第5話 もし、あのとき“はい”って言っていたら――
文化祭前日の午後。
体育館には、独特の緊張感が漂っていた。
今年の演目は『若草物語』。
――19世紀アメリカを舞台に、四姉妹がそれぞれの人生を模索していく物語。
長い物語なので、自由奔放な次女ジョーと、しっかり者の三女エイミー。
それに隣人のローリーを今回の劇の焦点にあてている。
ジョーは、長年の親友ローリーに想いを伝える。
けれど、その恋は報われず、彼は妹エイミーと結ばれる――。
それは切ないけれど、どこかあたたかい結末でもあった。
ステージ上。
瑞葉――エイミー役の彼女が、淡いピンクのドレスを揺らしながら舞台中央へ歩み出る。
「あなたのことを嫌いになったわけじゃないの……。
でも、今の私は、もう“ジョーの影”じゃないの――ローリー」
舞台用に、原作とは少し違う台詞を瑞葉は喋る。
その台詞が響いた瞬間、体育館の空気がふっと静まり返った。
瑞葉の声は、いつもよりも強くて、それでいて優しかった。
……なんだろうな、この感じ。
スポットライトを調整しながら、思わず手が止まりそうになる。
舞台上の彼女が、いつもより遠くて、眩しかった。
リハーサルが終わり、照明卓を片付けて舞台袖へ向かうと、
ちょうどステージから瑞葉が降りてくるところだった。まだ衣装のままで。
「……直人さん、照明、完璧でした」
「おう。そっちの演技がよかったからな。エイミー、様になってたよ」
そう返すと、瑞葉は少し目を瞬かせてから、頬を染めて微笑んだ。
「……似合ってましたか?」
「うん。ドレスもだけど……声もさ。
なんていうか、ちょっと見惚れてた」
「っ……も、もう。そういうの、冗談でもドキッとするんですから」
瑞葉は袖の端をぎゅっと握って、目をそらす。
その仕草が、どこか新鮮で――でも、不思議と落ち着いた。
前よりも少しだけ、彼女が近くにいる気がして。
そのことが、嬉しかった。
ーーー
そして、文化祭当日――本番が始まった。
劇は順調に進み、やがて終盤へ差しかかる。
そのときだった。
俺は客席の最前列に、楓の姿を見つけた。
ざわめく会場の中で、彼女の輪郭だけが静かに浮かんでいた。
姿勢はまっすぐ。けれど、その瞳の奥には、ただの観客以上の何かがあった。
舞台上では、ジョーがローリーに想いを伝える場面。
台詞が響くたび、楓の肩が微かに揺れる。
寒さでも緊張でもない。
まるで心の奥に触れられているようだった。
そして――
『……私は、あなたに相応しくなかったの。
でも、あのとき、もう少し勇気があったなら――
あなたの隣に、私が立てていたのかもしれないって』
その言葉とともに、楓はふと目を伏せた。
そして、俺と目が合った。
一瞬の沈黙。
楓はわずかに目を見開き、そっと視線をそらす。
目元をぬぐい、また静かに舞台を見つめた。
その横顔には――懐かしさと、痛みと、説明のつかない想いが滲んでいた。
それが物語の感情なのか。
それとも、彼女自身の記憶なのか。
俺にはわからなかった。
場内が暗転し、舞台中央にスポットが落ちる。
エイミーとローリーのラストシーン。
照明卓で、俺は静かにスイッチを操作した。
瑞葉が中央に立つ。
まっすぐローリーを見つめ、言葉を紡ぐ。
『……私は、姉の代わりなんかじゃない。
あなたが私を見てくれたことが……嬉しかったの』
その声には、もう迷いがなかった。
今までで一番、芯が通っていた。
『……この想いに、嘘はありません。
私は、あなたの隣に立ちたい――心から、そう思っています』
拍手が、自然と客席から湧き上がる。
楓の姿は、その音の中に沈んでいった。
けれど俺の中では、あの一瞬のまなざしが鮮やかに残っていた。
幕が下り、体育館が拍手に包まれる。
俺は照明卓のスイッチから手を離し、深く息をついた。
場内が暗闇に包まれ、数秒の静寂が訪れる。
それが、妙に心地よかった。
……やり切った。
そう思えたのは、瑞葉が“エイミー”として、最後まで舞台に立ってくれたからだ。
最初は照れながらだった彼女が、練習を重ねるうちに少しずつ変わっていった。
あの一歩のために、俺も何度も光を調整した。
観客席の明かりが灯る。
ざわめきの中――
楓は、誰とも言葉を交わさず静かに立ち上がり、出口へ向かって歩いていった。
その背中には、何かを置いていったような影が差していた。
ーーー
文化祭の演劇が、あっという間に終わった。
喧騒のあとの夕暮れ。
有志メンバーでの打ち上げとして、ファミレスの一角に十人ほどが集まっていた。
にぎやかな会話。甘いドリンクバーの匂い。
そして、その輪の中には、瑞葉と俺の姿もあった。
「いや〜瑞葉ちゃん、エイミーのドレス姿、マジで似合ってたよな!」
「うんうん。直人くんもずっと見てたし!」
――その瞬間、瑞葉がストローをくわえたまま、ぴくりと肩を揺らした。
口元を抑え、俯いて小さく笑う。
その頬が、ほんのり桜色に染まっていた。
「ちょ、ちが……見てないよ、べつに……!」
慌てて否定したつもりだったが、すぐ横で瑞葉がさらに赤くなっているのを見て、かえって苦しくなる。
「え〜? 二人とも怪しい〜」
「ていうか、さすがにそろそろ告白済みじゃね?」
「てか、もう付き合ってるでしょ?」
誰かの冗談混じりの言葉に、一瞬、空気が止まった。
笑い声の中に、ほんのわずかな“本気”が混じっているのを、俺も瑞葉も感じていた。
「……な、なに言って……っ」
瑞葉はさらにうつむき、声にならない言葉をもらした。
顔を上げられないまま、両手でグラスをぎゅっと握っている。
「……ごちそうさまでした」
少しして、瑞葉は席を立ち、会計へと向かった。
その背中に、俺もすぐ立ち上がって続く。
「……お先に失礼します」
振り返りざま、俺がそう言うと、友人たちが「おお〜〜」と冷やかし混じりの声を上げた。
外に出ると、風が冷たかった。
文化祭の装飾がまだ一部残る校門の前で、瑞葉がじっと立ち尽くしていた。
「……ごめんなさい。私、へんな空気にしちゃって……」
「いや、そんなことない。俺のほうこそ、何も言えなくて……」
俺のような人間は、ああいうノリの場はどうにも苦手だ。
自分を変えたくて、社交的になろうと努力もしてきた。
けれど――やっぱり、賑やかな輪の中に入りきれない自分がいる。
しばしの沈黙。
その間に、陽がすっかり沈み、橙の街灯が歩道を照らしはじめていた。
瑞葉が、ゆっくりと口を開く。
「……でも、嬉しかったです。さっきの」
「え?」
思わず聞き返す。
瑞葉は、恥ずかしそうに顔を伏せ、けれどそのまま続けた。
「“付き合ってるの?”って言われたとき、すごくびっくりしたけど……
でも、どこかで、言われてみたかったのかもって……思いました」
風が吹いて、制服の裾が揺れた。
その音さえも、やけに心に残った。
「変ですよね。まだ、ちゃんと何も……なのに」
「……変じゃないよ」
俺はそう答えるのがやっとだった。
でも、本当にそう思った。
こんなにも近くにいて、こんなにも俺の気持ちを揺らすのは、瑞葉だけだ。
それを、誰かのひとことが気づかせてくれた。
「……今日は、ありがとう。ずっと一緒にいてくれて」
「俺のほうこそ」
言葉にならない気持ちが、胸に広がっていく。
もし――あと少しだけ勇気を出せたら。
今度のクリスマスには、この手を取ってほしいと、心から願っていた。
◇ ◇ ◇
文化祭の熱気がひと段落した午後。
人の波に背を押されるように、楓は校門を出ていた。
劇の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
あの舞台の、あの台詞。
――『私は、あなたに相応しくなかったの。
でも、あのとき、もう少し勇気があったなら――
あなたの隣に、私が立てていたのかもしれないって』
……思い出すたび、胸の奥がずきりと痛む。
“あのとき”。
その機会は、楓にも――いや、彼女にこそ、何度もあった。
直人からの告白は、五度。
そのたびに楓は首を振り、言葉を断ち切ってきた。
……でも、あの五回を、私は一度たりとも忘れたことなんてない。
迷いはあった。
心の中で何度も、「受けてしまえば楽になる」と思った。
だけど拒んだ。五度も。
その方が、彼の為だと信じて。
そうしてどんどん、その手は遠くなっていった。
気がつけば、前を歩くふたりの姿が視界に入っていた。
瑞葉と、直人。
ほんの十メートルほど先。談笑しながら、寄り添うように歩いている。
瑞葉の頬が、ふと赤く染まった。
きっと、何か褒められたのだろう。
その小さな仕草すら、今のふたりには自然に見えた。
――お似合い、なんだと思う。
認めたくなくて、でも、否定しようもなかった。
自分が選ばなかった未来。
その“もしも”が、いま目の前を歩いている。
瑞葉が羨ましかった。
「……あの時“はい”って言ってれば……私が……」
……なんて、勝手なことを思ってるんだろう。
五度も断っておいて、今さら“私だったら”なんて――。
そんなことを考える自分が、心底、嫌だった。
それでもふと、最悪な妄想が頭をかすめる。
――今からでも、私が告白したら……彼は、振り向いてくれるだろうか。
そんなの、自己中心的にも程がある。
だって、もう彼の隣には瑞葉がいる。
彼女の笑顔があって、彼のまなざしがある。
それを奪いたいだなんて……
どれだけずるいんだろうか、私は。
楓は足を止めた。
そのまま、誰にも気づかれぬよう、静かに横道へそれた。
遠ざかっていくふたりの背中。
それを見つめることもできず、ただ独り、路地裏に身を隠すように立ち尽くす。
「……何やってんだろ、私……」
夕暮れの空に、冬の気配が静かに溶け込んでいた。
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