「走る男」 短編
俺は土砂降りの雨の中を走っていた。何故こんな雨の中を走らなくてはならないのか―自分でもよく分からなかったが、俺の前には同じく雨中を走る男がいた。俺はその男を追いかけているのだった。少なくとも俺にとって理由などそれで充分に足るものだった。
それにしても凄まじいスピードだ。男は一体何故こんな雨の中を走っているのだろう…。もちろん考える余裕など全くない。追いつくどころか離されまじとついていくのがやっとなのだ。
吐く息が白く弾んで、流れ去り見えなくなる。キツい。何度立ち止まろうとしたことだろう。水溜まりをよけようとするたびに、まるで悲鳴のように砂利が鳴った。そんな俺のことなどまるでお構いなしに、男はまさに一心不乱といった様相で走り続けている。一度も後ろを振り返ることはない。しかも不思議なことに、俺がどんなにペースを上げても、男との距離は縮まることなく、ある一定の距離を保ち続けた。
俺はこれでもプロボクサーだ。まだ駆け出しの四回戦ボーイだが、田舎の地元では無敗、敵なしだ。インターハイでは優勝という輝かしい実績もあるし、もちろんプロテストにも一発で合格した。だから走ることには絶対の自信があった。負けるわけにはいかなかった。雨の日は肩を冷やすからやらないことにしていたが、それでも朝晩往路10キロのロードワークは毎日欠かしたことがなかった。
苦しい。ここはどこなのか。幸い砂利道を抜けると、思いがけず舗装路に出た。ここら辺りでは唯一の国道だ。見覚えがあった。トラックと乗用車が激しく飛沫を浴びせながら、俺の脇を通り過ぎてゆく。このまま真っ直ぐ行けばもう隣町だろう。一体何時間こうして走っているのだろう。そしてこれから一体どれだけ走ればいいのか。
隣町に入ると小さな橋に出た。雨にけぶってよく見えないが、右側には何やら青い山々があった。男は走る速度を落とすことなく橋を渡る切ると、そのまま山間部へ向かう小道へと入っていった。
チャンスだと俺は思った。それは体力的にもラストチャンスだった。曲がりくねった山道なら、必然と男もペースを緩めるだろう。そこへ何とか力を振り絞りスパートをかけられれば、男に追いつけるはずだ。俺は頭の中でそう計算していた。
曲がり角だ。そう思った俺は最後の力を振り絞って全速力で走った。これでもかという位のスピードで走った。ありったけの力で走った。
しかしそれでも男に追いつくことはできなかった。
俺はとうとう走るのをやめ、そのまま草むらに倒れ込んだ。限界だった。悔しかった。
息を上げながら男の方を脇目で見やると、男は走るペースを落とすことなくそのままスイスイ山道を登っていくと、やがて視界から消えて見えなくなっていった。
俺はやっとの思いで草むらにごろりと仰向けになると、そのまましばらく動けないでいた。そして目を閉じてじっと考えていた。
一体あの得体のしれない男は何者だったのだろうと。
どのくらい時間が経ったろう。いつの間にか雨は上がっていた。雲の切れ間からは一筋の光が差し込んでいる。はるか頭上の空は青く高く、キラキラと晴れ渡って見える。鳥の囀りが妙に耳に新鮮だった。
草むらに仰向けになりながら、とっさに俺は思った。
あの男の正体は他の誰でもない、自分自身ではなかったのかと―。もちろん根拠も証拠もない。追いつけなかった今では確かめる術すらない。人に話せば気が触れたと笑われるのがオチだろう。
しかしそう思えばそう思うほど、俺の頭にはますますそれが妙に真実味を帯びてくるのだった。それはほとんど確信に近かった。
なんていうことだ!俺の直感と説明が正しければ、俺は男にではなく自分自身に負けていたということになる。俺は自分自身に負けたのだ。
俺が甘かった。明日からは普段の倍の20キロは走ろう。そしてこれからはやっぱり雨の日も走ろう。これからは何があっても…。
男には追いつけなかったが、俺の気分はすがすがしかった。
俺は雨上がりの山道を
また走って帰ることにした。
完