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君色の旋律  作者: 咲哉
第一章 スタートライン
4/53

③自室

 自室という名の神域に閉じ籠り、スクールバッグを床に放り投げる。だらしないと自覚はあるものの、一刻も早くSAN値回復に努めたかった。あんなところに長時間もいたら、精神的に参りそうだ。


「あーあ」


 背中からベッドに倒れこんで、唸り声を上げる。


「何で頑張りますなんて言っちゃったのかな」


 望月先輩のペースに呑まれてしまったから。間違いなく敗因はそれだ。秋田先生一人が相手だったら、上手く躱し切れたはずだったのに。

 ブレザーのポケットから、酢昆布のお菓子を取り出す。一枚だけ、口の中に放り込んだ。


「……すっぱ」


 正直なところ美味しいと思ったことは一度もない。なのになぜか癖になる。特にこういうヘラりそうになったときならなおさら。

 口の中の水分と一緒に、邪気までもが持っていかれている気になるからかもしれない。


「まあ、何でもいいけど……」


 望月先輩の陽だまりみたいな笑顔が瞼の裏に蘇る。あんなに容易く人の懐に入り込むなんて卑怯だ。声が好きなんて言われたら拒絶できないに決まっている。

 ずるい。どうせ戦略的に私を嵌めたんだ。そうに違いない。


「ほんと、面倒くさい」


 弁論も、人間関係も、こんな自分も。

 酢昆布には邪気を払うことはできなかったみたいだ。

 視界の隅で、扉が開く。


「姉ちゃん、今日は遅かったな」


 ノックもなしに、当たり前のように部屋に入ってきたのは小学生の弟。


「あのさあ、(しょう)


 上体を起こして、溜息交じりに言う。


「勝手に入ってこないでっていつも言ってるよね」


「いいじゃん別に」


 口を尖らせて、翔は私の前までズケズケとやってくる。


「ゲームやってるときは、おとなしく出直してるんだからさー」


 自由奔放というかなんというか、いい意味で気を遣わない。そういうまどろっこしくない相手が一人くらいいるのは気が楽だといえば噓ではないけれど。

 しかし、どう解釈しても、人の部屋に勝手に入ってくるという行為は許しがたい。


「まったく。デリカシーのかけらもないと、女の子に嫌われるよ」


 翔のでこを指で弾く。


「いってえー」


「そんなに強くしてないし」


 腰を上げて、ついでに尋ねる。


「で、何の用?」


「今日も朗読やんねーの?」


 目を逸らしたくなるほどの期待の眼差し。


「朗読、ねえ」


 それは中学の頃から日課になっていた。でも、あの日の弁論大会以降ぱたりと辞めた。失態もそうだけれど、夢を追うことにも、自分自身にも、少しばかり疲れてしまったから。

 部屋の隅に鎮座するたった一つの三段ボックス。そこには、朗読用の文庫本や、発声練習の本、声優関連の本が並べられている。今となってはインテリアにしかなっていないけれど。

 夢を諦めたかったわけじゃない。ただ、ちょっとの間だけ距離を置きたかった。()のことを忘れられるまでは、そっとしておいてほしかった。

 なのに、そんな私の心中など知る由もなく、翔はたまに朗読を催促してくる。

 私の朗読が好きなのだと、いつも言ってくれる。


「ねえ、翔」


 要望通りにとはいかないけれど、どうせ弁論の練習をしなくてはいけないのだ。私にとって最も大きな障害。ここを乗り越え切れなければ、もう二度と夢を追うことはできない。


「今日は原稿を読むから、おかしなところがあったら教えて」


 二度瞬きした翔は、みるみる表情が明るくなっていく。


「マジで! やったー!」


 両手を天井に突き上げて、まるで優勝でもしたかのようなオーバーリアクション。

 何であんたがそんなに嬉しそうなのか意味わかんない。その言葉を飲み込むと、代わりに口元が緩んだ。

 バッグから原稿を取り出して一度黙読する。どうやら本当に原稿自体には手を加えられていないみたいだ。大幅にとは言わなくとも、これから原稿の内容が変わってしまうことがあるかもしれない。しかし、例え文章が変わろうとも、すらすらと読めるようになっておかねば話にならない。

 翔の前に立って一度深呼吸する。久しぶりだからちょっと緊張はするけれど、素読くらいなら朝飯前だ。

 そう、高を括っていた――。


 こんなはずじゃなかった。

 自分の衰え具合に鼻で笑うしかない。全然声は出てないし、抑揚もまったくついてない。読みの途中で躓くはで、惨敗と言っても過言ではないほどに壊滅的だった。

 まさか、たったの一年足らずでここまで落ちぶれるとは。自惚れていた。ようやく現実を突きつけられた感じ。

 やっぱり私にそういう才能はないんだ。

 途中から翔の顔も見られなくなっていた。申し訳が立たなかったし、何より傷つきたくなかったから。


「姉ちゃん……?」


 コメントに窮しているのだろう。翔の声からは、活気がなくなっていた。

 無理もない。私だって、取り繕えるほどの中途半端な出来とすら思えていない。完敗と印を押されても素直に頷ける。


「ごめん、翔」


 たまらず私は口を開いた。


「やっぱり駄目みたい」


 相手に事実を突きつけられるより、自ら負けを認めた方が潔い。その方がより傷つかなくて済む。


「ち、違うよ、姉ちゃん」


 わなわなと唇を動かし、翔は言った。


「そんなことなかったよ」


 慰めの言葉。それに少しだけでも安心してしまった己を恥じる。

 馬鹿だなあ、私。弟に気を遣わせて、年上のくせに何をやっているのだろう。

 負の思考を遮るノックの音が、三回した。それはきっと警鐘だった。


『未羽? 入るわよー?』


 翔とは違い、お母さんは必ず了解を得る。私が返事をしなかったときは出直しているらしい。

 このまま無視してしまおうか。邪神が耳元で囁く。

 一番知られたくない相手。今度こそ失望される。二度も無様な姿を晒してしまうなんて絶対に嫌だ。


『翔はそこにいるー?』


 再び扉の外から声をかけられる。


「なーに、母ちゃん?」


 いつもの調子で翔は答えた。そのまま、まるで換気でもするかのように扉に手を掛けている。

 容赦なく、扉が開かれる。エプロン姿のお母さんが、そこに立っていた。


「やっぱりこっちにいたのね。二人とも、ご飯できたよ」


 翔の頭をわしゃわしゃと撫でまわすお母さんと目が合った。


「あら? 何か聴いてもらっていたの?」


 目を逸らして頷く。


「うん、弁論……」


 上手く読めてさえいれば、きっとこんな空気を作らずに済んだ。お母さんから目を逸らすことだってなかった。


「また弁論をやるのね」


 それに対して首だけで頷いた。


「そう」と短く言って、お母さんは黙り込む。


 多分、お母さんは気づいている。私の本音に。

 だから、何も言わない。


「正直……やりたくない」


 口をついて出たのは、せめてもの反抗だった。

 みっともない、子どもじみた悪足掻き。


「でも、未羽が引き受けたんでしょ?」


 お母さんはそれに応えた。


「嫌なら断ればよかったんじゃない?」


 そう、何としてでも断ればよかった。どれだけ望月先輩が優しくしてくれても、突き返せばよかった。そうすれば、こんなにも自分自身に失望することもなかった。

 でも……。


「断れるわけない」


 望月先輩は、私の声が好きだと言ってくれた。お世辞だったかもしれない。私に弁論をさせるための詭弁だったのかもしれない。だけど、もしそうだったとしても、信じてみたいって、そう思ってしまうじゃんか。


「それなら、やるしかないんじゃない?」


 その通り、やるしかない。ぐだぐだ言い訳ばかりしていないで、やるしかないんだ。それくらい私が強ければよかった。しかし、実際はそうじゃない。


「また失敗するかもしれない」


 あの日の光景も、後悔と恐怖も、何もかもを鮮明に覚えている。もちろん、「頑張ったわね」って励ましてくれたお母さんのことも。

 思い出すだけで足が震えて、本当に情けない。


「失敗するでしょうね、この間みたいに」


 お母さんは淡々と言ってのけた。


「今の未羽なら、きっと失敗する」


 もう期待なんてしていない。そんな目をして、私を見下す。


「たった一回の失敗で、そんなにくよくよしている程度ならね」


 お母さんにはきっとわからない。凡人の失敗の一つなんて。

 会社の経営も、講演会も、何だって上手くいく人だ。まるで神様に加護を与えられているかのような、そんなお母さんにはきっとわからない。

 才能のない娘の気持ちなんて……。


「お母さんにはわかんないかもしんないけど」


 握りしめた拳の中で、原稿用紙のしなる音がした。


「あんな大恥かいたら、普通は誰だってこうなるに決まってんじゃん!」


 やり場のない哀れみが、部屋中に反響する。救いようのない醜さを孕んで。


「ねえ、未羽」


 冷め切った目が心を射抜く。


「その程度なら、あなたの夢は叶わないよ、絶対に」


 ――未羽ならできるよ。自分の力を信じなさい。


「何……それ」


 そんなの、親の言う台詞じゃない。

 この期に及んで、またもや他人に縋ろうとした自分にも腹が立った。


「いいし!」


 声が裏返る。


「今度こそ、絶対に上手くやってやるんだから!」


 視界が滲む。お母さんは私に背を向けた。

 そこには、言葉ひとつ残されてはいなかった。



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