第2話 私、お姉ちゃんの代わりにはなりません
楓に告白した時の、あの拒絶は、
やっぱり――俺“だけ”に向けられたものだったのかもしれない。
そう思ったら、胸の奥が冷たく締めつけられた。
◇ ◇ ◇
それは、偶然だった。
放課後、なんとなく足が体育館の裏へ向いていたのは――
昨日、振って、振られたあの屋上の記憶が、まだ心に残っていたからかもしれない。
そのとき、俺は見てしまった。
楓に、ひとりの男子が告白しているところを。
クラスでも人気のある男だ。俺よりずっと人望もあるし、ずっと、モテる。
『ずっと、好きだった』
『誰よりも、君を見てきた』
まっすぐな言葉だった。
その声には誠実さがあったし、真剣だった。
楓は黙って、それを受け止めていた。
気まずそうに目を伏せ、唇を震わせて――
「……ごめんなさい。……今の私には、誰からの想いも、受け止める資格がないんだ……」
そう言って、深く頭を下げた。
その姿は、昨日の彼女とは別人のように見えた。
俺に言い放ったあの冷たい拒絶じゃない。
彼の気持ちを、真っ直ぐに受け取って――そして、優しく、でも確かに断っていた。
彼を傷つけたことが、痛いほど伝わってくる表情だった。
手をぎゅっと握りしめ、悔やむように、そこに立ち尽くしていた。
……ああ。
やっぱり、これが“普段の”楓なんだ。
楓に告白した時の、あの拒絶は、
やっぱり――俺“だけ”に向けられたものだったのかもしれない。
…それ以上見ているのがつらくなって、足早にその場を離れた。
◇ ◇ ◇
校舎と体育館の間にある小さな休憩スペース。
ベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を見上げる。
……俺は嫌われていたのかもしれない。
そう思い返すたび、五度の告白が、少しずつ胸に刺さってくる。
最初は優しかった。
でも、二度目、三度目と重ねるたびに、楓の声は淡々としていって。
五度目には、もう俺に感情さえなかった気がする。
――しつこいと思われていたんじゃないか。
以前、楓本人は数は関係ないと否定してたが、そうとしか思えなくなってきた。
……そんな自己嫌悪に沈みかけた時だった。
「はい」
不意に、手元へ差し出された缶。
見れば、俺の好きな桃のジュース。
横を向くと、瑞葉が立っていた。
恥ずかしそうに、でも、どこか意を決したような顔。
「なんだか元気なさそうだったので、奢ります」
そう言って、スポーツドリンクを片手に小さく笑う。
彼女も静かに隣に腰を下ろした。
――昨日、あんなことを言ってしまったのに。
それでも、こんなふうに隣にいてくれるなんて。
彼女の優しさに、胸が少し痛くなる。
そして、その強さに、俺は驚かされてばかりだった。
……誰かがそばにいる。
ただそれだけで、張り詰めていた心が、ほんの少しほどけた気がした。
しばらく、沈黙が流れた。
やがて、瑞葉がそっと口を開く。
「……何かあったんですか? 私でよければ、話してください」
その声は、思っていた以上に真剣だった。
でも俺は――小さく首を振る。
「……ごめん。それは、言えない」
さっき見たことを、彼女に話すわけにはいかなかった。
それを想像してくれたのか、瑞葉は少しだけ視線を伏せる。
「……気を遣わせたな。悪い」
「いいえ。私が、できることなんてたかが知れてますから……」
言葉は謙虚だったけど、そこに宿る優しさは本物だった。
「でも……瑞葉がいてくれるだけで、少し気持ちが楽になったよ。ありがとう」
そう伝えると、彼女は驚いたように瞬きをして――
ほんのりと顔を赤らめる。
「……そ、そうですか……」
その声が、やけに可愛くて。
少しだけ、心が温かくなった。
◇ ◇ ◇
夕焼けが、建物の影を長く伸ばしていた。
俺と瑞葉は、影を踏みながらゆっくりと帰路を歩いていた。
言葉はなかった。けれど、その沈黙が不思議と心地よくて――どこか、あたたかかった。
ふと、瑞葉が立ち止まる。
「……秋の空って、なんだか寂しいですね」
見上げると、高く澄んだ空に、一筋の飛行機雲が伸びていた。
「……そうかもな。風は冷たいのに、空だけやたら綺麗で」
「はい。でも、それが、いいんです」
彼女はそう言って、小さく笑う。
「少し寂しくて……でも、優しい気がして」
その言葉が、妙に胸に響いた。
まるで、俺の今の気持ちを言葉にしてくれたみたいで。
気づけば、ほんの少し、肩が近づいていた。
それが不思議と自然で、むしろ安心感すらあった。
「……そういえば」
瑞葉がぽつりと口を開く。
「昔、よく三人でお祭りに行ったこと、覚えてますか?」
「ああ。覚えてるよ」
「直人さんが金魚すくいで一匹も取れなくて……
お姉ちゃんが全部すくって、すっごく自慢げだったの。ふふっ」
思わず、笑いが漏れる。
「金魚だけは、やたら得意だったよな。あいつ」
笑い合ったあと、ふと胸に、微かな痛みが走る。
思い出したのは――あの夜の花火。
境内の裏で、楓と肩を並べて見上げた空。言葉はなかった。ただ、そばにいた。
あの横顔が、今も鮮明に焼き付いている。
「……なんでだろうな」
言葉がぽつりと漏れる。
「あの頃が、すごく遠く感じる」
瑞葉は、俺の言葉を咀嚼するように静かに頷いた。
そして前を見据えて――
「でも……戻れるかもしれませんよ」
「……戻れる、か?」
「はい。来週、秋祭りがあるんです」
少しだけ視線を落として、けれど優しく笑う。
「よかったら、三人で行きませんか?」
その“三人で”という言葉に、一瞬だけ胸がざわついた。
――戻れる。そんなこと、本当にあるんだろうか。
でも、瑞葉の瞳は、まっすぐだった。
どこか強くて、でも、少しだけ揺れているようにも見えた。
「また、あの頃みたいに…
笑って…くだらないことで盛り上がって……
そういう時間、きっと、必要だと思うんです」
“あの頃みたいに”――それは、きっと俺よりも、瑞葉自身が願っている言葉なのかもしれなかった。
……本当は、二人で行けたら――
瑞葉は、そう思っていたのかもしれない。
けれど、それを口には出さず、“三人で”と提案した彼女の強さと優しさが、胸に刺さった。
俺は少し考えて、息を吐いた。
「……そうだな。それも、悪くないかもな」
瑞葉の瞳に、迷いが消えた気がした。
微笑む瑞葉の表情は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
強さと、ほんの少しの寂しさを滲ませながら。
――もし、今、隣にいるのが瑞葉じゃなかったら。
こんなふうに、素直に笑えていただろうか。
秋の風が、落ち葉をさらりと巻き上げていく。
胸の奥に残る未練は、まだ癒えない。
それでも、隣を歩く彼女の温もりが――少しだけ、それをやわらげてくれた気がした。
◇ ◇ ◇
夜。
楓の部屋に、瑞葉が本を一冊手にして訪れた。
「これ、返しにきたよ」
机の灯りだけが部屋を照らしている。
楓はベッドの縁に腰かけ、瑞葉は部屋の隅の椅子に座っていた。
「面白かったよ、この本」
「そ。じゃあ、また別の貸すよ」
淡々としたやり取り。
けれど、その間に静かな沈黙が流れる。
時計のカチカチ、という針の音だけがやけに耳に響いていた。
そして、ふいに――楓が瑞葉を見た。
「ねえ、瑞葉。……あんた、直人に告白したでしょ」
「――っ!」
瑞葉は、まるで何かに刺されたように肩を跳ねさせた。
「……な、なんで、知ってるの……?」
「さぁ?」
楓はわざと軽く言って、視線を窓に向けた。
瑞葉は、言葉を失ったまま黙り込む。
けれどその顔は、驚きと、少しの戸惑い、そして――ほんのかすかな怯えを滲ませていた。
「……もし、私がさ。
“今から直人の告白、受けるつもり“って言ったら、どうする?」
その一言に、瑞葉の心臓が跳ねた。
声は静かだったけれど、その目の奥にある本気の色を、妹には分かってしまう。
「……それって、本気で言ってる?」
「さぁ……」
また、そう言って、視線を窓に向ける楓。
数秒、言葉が出なかった。
喉の奥にひっかかった何かを、飲み込むようにして、瑞葉は言った。
「……今なら、たぶん…直人さんは受けるよ」
それは、瑞葉自身が一番認めたくない“事実”だった。
「でも、それなら……しょうがない、かも」
そう言った声は、無理に笑っているように聞こえたかもしれない。
けれど、その胸の奥では――
張り裂けそうな何かが、静かに、音もなく軋んでいた。
「……だって、お姉ちゃんにも……幸せになってほしいもん」
その言葉は、本心でもあり、強がりでもあった。
楓は一瞬、瑞葉の顔を見た。
何かを確かめるように。けれどすぐに視線を逸らし、言葉を呑みこんだ。
楓は、それを聞いて、ほんの一拍、表情を止めた。
そして、かすかに目を伏せて――微笑んだ。
「……冗談。冗談だよ」
そう言って楓は笑った。いつもの調子に戻したつもりなのかもしれない。
けれど、その笑顔には、どこか“逃げるような色”が混じって見えた。
瑞葉は、しばらく黙って楓の横顔を見つめていた。
言葉にできない何かが、喉の奥でつかえていた。
――お姉ちゃん、本当はどこまで本気だったの?
問いかけることも、飲み込むこともできなくて、瑞葉はそっと視線を逸らした。
「……もう、やめてよ、そういう冗談…」
瑞葉は苦笑しながらそう言ったけれど、笑みの奥に残る複雑な想いは隠せなかった。
心のどこかで――
“本当に冗談だったのかな”という疑いが、微かに残ってしまったから。
「じゃあ、寝るね」
「うん……おやすみ」
「おやすみ」
扉を閉めたあとも、瑞葉の足取りはしばらく重かった。
自室に戻る途中、ふと、背中に視線が刺さっているような気がして――振り返る。
廊下は静かで、誰もいない。
けれど、心のざわつきだけが、しばらく消えなかった。
その頃――
楓はベッドにもたれ、天井をぼんやり見上げていた。
――冗談。
そう言ったはずなのに、その言葉が、自分の心に一番刺さっていた。
「……冗談。
冗談、だよ」
誰にともなく、つぶやく。
でも、その声はどこか苦しげで、にじむような小さな震えがあった。
睫毛にかかった涙が、灯りの影を歪ませていた。