第1話 エンドマーク
自分という存在、そのすべてを一撃に懸ける。
どこにでもいる貧乏剣士でしかなかった俺を、勇者へと導いてくれた聖剣ジョワイユーズに己のすべてを預ける。
微塵の不安もなかった。躊躇が介在する余地もなく、思考する余裕なんかはとっくに失っていた。
ただ、今この瞬間、残された力をすべてベットした一撃を振り下ろす!
最期を覚悟して打ち込んだ聖剣での斬撃が激突したのは、魔王エンリルの周囲三十グラドスを覆う半透明で玉虫色に輝く防御結界だった。
絶対にも思えたエンリルの防御結界魔法アエギス・オービチェ。
仲間たちが打ち込み続けた攻撃によって、防御結界は飽和に達していると睨んだ俺の読みが当たり、聖剣の一撃によって臨界を越えた結界は硬質な金属音とともに砕け散った。
今だ! 今しかない! ここで決めてみせる!
「うおおぉぉぉお!」
まだ俺は動けるんだと自分を騙し、筋繊維の悲鳴を無視して駆ける俺は、気付けば獣のように吼えていた。
あと少しだ! あと少しだけ動いてくれ俺の両足!
もう少しだ! もう少しだけ持ってくれ俺の右腕!
突き出した聖剣の切っ先を、玉座の前で仁王立ちするエンリルに向ける。
エンリルは微動だにしなかった。
その顔に怒りや驚きの色は無く、口元には微かな笑みすら浮かべているようにも見えた。
「ディビーナ・ユースティティア!」
仲間たちのおかげで温存できた魔力の全てを注ぎ込み、俺が行使できる中で最も高位の神聖魔法を発動する。
乾坤一擲の瞬間まで残し続けた、最後の切り札。
仲間たちが俺に託した最終決戦魔法。
聖剣から迸る神々しい光の渦が、エンリルの筋骨隆々とした巨躯を飲み込む。
エンリルは仁王立ちのまま声を上げることさえしなかった。
頼む! これで、決まってくれ……!
聖剣を握る右手が小刻みに震える。既に握力を失っている左手を震える右手に重ねる。
限界などとうに越えている全身の関節の軋む音が、耳の内側で一斉に響く。
「見事だ!」
エンリルは一言だけ発すると、豪快に呵々大笑してみせた。
俺が倒せる存在じゃないってのか……!?
驚愕する俺を尻目にエンリルが重く低い声を響かせた。
「余の覇道は此処で潰える! 其処に憂いなどない。余の想いはネルガルが、そしてニヌルタが果たすであろう。この世界の魔王として余がエンリルを称した本意は、其処にこそある!」
エンリルの巨躯は崩れ始めていた。燃えるように赤い髪が、筋肉の隆起を際立たせる褐色の肌が、輪郭から浸食されるように崩壊しながら光の渦へと飲み込まれてゆく……。
もう少し、本当に今度こそ、あと少しで終わる……!
歯を食いしばり聖剣を握り続ける俺の前で、エンリルが両腕を大きく広げた。
「余は魔王である! 残りの知れた寿命なぞではなく、勇者の手によって滅するもまた一興! 余の本意、余の本懐を次代に託さん! さらばだ……!!」
今際の際まで豪放磊落な魔王で在り続けたエンリルは、玉座を震わす吼号を残して完全に消滅した。
魔力が完全に尽きた俺からの魔力供給を失って、聖剣ジョワイユーズも静かに消える。
刹那の静寂がぼろぼろの全身を包んだ。
「ミシェル!」
俺を呼ぶ声に振り返る。
クロエが俺の名を呼びながら駆け寄ってくる姿が見えた。
ルドヴィクが、ニナが、ギュスターブが、満身創痍の仲間たちが俺に笑顔を向けている。
「終わった、のか……」
俺たちの戦いは終わった。そうだ、終わったんだ……。
五年。気付けば五年もの月日が流れていた俺たちの戦いは今、終わった。
魔王のいない世界が始まる。
これで、世界は変わる。
全身から力が抜け、呼吸を整えることさえ億劫に感じた。
それでも最後は勇者として格好つけたいと思った。
駆け寄ってくるクロエに笑顔を向けた俺は、新しい世界への一歩を踏み出した。
Fin.
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
エンドマークを打った。
五十万字の長編小説を書き上げた達成感が込み上げてくる。
「ふう……よしっ……!」
物語を完結させたという充足感を味わいながら立ち上がった俺の、視線の先にある壁へ掛けられた時計は午前一時を指していた。
「うぅ……うっ、ああぁあ……」
長時間オフィスチェアに座りっぱなしで固まった腰を伸ばすと、我ながら情けない声が漏れた。
尊敬する作家の「物書きなら椅子だけはケチるな」というSNSでのアドバイスを素直に受け取って、奮発したオフィスチェアでこれなら安い椅子だったらどうなるんだ……と少し怖くなる。
俺にとって初めての長編小説になった『ミシェル戦記』を書き始めたのは、二十五歳になる直前の半年前だった。
会社と自宅を往復するだけの毎日の中に小説を執筆する時間が加わったことで、俺の生活はがらっと変わった。
小説のことだけを考えて執筆に集中している時間。
その時間だけは纏わりつく不安と焦燥を忘れることができた。
途中でスランプなんかも経験したが、今になって思えば全部を引っくるめて楽しかった。
楽しかったと締め括れたのが、今は何より嬉しい。
この最終話をサイトにアップするのは明日にしよう。
「完結ブーストって、ほんとにあるのかな……」
大きなコンテストで入賞したり、出版社から書籍化をオファーされるような作品と比べてしまえば、ページビューも読者の数も桁が何個も少ない『ミシェル戦記』だけど、もしかしたら……。
起こる保証なんてない現象だと分かっていても、つい期待してしまう自分を今だけは否定する気になれなかった。
一人で祝杯を挙げるために冷蔵庫を開けて、キンキンに冷えた缶ビールとグラスを取り出す。
「乾杯……!」
空きっ腹にビールを流し込む。
鮮烈な喉への刺激はもちろん、食道の驚きすら今は心地好い。こんなにビールが旨いと感じたのは初めてだ。




