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第三章:一夜の恋人

俺は夜の街を歩きながら煙草を吸った。


銘柄は先ほども言った通り無い。


いや、あるにはあったが誰も覚えていないだけだ。


正式名かは分からないが、ただ“夜歩く”と言われているのは確かだ。


故に俺は夜歩くと言っている。


かなり安い値打ちと言っていたが、言うなればただ同然と言えたな。


これを吸い出したのは今から数えてざっと200年前か?


たまたま夜の街を歩いていたら、春を売る女を見つけた。


いや、違うな。


あの女は春を売るんじゃない。


凍てつく寒い冬の中でも華麗に華を咲かせている女だ。


あいつは決して春を売ってはいない。


あいつは、俺を見て微かに笑った。


その笑みに俺は惹かれた。


何だか儚いがそれでも誇りは失っていないという顔だった。


俺はあいつの眼の前まで歩いた。


あいつは紺色のドレスを着ていた。


髪は多少、白髪が混ざった髪だが美しい黒髪だった。


瞳は碧色で先ほど浮かべた笑みと良く似合う。


『こんばんは』


「あぁ。こんばんは」


あいつは綺麗な声で俺に夜の挨拶をしてきて俺も自然とそれに返していた。


『良い夜ですね』


あいつは夜空を見上げて俺に訊いた。


確かに、今日は良い夜だ。


月は出て美しい。


こんな夜には、殺人鬼が出ても可笑しくない。


事実、月には魔の力があると古来から言われているからな。


満月には人を惑わす力がある、と。


それは“半分は当たりだ”。


もう半分は、外れだがな。


『こんな素敵な夜に貴方のような方に出会えるとは、月の神の思し召しですかね?』


「さぁな・・・月の女神は俺と同じく気紛れだ。たまたま機嫌が良かったから、君と出会えたのかもしれない」


もしくは、君自身が気紛れな月の女神かもしれないと俺は言い、女は「まぁ」と言って頬に手を当ててみせた。


俺は煙草を取り出そうとしたが、生憎と空だった。


『煙草を吸いたいのですか?』


「あるのかい?」


『えぇ。とても良い煙草ですよ。安い割には味もしっかりとしています』


彼女は俺に一本の煙草を取り出して渡した。


黒い箱でフィルターはある。


フランス語で「夜歩く」と書かれている。


「夜歩く?随分と文学的な銘柄だな」


こんな銘柄は聞いた事が無い。


『表の世界では、殆ど出回らない代物ですから』


「すると、裏の世界では出回るのか?」


『もっと正確に言うなら、私どものように身体を売る女が吸う物です』


顔に似合わず随分とストレートに言う女だ、と思いながら銜えた。


『私どもは夜しか歩きません。故に夜歩くなのです』


なるほど、そういう意味があるのか。


俺は納得しながら煙草を口に銜えた。


火を点けていないのに濃厚な味が口の中に広がる。


中々の味だな。


女が俺に火を差し出した。


パイプマッチだ。


火を点けて煙を吸うと、酒を飲んだ時みたいに酔った気がした。


「美味いな」


『僅か5フランで、この味は凄いと思いませんか?』


僅か5フランとは驚きだ。


普通の煙草は5フランなんて安くない。


それをこの煙草は5フランと言うのだから凄いという他ない。


「これは何処に売っているんだ?」


『何処にも売っておりません』


この煙草が欲しいと俺は思った。


特に煙草の銘柄を決めていない俺だが、こいつを愛煙草にしたいと素直に言いたい。


「これを愛煙草にしたいんだ」


『貴方様のような方が吸う煙草ではありませんよ』


もしも知られたら、蔑まされると女は言った。


「他人がどう言おうと俺は自分の考えを貫く」


他人に言われて考えを変えては情けないに尽きる。


いちいち煙草くらいでどうこう言う方も情けないが。


『素晴らしい考えです。では、私を買って下さればその煙草を差し上げますわ』


「良いのか?」


『はい。今宵は月の女神が見ております。彼女も貴方様のように気紛れなら、私も気紛れでベッドの中で教えて差し上げるかもしれません』


「良いだろう。では、行こうか?」


『はい・・・・・・』


女は俺の左腕に自身の腕を絡ませて来た。


俺は振り払わずに闇の中へと消えた。


俺と女が向かったのは一軒の宿だ。


その宿に入ると先ず女は俺の為に酒を注いでくれた。


酒は上質な赤ワインで肉のようにまろやかな味が口の中に広がり飲む者を心地よい場所に誘ってくれる。


それから女を抱いた。


まるで月の女神を抱いたように、女はベッドの中で神々しく黄昏ていた。


そんな女に俺は夢中になり夜の中、抱き続けた。


翌日、俺が目を覚めると女の姿は無かった。


ベッドの傍らに夜歩くと手紙が置かれていた。


ベッドから起き上がり手紙を読んでみる。


『これを読む頃に私は宿には居りません。ベッドの中で眠る貴方様・・可愛い寝顔でしたよ。何時もとは違う一面が見れて嬉しかったです』


この何時ものと違う、という所で俺は本当に月の女神だったのか、と思った。


手紙は続いており更に目を進める。


『本当はもっと貴方様を見て居たかったのですが・・・・間も無く夜が明けるので、その前に退散致します事をお許し下さい。ですが、私は貴方様を何時も空の上から見守っております。・・・・私の可愛い一夜の恋人様』


そう書かれていた。


あれからその女には会っていない。


会いたいと思った事が何度かあるが、結局は今まで会えた事は無い。


だが、煙草を切らした頃に必ず何処からともなく夜歩くが届けられる。


そして何時も手紙が一通共にあり、内容は一言だけもう書かれている。


『私の愛しい一夜の恋人様。私は貴方と何時までも共に居ります』


それからは会いたいとは思わなかった。


何時までも俺と共に居ると書いてあるんだ。


なら、何時までも俺と共に居るんだと思う。


そして、あの女はきっと月の女神が気紛れで現れたのかもしれないと最近は思う様になった。


夜歩くを吸いながら、俺は空を見上げた。


月が夜空を明るく照らしている。


あの時と同じように美しい月で殺人鬼が出そうな程に美しい。


『何時も貴方を空の上から見守っております』


手紙に書かれていた文字を思い出した。


「・・・本当に見守っているな」


本当に俺を見守っている気がした。


そして俺はまたと歩き始めた。


まだ夜は長い。


もう少し歩こう。


まだ家に帰らない俺を見守っていてくれ。


俺の一夜の恋人よ。


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