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第8話 選ばれなかった想いの行方


 「……手、冷たくない?」



 俺がそっと差し出すと、瑞葉は少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに手を重ねてきた。



 「ほんの少しだけ……でも、直人さんのぬくもりで、もう平気です」



 そんな一言だけで、胸の奥があたたかく満たされていく気がした。



 付き合いはじめて、まだ数日。


 夜の街を並んで歩く、それだけのことが、どこか夢みたいだった。


 ぎこちなさも、不安もあるはずなのに――隣にいる彼女の存在が、それをすべて包みこんでくれる。



 そんな“今”を噛みしめながら歩いていた、まさにその時だった。



 ふと、視界の隅にひっそりと広がる影が映った。


 道の左側にある、大きな公園。


 その片隅――ブランコのひとつに、誰かが座っている。



 ……見覚えのある、髪の揺れ方だった。



 俺は思わず歩みを緩め、そちらへと目を凝らす。


 スマホを見つめたまま、うつむく細い肩が震えている。



 楓――だった。



 あの凛としていた背中が、まるで小さな子どもみたいに、寒さと涙でかすかに揺れていた。



「……直人さん?」



 隣で首を傾げる瑞葉の声。


 もうすぐ家に着く場所だった。


 けれど、俺は言葉を探すよりも先に、公園を見つめたまま立ち止まっていた。



「……ごめん、ちょっとだけ、寄りたいところがあってさ」



 そう言うと、瑞葉は一瞬だけ視線を先に送ったあと、静かに頷いた。



「……わかりました。ここ、すぐ家なので。……気をつけてくださいね」



 その声には、問いも詮索もなかった。


 ただ、そっと背中を押すような優しさだけがあった。



 別れ際に小さく手を振って、瑞葉は家のほうへと歩いていく。


 俺はゆっくりと、公園の方へ足を向けた。



 ブランコに座る楓の姿は、どこか壊れそうに見えた。


 近づくにつれて、その震えは一層はっきりとして――


 思わず、スマホの画面に視線が落ちる。



 そこに映っていたのは――



 俺と楓が、小学生だった頃の写真だった。


 無邪気に笑い合って、肩を並べて立っている、まだ何も知らなかった頃のふたり。



 胸が、ぎゅっと締め付けられる。



 そのとき、楓が俺の気配に気づいた。


 画面から目を離し、涙をぬぐいながら、少しだけ首をかしげる。



「……勝手に覗くなんて、悪趣味だと思わない?」



 泣き腫らした目で、それでも気丈に笑おうとする楓。


 けれどその笑顔は、あまりに痛々しくて。



「……ごめん。見るつもりじゃなかった」



 そう言いながら、俺は隣のブランコに腰を下ろした。



 重苦しい沈黙が、冬の夜に溶けていった。



 しばらくして、楓がぽつりと呟いた。



「……瑞葉から聞いたよ。付き合ったんだってね、あなた達」



 目を合わせず、遠くの街灯を見つめたままの声だった。



「ああ。そうだよ」



 俺がそう返すと、楓は小さく笑って言った。



「……おめでとう」



「……ありがとう」



 言葉はまっすぐだったのに、そこに乗っていた感情は、どこか諦めと投げやりが滲んでいた。



 ――純粋な祝福じゃない。それでも、俺は受け取ることしかできなかった。



 ふと、楓が夜空を見上げながら口を開く。



「……ねぇ、私の、どこが好きだったの?」



 唐突な問いだった。



 でも、それは今になって初めて聞ける質問だったのかもしれない。



「……ずっと一緒だったし、自然と惹かれてたのもあるけど……」



 俺は静かに言葉を探す。



「努力家で、誰にでも優しくて。負けず嫌いで、何かに負けると、次は絶対に勝とうとして……そうやって頑張る姿が、ずっと、かっこいいって思ってた」



 楓は少し俯いて、「……そう」とだけ呟いた。



 その声には、懐かしさと、ほんの少しの後悔が混じっていた。



「……私も、同じだよ」



「……え?」



 思わず聞き返した。



「ずっと一緒だったから、自然とっていうのもあるけど。


 努力家で、優しくて……そういうところを、ずっと、見てたから」



 一拍、間が空いた。



 静かな夜に、その沈黙は異様に長く感じた。



 そして、楓は――ぽつりと落とすように言った。



「だから、直人のことが好きだった」



 心臓が、音を立てて跳ねた。



 何を言われたのか、理解するのに時間がかかるほどに。



「……ずっと……ずっと、好きだったよ。あなたと同じくらい、


 ……十年以上、ずっと」



「そ、それは……」



 言葉にならなかった。冗談とか、からかいなんかじゃない。楓の目が、それを証明していた。



 目の下に、薄くできたクマ。



 泣き疲れた目元。



 ――まさか。俺と瑞葉が付き合ったって聞いて、泣きはらして……?



 そんなことまで頭をよぎるくらい、今の楓は壊れそうだった。



「……なのに、なんで……あんなに、俺のこと……断ったんだよ」



 震える声で、絞り出すように問いかける。



 楓は視線を落としたまま、そっと答えた。



「……瑞葉が、あなたのこと好きだったから」



「え……?」



「だから、譲ったの。それだけだよ」



 呆然とする俺に、さらに言葉が続く。



「……もう一つの理由は……」



 楓は、俯いたまま、かすかに声を震わせて言った。



「私より、瑞葉のほうが性格も優しくて、直人を幸せにできるって……


 そう思ったから」



 言いながらも、唇がわずかに揺れていた。



「直人のことが誰よりも好き。瑞葉のことも誰よりも好き。


 ……そして瑞葉も、私と同じくらい直人のことが好きだった。


 だから……私が引くのが一番だって、そう思ったの」



 小さく笑ったつもりだったのかもしれない。けれど、その表情はとても痛ましかった。



「……ほんと、馬鹿な理由だよね」



 そう呟いたあと、少し間を置いて――



「辛い態度で振ってきたのも、そうすれば私への気持ちが冷めて、


 瑞葉に目を向けてくれるかなって……思ったの。


 でも――結局、逆効果だった。


 直人にとっても……私にとっても」



 そこまで言って、彼女はそっと目を伏せる。



 ――“それだけの理由で”なんて、軽く言えるはずがなかった。


 それは、彼女なりの優しさと、苦しさと、後悔がない交ぜになった“選択”だった。



 だって今、目の前にいる楓は、何度も俺を拒みながら、そのたびに心を切り刻んできたんだ。



 その決断が、どれほどの覚悟と痛みを伴っていたのか。



 そして、俺と瑞葉が仲良くなるたび、どんな思いでそれを見ていたのか。



 想像するだけで、胸が締めつけられた。



「本当は、今の話――一生言わないつもりだったんだけどね……」



 楓は、ぽつりと呟いた。



「……思ったより、私、弱かったみたい。つい……言っちゃった」



 自嘲気味な笑みを浮かべて、彼女は肩をすくめた。



 その姿は、冗談めかした声とは裏腹に、ひどく壊れそうで。


 見ていられないほど、弱り切っていた。



 そんな彼女が、ふいに顔を上げ、夜の闇の向こうを見つめながら言った。



「ねえ……私のこと、十年以上も好きだったんだよね?」



 静かで、淡々とした声音だった。感情を押し殺すように。



 少し間を置いてから、続けた。



「……なら…私への気持ちのほうが……ほんの少しでも、残ってたりするのかなって……」



「それは――」



 何か言いかけたけど、言葉が詰まった。



 瑞葉の顔が、心の中に浮かんだ。



「だったら、私と――付き合ってよ」



 「は……?」と、思わず間抜けな声が漏れた。



「私と、付き合って」



 楓はまっすぐに言った。



「……ごめんね。最低なこと言ってるのは、分かってる。


 でも……やっぱり私、直人がいないとダメみたいで……」



 その目から、またぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。



 痛々しいほどの涙だった。


 今すぐ抱きしめて、少しでもこの痛みを和らげてやりたくなるくらいに。



「……お願い。お願いします……」



 嗚咽まじりの声が、夜の公園に響く。



「瑞葉と仲良くなっていく直人を見て、ようやく気づいた……自分が、どれだけ……馬鹿だったかって。


 五回も振っといてて今さら、って思うよね。


 わかってる……でも……それでも……お願いだから……」



 涙は、止まらなかった。



 両手で何度拭っても、あふれて止まらない。



 ――それは、彼女の心からのSOSだった。



 俺は……迷った。



 ほんの数秒、でも永遠のように長い逡巡。



 けれど――



「……今の俺は、瑞葉の恋人だから。楓を、選べない」



 静かに、そう告げた。



 その言葉に、楓は何も言わなかった。



 ただ、震えるまま、顔を伏せていた。



 ぽつりと、独り言のように楓がこぼした。



「……もし直人が、瑞葉と付き合う前に、もう一度だけ私に告白してたら――


 私、きっと、ちゃんと向き合えなかったと思う」



 そして続けた。



「馬鹿だよね……


 こんなに泣いてるのに……“失くしてからじゃないと”気づけなかったんだもん」



 その目は伏せられたまま、でも、涙の熱だけは止まらなかった。



 それでも楓は、無言のまま涙を流していた。



「……本当に、申し訳ない」



 俺は頭を下げた。



 しばらく、風の音だけが耳に残った。


 この沈黙ごと、彼女の涙を受け止めようと、そう思った。



 ――けれど。



 そっと、ブランコから腰を上げかけた、その瞬間。



「……はぁー。


 ……こんな嘘泣きに引っかかるとか、直人ってほんと呆れるぐらいお人よしだよね」



「……え?」



 思わず顔を上げた俺に、楓は乾いた笑みを浮かべて言った。



「もしこれで、私の妹を振って、他の女にあっさり乗り換えるような男だったら、殴ってたかもね」



 涙はもう流れていなかった。だが、目元は赤いままだった。



 その目を見て、俺は悟った。



「私がそんな、最低なこと言うわけないでしょ?


 あんまり、見くびらないでね」



 どこか冗談めいて言ったけれど、声は少し震えていた。



 俺は、苦笑を浮かべながら頷く。



「ああ。分かってる。楓は、そんな人間じゃないってことくらい」



 それは、きっとこの夜に言える――


 最も彼女を傷つけず、でも同時に、一番残酷な言葉だった。



「じゃあ……私は、もう少し風に当たってくから。先に帰って」



 そう言って、楓はブランコの鎖をゆらした。



「ああ……わかった」



 それ以上、何も言えなかった。



 今の俺がそばにいても、彼女を癒せない。


 むしろ、傷を深くするだけだ――そんな気がした。



「……それじゃあ、さよなら」



「……さよなら」



 短い別れの言葉だった。



 でも、彼女の声には――どこか愛しさと、悲しみが滲んでいた。


 まるで“またね”なんて言葉じゃごまかせない、永遠の別れのように思えた。



 俺はそのまま公園を出た。



 けれど、角を曲がったところで、ふと立ち止まる。



 本当に……このまま帰っていいのか?



 気づけば、俺はそっと、もう一度顔をのぞかせていた。



 その視線の先。



 楓はブランコに座ったまま、両手で口元を覆っていた。



 肩を小さく震わせながら――必死に、声を殺して泣いていた。



 嗚咽は聞こえなかった。


 それでも、わかった。



 彼女は――俺に気づかれないように泣いていた。


 さっきまでの笑顔も、冗談めいた言葉も、全部、そうやって“気遣い”にすり替えて。



 ――バカだ、俺。



 そんな姿を見てしまったことで、台無しにしてしまったかもしれない。



 これ以上見てはいけない気がして、すぐに目を逸らし、足を進めた。



 その背中に、楓の泣き声は届かなかった。



 ――いや、届かないように、してくれたんだろう。


 俺のために。



 楓は、ずっと強いふりをしてただけだったんだ。



 俺のせいだった。俺が彼女の未来を壊した。


 そんな気がして、たまらなく胸が苦しかった



 きっと俺は、今日の彼女の言葉も、泣き顔も、一生忘れられない。



 でも、それでいいと思った。


 あの涙に、俺はずっと応えられないままだとしても。



 だからせめて、忘れないことで――


 ほんの少しでも、彼女に報いたいと思った。


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