⑦陽莉の家
初めて練習した日から、一週間が経った。弁論大会までに残された時間は、二週間。
望月先輩の協力もあって、無事に原稿は完成した。しかし、読みはイマイチのままだ。
原稿用紙に、赤いボールペンで達筆に記された文字は、望月先輩のもの。言い回しを何パターンか一緒に考えて、添削したのだ。それだけじゃない。私の弱点を把握して、数か所アクセント注意の波線を引いてくれたりもした。私一人では、改善できなかったから。
「ねえ、未羽ちゃん。これから時間ってあるかな?」
今日は、先生たちの会議があるとかで、練習は一回通しで終わった。部活動も中止らしいので、校内に生徒はほとんどいない。いつも聞こえてくる運動部の声も、管弦楽部の演奏の音も何も聞こえない。
「大丈夫ですけど」
本番まで時間はないのだから、どこかで練習すべきだろう。今のままでは、惨敗が目に見えている。
「よかったら、ボクのお家に来てくれないかな?」
予想外の提案だった。確かに、外で練習する気なんてさらさらなかったし、消去法的にいって、どちらかの家くらいしか場所はないのかもしれない。
「そうですね……迷惑じゃなければ」
「大歓迎だよ」
望月先輩は花笑む。
その笑顔が優しくて、それ以上に眩しくて、一歩も動けなくなる。
今の私には、その笑顔の隣を歩く資格がない。
中途半端にもなれない、無意味な私には。
望月先輩が、くすぶる私の手を取って歩き出す。その温かな手のひらは、決して離れることはなかった。
まだ太陽は沈んでいない。昼間のような明るさの中で、電車に揺られて約一〇分、二つ隣の駅で下車する。通学用の自転車は、出発駅の駐輪場に停めてきた。
初めて利用した駅に対して、失礼なもの言いかもしれないが、凄く田舎っぽい印象を受けた。普段目にしている駅が大き過ぎるせいで、何だか質素に見えてしまう。さびれたトタン屋根の駅舎があるだけで、駐輪場は野晒しだった。
空が広く開けている一本道を、望月先輩を先頭に一列になって歩く。中央線がないような細い道で並んで歩ける余裕がない。対向車同士がぎりぎり通れるくらいの道幅だった。
やがて交差点に出ると、ようやく歩車が分離される。私の隣に望月先輩が並んだ。
「最近、原稿を読むときに眉が動くようになったね」
「眉、ですか?」
「とっても伝わりやすくなった」
白い歯を覗かせて、望月先輩は私の方へと手を高く掲げる。
「大進歩だね」
「ありがとうございます」
遠慮がちに手を合わせる。
「全然気づいていませんでした。きっと、無意識だったんです」
「無意識にできるってことがすごいよ。ボクは、人から教えてもらわないとできなかったから」
言われてみれば望月先輩の眉は良く動く。嬉しそうなとき、楽しそうなときは上へと押し上がる。真剣な時はキリッとしているし、考え込んでいる時は八の字になる。だから表情豊かで、嘘偽りのなさを感じさせていたのか。
「自力で実践できるようになった未羽ちゃんは、もっと自信を持っていいんだよ」
温顔を直視できなくなって、思わず俯いてしまった。その反面、誇らしい気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。
こんな私を全肯定してくれる先輩の隣は、毛布の中に包まっているみたいで抜け出せなくなりそうだ。これからすぐに夏が訪れるというのに。
他愛のない会話に花を咲かせること二〇分。気がつくと、望月先輩の家に着いたみたいだった。
だが……。
「パン屋、ですか?」
目の前の建物は、明らかに家の造形ではなかった。看板が取り付けられているだけでなく、のぼりだって立っている。【米粉パン工房 ひだまり】と書かれていた。
「お家で、グルテンフリーのパン屋さんをやってるんだ」
よく見たら、その奥に住宅らしきものが建っていた。ベージュ色の外壁をした二階建ての一軒家。手前はパン屋で、奥が住居エリアということだろう。
手前の駐車場には、四台の車が停まっている。外から店の中を覗いてみたが、中々に賑わっている様子だった。
「グルテンフリーのパンって食べたことないので、ちょっと気になりますね」
「せっかくだから、何か食べてみる?」
嬉々とした表情で、望月先輩が尋ねてくる。
「ごちそうするよ」
気になるとは言ったが、先輩に奢ってもらうというのは気が引ける。逡巡していると、望月先輩は店の中に入っていった。慌てて私も後に続く。
「いらっしゃいませ――って、陽莉か。おかえり」
レジには、コックコートを着た背の高い男の人が立っていた。ハンチングとマスクで顔はよくわからない。会計の最中みたいだ。
「ただいま、お兄ちゃん。今日早かったんだね」
「実習がなかったからな」
そう答えた男の人の柔らかな目が、こちらに向けられる。
「陽莉の友達か? いらっしゃい」
軽く会釈する。
「後輩の、小波未羽です」
途端に、男の人の動きが止まった。
「小波……?」
柔らかかった目尻が引き潮のように引いていくと、つり気味の目が露わになる。
「どうかしましたか?」
「ん? ああ、いや、何でもない」
お母さんのことでも知っているのだろうか。テレビに出たこともあったし、ネットで見かけることもあるだろうから、聞き覚えがあってもおかしくはないだろうけど。
それに、不本意ながら、私とお母さんはそっくりみたいだし。
「俺は、兄の颯真です」
くしゃっと目尻が笑う。
「どれも絶品だから、好きなものを選んでいってくれよな」
人当たりの良さそうな優しい声、というよりか少年のよう声は、望月先輩と近しいものを感じる。ただ、目つきと身長差は対照的で、あまり似ているとは言えない。
「陽莉ちゃん、今帰ったのね?」
会計を済ませたおばあさんが、柔和な笑みを浮かべて振り返る。
「今日も会えないのかと思ったわ」
「三島さん」
いつもありがとうございます、と添えた後、望月先輩は少し申し訳なさそうな顔をした。
「しばらくは休日だけのお手伝いになりそうです」
「受験生だものね。無理だけは、しないようにね」
「お気遣いありがとうございます」
軽い会釈をした後、望月先輩は悪戯っぽく笑った。
「三島さんも、登山はほどほどにしてくださいね」
望月先輩の視線の先を追って、おばあさんの足元に目を向ける。婦人靴やウオーキングシューズなどではなく、しっかりとしたトレッキングシューズを履いていた。
「あら、バレちゃったの?」
言葉とは裏腹に、おばあさんは上機嫌そうに笑う。
「陽莉ちゃんには敵わないわ」
「また息子さんが心配して飛んできますよ。それに、ボクも三島さんが入院してしまったら悲しいです」
「まあ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
袋詰めを終えた颯真さんが、二人の会話を微笑ましそうに眺めている。
「陽莉ちゃんの笑顔を見ると、元気がもらえるわ」
おばあさんは袋を受け取って、店の外に出ていった。
「また来るわね~」
「お待ちしてまーす」
望月先輩は、おばあさんの背中が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。
その見送りが終わると今度は――、
「お嬢ちゃん」
おじいさんが、手招きをしていた。
「この小僧とレジ代わってくんないか」
「今日はボク、お店のお手伝いはしてないんですよー深町さん」
「相変わらず、俺には手厳しいッスね」
颯真さんは、苦笑いを浮かべる。
「俺は、野郎の詰めたパンを食べるつもりはない」
そうは言いながらも、おじいさんはしっかりと財布から小銭を取り出している。
「制服姿のお嬢ちゃんもかわええのお」
「ったく、このスケベオヤジは」
「ほれ、釣りはお嬢ちゃんに……」
「お気持ちだけ受け取りますね」
望月先輩は、そっとその手を制止した。
「お隣の募金箱に入れてくださる方が嬉しいです」
「お嬢ちゃんの頼みとあらば」
おじいさんは、募金箱にお釣りを入れた。
「「ありがとうございます」」
兄妹揃って、見事なお辞儀だった。
「じゃあまたな、お嬢ちゃん」
「またいらしてくださいね、深町さん」
笑顔でおじいさんを見送った望月先輩が、くるっとこちらに向き直る。
「ごめんね、未羽ちゃん」
「いえ、大丈夫ですよ」
この数分間で、望月先輩の人望の厚さを再認識させられた。
店内をぐるりと一周してから、望月先輩のおすすめだというアップルパイを選んで、会計を待つ。財布を取り出そうとしたが、やんわりと断られた。頭を下げて素直に従う。
ゆっくりしていってくれー、とお兄さんからの歓迎の言葉をもらい、店を後にした。
「お店の手伝いもしてたんですね」
「うん。お客さんの笑顔が見られるのが好きなんだあ」
嘘偽りなど感じさせない、清々しい表情だった。直視できずに、目を逸らす。
そのまま黙って、奥に構えている一軒家まで移動する。望月先輩が、玄関の扉を開けてくれた。扉を抑えたまま、私を先に通してくれる。そっと玄関に足を踏み入れると、こちらにまでパンの匂いが流れ込んでいた。建物自体が繋がっているわけではないのにと、驚きが隠せない。
望月先輩に案内されて、階段を上って二階へ向かう。突き当りの部屋に通された。
「紅茶かお茶かコーヒーなら、どれが好きかな?」
基本的に水しか飲まないけれど、その中でなら。
「コーヒーですかね」
「ホットとアイスなら、どっちがいい?」
「ホットで、お願いします」
「わかった。ホットコーヒーだね」
望月先輩は部屋を出た。
「少し待っててね」
ホワイトとベージュで統一された、ふんわりとした空間に佇む。微かに漂う甘い香りは、望月先輩の匂いだ。
もしもここに香奈を通したら、肺一杯に空気を吸い込んで、ベッドへダイブしてそのまま失神でもしてしまいそうだ。なんて、愉快で薄ら恐ろしいことを考える。香奈ならきっとやりかねない。
もちろん私はそんなことしない。……落ち着く匂いなのは認めるが。
窓際に寄せられたベッドと、存在感を放つ特大サイズのぐでりん(マスコットキャラクター)のぬいぐるみ。そのそばに設えてあるデスクとワゴン。コスメやアクセサリー、文具といった小物類は顔を出していない。きちんと仕舞われているみたいだ。
イメージ通り、清潔感漂うシンプルですっきりとした部屋だった。
ただ、デスクの反対の壁際に、普通では見られない光景が広がっている。
「本の量が、エクストラ級に半端ない」
背の高い本棚が、壁際にずらりと並んでいる。もはや書斎と言っても過言ではないレベル。そこには、隙間を許さないとばかりにぎっしりと本が詰まっていた。何十冊なんて生易しいものじゃない、何百冊の領域だ。いや、下手したらもう一桁越え?
棚に並んだ本をざっと眺める。大きく分けて、左側の三割ほどが文庫本やハードカバーの小説たちで、右側の三割が自己啓発書やビジネス書、新書やハウツー本。その隅にはひっそりと少女漫画が並んでいて、センターを務める残りの三割が、心理学と哲学の本だった。
同じ読書好きでも、私は小説やライトノベルといった読みもの専門で、ビジネス書等は読まない。というか読んだことがない。
「望月先輩って、本当に高校生……?」
小説や漫画以外の本をこんなに読む高校生なんて、滅多にいないのではないだろうか。
つい本棚に気を取られていると、背後で控えめに扉の開く音がした。
「おまたせ」
トレイの上に、カップとアップルパイが載せられていた。
「すみません。私が開ければよかったですね」
「大丈夫だよ、未羽ちゃん」
望月先輩は、トレイをデスクの上に置いた。
「こう見えても、力には少し自信があるから」
そう言って、力こぶを作ってみせていたが、制服の上からではよくわからない。きっと、可愛らしい小さな山があるだけだろう。あの華奢な見た目で大きな力こぶがあったら、さすがに引いてしまいそうだ。
「でも、体育は苦手、なんですよね?」
少しだけ、意地悪を言ってみたくなった。
「未羽ちゃん? どうしてそれを知ってるのかな?」
「望月先輩を推してる友達から、そう聞きました」
「ボクのプライバシー……」
望月先輩は苦笑いを浮かべた。
それだけではなく、目の前の先輩がどれだけすごい人物なのか、私は知っている。学校一の成績を誇り、女子高生カウンセラーと称されるだけに留まらず、弁論の天才でもある。もはや敵なし。学校中の誰もが羨み尊敬している天才少女。
だが、ここにある本たちが物語っている。天才と呼ばれている望月先輩の、圧倒的な努力量を。
「未羽ちゃんは読書好きって言ってたから、安心してお部屋に通せたよ」
心理学専門書もそうだが、難解そうな哲学書を何冊も読んでいるというのはすご過ぎないだろうか。
「ちょっとだけ、本を手に取ってもいいですか?」
「もちろん」
望月先輩は、嬉々として頷く。
「読んでみたい本があったら遠慮なく言ってね」
目線の高さにあった、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を手に取ってみる。聞いたことのある哲学者の名前だ。確か、ドイツの哲学者ではなかっただろうか。「神は死んだ」という名言を残していた気がする。彼を題材にした漫画や小説を見かけたこともあった。
パラパラと捲っていると、所々に赤やオレンジ、水色などで斜線が引かれていた。
「本に線を引いているんですか?」
「感銘を受けたところには橙色、重要なところには赤色、難しい言葉には水色っていう風に分けて線を引いてるんだ」
本に書き込みをする発想はなかった。ずっと、本は汚してはいけないという観念を持っていた。朗読用の本でさえも線を引くのは躊躇われて、一度も引いたことがない。代わりに付箋を貼っていた。
「読み終わった後に、線を引いたところをノートにまとめているんだよ」
望月先輩は一番右にある棚からノートを取り出した。
受け取って一ページ目を開く。さっき手に取った本の要約をしているページみたいだ。
「かなり勉強的な読書をしてるんですね」
「勉強が趣味だから」
「いや、天才の台詞……」
七〇〇ページ越えの長編、『ツァラトゥストラ』。望月先輩は、この本から何を得て、どう感じたのか。正直気になる。私でも読めるだろうか。
「その本、気になる?」
望月先輩が、私の顔を覗き込んでくる。
「物語調で、翻訳もすごくわかりやすいから、入門書には打ってつけだよ」
もし読めなかったときは素直にそう言って返せばいいし、ノートを借りるという手もある。だから、読んでみればいい。望月先輩のことをもっと知りたいのなら。
「これ、借りてもいいですか? 読んでみたいです」
「もちろん。ゆっくりでいいからね」
私がおすすめした本を望月先輩はすぐに読んで感想を伝えてくれた。あの後から、他のクリスティーの本も読んでくれているみたいだし、私も、望月先輩の好きなものをもっと知りたい。
「これを読む前に、ニーチェのこととか哲学のことを、教えてくれませんか?」
「任せてっ」
その瞳がキラリと輝く。
「お茶を飲みながら、ゆっくりお話ししよう」
言われて思い出す。せっかくコーヒーを淹れてくれていたのに、すっかり忘れていた。アップルパイのことも。
「そうですね。コーヒーも、冷めないうちにいただきます」
椅子を使うように促されて、腰を落ち着ける。先輩はベッドに座って、ワゴンの上にティーカップとアップルパイの載った皿を置いた。どうやら望月先輩のティーカップの中身はコーヒーではないみたいだ。薄い橙色をしている。紅茶を好んでいるようだ。
私は、香ばしい匂いの漂うコーヒーを一口啜る。その時、少し違和感を覚えた。香りのわりに味が薄くて、少しお湯っぽかった。気のせいだろうと、もう一口啜ってみた。
いや、まさか、そんなわけはないか。
ふと目を正面に向けると、ティーカップの取っ手を摘まんだ望月先輩が、様子を窺うようにこちらを見ていた。
「あの、もしかして……」
コーヒーだけでジャッジするのは失礼かもしれないが。
「料理なんかも苦手だったりします?」
ガーンと効果音が聞こえてきそうなほど、望月先輩が苦しげに表情を歪める。
図星だったのか。
「だ、だって、コーヒーの粉の量とか、料理の調味料とかもそうだけど、ああいうの、いつも入れ過ぎなんじゃないかって心配になっちゃうから」
徐々に顔が赤くなっていく望月先輩を見ていると、おかしくなって思わず声を上げて笑ってしまった。
「今日の未羽ちゃんは意地悪だ……」
「すみません。でも……」
笑いの余韻を残しながら、訊いてみる。
「調理実習の時とかってどうしてたんですか?」
「分量の担当はいつも違う子がやってくれてたから、大丈夫だったんだ。それ以外なら、ちゃんと熟せるよ」
「レシピ通りに作ってても、気になるんですか」
「それでも心配になっちゃうから」
普段の洗練された所作や言動から、望月先輩は何でも完璧に熟せるのだろうと思っていた。だから遠い存在なのだと、私も、きっと周りの人たちも勝手に神聖化していた。でも、実際はそうじゃない。
それは、香奈や他の人はきっと知らないことに違いない。そう考えると、胸が高鳴った。私だけが知っている顔。圧倒的優越感。香奈には黙っておこう。
「なんか、安心しました。あまりにも望月先輩が完璧過ぎるから、正直、少し怖いなって思ってたんです」
私のお母さんみたいに、天才気質で完璧な先輩には、私の悩みも実力も、ただただくだらないものにしか見えていないのだろうと思い込んで、少し距離を感じていた。
私の気持ちなんて、絶対にわからないだろうと。
「完璧なんかじゃないよ。ボクはね、不完全だからこそ、毎日が楽しいなって思えるんだ」
不完全な方が楽しい、か。私はそうは思えない。
「何でも思い通りにできた方が、楽じゃないですか?」
努力なんて、泥臭くて、惨めで、滑稽で。できる人間からすれば、それくらいの評価しかされないほどの、無意味な悪足掻きに過ぎないものだと思っていた。
「楽な道の中に、楽しいは見いだせないから」
望月先輩は微笑む。
「できないことがあって、それができるようになりたいから目標を立てて、その目標のために頑張る。それができるようになったら、また次の目標を立てて――その繰り返し」
「できないことに、苦しさを覚えたりはしないんですか?」
「もちろんあるよ」
でもね、と望月先輩は続ける。
「ボクにとっての楽しいは、必ず挑戦の中にあるんだ」
だから常に自信に満ち溢れているのか。できない自分のことを、後ろめたいなんて思わない。寧ろ、それを好機と見ている。
「できないことができるようになる。それが、ただただ楽しいんだよ」
そうか。天才とは、努力を惜しむことなく、その過程を楽しめる人のことを言うのか。
「昨日の自分を、今日の自分が越えていく。想像するだけで、ボクはわくわくする」
ずっと私に足りなかったもの。それがようやくわかった。私の努力の中には、楽しいと思える気持ちがなかったんだ。ずっと苦しいだけで、できる人に対して劣等感を覚えて、自分のことを卑下しているだけだった。
越えられるのは、他人ではなく、過去の自分自身だけなのに。
望月先輩は、ティーカップから口を離した。
「因みに今のボクの目標は、紅茶を美味しく淹れることだよ」
望月先輩にとっては、毎日が挑戦の日々。日常の中に潜む些細なことさえも、楽しめるような心の動きをしている。そういう目を、私も持ってみればいい。
何をするのにも面倒くさいなんて言って、新しい扉を閉ざしたり、目を瞑ったりせずに、ただ楽しんでみればよかったんだ。
たったそれだけのこと。
「コーヒーも、未羽ちゃんが美味しいって言ってくれるまで頑張るから。いつでも飲みに来てほしいな」
望月先輩が一緒にいてくれるから、私は頑張ろうと思えている。自分一人だったら、もう一度やろうなんて考えられなかったに違いない。だから、いっそのこと、ずっと苦手なままでいてほしい。そうすれば、いつまでだってコーヒーを口実に、先輩のそばにいられる。
なんて、そんな酷いことを考えて、私は頷いた。
「はい、楽しみにしています」
「それじゃあ、哲学についてのお話を始めちゃおうかな」
すでに興奮冷めやらぬといった様子で、望月先輩が前傾姿勢になる。
「まずは、哲学の起源から――」
先輩による哲学の講義は、三時間ほど続いたのだった。