いに指を突き付けあいながらやいのやいの言っている。
「いい加減にしろお前ら!」
教師がやっと間に入り、二人の口喧嘩はそこで止まった。
「お前ら二人とも、謹慎だ!」