第1話 レッドオーシャン
「トン」
「トン、トン」
指先で木のテーブルを叩く、小さな音。
「お———い……マーヴェックか?」
「おい、聞いてんのか、お前」
「死んでるのか、それとも寝ぼけてんのか?」
人族の少年マーヴェックは、ゆっくりと目を開いた。
わずかに身じろぎすると、頬にざらついた木の感触が伝わる。
どうやら長い旅の疲れで、古びたテーブルに顔を押し付けたまま、眠ってしまっていたらしい。
鼻をつくのは、酒の残り香とかすかな鉄の匂い。
周りの話し声が重なり合い、うるさくて落ち着きがない。
少年は頭を上げた。
タバーンの中は、いつも通り賑やかで、人族、エルフ、ドワーフ、さまざまな種族が入り混じっていたが、いつもより雰囲気がだいぶ違った。
そして、肩幅の広い男が向かいに立っていることに気づいた。
鼻筋を横切る傷が、その男のただ者ではない経歴を物語っている。
ギルドマスターだった。
「……まったく」
男はこめかみを押さえながら小さく吐き捨てる。
「よりによって今日に限って寝てるとはな」
周囲から、げらげらと笑い声が漏れた。
少年は両腕を上げて、あくびしながら体を起こす。
「……ああ、マーヴェックだ。よく寝た」
ギルドマスターは一度ため息をつき、背を向ける。
「……全員そろったな」
声を張り上げた。
「いいか、聞け!」
ざわついていた室内が、一瞬で静まり返る。
「この世界は、生き物が多すぎて資源は少なすぎる」
教えるまでもない常識だから、誰も反論しない。
「本来なら、ギルドに入るため、三段階の試験のはずだったが——」
男は、言いながら扉の方へ一瞥する。
その瞬間。
床が、わずかに震えた。
遠くから、雄叫びのような声が響いてくる。
「今回は状況が変わったな」
「だから形式的なことは省くことにしよう」
人々の中で小さなどよめきが広がる。
ギルドマスターは、わずかに口元を歪めた。
だが、そこに温度はない。
「次の戦で」
一拍置く。
「獣族の将軍の首を持ってきたやつに」
「ギルドの印を与える!」
一瞬の静寂。
そして、
空気が爆発した。
椅子が鳴り、声が飛び交う。
笑う者、罵る者、顔色を変える者。
マーヴェックの表情が変えなかった。
寝ぼけたような顔のままだが、思考はすでに状況を捉えていた。
「長い旅は無駄じゃなかったな」
「ギルドの印」
「ギルドに登録された証」
「確かに持ち主しか開くことも使用することもできない印鑑で、製造方法もギルドが独占している」
「それを得れば、ただ生き延びるだけじゃない」
「最低限の資源」
「まともな生活」
「そして、夢に近づくことも!」
「でも、どうやって首を確保するか」
「奪うだけじゃ、取られるか……」
ギルドマスターは、再びマーヴェックを見る。
目を細める。
「……お前」
マーヴェックは顔を上げる。
「武器、持ってないのか?」
何も答えない。
「ありえねぇな」
男は片手を上げ、目の前の空間に向けて広げた。
空気が歪んで何かに変わった。
マーヴェックは理解するより先に、それを感じ取った。
この世界のすべての物は、一つの要素でできている。そう言われている。
その名は――
マトム(Matom)
この男は今、その構造を理解し、想像によって存在しないはずのものを現実に押し込んでいる。
細い線のようなものが、空中に浮かび上がる。
それは次第に形を持ち、一振りの剣に変わり、テーブルに落ちて鈍い音を立てた。
隣りの人々が息をのんで落ちた刃を見つめる。
プロトコルに従った、精密で高度なアクションだった。
それが――
魔術
そして、それを自由自在に扱える者は、この世界で、
魔術師
と呼ばれ、崇められている。
ギルドマスターは剣を掴み、マーヴェックへ放り投げた。
「死ぬなよ」
マーヴェックは無言でそれを受け取る。
重くて冷たい、服の下に隠していた短刀よりも、はるかに優れていた。
ギルドマスターは、すでにマーヴェックへの興味を失ってカウンターへ歩き出した。
マーヴェックは無言で、手近にあった乾いた小骨を掴み、そのまま口に放り込む。
「昨夜の宴であれだけ食べても、自分のマトム…いや、自分の魔積は自然消耗でもう落ちている」
「これはどうだ?」
「ザクッ」
「脆い、そして」
「魔積が補充された感覚が、ほとんどない」
「だが、空腹感を紛らわすには十分だった」
ギルドマスターは既にカウンターに立ち、全員の視線を受け止めたまま、場を奮い立たせるように声を張り上げた。
「全員、時間だ!」
「さっさと出ていけ!」
「獣族を叩け!」
「資源でも、名誉でも、好きなもんのために戦え!」
「この世界のためにもな!」
・・・
扉が開き、まばゆい光が室内へ流れ込む。
マーヴェックは外へ出て頭を上げた。
見慣れた空が頭上に広がっている。
手の届かない高みで、雲に包まれた光る球体が浮かんでいる。
動かない。沈まない。
ただ、ゆっくりと明滅している。
この世界にすべてを与える存在――
天陽
その色で、おおよその時間がわかる。
いま、淡い赤がゆっくりと白へ移り変わっていく。
朝が、すでに始まっていた。
そして雲の中には、小さな点がいくつも見える。
空中に漂う島々、神の領域と噂される場所。
マーヴェックは子どもの頃からそれを何時間も眺め、あの上に何があるのか、どんな景色が広がっているのかを考え続けていた。
だが今は、意識を切り替え、自分の前へ目を向けた。
果ての見えない赤い砂漠が、目の前に広がっている。
その一部は、まるで水のようにうねりながら流れている。
この世界の大半は、こうした場所だ。
農業や牧畜も成り立ちにくく、生命を維持することすら難しい。
続いて自分の右に目を向ける。
遠くに地平を埋める聖族の大軍。
その向こう側にも、同じ規模の獣族の軍勢が広がっていた。
両軍ともすでに鬨の声を上げ、前進を始めている。
志望者たちは、ギルドから配属された隊長に従い、別働として主力部隊へ向かい、そのまま戦闘に加わっていく。
それぞれの思惑を抱えたまま、まとまりのない陣形で前進している。
マーヴェックも雑念を振り払い、歩き出した。
そのとき、隣にいた男が、突然話しかけてきた。
「おい、小僧」
「お前、若いよな」
「このような戦に、まだ早いんじゃないか?」
隊長が列の前方で地図を見ながら何かを話し始めていたが、男の声がそれに混じる。
「名前はなんだ?」
「皆さん、ちゃんと私についてください」
「今年いくつだ?」
「この砂漠の名前、レッドオーシャン(Red Ocean)、知ってる方もいると思いますが」
「戦をやったことあるか?」
「ここでは、時間帯によって、場所によっては砂が水のように流れるよ」
「お前知らないかもしれんが、前は俺が…」
男は一人でしゃべり続ける。
マーヴェックはうんざりしながらも何も言わず、隣の男を無視して前を見て、隊長の声だけを拾っていく。
「そういうところに落ちたら」
「砂に沈むぞ」
「だが水に溺れるよりまずい」
「なぜなら…」
その時。
隣の男は自分の話に夢中で、列から外れていることに気づかなかった。
一歩、踏み外す。
「あっ——!」
そのまま、流れる砂に沈み込んで必死にもがく。
周りの人たちは笑っている。誰かが、
「ほんとに水に溺れてるみたいだ!」
とからかう。
一人が槍を彼に差し出して助けにいく。
男はそれにしがみつきながら叫んでいる。
「あつい!この砂、やけに熱いぞ!」
流れる砂の中で必死に泳いで、ようやく列の近くまで戻り、両腕で安定した地面を掴んで這い上がろうとする。
その時、
突然、
笑い声が、止まった。
誰もが彼をじっと見ている。恐怖に染まった顔の者もいる。
男は戸惑った。
引き続き体を引き上げようとする。
だが、
できない。
視線を下へ落として、やっと気づいた。
自分の下半身が、
ない。
あるのは露出した大腿骨だけだ。
そこに、緑色の粘液と血が絡みついている。
「……え?」
理解がまったく追いつかない。
男がみんなに向かって何か言おうとした。
その瞬間、
背後の砂が弾けた。
巨大な口。
巨大な赤黒いワームの口。
一瞬で、彼は頭から飲み込まれた。




