お葬式ごっこ
視野が狭い方、既成概念にとらわれがちな方は、不愉快になる危険があります。ご注意下さい。
「俺、草野さんを殺したい」
携帯電話の向こうで弟のセリフが香った。小石栞は一瞬、見知らぬ誰かの話をされているかのように感じ、そんな自分に驚きを覚えた。司を始めとする弟妹たちが父親を「お父さん」と呼ぶのを嫌い、「草野さん」と苗字で呼ぶようになったのは、もう四年も前のことだ。それなのに、耳に馴染んだはずのその呼び名が、まるで他人の呼称のように響いたのが不思議だった。栞自身、五年前までその苗字を使用していたというのに。
一瞬の躊躇の後で、ようやく弟の言わんとする事を理解した栞は
「お姉ちゃんも前から、そう思ってたよ」
と発言に似合わぬ明るい声を出した。本当は、こんな返しをするべきではないのかも知れないが、多くの女は悩める相手に対してまず共感を示すものである。
「じゃあ何で、姉ちゃん殺さないの?」
「司だって本当は殺したくないんじゃないの? だから止めて欲しくて、かけてきたんじゃないの?」
姉の追及に司は押し黙った。彼女の言う通りだった。父親に殺意を抱いたのは事実だ。一方で殺意の実行に抵抗を覚えていたのも事実だった。だから司は栞の携帯をコールしたのだった。殺意を持った経緯をあらかた承知した上で、冷静に自分を止めてくれそうな人間は、司にとって、姉しか思い当たらなかったのだ。
黙り込んだ弟に、栞は
「いいんだよ。それで。人間ってねえ強い欲望があってもそれを口に出せばある程度気が済んだりするんだよ。ほら『死にたいって言う奴は自殺しない』とか言うじゃん? あれ半分は嘘だけど半分は本当。自分の自殺願望を上手に聞いてくれる人がいると、少しは気が済む場合もあるの。殺人願望だって同じ。誰にも言えなくて胸ん中溜めてるからモヤモヤして実行したくなっちゃうの。口に出せばいくらか楽になるから、何で殺したくなったか言ってみ」
と誘い水をかけた。とはいえ彼女は、弟の殺人願望を果たして「上手に」聞けるのかどうか、自信は無かったが。
「最近、子供が親殺すニュース多いよね?」
「ああ、そうだねえ」
「結構、俺より年下の奴が殺してるよなと思って」
ぽつりぽつりと、殺人願望を持つに至ったきっかけを、司は語り始めた、栞は自分より二つ年下である彼の三十歳という年齢を思った。
確かに最近は、十代二十代の人間が親を殺す報道を見聞きすることが多い気がする。親殺しに限らず、凶悪犯罪が低年齢化している気もする。しかしそれは数字としての裏付けの無い印象論だという説もある。ということは、若者の親殺しの報道が増えているという自分たちの認識も印象論だろうか。それとも親殺しに限っては、数字としての根拠はあるのだろうか
分からないまま彼女は、「そうだねえ」とつぶやいた。こうやっていちいち相槌を打ってやらないと、弟はなかなか次の言葉が出てこないタイプであることを、この姉は熟知していた。
「そんなに我慢しないでさ、すぐ殺す奴ってずるいっつーか」
「それはお姉ちゃんも最近思ってた。十代二十代で親殺した人のニュースとか観ると、この人たちが殺すんなら、あたしだって殺していいんじゃないって気になってくる。てゆうかよくはないにしてもさ、世の中にはこれだけ、辛抱が足りない人がいるんだって思うと、自分が辛抱してることが馬鹿馬鹿しくなってくるってゆうか」
「止めて欲しくてかけてきたんじゃないの?」などと言っておきながら、栞はまるで、殺人をけしかけるような物言いをした。幸か不幸か彼女は率直なタチだからである。そしてそんな姉に対し司は何の疑問も抱かずに「そうだよね」と返事をした。今の彼にとっては、頭から殺意を否定されたり、「冗談でしょう?」などと茶化されるよりは、殺意に同意してくれる人間の存在がありがたかったのだ。
「でもさ結局辛抱しちゃった人間は、今更辛抱の糸切っちゃったら損よ。未成年の内だったら罪軽かったのに、わざわざ辛抱してから罪重くなるようなことしたら、馬鹿馬鹿しいじゃん。よく昔の恨みを晴らすために殺人する人もいるけどさマスコミにも叩かれるじゃん? 『昔の事を今更……』とかいって。誰も『結果的に彼は殺人に至ってしまった訳ですが、恨みを抱いてから数年は耐え忍んでいた訳であり、その数年間に対しては評価したい』とは言ってくれないの。むしろ『そんな昔の恨みを、いつまでも持っていられるもんですかねえ』とか言って奇人扱いよ。まあたまには、『PTSDじゃないか』とか言われることもあるけどさ、それだって医者の証明がいる訳でしょ?」
「PTSD?」
「最近新聞とかによく載ってるじゃん。心的外傷とかゆうやつ。何か事故とか事件とかから日が経ってても、その時の嫌な記憶がフラッシュバックしたりするんだって。司そういうのある?」
「そういうの」があれば、精神耗弱状態と認定される可能性があるので、弟が本当に父殺しをしても、罪に問われない可能性がある。とはいえ罪に問われないということは、その前提として父殺しを行うということだ。また殺人願望を口にした上でフラッシュバックの経験まで持っているとなると、これは本当に、父殺しを行われてしまう可能性が高くなる。だから姉として栞は、彼に「そういうの」が無いことを望んではいたが。
司はしばらく考え込むと
「んー、無いと思う」
と栞の望み通りの返事をした。彼は慎重なタチなので、こういった場合に軽々しく即答するような事をしない。
「無ければ多分PTSDとは認定してもらえないから、殺したら実刑だよ。それも我慢した分、年食っちゃったから刑期長いよ。やってらんなくない?」
「確かに、やってられんね」
弟の冷静な声を聞きながらひとまず栞は安堵した。最初に電話を受けた時には、一体どうなることかと思ったが、世事に疎い司は、PTSDだの何だのと耳慣れない言葉を聞かされたことにより何だか面倒臭くなってきたらしい。もちろんその面倒臭さ以上に、実刑を食らうことへの抵抗もあるだろうが。そう分析すると栞は
「だったらやめときな。ね? 大嫌いなお父さんのために道踏み外してどうすんの」
と幼い子供に言い聞かせるようにして司をなだめた。今や四人きょうだいの中で、父母を「お父さん」「お母さん」と呼び習わしているのは、長女の栞一人である。
「……でも、本当に殺したいって思う時って捕まるのなんてどうでもいいっていうか」
「分かるよ。お姉ちゃんもお父さん殺したくなったのは小五だっけ? 小六だっけ?とにかく小学校の高学年の時だったけど、少年院とか入ることなんて全然怖くなかったもん」
「え、姉ちゃんてそんな前からそんなこと思ってたの?」
司は唖然として尋ねた。自分が父親に殺意を抱いたのは、ここ一、二年のことだというのに、血を分けた姉は二十年以上も前から殺意を抱いていたというのかと、彼は衝撃を受けた。
とはいえ殺意の芽生えがここ一、二年のことなのなら、司はまだ、一、二年しか耐え忍んでいないことになる。いくら最近の親殺しの犯人たちに「俺より年下の奴」が多くても、彼らの辛抱が足りないとは言えない気がするが、司は幼少期からの父親への恨みにより、殺意を芽生えさせたため、結果的に生きた年数分、自分は我慢していたのだと考えているのである。そんな弟を栞は
「そうよ。二十年以上も殺意持ってても踏み止まることは出来るんだよ。だから司も大丈夫。きっと我慢出来るから」
とカラリとした声で慰めた。確かに大多数の人間は、人にどれだけ酷いことをされても殺したりはしないので、通常なら我慢できるはずである。
「……つーか殺意って消えないんだね。俺もこれからずっと、我慢しなきゃいけないんだね」
「でも別に、毎日毎日殺してやりたいと思ってる訳じゃないよ。実家にいた頃は毎日思ってたけどでも今は一緒に住んでる訳じゃないし。てゆうか司だって、一緒に住んでないんだからいいじゃん。別居してんのに殺すなんてもったいなくない? どうせ殺すんなら一緒に住んでた頃に、殺しとけばよかったと思わない?」
よく一般に言われる、「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」という言葉を、ふと思い出しながら栞は尋ねた。
本当にやらずに後悔するより、やって後悔した方がいいんだろうか。父親と別居して十四年経っても尚、時折父親への殺意に苦しめられる栞は、こんなことなら小学生の内に殺っておくべきだったと悔恨の念に駆られることがある。それでも本当に栞は、殺っておくべきだったと言えるだろうか。
思いついても、実行に移さない事柄というものは、躊躇させるだけの理由があるはずだ。ましてや父殺しというものは一般的に考えてもやるべきものではないはずだ。それなのにどうして世の中では、「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」という考えがまかり通っているんだろう? ひょっとしたら多くの犯罪者は、そういった理屈で犯罪に手を染めているのかも知れないのに。栞がそのようなことに思いを馳せていると、司は
「思うよ。でも俺一緒に住んでた頃は草野さんを殺そうまでは思ってなかったから」
と力無く答えた。怨恨による殺意というものは、必ずしも相手が今現在身近にいなくても起こり得るものである。
その時浴室の方でバタバタッとバスタブの蓋を閉める音がした。どうやら太一が、風呂から出ようとしているらしい。
サラリーマンにとって夜早く休む事は、仕事の一環でもある。栞はサラリーマンの妻として、早く自分も入浴しなければと考えた。別に妻である自分が夜更かしをしたところで太一は一人で勝手に寝るだろうが、そうは言っても
「大事な電話が入ったから、先に寝てね」
の一言くらい伝えなければ気を揉ませる事になる。栞は太一に対しては、明け透けな性格だから、電話相手の名も合わせて伝えなければ彼はやはり不審がるだろう。だからといって「弟から」と伝えれば、やはり太一を心配させることになると彼女は考えた。
栞は結婚と同時に両親と縁を切っているため、そんな彼女が、両親の息子である弟から大事な電話を受けたりしては、何事かと思うはずだ。現に二年前、妹の遥の友人から電話を受けた時は、遥の入院騒ぎに巻き込まれ栞はメニエール病になりかかって、一週間も寝込んだのだから。
栞は声をひそめると
「あのさあ、別に今日明日にでも殺そうっていうんじゃないんでしょ?」
と司に尋ねた。弟からだろうとなかろうと、父親に殺意を抱いてしまったなどという相談を伴侶が受けていると知っては、太一も心安らかではあるまい。ならば急を要さないのであれば、とりあえず話を打ち切ろうと彼女は考えた。
「……うん、別に……」
「明日電話するからさ。それまで待ってて。てゆうか殺した後に自分がどうなるかよく考えときなよ。それじゃね」
電話を切って栞がホウッと溜息を吐いた瞬間、浴室からガチャリと扉の開く音がした。どうやら間一髪間に合ったらしい。とはいえ栞は別に、夫にこの電話の件を隠すつもりは無かったが、かといって積極的に打ち明ける気も無かった。そんなこと事をしている時間があったら彼女は風呂に入りたかった。妻が入浴中であれ何であれ、太一は眠くなれば構わず寝るはずだが、栞は彼と共に眠りに落ちることを好んでいた。
バスタオルで体を拭きながら、素っ裸のまま台所に向かった太一は、居間のふすまをガラリと開けた妻を見やると、「花見風呂しちゃった」と嬉しそうにつぶやいた。今年三十八になるというのに、童顔な彼にはこのような幼い物言いがよく似合った。
「え、入浴剤?」
「違う。駐車場の桜見ながら入ってた」
「え、窓開けて入ったの? もう誰かに見られたらどうすんの?」
栞は口先だけで文句を言いながら、まだ体から湯気を発している夫に詰め寄った。男が少々風呂場の窓を開けていたからといって、あんまり問題は無い気がするが、さりとてその行為を奨励して、習慣化されても困る。
太一は裸の上半身をくねらせると、ふざけた口調で「変態」と言いながら、妻を軽くにらんだ。自分で窓を開けておきながら「変態」も無いものだが、その言動に彼女はふと中学高校時代の司を思い出した。
栞が部屋から出るまで待てばいいのに、さっさと着替え始めておきながら、突然思い出したかのように、「エッチ」とつぶやいて笑っていた司。男というものはおかしなことをするものだと思う。まあそうは言っても弟はせいぜい上半身を脱いでみせる程度だったから、全裸で家中を練り歩く夫とは、比較にならないが。
栞は
「変態は、あなた」
とつぶやくと、そのまま浴室に向かった。背後から「どうして?」という太一の声が追いかけてきたがそれは無視する。別に彼だって本気で質問している訳ではないのだ。こういったくだらない会話は、夫婦のじゃれ合いのようなものだ。
恋人同士だった頃は、じゃれ合いは大抵行き着くところまで発展したが、夫婦になって四年も経てば、じゃれ合いは必ずしも寝床を呼ばない。別に太一と寝るのが嫌な訳でもなければじゃれ合うのが不快な訳でもないが、栞は早く風呂に入りたかったのだ。
築四十年にもなる古い社宅には脱衣場も無い。彼女は浴室前の廊下で衣服を脱ぐと、扉を開け、浴室の中に入った。
結婚前までは病的な程痩せていたが、現在は中肉中背になり、時折はダイエットの心配もする程になった。太り過ぎては困るが、かといって独身時代のような体に戻りたいとは栞は思わない。鬱病を押して職場を転々としながら働いていた栞は、太りたくても太ること事も出来ずいつも体調不良を抱えていた。そんな彼女を、結婚という形で救ってくれたのが太一だった。
今でも時々睡眠剤は使用しているし、月に二、三度は鬱状態に見舞われるが、それでも専業主婦でいられる現在は幸せだった。大して稼ぎもない上に、自身もそう丈夫な方ではないというのに、共稼ぎを求めるでもなく家でのんびり家事をさせてくれる夫に、栞はいつも感謝していた。
鬱症状や睡眠障害は、完治していないとはいえ、独身時代になりかかった拒食症はもう影を潜め、まるで世間一般の女のようにダイエット情報に耳を傾けるようになれるなんて、以前と比べれば、天国のようようだ。
栞は夕食後のやや膨らんだ腹をチラリと見やると、湯船にザブンと身を沈めた。
体と心が弱いから、貯蓄が無いから頼りになる親がいないから、結婚後四年経ってもまだ子供をつくることができない。病院に通い食事に気を遣い適度な運動を心がけ、年々少しずつ体調はよくなってはいるものの、まだまだ育児に耐えるだけの気力体力が無い。せめて確かな収入があれば、それを頼りに生んでみようかとも思えるが、収入が少ない上に夫婦共に腺病質で、病院通いのせいで貯金ができない。
かといって自分が働き始めれば、きっとまた体を壊す。実家との関係を改善する術は無い。そうこうしている内に年をとる。高齢出産の目安の三十五歳を超えてしまう。
ひょっとしたら、生涯自分は子供を持てないかも知れないと思う。出産が危ぶまれる程体が弱い訳でもなければ、小さな子供も大好きで、且つ乳幼児に懐かれ易いタチだというのに、心身弱く金銭が無く実家と縁が薄いせいで子供が持てないかも知れないと思う。心身弱く金銭が無く実家と縁薄いからこそ、尚更子供が欲しいのに、心身弱く金銭が無く実家と縁が薄いゆえに、子供は持てないかも知れないと思う。
別にその三つ全てを、得たいとは思っていない。その中のたった一つでも持っていたなら自分は子供を生んだだろう。けれどその三本柱の内のたった一本すらも手に入らず、それどころか太一の母親はもう三年も入院している。育児に協力してもらえるどころか、週一で見舞ってやらねばならない姑の存在が、更に栞の肩に重くのしかかる。
けれどそれでも、結婚前と比べれば栞は幸せだった。そして実家を出るまでの十八年間と比べれば、比べようも無い程に彼女は幸せだった。
スタート地点で日本の一般的な人間が持っている財産、例えば両親の愛とか健康とか、平均的な金銭などといったものに恵まれなかった栞は、多くの回り道を経て、貧しく虚弱ではあるが、誠実な男との結婚生活を手に入れた。あとは一歩一歩この生活を着実なものにしていくことが、彼女の目標だった。
倹約を心がけ質素な生活を送ること。健康に留意して体力を向上させること。そうすればもし子供が持てなくても栞の幸福度は増すはずだった。支出が減れば、その分医療費にかけることが出来るから健康は増進されるだろうし、健康が増進されれば、医療費の出費が減るから、貯金が出来るようになる。
そうすれば、壁がすぐカビだらけになる様な、こんな通気の悪い社宅からも出られるようになるし、そうすれば更に健康は増進される。そうなれば太一の喘息もよくなるかも知れないし、自分もパートくらいなら出られるようになるかも知れない。
日本の一般的な人間なら、おそらくとうに得ているはずの幸福。それが栞と太一のささやかな願いだった。そんなささやかな幸福を得るために二人はごく質素に暮らしていた。
そんな地味ではあるが幸福の入口に立った生活を送る栞にとって、司からの電話は、心を騒がせる異音だった。またしても。いい加減にして欲しい。彼女は深い溜息を吐くと湯船にザブンと身を沈めた。
遥の友人である関口千奈からの電話を受けてから、約二年。ようやく忘れ始めていた頃だった。両親に絶縁宣言をしても弟妹たちとまで絶縁する勇気が無く、さりとて積極的に交流したい人々ではないというのに、時折弟妹もしくは弟妹の関係者が、厄介事を持ち込んでくる。
あの時は、実家でニート中の遥がどうやら両親に虐待を受けている節があり、その上言動がおかしくなったと、千奈から連絡が入った。当然病院に連れて行くべきだと考えた栞が行動を起こすと、それを聞きつけた父親から
「病院になんか連れて行く必要はない。お父さんたちが何とかするから、この問題に関わるな」
と電話が入り、平行線の大激論に発展した。虐待が疑われる両親に妹を任せる訳にもいかず、千奈に地元の警察に相談してもらった。だが芳しい返事を得られなかった。他に策も無く途方に暮れていると数日後司から連絡が入った。遥が大暴れをしたため、父親がようやく病院に連れて行ったところ、遥は肝臓を壊していて廃人寸前だったそうだ。遥は即刻、入院させられたらしい。
病院行きを主張した栞が正しかったのに、父親からの謝罪は無かった。そしてそれとは何の脈絡も無く、半月後パーキンソン病の為療養中だった母親が父親に離縁された。
一連の騒動でくたくたになった栞は、その後一週間程寝込んだ。草野家の人々がこういった事態を引き起こす人たちだということは、分かり過ぎるくらいに分かっていた。だから彼女は両親に決別宣言をしてあったのだ。だが弟妹もしくは弟妹の関係者たちが、栞に接触してくる。弟妹や弟妹の関係者に接触すれば、結果的に両親ともまた接触することになる。
今回の件は、司さえ両親に告げなければ、彼らが首を突っ込んでくる事はまず起こり得ない。そもそも司が打ち明ける事はまず考えられない。しかし今回の問題は、司の「父親への殺意」だ。弟の「父親への殺意」が、自分の封印したはずの「父親への殺意」を紐解きそうで栞は怖かった。紐解かれたところで、自分はまず殺人を犯すような人間ではないことは理解しているが、燃えたぎる殺意を抱えながらこれからの人生を送ることが億劫だった。
なぜ人の殺意を鎮めるために、自らの殺意をたぎらせ、それにより苦しめられねばならないのだろうと栞は思う。そういうことは、殺意など抱いたことの無い幸福な人間がやってくれればいい。もっと心と体の強い人間がケアしてくれればいいではないか。
だが弟のケアをするにふさわしい他の人間が、彼女には思いつかなかった。母親もあてにならない。いくら自分も病気だったとはいえ、一緒に住んでいた遥の異変に気付きながら、彼女を放置していたような女だ。また他に頼りになる親戚もいなかった。
弟のこのような状態は、精神科が対応してくれるものなのかどうかもよく分からない。たまに自殺志願者のための電話相談室の番号は新聞に載るが、殺人志願者のための窓口など、聞いたことも無い。仮にそういったものがあったとしても、司がそんな所に電話をする気になるかどうかも不明だ。
「本当に殺したいって思う時って捕まるのなんてどうでもいいっていうか」
などと口走る人間が、おそらく殺人を止めるであろう機関に、電話をかける気になるかどうかは疑わしい。そしてそういった機関が、彼の殺人願望をどの程度食い止めてくれるのかも見当がつかない。三十年の歳月が芽生えさせた司の殺意。入り組んだ複雑な長い歴史を心のヒダを、初対面の相手がどこまで汲んでくれるのか。どこまで適切な対応をしてくれるのか。
結局、現時点で弟の思いを一番理解出来るのは、同じ父親に育てられ、十六年の月日を共に過ごした栞なのだ。だがしかし
「弟のことを、姉として本当に愛しているか」
と問われたら栞は「イエス」とは答えかねた。酷い父親ではあったけれど、男の子を欲しがっていた彼は司をひいきしてもいたのだ。それにも関わらず、結局は父親に殺意を持った司。いやなまじひいきされていたせいで殺意を持つのが遅れた司。環境にそうされた側面もあるとはいえ、そうはいっても司は視野の狭い愚鈍な男だ。そんな男が今更殺意に苦しめられたからといって、なぜ自分が苦悩を覚悟してまで助け舟を出さねばならない?
にわかに憤りに駆られた栞は、湯の中から右手を振り上げると、それを強く打ち下ろした。バシャアンと大きな音を立てて飛沫が飛ぶ。バシャアン。バシャアン。
父親譲りの短気な性格を持ちながら、父親には無い自制心を身につけてしまった自分。風呂場が湯にまみれたところで何の問題も起こらない。物に八つ当たりをする時も、冷静に被害を、最小限に食い止めようとする自分。
父親だったらこんな時、浴室の壁を叩き割っているだろう。実家は乱暴な父親が殴った跡で壁が穴だらけだった。あの人はちゃぶ台どころか、夕飯の乗ったテーブルでさえひっくり返した。叩き割られた食卓盆の数は何枚に及んだだろう?
湯飛沫の中で息を吐きながら栞は、それでも自分は弟を何とか救うだろうと考えた。司に対してはどこか冷ややかな目を持っているのは確かだ。それでも栞は彼を憎んではいない。憎んでいない人間が助けを求めてきた以上、自分はそれを救うだろう。憎んでいた遥の苦境の際にさえ手を指し伸ばした自分だもの。弟に関わる事で、どれだけ自分が苛まれようと、このまま放置して得るだろう罪悪感に比べれば結局マシだと思うだろう。
それが自分のお人好しさゆえなのか。あるいは世間の常識というものなのか。もしくは父親という共通の敵を持った者同士の、連帯感なのかは栞は知る由も無かった。弟妹の中で一番父親に似ている遥を心から憎みつつも、結局はその父親により、廃人寸前まで追い込まれた彼女のために立ち上がったように、自分は司のためにきっと骨を折るだろう。諦めの境地でそう予想すると、栞はもうもうと広がる湯気の中でハアハアと荒い息を吐いた。
その時揺らぐ湯面の只中に、一片の桜の花弁が、今にも溺れそうになりながら漂っているのが見えた。二日目の濁った湯の中に浮かぶその薄紅色は、薄汚く不似合いだったが、栞は何やら高揚を覚え、耳を澄ませた。
風は無い。風は無いのになぜこの珍客は、我が家の古ぼけた浴槽の中に飛び込んで来たのだろう。
栞はそっと手を伸ばして花弁をすくうと、湯に濡れたそれをつくづくと眺めた。温められ朱色に染まり始めた彼女の指先に、花弁はしっとりと馴染んで見えた。
わざわざ汚い湯の中に飛び込んで来たこの美の化身に、ふと親しみを覚えた栞は、ザバッと音を立てて立ち上がると、息を詰めガチャリと窓を開けた。
瞬間、濡れた肌が春宵の甘い冷気を浴びてヒヤリと硬直した。つい先程、夫を戒めたはしたない行為を、女である自分が行っている事実に動揺しつつ、彼女は恐る恐る外の景色を見やった。
まだ夜の十時だというのに駐車場に人の姿は無く、無機質な車の群れが、枠内に黙りこくって整列していた。駐車場脇の通りを暴走車が二台騒音を立てながら通過し、道沿いに植えられた桜の木々をかすかに揺らしたが、それらはすぐにピタリと静止した。まだ五分咲きにも満たない貧弱な木々は、貧弱であるがゆえの若々しさを湛えながら、薄暗い街灯の下で、ほんのりと輝いていた。
「あんたたちって、本当に綺麗ね」
濡れた小さな乳房を覗かせながら、栞はふと木々に話しかけていた。
「花なんて他にもいっぱいあるのに、一番日本人の心掴んじゃってさ。結構いい気持ちなんじゃない?『桜の木の下には死体が埋められてる』まで言わせてさ。一体何人の人間殺したの? どれだけの殺意があればそれだけ綺麗な姿になれる訳?」
そよとも動かずに木々は栞の言葉を聞いていた。もう若くもない裸の女の戯言を、木々は微動だにせずに、ただ聞いていた。
「誤解しないで。あたしはあんたたちが嫌いじゃない。死体や殺意やそういう汚らしいもの受け止めても綺麗に咲ける花があるのは救いだもん。だからさ、あたしたちの殺意も受け止めて。受け止めてよ」
耳元で小さく風が起こり始めた。木々もゆらゆらと揺れ始めた。春宵の風は強い。それなのに先程まで風が絶えていたことが、酷く不思議に思われた。
木々のざわめきを確認すると、栞は窓を閉めて再び湯船に浸かった。湯はすっかりぬるまっていた。先程の花弁はいつの間にやらどこかへ消えていた。
O公園に向かう車の群れは坂道で列を成していた。くたびれた車のボディを、太陽が眩しく照らす。今日は絶好の花見日和だ。有料駐車場まで距離はまだあるものの道路脇の桜の花々は、花見客への最初の顔見せとばかりに今を盛りと咲き誇っている。
運転席の司は軽く溜息を吐くと、傍らのサイドブレーキをグイと引いた。トラックの運転手だから渋滞は日常茶飯事だし坂道発進にも慣れている。だが慣れているからこそ、休日にまでわざわざこんな片田舎で、渋滞に巻き込まれていることが憂鬱だった。
蛇行する坂道を目で追っていくと、県外ナンバー車がやけに視界に飛び込んでくる。どうやらこの公園は桜の名所であるらしい。県内ナンバー車を運転する自分は、地元の人間に見えるのだろうか? ふとそんなことを考える。
弟の溜息を聞きつけた栞が、「苛々してるの?」と助手席から声をかけた。三十二にもなるというのに、姉は相変わらず甘く可愛らしい声を出す。いや昔から実年齢より三つ四つ若く見える彼女は、姿形も可愛らしいと言って良いだろう。髪をポニーテールにまとめ貧弱な上半身をヘンリーネックシャツで包んでいる助手席の女と、その隣で、がっちりとした腕でもって、ハンドルを握る俺。
体型のみならず顔立ちもまるで似ていない俺たちは、傍から見れば、夫婦かカップルに見えるのだろう。地元ナンバー車に乗って地元の公園に花見に来たのん気なカップル、渋滞の坂道はガソリンを食うから、女の軽自動車でやって来た、ガソリン代の高騰に敏感な、けれど幸せなカップル、そんな風に周囲には映るのだろう。そんなことを考えながら司は「ちょっとね」と答えた。
別に花見をするのはいい。けれどなぜ場所を、二人の住まいの中間にしなかったのだろう? と後悔しながら。
「いっぱい苛々しなよ。それでこそ葬式だよ。色々予定があるのに突然飛び込んで来るのが葬式。面白くも何ともないのにわざわざ遠くまで出かけなきゃなんないのが葬式。そして面白そうな予定をこなしに行く車のせいで、渋滞に巻き込まれるのが葬式」
開け放した窓に肘を付きながら栞はつぶやいた。その言葉に司は、四日前の栞との電話を思い出した。
「死者に対して、殺意持つ人はいないでしょ? だからお父さんは死んだものって思ってみるのはどう?」
殺意を告白した翌日にそのような電話をかけてきた姉に、司は少々面食らった。人の死というものを、「思ってみる」だけで現実として認識する事などできるものだろうか? と彼は思った。しかし黙り込む弟に栞は
「今お父さんと一緒に暮らしてる訳じゃないしさ。もう連絡も取ってないんでしょ? だったらお父さんはある意味司にとって死んだ様なもんじゃん。だったらそうやって、自分を騙してみるのも手じゃない?」
と畳みかけた。確かに生きてはいても交流の無い人間など、自分にとっては最早死んだも同然の存在と言えるだろう。
「でも自分って、騙せるのかなあ?」
「そりゃあただ自分に言い聞かせたって無理よ。でも手続きを踏めば、何とかなるかもよ」
「手続き?」
「本当は葬式挙げちゃうのがベストだけど、そういう訳にもいかないから、個人的にお父さんを偲ぶ会を開催しちゃえばいいんじゃない? ほらよく、『桜の下には死体が埋まってる』って言うじゃん? ちょうど桜の時期だしさ。二人でお花見にでも行って亡きお父さんを偲ぶのはどう? てゆうか殺したいんだから偲ぶ気持ちなんて無いけどさ、あたし達は子供だから、お父さんが死んだらお葬式には出なきゃいけない訳でしょ? まああたしは出る気無いけど、でも司はお父さん殺したいんだし、ちゃんとお葬式に出てお父さんの死を認知する必要があると思う。だから自分にお父さんの死を認知させるために、お父さんの死のセレモニーを、開催してみたらどうかな?」
茶番だ、とは思わなかった。むしろ少し残酷な気持ちがしてワクワクした。これは小学校で禁止されている類の遊びだ。子供が禁じられている遊びを、三十路を迎えた大人が大真面目に行うという馬鹿らしさと真剣さが司を魅了した。こんなことが果たして本当に、問題の解決になるのかどうかは分からなかったが、この機会に、姉と五年振りに行き会ってみたい思いもあった。
満開の桜の下で姉と共に葬式ごっこを執り行い、父親の愚痴を言い合うこと。もしかしたらそうすることでほんの少し爽快な気分になれるかも知れない。思えば姉が家を出るまで、俺たちは仲の良い姉弟だった。高校まで同じ学校だったから、両親に限らず教師への愚痴まで二人で言い合っては笑い転げたものだった。司は懐かしさに後押しされるようにして、姉との約束を取り付けた。
「近所に、桜の有名な公園があるの」
何も考えずに、姉の住まいの最寄り駅を待ち合わせ場所にした。電車で三時間の道のりに揺られ挙句の果てに上り坂渋滞。それで少し不機嫌になったけれど、言われてみれば確かに葬式とは体力的にも時間的にも消耗するものかも知れない。そうは思うがしかし彼は
「でも俺たちが葬式行くのに、遊びに行く人たちが渋滞作ってるのは何かやだね」
と不平を鳴らした。そうは言っても、花見会場を葬儀場に見立てている方が非常識なのだから、仕方の無い話である。
「人の死ってそういうもんじゃん。自分にとってものすごく重要な人が死んだ時でも、一件隣の家じゃあ、フルーチェはプルプルとトロトロのどっちが美味しいか、なんてことで喧嘩してたり、世界の死亡原因の第一位が栄養不足だっていうのに、日本では毎年一千百万トンの食糧が廃棄されてたり。そうゆう世の無常なんかを考えさせられるのが、人の死なのよ。だから徹底的に理不尽な思いを噛み締めるのが葬式の意義なのよ」
「えっ、世界の死亡原因の第一位って栄養不足なの? 癌とかじゃなくて?」
俺はフルーチェはプルプル派だなあと思いつつも、そうはいっても、世界の死亡原因の方が重要な気がした司は、驚いて傍らの姉を見やった。これから模擬葬式に出かけようという時に世界の死の真実を知らされたのは、何だか妙な心地だった。
「癌とか心筋梗塞とか、脳溢血なんかが上位を占めて、『やれ大変だ』なんて言ってる国は恵まれてるってことよ。そうゆう発展途上国の人とお父さんを、交換してあげたいじゃんね。あんな人でなしがたまたま日本に生まれて、ただそれだけの理由で長生きして、途上国に生まれた善人が早死にするんだから、不条理な話だよ。まあだからこそ今日あたしたちが、お父さんの死を認めて弔ってあげるんだけどさ」
「……もし本当に交換出来たら……、つーか俺たち家族が途上国に生まれてたら、俺草野さんを殺したいって思わなかったかも知れないね。思う前に草野さん死んでたのかも」
「あたしも思わなかっただろうなあ。思う前にあたしが死んでただろうし。あたし体弱いから」
先進国に生まれるのも不幸なものだと思いながら、栞は答えた。栄養不良による死がどれ程苦しいものかは知らないが、しかし死に至らない栄養不良なら彼女は知っていた。短期間とはいえ、拒食症まがいの状態に陥ったことは何度もあるし、幼少期に栄養が足りなかったせいで永久歯が生えず、二十代で二箇所もブリッジにすることになった。その費用は水商売をして捻出した。
貧しい国に生まれ貧しさゆえに早死にするのも辛いだろうが、しかしそこには、連帯の幸せもあるのではないかと栞は思う。豊かな国に生まれながら自身は貧乏をし、親にも愛されず幼少期の栄養不良その他の原因により、未だに虚弱に悩むのは、特出しているだけに反って惨めだと思う。けれどそうは言っても彼女はユニセフなどに募金は行っていたが。
日本人の中では、貧しい方であるとはいえ、いや貧しい過去と現在を生きているからこそ飢えの記憶を持っている栞は、現在飢えている人間の存在を無視できない。とはいえいくら貧しかったとはいえ、別に実家は食料に事欠くほど窮してはいなかった。ただ父親が怒り出すと夕飯が出てこない家であった上に、両親にひいきされていなかった彼女は、しばしばひもじい思いをさせられていたのである。
けれどいくらひもじい思いをしていたとはいえ、日本に生まれた栞は、生き長らえてしまった。生き長らえてしまったからこそ殺意が芽生えてしまう。実父に殺意を抱きながら生き続けることと、親に対する殺意など覚える前に早々と死を迎えることは、一体どちらが幸福なのだろうと彼女は思う。そんな姉に司は
「姉ちゃん、今でも体弱い?」
と心配そうに尋ねた。酷い両親とはいえ二人にひいきされていた彼は、病気の時も比較的献身的な介護を受けていたため、頑強な肉体を誇っているのだ。
「子供の時に壊した体ってなかなか治らないんだよね。……あ、でも胃は治ったよ。ほらお姉ちゃん、幼稚園の時に神経性胃炎で病院運ばれた程胃が弱かったじゃん? あれ大人になっても治んなくて二回も胃カメラ飲んだりしたけど、結婚したら治った。最近はもう胃薬、全然飲んでないや」
「何で幼稚園児が、神経性胃炎になったんだろうね?」
司が思わず笑いを漏らしながらそう尋ねた。全然笑い話ではない気がするが、栞は「ホントだよね」とつぶやくと、ゲラゲラとひとしきり笑い、そして
「そりゃあ、あんな親に育てられたからでしょ」
と言い放った。しかし言った後で、隣に座る弟も「あんな親に育てられ」ておきながら胃など全く壊していない事に思い当たった。そこですぐさま
「それにお姉ちゃんは、生まれつき神経質なとこあるしねえ」
と言い添えた。これは半分は本当だが半分は嘘だ。いや栞は確かに司と比べると神経質なタチではあるが、しかしその性質自体、親の接し方の違いによって育まれてしまった懸念がある。実質的に年長なのは栞の方とはいえ、むしろ比較的可愛がられて育った司の方が長子ののん気さを備えているのは、両親が男の子である司を贔屓していたせいだ。
とはいえ栞は弟のことを、ひいきされていたからという理由で憎んだ事は無い。いくらひいきされていたとはいえ、元々子供を愛さない両親だったから、世間一般の子供と比べれば司は不幸だった。それに我が子をえり好みするような人間に気に入られるのは、むしろ恥だと彼女は考えていた。だから栞が弟を疎ましく思うのは、ひいきされていたゆえに両親を憎み始める時期が遅れた、その愚鈍さだった。
貧乏人の子供より金持ちの子供の方が、我が家の財政状況というものを、客観視するのが遅れるのと同様に、比較的恵まれていた司は両親の性質の悪さに気付くのが遅れた。立場上仕方の無いこと事かも知れないが、しかしあまりにも遅過ぎたと彼女は思う。もし彼が正義感というものを持っていたならば、もっと早く気付けたはずではないだろうか。
だが栞は話題をそのようなテーマに移さないために、敢えて自分の神経質さを、「生まれつき」と評した。今日は同じ傷を持ち同じ志を持った者同士として花見にやって来たのだ。何もここで二人の相違点を明らかにする必要は無い。いくら弟に、至らない点があるとはいえ、父親と比べれば比べようもない程小さな欠点だ。
大いなる邪悪な存在というものは、それに立ち向かう一人一人の些細な違いなど、吹き飛ばしてしまう力を持っている。だから共通の敵を持った時、人間は結束する。ただしその結束は、長くは続かないが。
その時、前方のミニバンが、一瞬坂道をバックしかけたものの、すぐさま持ちこたえて前に進み始めた。どうやら運転があまり上手くないらしい。とはいえ父親の葬式ごっこに向かう途中で、うっかり己が命を奪われては洒落にならない。姉弟は束の間ぎょっとしたが、その先に誘導をする警備員の姿が目に入った。二人は会話を打ち切ると指示を求めて警備員の姿を凝視した。程無く二人の車は未舗装の土埃の舞う駐車場に進入した。
先程の、葬式ごっこを本物にしかねない運転手兼父親を従えた家族連れや、カップルや友人同士、その他、様々な人間関係で成される人々の群れに混じって、姉弟は先刻の死の恐怖もすっかり忘れ、花見会場へと向かって行った。
駐車場周辺はあんなに混雑していたのに、敷地の広い公園のため、中は思った程ごった返してはいなかった。それでもそこかしこに花や団子を楽しむ人々の姿が目に入る。広場の中央には、けんちん汁やら鮎の塩焼きやら、お好み焼きやらを売りさばく屋台が点在している。栞は手前の各種飲料を扱う屋台へ足を向けると
「司、飲み物おごって」
と弟の方を振り返った。弁当は用意してあるから飲み物だけを買えばいい。
司は「いいよ」と言うと、氷水の中に浮かぶ缶ジュースの中から、ビールを探し当てると「姉ちゃんは?」と尋ねた。どうやら花見酒をするつもりらしい。
「あんた運転手なんだから駄目。ノンアルコールビールにしなよ」
「えー、姉ちゃんばっかずるい」
「お姉ちゃんも、ノンアルコールにするから」
運転を職業にしている者の方が、案外交通法規を守らないものだと思いながら、栞は支払いをする司を、少し離れた場所からぼんやりと眺めた。
いかつい体つき。えらの張った輪郭。つぶらな瞳。少し趣味の悪いパーカー。色の濃過ぎるジーンズ。極悪人という風貌ではないし実際、極悪人ではない。少しいい加減なところもあるけれど基本的には実直な性格だ。注意をすれば大概、素直に従う。四日前に司に電話をかけた時も、運転中でありながら携帯を取った司に注意をすると、彼はすぐに
「じゃあ、一時間後にかけ直して」
と答えた。司はあまり栞に逆らわない。けれど時々、法律には逆らおうとする。法律の禁ずる殺人罪を犯したいと願い、栞の提案する葬式ごっこはいとも簡単に了承した弟。彼の中にも多分ルールがある。
どうやって司のルールに添いながら、彼の殺意を枯らしたらいい?
栞は敷地内に咲き乱れる桜の木々を眺めると、心の中で
「ねえ、どうしたらいい?」
と尋ねた。
「あんたたちに頼って、こんな所まで弟を引っ張り出しちゃったよ」
ざわざわと木々は揺れた。それは栞の問いかけけに答えようとしているようにも、まるで意に介していないようにも、どちらにも見てとれた。
噴水の正面のベンチが空いていたので、姉弟はそこで栞手製の弁当を広げる事にした。実家にいた頃、たまに弟のために料理を作ってやる事はあったが、弁当を作ってやったのは初めてだった。体が弱いから台所に立つのも億劫で、夫以外の人間には滅多に手料理など食べさせたこともないというのに、弟のために食事を整えるのは案外楽しく、それをふと栞は不思議に思う。
弟だから格好つける必要が無いから、肩肘張らずにトライ出来るからか。同じ味付けで育った者同士だからか。自分が幼い者を世話することが好きだからか。久し振りに会ったからサービス精神が芽生えただけか。独身の上、彼女もいない男なら、手料理をさぞ喜びそうな気がするからか。貧しい専業主婦という世間的に肩身の狭い立場にあるゆえに、せめて料理の腕を振るいたくなったのか。単純に今日は体調が良かったからか。
様々な可能性をぼんやりと考える姉を尻目に、司は節くれだった手を伸ばすと、栞の用意したお手拭を取り出し、無言で手を拭った。
傍らの簡易飲食所では、人々がおでんやら焼きそばやらを食している。赤ら顔の中年男がゲラゲラと笑い転げながら、化粧の剥げかかった中年女の酌を受けている。隣の土産物屋では、この機会に地域の特産物を売りさばこうと目論む商魂逞しい商工会の人々が、通りすがりの客に、無理矢理試食の漬物を押し付けている。
「こんな所に、草野さんは埋められてるのか……」
感に堪えたように司がつぶやいた。いくら「ごっこ」とはいえ、葬式とはもっと厳かなものではないのかと、彼は思った。
「桜の木の下に埋められるっていうのは、そういうことよ。『つまるとこ酒屋がための桜咲く』ってね。桜ってのは、人間が飲み食いして馬鹿騒ぎするために咲いてる部分もあるんだから、あたしたちはその事実を厳粛に受け止めて飲み食いしなきゃいけない」
「桜見て飲み食いするのが、偲ぶ会?」
姉の意図することが何だか分からなくなりながら司は尋ねた。一体どうして、こんなに人の多い公園を会場に選んだのかも、よく分からない。確かに「さくら名所百選の地」に選ばれているというだけあって眺めは素晴らしい。二千本の桜は圧巻だし、高台にあるおかげで、F山を始めK盆地の町並みを越えて遠くY岳まで一望出来るロケーションも、見事だと思う。
だがそれは、こんな中央のベンチに座っていては得られないし、そこまで展望がいいからこそ花見客も集まってしまうのだ。それくらいならいっそ、無名所でひっそりと一本の桜の木を眺めながら偲ぶ会を開催した方が、余程雰囲気が出るのではないかと、彼は思った。別に大して見応えのある木でなくとも構わない。とにかくこんな陽気な花見客の中で偲ぶ会を開催するのは、違うのではないかと思う。
ズラリと並んだサンドイッチの中から、カツサンドを選び出しながら、不満げに尋ねる弟に、栞は
「葬式ってお酒とかご馳走出るじゃん。まあ今日は別に、大してご馳走用意した訳じゃないけどさ、飲み食いしながら故人のことを語り合うのが葬式じゃん。残された人間が惜しい人を亡くしたって思えないんなら、故人の悪口言い合えばいいんじゃないの? そしてめいっぱい悪口言ってあの人のことは忘れる。それでどうよ?」
と言うとノンアルコールビールの蓋をプシュッと開けた。彼女は例え「ごっこ」とはいえ、憎い父親の葬儀を、しめやかなものにする気などさらさら無いのである。
「今日悪口言ったところで、忘れられるかなあ?」
「忘れるの。しょうがないの。死者に対して生きてる人間は手出し出来ないんだから。せめて生きてる人間が使える武器でもって、唇と舌でもって死者を罵って、それで忘れるしかないの」
カツサンドを掴んだまま、司は黙り込んだ。栞は蓋を開けたノンアルコールビールを彼に差し出すと
「さあ、飲んで」
と促した。
「どんどん飲んで食べて。そして言いたいこと吐き出して」
とはいえそれは、ドライバーの為に用意されたノンアルコールビールだったため、それを飲む事により、どれだけくだが巻けるかは甚だ疑問ではあった。
偽の葬儀を開き、偽のビールを飲む哀れな姉弟。しかしそのようなごっこ遊びをくだらないと思ってしまえば、二人は本当の殺人を犯すしかないのだ。茶番も真剣に演じれば演者にとっての真実になる。想像力は実際の犯罪を凌駕する。苦労の多い人間に想像力が与えられるのはそのような事情による。現実的に何かを手に入れても、それにリアリティーを感じられないならいっそ、豊かな想像力を手に入れた方が人は幸せになれる場合がある。
ノンアルコールビールを飲み下した司は、フウッと溜息を吐くと
「何から、言えばいいだろう」
とつぶやいた。思い詰めた顔をして不似合いな紫のパーカーを羽織った弟は、この淡く美しい桜の群れをバックにするには、あまりにも浮き上がっていた。栞は憐憫の情に駆られながら、ふと目を逸らした。
母方の血のせいで、色覚異常になってしまった司は、そのせいか昔から色彩のセンスが無い。栞は姉としてそれを告げてやるべきかどうかが分からない。告げてやったところで、住まいも遠く買い物にも付き合ってやれないのだから、教えない方が親切というものかも知れないとも思う。どうせ彼は軽度の異常なのだ。運転も出来るし日常生活にもほとんど支障は無いと聞いている。
だがその異常のせいで、自分も気付かないデメリットを得ていることを知ったなら、もしかしたら弟は母親にも殺意を抱くかも知れないと思う。父親を殺したい程憎む人間が、母親にまで殺意を抱いた時、人は精神の均衡を著しく崩すことになる。憎い人間というものは少なければ少ない程幸せなのだ。
栞は再び、弟に視線を戻すと
「そうねえ。お父さんが司のあそこに包丁宛がった話とか…」
とつぶやいた。こんな時に母親のことまで考えるのが厭わしく、早く父親の強烈な話をしなければと、彼女は思った。
「……何それ?」
「覚えてないの? 司が幼稚園の時、お父さんが司のパンツ脱がせて根元に包丁宛がって切る振りしたじゃん」
「……覚えてない」
蒼白な顔で否定する弟に、栞は一驚した。まかり間違えば殺されかけていたというのに、あるいは男という性を失っていたかも知れないというのに、あんなにも恐ろしい思いをしても、幼児というものはその記憶を失うものなのかと彼女は驚いた。だが栞にしても、幼児の頃神経性胃炎を起こしたことは後で母親に聞いたから知ったのであって、自分では、記憶していないのである。
どれだけの恐怖や苦痛であっても、幼き者はそれを忘れてしまうことが多い。だから物心つく前に虐待により命を奪われた者は、ひょっとしたら幸せかも知れないと彼女は思う。死に至らない虐待は被害者を生き長らえさせてしまう。そしてその生が、加害者に対する殺意を育ててしまう。被害者は加害者にならないために、自らの意思を振り絞り憎悪と戦い続けることになる。
だがそれはさておき、せっかく弟が忘れていた事件をうっかり口にしてしまったことは、果たしてよかったのだろうかと栞は考えた。そんな記憶は忘れ去っていても、司は父親に殺意を芽生えさせたのだ。今日はその殺意を、封じる為にやって来たというのに、わざわざ忘却の彼方に追いやられていた記憶を突付いてしまうとは、やぶ蛇になってしまわないだろうか。悩みつつ彼女は
「覚えてないんだねえ。火が点いた様に泣いてたのにねえ……」
とつぶやいた。一度口をついて出た言葉というものはもう取り消すことは出来ない。
「何で草野さん、そんなことしたの?」
「分かんない。多分、司が何かいたずらでもしたか、言うこと聞かなかったかしたんだと思うけど、司って男の子の中ではおとなしい方だったし、そんな大したことした訳じゃないと思う。さすがにお母さんがとんで来て止めたけどね」
「子供相手に、ひでえ話だよね」
全くだと思いながら栞はうなずいた。司が幼稚園児だったのだから、あの時自分は五歳か六歳か七歳か……。いずれにしろ自分も幼かったが、あの時の光景ははっきりと覚えている。包丁を宛がう父親の瞳がらんらんと輝いていたこと。口元に緩んだ笑みが浮かんでいたこと。耳をつんざくような弟の泣き声。事件の後で母親に
「このこと、誰にも言っちゃ駄目よ」
と口止めされたこと。あの時の光景はなぜか金色の光に包まれて脳裏に浮かび上がる。決して楽しい思い出ではないというのに、衝撃的な記憶というものは、なぜか光と共に浮かび上がる。そう、まるでこんな春の陽射しの様に。
栞は頭上に輝く真昼の太陽を仰ぎ見た。陽の光はあらゆるものを照らす。艶やかな桜の花もそれにかこつけて飲食をする人々の姿も、そしてあたしと司の醜い殺意も。栞は一瞬、全てを白日の下に晒したいような気分に駆られ
「お父さんっていずれ刃傷沙汰起こしかねない人だよね。遥相手にも、包丁持ち出した事あるらしいじゃん?」
と 遠い目をした。居合わせた記憶と耳伝えの情報。いずれその刃が本当に血を吹く日が来るのかも知れない。
「ああ瞳に聞いた。もう四年前だっけ? 遥と草野さんが喧嘩した時、草野さんが包丁つかんだんだよね」
司が末妹の名を出した。現在二十二歳の瞳はやはり四年前、その事件の数ヵ月後に親元を出ている。
「そう瞳が『お姉ちゃん逃げて』って叫んで、遥は裸足で家から逃げたんだって。でもあんな人に、本気で喧嘩売る遥も遥だと思うけどね。怒ればすぐ暴力に訴える人だっていうのは、分かってたことじゃん」
「遥も家から出ればよかったんだよな。何であいつ短大出た後家に戻ったんだろ?」
父親譲りのへの字眉をひそめる司を眺めながら、栞はとりあえず、話題が変わったことにホッとした。
考えてみれば全てを白日の下に晒す必要は無い。今日の自分の目的は、弟の殺意の緩和であって、そのための手段であるガス抜きとしての会話は、あくまでも手段に過ぎないのだから、全てを打ち明け合うことを目的にするべきではない。それよりもこうやって様々な話題を出して、父親が司の男根に刃物を宛がった話の重みを誤魔化してしまおう。その思いつきに夢中になりながら彼女は
「お姉ちゃん、遥が短大出る前に進路相談されてさ。『実家から通える幼稚園が無いかも』とか言うから、『実家から通う必要無いじゃん』って言ったんだよ。それなのに一人だけ実家戻って、結局幼稚園も辞めて体壊して入院するなんて馬鹿みたい。体壊す前も、『こんな家出てってやる』とか何度も騒いで、お母さんにも『本当に出て行って欲しい』って言われてたのに結局口っきりで居座ってさ。それで退院してからも、『家出たい』とか騒いでるけどもう無理じゃん? 体も頭も治ってないし、あんなんじゃ雇ってくれる所無いんだからさ」
と遥を罵った。遥は以前、幼稚園教諭をしていたのである。
「あの家が嫌なら、戻んなきゃよかったじゃんね」
「一人暮らしはお金かかるし家事しなきゃいけないから、やだったんだって。でも金とか家事とか言ってる場合? 我が子に包丁突き付けるような人と暮らしてたら、いくら金貯めたって無駄じゃん。棺桶まで金持ってく気かっての」
そうはいっても、確かに半端な学歴の人間が、一人暮らしをするのは大変なことではあるがと思いながら栞は答えた。栞の場合は一般事務を希望していたが、バブル崩壊後の地方都市で、一人暮らしの女を受け入れてくれる優良企業は大変少なかった。
世間というものは親に愛されていない人間に厳しい。親の愛さえあったなら、栞とて親元から通える企業を選んだだろう。とはいえ実家は過疎地の一歩手前のような田舎だった。同級生の大半は、進学やら就職のために親元を出ていたから、親の愛があったところで必ずしも親元に残れたかどうかは不明だ。しかし親の愛があったなら栞は親元に残る努力はしただろう。彼女はあまり冒険心の旺盛なタイプではない。
それなのに遥は、親に愛されてもいないのに親元から通える職場を選んだ。そしてクビになって体と精神を壊した。現在自宅療養中の彼女はまだ完治の見込みが無い。
実家で暮らしていたことにより病を得たのなら、実家で療養したところで、治るとは考え辛い。父親は病人を嫌うタチで、死の床にあった実母すら虐待していたような男だ。遥とて現在、どのような扱いを受けているか危ぶまれる。しかしとりあえず通院を続けている以上、もう栞の出る幕では無かった。
就職の時点で、実家には戻らないよう栞は勧めたのに遥はそれに逆らったのだ。逆らった以上、こうなることは覚悟の上であるはずだった。
遥の話が出たことで、ふと妹に思いを馳せた司は
「遥もさ、草野さん殺したいとか思ったりするかな?」
とつぶやいた。もう二年も会っていない妹。遠い地で療養生活を送る妹。
「思ってるかもね。きょうだいの中であの子が一番性格的に激しいし、激しい分お父さんとも随分やり合ったから、ある意味あの子がお父さんに一番酷いことされてるじゃん? 赤ちゃんの時に押入れに閉じ込められたのもあの子だけだし、成人してからも、バケツの水ぶっかけられたりしたし……」
「でもベルトで叩かれた事があるのは、俺だけだろ」
「でもお姉ちゃんは、鬱病で会社辞めて生活費無くてしょうがなく実家帰った時、雪ん中お父さんに家の外引きずり出されたよ。病人に対してちょっと酷くない?」
何だか話がおかしくなってきた。まるで入院中の患者が、自分の病状がいかに深刻であるかを競い合うかのように、この姉弟は、誰が父親に一番酷いことをされたかと競い合う気分になってしまったようである。人間というものはいかなる状況下でも、競争心を持つことが出来る。それが果たして長所であるか短所であるかは知る由も無いが。
さて話題が無益な言い争いになってしまったことに気付いた姉弟は、ふと押し黙った。そしてその沈黙を引き受けて、栞が
「まあとにかく、遥は今現在お父さんと暮らしてる訳だし、お父さんに殺意抱いてもおかしくないんじゃない?」
と意見を述べた。考えてみれば父と別居中の司の殺意をなだめている暇があったら、同居中の遥の殺意を、何とかするべきだという気がしなくもない。しかし本当に遥が殺意を抱いているかは未確認であるため、さしあたっては殺意を表明した司を、なだめねばならないのである。
「……俺が手を下さなくても、草野さんは遥が殺すかも知れない訳か」
「ひょっとしたら瞳が殺すかも知れない。お母さんが殺しに帰って来る可能性もある。お父さんのことだから他の人にも恨み買ってるかも知れない。そういえば隣の家と、敷地の件で争ってるなんて話聞いたことあるから、隣家の人が殺すかも知れない」
冷 静になって考えてみれば、父親に殺意を抱く可能性のある人間は、大勢いるのだと栞は気付いた。すでに鬼門に入った者まで入れればその数はどれだけ膨れるだろう?
死の床で虐待された祖母。病を得たというのに父親になぜか病院行きを反対され、自殺に追い込まれた哲子叔母。……いや死んだ哲子叔母を出すのなら、まだ生存している規子叔母の存在も、考えるべきかも知れない。
規子叔母夫婦が事業に失敗し、自己破産及び離婚に至ったのは、父親のせいではないかも知れない。しかし債権者からの取立てから逃れるため、形式上の離婚をしつつも同居を続ける規子叔母夫婦を、父が非難しているという話を栞は聞いたことがある。詳しい事情は知らないが、しかし苦労した末の結果というものを中傷された時、人は相手を憎むものではないだろうかと栞は思う。
それだけ多くの存在、しかもほとんどが身内の人間から、おそらく恨まれている父親を思い、栞は背筋が寒くなった。それだけの憎しみを背負いながらも、父親は今も尚この日本で生き続けている。
ところが、次々と身内の人間を思い出す姉とは対照的に、司はただ一人の人間の事を考え始めた。彼はカツサンドをゴクンと飲み込むと
「瞳は、殺さないでしょう」
と薄笑いを浮かべた。その笑顔を栞は不思議なものを見るような目で眺めた。
「どうして?」
「一番、可愛がられてたし」
「確かにね。でも肝心なとこで裏切られたじゃん」
そうか、司は瞳をそのような目で見ていたのかと栞はハッとした。確かに末妹の瞳はきょうだいの中で最も可愛がられていた。瞳が誕生した際父親は
「この子だけは、殴らないと決めた」
と家の内外に告知したのだ。
それを聞いた時、栞は酷く傷付いた。別に自分より十も幼い妹を、父親は殴るべきだと考えた訳ではない。自分であれ他者であれ体罰の現場に居合わせるのは栞は辛かった。
だが父親は、常々子供たちに体罰の必要性を説きつつ拳を振るっていた。そこで子供たちは、震えながらその拳を肯定していた。いや肯定しようとしていた。多くの人間は自分の受けている教育を正しいものだと思いたがるものだし、そう思わなければ、彼等はやっていられなかったからだ。また彼らの子供時代は学校でも教師の体罰は横行していた。多くの子供が、教師の体罰が違法であることを知らなかった時代だった。そんな時代においては体罰を悪とは思えない。
けれど父親は、四十過ぎて誕生した末娘に相好を崩し、末娘にだけは手を上げないと宣言した。つまり父親は、内心では暴力を悪だと考えていた訳かとその時栞は思った。
あるいは途中で考えを改めたのだろうか。しかしそんなことは栞にとってはどちらでもよかった。どちらにしろ父親は、瞳が誕生した時点では暴力に否定的な見解を持っていたということだ。そのために父親が、これからは子供たちに手を上げないと決めたのなら、栞はむしろ賛同したはずだった。そうすればこれからは自分も司も遥も暴力から逃れられるのだから。だが父親はあくまで
「この子だけは、殴らないと決めた」
と公言した。栞は激しくショックを受けた。なぜ瞳以外の子供たちは、殴ってもいい存在であると、父親が認識したのかが分からなかった。
とはいえ瞳以外の三人の中では、栞は比較的体罰は受けていなかった。しかし彼女はそれを当然と考えていた。栞はとにかく父親を怒らせることが嫌だったし、きょうだいの中では一番の年長者だったため、父親の機嫌を損ねないように、経験から学習する事に長けていたからだ。
一方司は、姉程父親の顔色を伺うタイプではなかったから、時折つまらない事で父親を怒らせていた。遥に至っては、自ら進んで父親を怒らせて体罰を受けているような節があった。
ただ弟妹が父親を苛立たせることは、栞にとっても望ましくはなかった。例えば司が父親を怒らせる。父親が司を薄着で冬空の下に立たせる。家に入れてやりたいが勝手にそんなことをして火に油を注ぐ結果を恐れた栞が、せめてもの行為として、こっそり弟に防寒具を与える。父親は息子を追い出していることを忘れる。だがしばらく後にそれを思い出し、慌てて息子を家に入れると家族に
「なぜ司を家に入れてやらなかった? お前達には優しさが無い」
と言い出す。そして栞の腕を掴み
「栞、お前にだって分かるだろう? 外がどんなに寒いか。お前も今から出てみるか?」
などと責め立てる。といった展開になるからだ。
怒りの火点け役が一番酷い目に遭うとはいえ、無関係の者にも飛び火する以上、草野家においては、父親を怒らせないことが家族としての最低限のマナーだった。けれど栞程の細やかさに欠ける司と遥は、しばしば火点け役となっていた。
けれど、びくびくと人の顔色を伺う習性を持っていた栞が、人間として長けていたということではない。家を出た後もその習性を捨て切れなかった栞は、三年後に鬱病を患って自殺未遂まで起こしたのだから。司のように多少ののん気さを持っていた方がむしろ生物としては優れている。病気になったり命を絶とうとしないからだ。だがのん気さも度が過ぎると、遥のように危険極まりない場所へ舞い戻ってしまうケースもあるので、程々が肝心だが。
しかし実は遙以上の火点け役も存在していた。それは母親だった。だから子供達は、父親から最も酷い仕打ちを受けそして最も自分たちに迷惑をかけた人間として、彼女を哀れみながら憎んでいた。
だがそれはさておき栞は今、弟の発言に動揺していた。
確かに司は家族の中では体罰を受けていた方だった。母親や遥の方が、父親を怒らせる頻度は高かったにも関わらず、男尊女卑傾向のあった父親は、こと体罰に関しては男の子にとって不利な考え方、つまり
「男の子は、厳しくしつけなければならない」
という思想のもと彼に厳しい体罰を施していた。そうすると司から見れば、体罰を受けなかった瞳は確かに「一番、可愛がられてた」ことになり、従って父親に殺意を抱くはずが無いと思えるのだろう。実際栞の目から見ても瞳は父母から一番寵愛を受けていたと言えた。けれどその事実を司が口にしたことに、栞は戸惑った。
比較的厳しい体罰を受けていたとはいえ、ある程度回避することも可能だったのに、そうしていなかった司。同じことを栞がしていたらもっと叱責されていただろうに、随分見逃されていた司。彼のミスで栞が叱られることはあっても逆は無かったという事実。叱られた数だけ、褒められてもいた司。
一人だけの男の子で、お下がりをあげる当てなど無いというのに、一番玩具の数が多かった司。ライオンが好きだと言えば動物図鑑、猛禽類に興味を持てば鳥類図鑑を買い与えられ、珍しく家族で動物園に行けば、司の好きなコンドルの檻の前で司だけをフィルムに収めた父親。栞の姿など数年に一度撮ってくれればいい方だった父親。その隣で何も言わなかった母親。
ある程度愛された人間の方が、より愛された人間に対して、嫉妬を持つものなのかも知れないと栞は思った。嫉妬は人間の目を曇らせる。確かに瞳はきょうだいの中では最も両親に愛された。だがだからといって彼女が両親を恨んでいないとは言えないはずなのだ。なぜなら瞳は、肝心な所で二人に裏切られたのだから。
しかし司は、姉の言わんとする事が分からず「裏切られた?」と聞き返した。恵まれた人間は、なかなかその事実に気付き辛いものである。
「大学受験だよ。『お金のことは心配しないで好きなとこ受けていい』って言っときながら、土壇場になって、『入学金だけは出してやるけど、卒業までの授業料とかその他の学費は自分で出せ』って言われて、瞳、進学出来なかったじゃん」
「ああ……、あれは酷かったよね。お金無いなら無いって早目に言ってくれれば奨学金受けれる所とか探せたのに、後になってから言うから、もう受験出来る所も無かったんだよね」
そういえばそんなこともあったなと司は思い出した。元々貧しかった実家の資金繰りが、更に厳しくなった事情について、当時二十六歳だった彼はおおよその説明は受けたが、しかし納得のいくものではなかった。両親は資金難の原因を、祖母の死だと言い張ったからだ。つまり祖母が亡くなったことにより葬式代を捻出せねばならなくなり、加えて年金の当てが無くなった為、瞳の学費が出せなくなったと言ったのだ。
しかし祖母は癌で入院していたのだ。八十七の老婆が癌を患った場合、通常はもう長い命ではないと判断するものではないだろうか。仮にそう判断しなかったにせよ、六十に手が届こうといういい大人が、娘の進学費用として親の年金を当てにするものだろうか。
また葬式代というものは、香典である程度賄えるものではないのだろうか。仮に賄えないにしろ、八十七の老婆などいつ他界してもおかしくはない。その様な人間と同居している以上、通常なら葬式代くらいは前もって用意しておくものではないだろうか。仮に用意出来ない程生活が苦しかったというのなら、なぜ前もって、瞳に学費が出せない旨を伝えておかなかったのだろうか?
司はあの時計画性の無い両親に呆れ果てた。そして自身の見通しの甘さから、娘の人生を狂わせた両親を軽蔑した。けれど外罰傾向の強い両親は
「おばあちゃんにも呆れたもんだね。最後の最後で孫の人生を台無しにして」
と死者を罵った。その頃から栞以外の子供たちは、父母を「お父さん、お母さん」と呼ばなくなったのだ。そしてその二年後に、遥の入院騒動と父母の離婚騒ぎに立ち会った事をきっかけに、司は実家に出入りしなくなったのだ。
だがそれにも関わらず、司は瞳が父親に殺意を抱くとは考えられずにいた。瞳の件は結局自分にとっての契機にはなったが、しかしその件で、瞳が父親に殺意を抱くとは考えられなかった。実家が貧しいせいで進学を断念する者など世の中には大勢いるからだ。
一方、栞は瞳に対する哀憐の情を催しながら、当時のことを思い出していた。きょうだいの中で一番成績がよかったのに進学出来なかった瞳。栞はあの時程、姉としての自分の無力さに打ちのめされたことは無かった。もし自分に蓄えがあったなら、代わりに費用を出してやりたかったと思う。
瞳以外の三人は、短大まで進んだというのに、司など一浪して予備校にまで通ったというのに、なぜ成績がよかった瞳がなぜ進学者の増えた時代の人間が、進学できないなどという理不尽な目に遭ってしまったのだろうと思う。だが栞は、この件に関してはあまり考えたくなかった。もし考えれば司を恨むことになりかねないからだ。なぜなら栞自身、自分の進学についても親を恨んでいるからだ。
高校三年生の頃、司は
「お父さんとお母さんにはこんなこと言えないけど、俺本当は、勉強もしたくないし働きたくもないんだよね」
と姉に打ち明けた。
「じゃあ、どうするの?」
「お父さんたちが『大学受けろ』って言うから、とりあえず受ける。別に大学行きたい訳じゃないけど働きたい訳でもないから。でも勉強してないから入れる大学無いと思う。お父さんたちは『一浪ならしてもいい』って言うから、多分浪人すると思う。別に浪人してまで大学行きたい訳じゃないけど、働きたくもないから」
短大二年生になっていた栞は、不愉快な面持ちでその話を聞いていた。そんな余裕が我が家にあったのかと思った。本当は四年制に行きたかったのに、遠慮して二年制に進んだ栞、しかも他に、学費と程度の高い短大にも受かっていたのに、遠慮して安い短大を選んだ彼女にとっては、その発言は不快極まりないものだった。
自分には、月四万にも満たない仕送りしか送っていないというのに、その仕送りも度々遅れているというのに、こんなにやる気の無い弟には浪人までさせるつもりなのかと、栞は腹を立てた。
だが彼女はそれを司には言わなかった。両親の決定を、彼が覆すことなど出来るはずが無かったからだ。両親はただ単に、男の子である司だけはどうしても四年制の大学に行かせたいと考えているだけなのだ。子供の資質や希望を見極めて、それにふさわしい手助けをするなどという発想を持たない人達なのだ。今ここで司に何かを言ったところで、何がどうなるというのだろう。彼らは自分たちがやりたいことをやるだけなのだ。
本人の予言通り大学を軒並み滑った司は、一年浪人後やはり四年制を軒並み落とした。そして男にしては珍しく短大に入学した後、どういう訳だかトラックの運転手になった。
「働きたくもない」と口では言いつつも、結局は十年働き続けた司は、別に責められる人間ではないと栞は思う。トラックの運転手は立派な仕事だ。彼らがいなくては日本の流通は成り立たない。だがトラックの運転手に準学士の免状はいらない。準学士の免状を手にするために浪人する者の話など、聞いた事も無い。
司にかける無駄な費用があったのなら、自分か瞳のどちらかを、大学に入れてくれればよかったのに、それが無理なら、せめて仕送り費用を人並にしてくれればよかったのにと栞は思う。弱い体に鞭打ってバイトをかけもちしながら短大に通うのは非常に辛く、そのため彼女は、当初取る予定だった資格を二つも諦めたのだ。
だがそんな思いを今打ち明けたら、司は居心地の悪い思いをすることになる。それに栞への仕送り費用が少なかったのは、必ずしも司が浪人したことだけが理由ではない。
自分の学費の何割かは祖母が援助したという話を、栞は以前聞いた事があった。幾らの金をどれくらいの期間援助してくれたのかは知らないが、それはありがたい話だと思う。だがその美談と共に浮かび上がるのは、盆暮れの帰省時に受けた苦味だ。元々貧しい家で世間にとっくに流通している家電にまるで縁が無かったのに、帰省する度に、実家には新しい家電が増えていた。
全自動洗濯機にビデオデッキにCDラジカセ……。当時にしてみても、決してそれらはもう贅沢品ではなかった。しかしなぜ自分が進学した途端に、突然実家が近代化したのかと栞は訝しんだ。いや理由は分かっていた。両親は栞の学費のためという建前で受け取った金銭でそれらの家電を購入していたのだ。当時別居中だった祖母は、おそらく気付かなかったのだ。
とはいえそれらの家電は、当時世間には広く流通していたものだったから、それらを欲しがった両親の気持ちも栞は分からなくはなかった。しかし栞は当時大変な苦学生で、風呂トイレ台所共用の賄い無し下宿から、昼食代わりに、冷凍保存されたまとめ買いのロールパンを持って短大に通っていたのだ。通うための足である自転車も、バイト先の人間のツテで、ローンを組んで購入したのだ。
娘にそんな思いをさせてまでも、彼らは洗濯機を全自動に買い換えねばならず、ビデオを観、CDを聴かねばならない人たちなのかと栞は苦い思いを噛み締めた。そんな思いをしたくなかったから、栞は進学の希望を持ちながらも
「高校を卒業したら、就職してもいい」
と言ったのだ。それなのに見栄っ張りな両親に
「せめて短大くらいは、行きなさい」
と言われた。ならばせめて仕送りを増やしてもらうためにと、安い学費の短大を選んだのに、彼女はギリギリの生活を強いられた。
だから結局のところ、その件に関しては栞は弟を恨んでいなかった。自分が無駄金を使ったせいで姉の生活を窮乏させた節があることを、彼が自覚していないらしいことには、多少の腹立たしさはあるとはいえ、そのことを別にしても、両親が祖母からの援助を使い込んでいたらしい事実は存在する。とどのつまりは恨むべく相手は両親なのだ。
けれどこの件に関しては弟と利害が一致しないことを栞は理解していた。そのため彼女は
「瞳が受験勉強してる時もさ、結構、遥が邪魔してたらしいんだ。普通は本人がやる気が無くても親とかが『受験しろ』とか言って環境整えたりするじゃん? それなのに瞳は、遥に邪魔されながらも頑張ってたのに、突然あんな事になったんだからショックでしょ」
と少し皮肉な言い回しをした。同じくやる気の無かった司に当てこすった訳だが、こういったことに鈍い弟は、単なる遥への悪口だと見なすだろうと踏んだのである。
「遥は何で、邪魔なんかしてたの?」
「本人は邪魔してるつもりは無かったんじゃないの? ほらあの子って、昔から人の状況とか見ない子だから、瞳が勉強中なのに、話しかけたり用言いつけたりしてたんじゃないの?」
「ああ、あいつってそういうとこあるよね」
顔を歪めてそう答える弟を眺めながら、遥の自己中心振りを、栞はぼんやりと思い出した。最後に実家に帰った時
「眠いから、もう寝かせて」
と栞が何度も頼んでいるにも関わらず、枕元で延々と知人たちの悪口を語っていた遥。まるで彼らの悪口を喋り散らすことが、自分の使命であるかのように、何かに取り付かれたかのような表情で、知人たちの些細な欠点を悪し様に並べ立てていた遥。
肝臓の悪い人間は、気が短くなるという。ひょっとしたらあの頃から、五年前のあの頃から、遥は病に冒され始めていたのだろうか。そんな疑惑がふと胸をよぎったが、栞は心の中で首を振った。
遥は赤ん坊の頃から癇の強い子供だった。一歳の頃に六歳の栞の髪を、涙が出る程強く引っ張ったし、玄関に座らせて靴を履かせてやろうとすれば、自分で履こうとして大暴れをした。別に履く意思を見せれば手を出さずに見守るつもりは充分にあったのに、栞が遥の靴に触れただけで金切り声を上げて大暴れをした。一緒に外を歩けば、なぜか走行中の車に向かって、突進して行った。
幼稚園に上がると、「触っちゃ駄目」と何度も言われていたアイロンを抱き締めて、火傷を負った。四月を「ヨンガツ」と言っていたので「シガツだよ」と教えると、大声を上げてそこらの物を手当たり次第に投げ飛ばした。そのせいで、言葉の間違いを家族が誰も指摘しなくなり、大人になってからもおかしな物言いばかりしていた。
そんな遥が、眠たがる姉を無視して人の悪口に夢中になっていたからといって、どうしてその頃から病気が始まっていたと言えるだろう。ひょっとしたら彼女は、幼い頃から何がしかの病気だったのかも知れない。けれど両親が病気を疑わず、病院にも連れて行かなければ、子供だった栞が何故病気を疑えただろう。母親は
「一歳の赤ん坊が、六歳の子を泣かせた」
と笑っていたし、父親に至っては子供たちの年齢すらも把握していなかった。そんな中において栞はただ耐え忍ぶことしかできなかったのだ。だから短大卒業後の遥が、実家に戻り仕事を辞め、母親に暴力を振るうようになり挙句入院したと聞かされても、栞はあまり遥と母親に同情心は持てなかった。両親に問題意識が無かったことが要因だとしか思えないからだ。
だから結局、栞の憎悪の源は両親に返っていく。そして両親の中でも被害者にならなかった父親に殊更に強く返っていく。栞は
「遥って、お父さんに似てるよね」
とつぶやくと、ツナサンドを手に取った。以前は辛いことがあると食欲が減退していたものだった。それなのに今ではこうして、食事をしながら呪わしい過去をなぞることができる。
「ああ草野さんも人の状況って全然見ないよね。俺子供の頃、草野さんに車のドアに手ぇ挟まれて……」
「覚えてる。あの時手ぇ血だらけだったよね」
突然の話題転換にも関わらず、栞の脳裏にはパッと赤い血糊が広がり、彼女はスムーズにその件をたどる事が出来た。流血する人間などというものを見たのは初めてだったから、栞はその出来事を、よく覚えていた。
あれは確か家族で車に乗り込んだ直後だった。遥がいた記憶は無いから、司が二歳か三歳、自分が四歳か五歳の頃か。あの時父親は何事かについて母親を怒鳴っていた。そして父親が後部座席のドアを荒々しく閉めた瞬間、隣に座っていた司がギャーと泣き出した。見ると司の手が血みどろに汚れており、栞は慌てて
「どうしたの? 司、手が真っ赤」
と叫んだ。父親がぎょっとした顔で振り返った……。
その辺りまでは、くっきりと記憶に残っている。その後両親のどちらかが弟の手に布を巻き付け……、そうだ母親が弟を抱いていた記憶があるから、母親が後部座席に乗り換えて、そして病院に連れて行ったのかも知れない。
ところが栞がそこまで回想した途端、司は
「俺は覚えてないんだけど、前姉ちゃんが言ってたよね」
と言いながら、三つ目のカツサンドに手を伸ばした。考えてみれば幼稚園の頃去勢されそうになったことを覚えていないのだから、二、三歳の頃の怪我も、覚えていないのは道理である。
「ああ、前言ったっけ?」
「でも尻に、火傷させられた事は覚えてるよ」
「ああ、司が熱出した時ね」
尻の皮膚に刻まれた数本の赤い線が、栞の脳裏にくっきりとよみがえった。あれは司が小学生の頃だった。四十度の熱を出し、母親がパジャマを持って来るのを裸でストーブにあたりながら待っていた司の下半身を、父親がふざけて触ろうとした。朦朧とした頭で咄嗟にそれを避けようとした司は、裸の尻をストーブに押し当ててしまった。発熱の上に火傷まで負わされるとは正に踏んだり蹴ったり、泣きっ面に鉢だ。
諺 を実体験により会得してしまった弟を、気の毒に思いながら、栞が記憶をたどっていると、司は
「熱出してて頭が働かないんだから、後ろにストーブがあるから危ないとか、考えられる訳無いのに、草野さんてそういうこと全然考えないよね」
と忌々しげに言い捨てた。仮に火傷を負わなかったとしても、四十度もの熱を出した相手に対してふざけた行為を仕掛けようとは、かなり常軌を逸している。
「そうだよね。車のドアに手ぇ挟んだのもさ、小さい子車に乗せた時に、普通確認もしないで力任せにドア閉めたりしないじゃん? お父さんて本当に、自分の気分だけで動いてるよね」
「姉ちゃんは……、怪我させられた事あった?」
曖昧な表情を浮かべながら司は尋ねた。故意の体罰だけでなく、過失による怪我までも何度も負わされている彼としては、本能的に加害者に、殺意を抱いてしまった部分があるのだろう。攻撃は最大の防御だという考え方は存在する。しかも去勢と尻の火傷には何やら性的な匂いすら漂う。例え相手にその気が無かろうと、性的な連想をさせる暴力を身内の人間に食らった時、大抵の人間は激しい憎悪を抱くものだ。
そんな弟に栞は、十年以上も前に母親に聞かされた打ち明け話を思い出しながら
「階段の天辺から落っこって、救急車乗ったことはあるらしいけど、怪我はしなかったらしいね。まあ相手はお母さんなんだけど」
と答え、BLTサンドをつまみ上げた。今日は色々な種類のサンドイッチを用意したのに、司は先程からカツサンドばかりを食べてつまらないと思う。
「いつ?」
「司がおなかにいる時だって。お姉ちゃんが一歳の終わりの頃で、お母さんの後ついて歩ってたら、お母さんのお尻にぶつかって落っこったんだって」
まるで昨日のことのように、腹立たしげに
「『あっちに行ってなさい』って言ってんのに、ついて来るもんだから」
とその件を告げてきた母親を、栞は厭わしく思い出した。赤ん坊の頃のことまで文句をつけてくるなんて、本当に付き合い辛い女だと思う。いくら「あっちに行ってなさい」と言われても、母親の後を追いたがるのが赤ん坊というものだ。それを配慮せず階段から突き落としてしまうなんて、母親失格ではないだろうか。それなのにあろうことか自分からその件を持ち出して娘を責めるなんて、本当に変わった女だと思う。
そんな女がよくも四人も子供を生んだものだ。いやそれだけ無責任だったからこそ、気軽にポンポン生めたのかも知れない。栞が怒りに駆られていると司は
「階段の天辺から落ちて、よく怪我しなかったね」
と感心したようにつぶやいた。栞は昔から、体は弱いくせにどういう訳だか怪我からは守られるタイプなのだ。だが彼女は、本当に自分は怪我をしなかったと言えるのだろうかと、ふと疑問に思った。
「その時のレントゲンでは、異常は無かった」
とは母親の言だが、しかし栞は小学生の頃の健康診断で、「背骨が曲がっている」と評されたのだ。その曲がりが階段から落ちたせいかどうかは今となっては分からない。分からないが原因はどうあれ、両親は彼女の健康診断の結果を無視したのだ。
そのため栞は長年に渡って、腰痛と月経痛と月経不順と月経前症候群に悩まされてきた。いくつもの産婦人科や整体、マッサージ屋、接骨院を渡り歩き、薬や健康食品に金銭を投じ様々なストレッチやツボ押しを試み、ウォーキングを行い水泳に通い、以前よりは幾分症状は改善されたものの、未だ完治していない。
もし小学生の頃に治療を受けさせてくれていれば、早目に手を打ってくれていれば、ここまで苦しまずに済んだのかも知れないと思うと、彼女は歯噛みしたい気持ちになる。
月経痛により床を転げまわっている自分を見ながらも、両親は病院にさえ、連れて行ってくれなかった。それどころかようやく痛みの峠を越え横たわっていた自分を父親は
「陽に当たれば、治る」
と畑に連れ出し草取りを命じた。その肉体的苦痛は、ひょっとしたら階段から落ちた件が起因しているとは言えないだろうか。仮に無関係だったにしろ、両親にそこまでの仕打ちを受けた自分の流した血は、股ぐら以外の場所からも流れていたと言えないだろうか。
その時、司が不意に
「草野さんは、どこに埋まってるの?」
と尋ねた。栞はその問いにハッとするとそれまでの思考を停止し、視線を木々の間に巡らせると、一番手近な木を指し「あれ」と適当に返事をした。
それはちょうど見頃のソメイヨシノで、葉に先立って咲いた白い花弁が、気高くも美しく咲き誇っていた。だが確かに美しい木ではあったけれど、別に他に抜きん出て美しい訳ではなかった。二千本の桜の中でそれは無個性に美しかった。二千本の桜の木々の中でそれはただひたすらに桜だった。
「あれ」と断言しておきながら、彼女は「あれ」は本当に、父親を埋葬するにふさわしい木だろうかと自問した。
あんな最低な人間の毒素を吸ったりしたら、どんな木でも枯れてしまいそうだから、いっそ枯れ木を選んだ方が正しかった気もする。あるいは際立って見事な木に、父の遺体を押し付けて、桜という魔性の木は、性根の腐った人間の亡骸をも養分に変えて艶やかに咲き乱れるのだという結論にしてみるのも、乙な気がする。
けれど結局栞は、平凡な桜の木の下に父親の姿を追いやった。多分それがあるべく姿だという気がしていた。
父親に受けた様々な傷は、自分達きょうだいにとってはあまりに劇的で、今も眠れない夜がある。けれどそんなことはこの地球上では埋没された事実に過ぎない。新聞種にならなかった虐待を施していた人間が眠る場所は、ありふれた場所がふさわしい。何となく彼女はそのように思った。とはいえ桜の下に埋められること自体が、ありふれてはいないが。
埋葬場所を示された司は、しばらく木を凝視していた。栞はなぜ突然そんな事を尋ねてきたのだろうと思いながら、弟の様子を伺った。すると彼はベンチから立ち上がりゆっくりと木に近付いて行った。その時右手の拳が握られていることに気付き、栞も慌てて立ち上がった。
桜を殴る気? 彼女は急いで周囲を見渡した。人目につく様なことをして欲しくないと思う。司が激したりしないように、わざわざこんな人の多い公園を選んだというのに、目立つような事をされたら、台無しだと思う。
弟の姿を遠巻きに眺めながら栞はその場に立ち尽くしていた。本当ならすぐにでも、駆け寄るべきだと思う。樹木相手に拳を固める様な人間には、すぐ近付いてたしなめるべきだと思う。けれど彼女は足に根が生えたかのようにその場に立ちつくしていた。
怒り出したら手がつけられなかった父親。喉が枯れるまで怒鳴り散らし、家具か人のどちらかに手を上げ、猛り狂いながら車に乗り込み、外で何らかの方法で気分を変えない限り落ち着くことができなかった父親。時折交通事故という、これ以上無い程の方法で気分転換をしていた父親。
そんな父親の血が司の体にも流れている。そう思うと栞は足がすくんで動けなかった。弟の体に流れている血は自分の体にも流れているというのに、それでも彼女は、足がすくんで動けなかった。
忌まわしい血だと思う。もし血液の交換が出来るのなら、猿の血でもいいから取り替えて欲しいと思う。結局自分が子供を生む決意が出来ないのは、何よりも自分の血を憎んでいるからだと思う。ボロボロと四人もの子供を生み散らかした両親。自分たちの遺伝子をばら撒いた両親。それでいて自分たちの血族を苦しめていた両親。そんな血脈をこれ以上増やしたくないと思う。だから自分は子供を生めないのだと思う。
その血は自分の体にも流れている。だから栞は自分をも憎んでいる。けれどそれでいて暴力を匂わせる弟に父親の血を感じ、おびえる自分もいる。他者でありながら身内であるということ。身内でありながら他者であるということ。
サッと体中の血液が冷たく温かく循環し始めた。不思議なほど覚醒しているのに、くらくらとめまいを起こしているような気がする。胸の中に突如異物が発生して、その異物が自分の神経を冒しているような気がする。栞は混乱しながら弟の動向を見守った。子供の頃、荒れ狂う父親の姿を混乱の極みに陥りながら見守っていた時のように。
桜の木を見据えたまま突っ立っていた司は、不意にその場にしゃがみ込んだ。そして固めた拳を、どっかりと地面に打ち下ろした。
フッと栞の足を捉えていた緊張が緩んだ。幾分マシかと安堵しながら、彼女は弟の傍らに歩み寄った。これも少々風変わりな行為ではあるけれど、それでも桜本体を殴られるよりはマシだと思う。だが打ち下ろされた拳は震えていた。いや司の肩が全身が震えていた。
栞は自分の選択を後悔しながら、弟の脇にしゃがみ込んだ。こんなに弟が乱れてしまうと分かっていたら、人気の無い場所を選んだのにと思う。考えてみれば父親への殺意を口にする人間など冷静であるはずが無い。こうなることは予測できた。なぜ自分はそれに気付かなかったのだろうと思う。自分はもう二十年近くも、殺意と共に生きてきたからか。殺意が最早日常になっていたからか。
栞は父親譲りの骨張った手を伸ばすと、そっと司の背中に手を置いた。瞬間熱い体温が彼女の皮膚を貫いた。この趣味の悪い衣服に包まれた肉体のその奥には、沸き立った血潮が流れている。忌まわしく親しみ深く沸き立った血潮が流れている。
決して性的な意味ではなく、栞はこの肉体を隅々までまさぐりたいと思った。自分と共通の遺伝子、共通の食によって形作られた肉体の下に渦巻くものを知りたいと思った。それは自分と同じ殺意だろうか。同じ殺意だとしたら、なぜ今自分たちは完全に理解し合っていないのだろうか。
盲人が人の顔に指を這わせ、触覚によりその造りを知ろうとするかのごとく、栞は弟の全身に指を這わせたいと願った。そのようなことをしても、完全に理解出来ないだろうことは分かっていたが、彼女はほんの少しでいい、知りたいと思った。
「もしも、草野さんが死んだら……」
声を詰まらせながら司が口を開いた。栞は彼の肩に手を置いたまま、黙って耳を傾けた。
「草野さんが俺たちを親として愛する可能性が、無くなっちゃうんだね」
瞬間、弟の肩に置いた手を浮かせたくなった。彼の体に触れている事を厭わしく感じた。けれどそれは酷く冷酷な事である気がして、彼女はただ手を強張らせた。
当初の目的を考えれば、今の発言は喜ばしいものと言えるだろう。父親が死ねば父親に愛されるわずかな可能性を失う事に気付き涙しているということは、とりあえずは司の殺意は封印出来たということだろう。だが栞は今、司の存在を嫌悪していた。あんなにも極悪な父親に愛されることを未だに願っているなんて、その諦めの悪さに、彼女は辟易とした思いがした。
その時栞はふと、自分たちがあどけない視線に射抜かれていることに気付いた。視線の主を探した。目の前で五、六歳の女の子が、ポカンとした顔で司を眺めていた。大人が泣くなどという事が、まだ信じられない年頃なのだろう。
女の子は、黒目勝ちのくりくりとした眼に困惑の色を浮かべると、天使の輪が浮かぶ艶やかな髪をゆすって両親の方を振り返った。向こう側の桜の群生の下で、三十代とおぼしき夫婦がビニールシートの上で弁当を広げていた。シートの上には、まだ歩くこともおぼつかない様な赤ん坊の姿もあった。子供を二人も生み育て、そして休日には家族で連れ立って花見に出掛ける。そんなめまいがしそうな程幸福な家庭の姿がそこにあった。
栞は彼らの視線を遮るべくそちら側に回り込むと、反対の手で、弟の背中をポンポンと叩き始めた。初めは心臓の鼓動に合わせてやや早目に、そして段々とテンポをゆっくり、ゆっくり……。
結婚前、父親の事を思い出してパニックに陥った自分に、夫の太一が施してくれた方法だった。とはいえさほど劇的な効果のある方法ではない。ただ荒れ狂った自分に対し、冷静に対処しようと試みた太一の存在が、自分を落ち着けたのだろうと思う。自分が力の限り乱れてもどっしりと落ち着いて対処する人間には、何となく安心感を持つことができる。
司も自分を信頼して、委ねてしまえばいいのだと思う。そうすればとりあえずは落ち着くことができるだろう。泣いても喚いても最早何も変わらないのなら落ち着いた方がいい。嫌悪は感じたが危害を加えるつもりは無い。だから安心して、自分に委ねてしまえばいいと思う。
突然の観察者の出現により、栞はにわかに同類相憐れむ心を芽生えさせ、弟を守りたいと願い始めた。最早父親に対する多少の感情の相違など大した問題ではなかった。
けれど栞の手のリズムに司の震えはなかなか馴染もうとしなかった。仕方無く彼女は、今度は背中をそっとさすり始めた。こんな時は技法がものを言うわけではない事を、栞は熟知していた。
心を乱した人間には、手を変え品を変え根気よく付き合うしかない。幸い弟は声を殺して涙している。涙に乗っ取られつつも社会性を残している人間には救いがある。
本当なら「声をあげて泣け」と言ってやりたいところだが、こんな衆人環視の只中で、声をあげて泣くことは大人にとってふさわしくない。思い切り泣いて、思い切り愛された子供時代を持っていようといまいと、肉体が大人になった者が、人前で泣き叫ぶことは、ふさわしくない
その時先程の女の子が、「あー」と声をあげた。栞は煩わしさを感じながらそちらを見やったが、女の子の指し示す場所、自分たちの頭上を見上げて思わず息を飲んだ。桜の花弁が、父親を根元に埋めた桜の木の花弁が、ハラハラと舞い降り名も知らぬ幼子を感動させていることに気付いたからだ。
陽の光を浴び燦然と輝きながら、無数の花弁は妖しくも美しく舞い踊っていた。子供の声に顔を上げ、この光景に気付いた子供の両親の姿が視界の端に入り込んだが、栞はそんなものに惑わされること無く、ただただこの花弁の舞に魅入られた。まるで泣いているみたいだと思った。桜が声を殺して泣いているみたいだと思った。
「司、上を見て」
姉の声に反射的に顔を上げた司は、泣き濡れた目で、ぼんやりと花弁の乱舞の前に視線を漂わせた。その顔は涙に疲労しているようにも目の前の光景に感動しているようにも、どちらにも見て取れた。
「綺麗でしょう?」
「うん……、綺麗だ」
静かに答える弟の声を聞いた時、栞は唐突に司が色覚異常者である事を思い出した。彼は今自分と同じ光景を見ているとは限らないのだ。この光景をこの色彩を、二人は全く同様には、認識していないかも知れないのだ。
あなたが見ているのは、一体どんな世界? 異なる色覚を持ちながら、同じ景色を「綺麗だ」と言い、異なる見解を持ちながら同じ男を「殺したい」と言ったあなたの心は、一体どんな世界なの?
ふと何か忘れていることがあるような気がした。栞は不確かな思いで、記憶の糸を手繰り始めた。ざわ、ざわ、ざわ。心が、脳の回路がざわめき始める。回路の中に一枚の花弁が入り込んだ。
こんな光景を前にも見たことがあると思った。デジャヴ? いや違う。そこまで記憶が一致している訳ではない。場所は……、公園ではなかった。人の姿も……、自分以外には見えなかった。あれは確か実家近くの山道。小学校の三、四年生だった。一人で歩いていた。
なぜ一人だったのか、どこへ向かっていたのかは覚えていない。ただ父親のことを考えていたのは確かだ。あの頃は始終父親の事を考えていた。死ねばいいのにと思っていた。まだ殺したいという願望は無く、突然死してくれないだろうかと願っていた。
けれどあの時なぜか不意に悲しみが湧き起こった。今父親が死んだら、自分は一度も父親に愛された記憶を持たないまま一生を終えねばならないのだと気付いた。その途端、ああもし父親が死んでしまったらどうしようと、恐怖に駆られた。
それでも仮に、父親が生き続けたところで、自分に優しくしてくれる保証も無いのだとい当たった。そしたら何だか泣き出したいような気分になって、その時道端で桜が泣いているのを見た。我を忘れそうな程綺麗だった。
その時栞は知った。心に大きな悲しみがある時は、恐ろしい程に景色が綺麗に映ることを。人間の目は脳は心はそのようにできていることを。それ以来悲しいことがある度に栞は景色に救いを求めた。景色はいつも栞を裏切らなかった。
だから今日桜を見に来たのだと栞は悟った。解決するためではなく、美しい景色を見るために来たのだと。思い煩う人間が受け取るわずかな、けれど非常に貴重なメリットによって心を慰めるために。
栞はベンチに取って返すと、バッグからポケットティッシュを取り出し、桜の根元にひざまずく弟に手渡した。彼は鼻をぐずぐずと言わせながらそれを受け取った。
この子は二十数年前の自分なのだと栞は思った。父親の横暴におびえ、父親の死を願いつつも、完全に願いきることが出来なかったあの頃の自分。期待が残されていた分幸福だったけれど、絶望を手に出来ない分不幸だったあの頃の自分。
家ではそれまでの習慣に従って、「お父さん」と呼んでいたけれど、外では「あの人」と呼び始めていた頃。弟妹たちが「お父さん」と呼ばなくなった時期には、もう習慣に慣れ過ぎて、今更呼び名を変える必要性も見出せず彼らの流行には乗らなかったけれど、でもそれは結局、自分がただ一人で父親との決別を始めていたからだ。今、目の前にスロースターターな弟がいる。あの頃の自分を彷彿とさせる血の繋がった他者がいる。
不意に司に対する愛おしさが湧き起こった。成長の遅い楽天家に対する軽蔑心も、未だ感じてはいたが、それでも栞は彼を愛しく思った。
とりあえず司が落ち着いたのを確認すると、栞は
「あっちに、戻ろうか?」
と元いたベンチを指した。幼子を二人も抱える四人家族は、栞たちを気にかける余裕も無く、今しがた水筒をひっくり返した赤ん坊を取り囲み大騒ぎを始めていた。
ベンチに腰を下ろした司は、ぬるまったノンアルコールビールを飲み干すと、カツンと音を立てて缶を置いた。ベンチの下ではどこからか飛んできた二羽の雀が、丸い体でピョコピョコ跳ねながら、こぼれ落ちたパン屑をついばんでいた。
栞は、雀の気ままな動きをじっと眺めると
「もしかして殺意を持ちながら実行しない人は、空っぽの鳥籠を、持ってるようなもんなのかも知れないね」
と淡つぶやいた。
「……どういうこと?」
「前何かで読んだんだけど、空っぽの鳥籠を持つって事は、その鳥籠に入る予定だった鳥を一羽解放してることになるんだって。だから殺意を持ちながら殺さない人は、殺される予定だった人を一人助けてることになるのかなあって。まあ要は命の恩人てやつ?」
この屁理屈を聞かされた途端、先程まで泣きべそをかいていた弟はプーッと吹き出し、そしてゲラゲラと笑い出した。栞は別に司を笑わせるつもりではなかった。けれど目の前の人間が笑い転げている姿を見ていたら、何だかおかしくなってきた。栞もつられてゲラゲラ笑い始めた。その振動によるものか周辺の桜の木々がゆらゆらと揺らぎ、再び花弁の舞踊を開催し始めた。
はらはらとこぼれる涙さながらに、白や薄紅色の花弁を散らす桜の木々を眺めながら、栞は心の中で
「桜よ、泣いて頂戴」
と呼びかけた。
「あたしたちのために泣いて頂戴。あたしたちの代わりに泣いて頂戴」
彼女の呼びかけに応えるかのように、木々はわなわなと枝を震わせ、声を殺して泣き始めた。栞はその姿を視界の端で捉えながら声を上げて笑い続けた。計らずもその目尻には笑い涙が一粒浮かんだが、それは湯船に浮かんでいた一片の花弁さながらに、いつの間にやら、どこかへ消えてしまった。
第1回ちよだ文学賞に応募したものを、加筆訂正したものです。テーマが「さくら」だったのでこの話を書いたんですが、今思えば、第1回に送るにはふさわしくなかったですね。
5年前に書いた作品なので、ベースの文章もつたなくて、落選は無理もないですが。
これまで投稿した中で、ある意味では、最も批判されかねない内容だろうと思います。
だからこそ感想を頂きたいです。褒められることは期待しておりません。