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第4話 眠る君に、心が揺れた

 期末試験を一週間後に控えた平日の午後。

 平日なのに、図書館の中は意外と人が多かった。


 それでも、瑞葉が朝から予約してくれていたおかげで、静かな自習席にふたり並んで座ることができた。


「最近、図書館くるの、ちょっと楽しみなんですよね」


 そう言って微笑む瑞葉に、俺も思わず口元が緩む。


「……勉強が、か?」


「ふふ。直人さんと一緒だからですよ?」


 からかうような口調に、少しだけ胸がくすぐったくなる。


 あの日の秋祭りから、何かが確かに変わっていた。

 LINEもよくするようになったし、こうして自然に勉強に誘われることも増えた。


 机にノートを広げ、しばらくはそれぞれ集中して問題を解く。

 瑞葉は黙々と英語の長文に取り組んでいて、時折ペンの音だけが静かに響いていた。


 ……ふと、俺は違和感に気づいた。


 ――肩に、何かが触れている。


 横を見ると、瑞葉が小さく頭を傾けて、俺の肩にもたれかかっていた。


「……え?」


 声を出しかけたけれど、やめた。

 彼女は目を閉じ、浅く静かな呼吸を繰り返していた。


 眠っている――のか。


 それに気づいた瞬間、心臓がどくんと脈打った。


 机の上には、開きかけのノート。疲れていたのだろう。

 ……たぶん、無意識だ。


 だけど、こうして肩を預けられていることが、変に意識させられる。


 肩越しに伝わるぬくもり。瑞葉の髪が、わずかに頬に触れた。


 鼓動が速くなる。


 こんな風に近づいたのは、きっと初めてで――


 それが、“嫌じゃない”と思ってしまった自分に、戸惑った。


 “俺たちは、もうただの幼なじみじゃないのかもしれない”


 そんな言葉が、ふと頭をよぎった。


 数分後、彼女が目を開け、はっとしたように身を引いた。


「っ……す、すみません、直人さん! わ、私……寝て……」


「大丈夫。ちょっと疲れてるんだろ?」


「……うん。最近、家で集中できなくて……安心したら、つい……」


 恥ずかしそうに目を伏せる瑞葉に、

 『そういうの、ちょっと嬉しい』と言いたい衝動を抑えて、俺はただ笑って頷いた。


「じゃあ、少し休憩しようか。併設のカフェ、行ってみる?」


「はいっ……行きましょう」


 図書館の併設カフェ。

 夕方が近づく時間、外の木々がオレンジ色に染まりかけている。


 注文したケーキと紅茶がテーブルに運ばれ、瑞葉は小さく声を弾ませた。


「このケーキ、見た目は可愛いのに、意外と大人の味ですね」


 そう言いながらフォークを口に運ぶ瑞葉は、どこか嬉しそうだった。


「これ、楓は苦手だったな。甘すぎるのは嫌だって」


「……あ、やっぱり」


 瑞葉は静かに笑った。


「お姉ちゃん、こういう甘さが強いの、昔から避けてましたもん。

 私は……けっこう、好きなんですけどね」


 そこには、姉と自分を比較して劣等感を滲ませるでも、張り合うでもない。

 ただ、“私”を自然に知ってほしいという、まっすぐな気持ちが見えた。


「……そうなんだ。じゃあ、このケーキは瑞葉専用だな」


「ふふ。今度は、直人さんにもおすすめの味、選びますね」


 紅茶を口に含んだとき、ほんのりとした甘さと一緒に、心の奥まで温かくなった気がした。




「すみません、ちょっとお手洗いに……」


 瑞葉が席を立ち、店の奥へ消えていく。


 その姿を見送って、俺も軽く背伸びをしようと立ち上がった、まさにその時だった。


「……直人?」


 その名前を呼ぶ声に、心臓が小さく跳ねる。


 振り返ると、図書館の入口近くに、楓が立っていた。


 落ち着いた雰囲気はいつも通りなのに、

 その瞳だけが、どこか――戸惑っていた。


「……久しぶり。元気そうだね」


「楓……ああ、うん。偶然だな」


 どちらからともなく、近づいて、立ち話になる。


 図書館前の木々が揺れて、葉擦れの音だけが静かに響いていた。


「……相変わらず、図書館よく来てるんだ?」


「最近は試験前で、ちょっとだけな」


「そっか。……そうだよね」


 笑いながらも、楓の表情はどこかぎこちなかった。


「さっき……見えたんだ、カフェの窓から。瑞葉と、一緒にいるのさ」


「……ああ」


 その言葉に、思わず視線をそらしてしまった。


 そう言って、楓は隣の空席に目をやったあと、少し間を置いて言った。


「……直人、最近……瑞葉とよく一緒にいるよね」


 何気ない調子だった。けれど、その視線には探るような光が滲んでいた。


「ああ……勉強に付き合ってもらってるだけ、って感じかな」


 口にしたその“だけ”が、どこか頼りなく響いた。


「……もしかして、付き合ってたり……するの?」


 不意に落とされたその言葉に、胸の奥が跳ねた。


「っ……そ、そんなことないよ!」


 反射的に否定する。けれど、それが“本心からの否定”ではないことを、俺自身が一番わかっていた。


 楓は、一瞬だけ目を伏せた。


「……なら、よかった」


 その言葉の意味を、俺は聞き返せなかった。


 楓はふっと微笑んだ。


「変わったね、瑞葉。昔は、人前で笑うのも苦手だったのに」


「……あいつ、頑張ってるよ」


「うん。……でも、それだけじゃないと思う」


 そう言って、楓は一歩だけ近づいた。

 香る風が、楓の髪を揺らす。


「直人が隣にいるから――あの子、あんな風に笑えるんだよ」


「……」


 その言葉のあたたかさに、逆に、胸がざわつく。


「……ずるいなって、ちょっと思った」


「え……?」


 楓の言葉の意味が分からなかった。


「……ごめん、いまのナシ」


 楓はすぐに視線を逸らし、軽く笑って誤魔化した。


 けれど、その一瞬の揺れは、確かに俺の中に刺さっていた。


「ねえ直人。もし……あのとき、私が少しだけ勇気を出してたら、

 何か変わってたと思う?」


「……それって……」


 問いの意味を飲み込んだ瞬間、心臓が跳ねる。

 でも、言葉がうまく出てこない。


 楓は、それを待たずに続けた。


「ううん、変わらなかったか。

 ……だって、私、五回も振ってるんだもんね」


 苦笑交じりに言いながらも、その声は――笑っていなかった。


「……忘れて。変なこと言った。

 瑞葉のこと、大事にしてあげて。……ほんとに」


 楓はそう言って、少しだけ肩をすくめる。


「……直人の優しさが、今でも時々、ずるいなって思うんだ。……好きだったよ」


 そう言ってから、一瞬だけ唇が動いた。でも、その言葉は飲み込まれた。


 ――好きだった。


 その過去形の一言が、胸の奥に、ひどく静かに沈んでいった。


「じゃあね」


 楓はそっと微笑み、図書館の中へ消えていった。

 その背中はもう、何も言わずに、振り返らなかった。


 ……その場に、しばらく立ち尽くす。

 胸の奥に、かすかな痛みが残っていた。


「直人さん、お待たせしました」


 瑞葉の声が聞こえてきたとき、

 俺はまだ、どこかで楓の言葉の余韻を引きずっていた。

 それを振り払うように、軽く首を振る。




 ……そして、少し歩いたあと。

 瑞葉がふいに、ぽつりと口を開いた。


「……実は先週……お姉ちゃんに謝ったんです。

 直人さんの五度目の告白した時、実は私も、こっそり屋上で聞いてたって」


 俺は何も言えなかった。


「それから……私、自分もあの日、直人さんに告白したって話したんです。

 ……これは何故か前から知ってたんですけど」


「……そうだったんだ」


 小さく息を飲む。楓は、そのことも全部受け止めていたのか。


 瑞葉はほんの少しだけ前を向き、ぎこちない笑顔で俺の目を見た。


「もうすぐ、文化祭ですね」


「ああ、俺は照明だけど、瑞葉は大役だよな」


 文化祭は、希望者と演劇部の有志によって上演される舞台に、俺と瑞葉も参加している。

 瑞葉はそのヒロイン役に選ばれた。


「……それで、文化祭が終わったら、

 一ヶ月もしない内にクリスマスですが…空いてますか?」


「……え?」


「もしよかったら、一緒に出かけませんか?」


 突然の誘いに、心臓が一拍遅れて跳ねた。

 彼女の瞳はまっすぐで、でもどこか不安そうでもあった。


「……うん。俺でよければ」


 その返事に、瑞葉の表情がぱっと明るくなった。

 その笑顔だけで、今日一日が報われた気がした。


「……今日は、帰ろっか」


「はい」


 歩き出した足取りは、さっきよりほんの少しだけ遅くなっていた。

 繋いではいない手が、ふとした拍子に触れそうになって――心臓が跳ねる。


 ふと、さっきの楓の声が蘇る。


 『……もしかして、付き合ってるの?』


 あのとき、ちゃんと否定できなかった。それが答えだったのかもしれない。

 いや――違う。“否定したくなかった”んだ。


 楓への想いは、きっとまだ消えていない。

 でもその輪郭は、少しずつ霞んでいく。


 代わりに、瑞葉の笑顔が胸に焼きついて離れない。

 ただ隣にいるだけで、こんなにも心が温かくなるなんて――。


 「……瑞葉」


 夜風に、その名前が溶けていった。


 ――この想いに、ちゃんと向き合わなきゃいけない。


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