②視聴覚室
北校舎三階の角部屋。その扉の向こうから、かすかに声が聞こえる。きっと原稿を読んでいるのだろう。はっきりとしたアナウンサーのような声は、放送部と言われても遜色ないほどに流暢な語り口だった。
邪魔をするのは気が引ける。かといって、ここで尻込みしていては、帰宅がもっと遅くなるだけだ。さっさと話しをつけてしまおう。
音を立てないようにそっとドアを開けて、身を滑り込ませる。
「え……」と思わず声が漏れた。
大きなホワイトボードを背にして立っていたのが、小柄な女の子だったから。
私とは対照的に、ふっくらと丸みを帯びた輪郭と、パッチリとした目。いわゆる、たぬき顔。後ろ髪は結んでおり、首元がすっきりとしている。片側だけ横髪が垂れていた。
じっと見つめていた私に気がついたらしい。彼女は原稿を読むのを止めた。
つまり、マイクに向かって声を発していた彼女こそが、三年生の先輩。
「もしかして……」
柔和な笑みを浮かべながら、その人は首を傾げる。
「あなたが、弁論大会に出場する一年生かな?」
マイクに通っている声は、先ほどまでのアナウンサー声ではなく、柔らかく弾むような可愛らしさを纏っていた。ふわふわなわたあめみたいな声。こっちの方がしっくりくる。
「えっと……」
はい、と思わず頷いてしまいそうになったが、断じて違う。
「まだ出場すると決まったわけではないです」
「そうなんだ」
マイクの電源を切ったみたいだ。スピーカーから音が消えた。
「それじゃあ見学、みたいな感じなのかな?」
マイクなしでもよく通るし聞き取りやすい声だ。よほど喉が鍛えられているに違いない。
「見学、なんですかね? 秋田先生に、ここへ向かうように言われたので」
プリントを持った先輩が、まっすぐな背筋を保ったままこちらに歩み寄る。道中で長机に置かれたクリアファイルにプリントを仕舞っていた。その様子もさることながら、一本の線上を丁寧に辿るような歩き方も、優秀な秘書といった印象を与えられた。
「何はともあれ、まずは自己紹介からだね。ボクは、三年二組の望月陽莉。今は一人しかいないけど、弁論部の部長だよ」
よろしくね、と右手を差し出られる。
まさかのボクっ娘キャラ? 秘かに衝撃を受けた。しかも、部員は先輩一人。
「えっと、一年三組の小波未羽です」
差し出された右手に応える。
「よろしくお願いします」
ぎゅっと手を握られたその瞬間、悟った。
やばい、勝てそうにない。
華奢だからと侮って軽く握ったつもりだったが、向こうの方が一枚上手だった。痛いほど力が強いわけではないが、その握手からは、筆舌に尽くしがたい自信を感じさせられた。
「素敵な名前だね」
望月先輩は、慈しむような表情を浮かべている。
「未羽ちゃんって呼んでもいいかな?」
「え、あ、はい。お構いなく」
二個上の先輩だから仕方がないのかもしれないが、私って本当に情けない。え、とか、あ、とか必要のない発音までして。初対面の相手になると、途端に気後れしてしまう。どんな立ち回り方をすれば、相手に不快な思いをさせずに済むのか、そんなことばかり考えてしまうからかもしれない。
「立ち話もなんだから、席についてお話でもしながら待ってよう?」
「そう、ですね」
愛想笑いを浮かべて頷く。
真っ白なうなじの上で丁寧に結えられたお団子を、ぼんやりと眺めながら背中を追う。
まずい。完全に向こうのペースに呑まれてしまった。弁論には出ないと断って速攻で帰るつもりだったのに。どうして言われるがまま席についているのだろう。
通路を挟んで向かい合うと、望月先輩が口を開いた。
「もう入学して一か月だよね。未羽ちゃんは、そろそろ学校に慣れてきた?」
「まだ少し……ですね」
「そうだよね。中学の時と違って勉強の難易度も一気に上がっちゃうし、ボクも初めはそっちで手一杯だったなあ」
数か月前までの教科とは違って、国語も数学も分裂して複雑化している。朝課外授業なんてものもあり、希望制とは名ばかりな強制参加型だし。ついていけないわけではないが、朝も早いのに放課後までもが潰されてしまうのは勘弁してほしい。
「思ってたより、大変ですよね。高校生も」
「そう思うよね」
薄く微笑んだ望月先輩は、少しの間をおいて言った。
「やっぱり、慣れないうちに、弁論大会に出ないかって言われても困っちゃうかな?」
まさにその通り。ただでさえ失態の記憶がこびりついていて、その上まだ学校生活にも慣れていないのだ。断るための理由なら、他にもあった。
「そうなんですよ」
この機を生かして、上手く切り抜けよう。
「さっき秋田先生には、何度も無理ですって言ったんですけど、中々聞いてもらえなくて……」
「それは災難だったね。秋田先生は、少し強情なところがあるから」
あの人は、誰に対してもあんな感じだったのか。
「どうしたらいいんでしょうか」
こうなったら先輩を味方につけて説得してもらい、この場を収めてもらおう。
「そうだなあ」
望月先輩は、少し考え込むような仕草を見せた。
「一緒に黙って帰っちゃう?」
なんて大胆なことを……。
「本気ですか」
「冗談だよ、冗談」
望月先輩は悪戯っぽく笑って首を振る。
「さすがに怒られちゃうから」
からかわれたみたいで釈然としない。けれど、お堅い人ではないみたいで安心もした。
「未羽ちゃんは、どうしても弁論大会には出たくない?」
「それは……まあ、できれば……」
「弁論大会に出るのって初めて?」
「え、あ……はい」
もちろん嘘だけど、でも、失敗したなんて誰にも言いたくない。
「そっかあ。因みに、人前に出るのは苦手かな?」
「まあ、はい、そうですね」
いつの間にか、またさっきと同じやり取り。この流れはもしかして……?
「人前に出て話をするのって、終始心臓がバクバクして落ち着かないもんね」
「そう、ですね。緊張しっぱなしです」
「ボクも発表が終わるまではずっと緊張してて、足が震えたり、手汗掻いちゃったりもするんだあ」
「それなら……やりたくないって、思わないんですか?」
「その緊張感も含めて、ボクは弁論が好きだから」
その言葉が、深く胸に突き刺さった。さらっと好きだと口に出せる先輩のことを、羨ましいなんて思ってしまう。私は、言えないのに。
「未羽ちゃんは、声を出すのは、嫌い?」
「それは……」
嘘でも嫌いだなんて言ってもいいのだろうか。声で仕事をすることを夢見ていた私が、たとえ弁論から逃れるためとはいえ、嫌いだなんて言ってしまってもいいのだろうか。
「いえ……」
言えるわけがない。
「声を出すのは、嫌いじゃない、です」
その嘘だけは、絶対についてはいけない。
刹那、望月先輩の瞼が上へと押し上げられたのがわかった。
「やっぱり」
どういうことだろう、やっぱりって。私は、その言葉に続きを待った。
「ねえ、未羽ちゃん。今からボクが言う言葉の続きを言ってみてほしい」
何だろう? とりあえず首だけで頷いておく。
「いくよ?」
望月先輩は、口を動かした。
「あめんぼ あかいな あいうえお」
なるほど、そういうことか。
「うきもに こえびも およいでる」
要望通り応えてみせた。
嬉しそうに、望月先輩は続ける。
「かきのき くりのき かきくけこ」
「きつつき こつこつ かれけやき」
つられて、私の頬も僅かに緩んでいた。
懐かしいな、この感覚。と思ったとき、やってしまったと頭を抱えた。
もう誤魔化せやしない。
北原白秋の『五十音』。それは、放送部や朗読部の練習メニューでよく使われている。中学生の頃、私も自宅でずっとこの基礎練習をやっていた。声優になりたくて……。
おそらく、声を出すことを意識してこなかった人には、即答なんてできなかったはず。それに応えてしまったのだから、もう後には引けない。
弁論大会には出たくない。その気持ちに揺るぎはない。だとしたら、私はそれに応えてはいけなかった。でも、そんなことできない。
これまで必死に練習してきた自分自身のことを、真っ向から否定することなんてできるはずがなかった。
「未羽ちゃんの声、好きだな」
いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、そこには望月先輩のこぼれるような笑顔があった。
ずるい。そんなこと言われたら、断れるわけがない。
「ねえ、未羽ちゃん」
優しく問いかけられる。
「弁論大会に、出てみない?」
すぐに頷くことができたなら、どれだけ嬉しいだろうか。白状してしまいたい。本当は声を出すことが好きだって、感情を言葉にすることを諦めたくないって、そう言ってしまいたい。
でも、あの日の無様な私が見下してくる。自分の言葉で大事な人を傷つけて、その上大勢の人の前で泣き崩れた。あんな失態を晒しておいて、もう一度だなんて。
好きとできるは違う。そんなのは自明の理だ。あの日から声を出す練習だってろくにしていない。だから、簡単には取り戻せないかもしれない。でも、このチャンスを逃してしまったら、私はもう二度と立ち上がれない。そんな気がしている。
だけど、やっぱり怖い。
どうすれば――。
「大丈夫だよ、未羽ちゃん」
望月先輩の温かな手のひらが、冷め切った拳を優しく包み込んでくれた。
「ボクも一緒にいるから」
一人じゃない。望月先輩が、私のことを支えてくれるなら、挑戦できるだろうか。
「望月先輩……」
頼りない、私の声。断る気力なんてなくなっている。この温もりがなくなってしまうと思うと、首を横に振ることなんて考えられない。
膝をついて目線を合わせてくれている望月先輩から、目をそらさないようにして、なけなしの勇気を振り絞ってみる。
「……頑張ってみます」
相当な練習が必要だろうな、なんて他人事みたいに思った。今の私の声には、覇気がない。だからこそ、逃げるわけにはいかなかったのだと鼓舞する。ここで逃げ出したら、声優に未練のひとつも残せない。もう一度挑戦する権利も剥奪される。
だから、逃げてはいけない。
「一緒に頑張ろうね、未羽ちゃん」
嬉しそうに笑うこの人のことを、信じてみよう。この人なら、きっと私を救い上げてくれる。保証なんてどこにもないけれど、今はそれに賭けてみたい。
「ようやく弁論大会に出てくれる気になったみたいだな」
突如、二人だけの空間に、異質な声が混じった。
「びっくりした……」
反射的に肩が跳ね上がる。
「いつの間にいたんですか」
上機嫌に口角を上げて、秋田先生は八重歯を覗かせる。
「いやあな、二人が深刻そうだったから声かけんのやめたんだわ」
その笑顔、なんかムカつく。
「それにしても、そっかそっかあ、よかったあ」
もとはといえば、秋田先生が私なんかを推薦したからこんなことになったのだ。反骨心がふつふつと湧き上がってきた。
「やっぱり」
手に握られている紙を一瞥する。
「何としてでも私に原稿を読ませるつもりだったんですね」
「まあそりゃあな」
あっさりと認めるなんて、現金な人だ。自分じゃ駄目だった時のための保険までかけて。恥ずかしくないのだろうか、教師として。
「だって、そうしないと俺がもち――痛ッ!」
「あっ、ごめんなさい秋田先生」
どうやら、立ち上がろうとした望月先輩が、体勢を崩して秋田先生の足を踏んでしまったみたいだ。
「大丈夫だぞ」
秋田先生は、顔をひきつらせている。
「お前でも、よろけたりするんだな」
「不覚です」
望月先輩は、体を畳むように頭を下げた。
「申し訳ありません、秋田先生」
すごく綺麗だ。後姿を見ているだけで、気持ちがすっと凪いでいく。こんなにも丁寧なお辞儀をする人なんて、ビジネスシーンでしか見たことがない。ホテルマンや、携帯ショップの店員さん、あとはお母さんの仕事先の人とか。生徒会長と言われたら頷けなくもないが、この桜田高校の生徒会長は、違う人だったはず。
何者なのだろう、この人は。ただの弁論部の部長だとは到底思えない。
「今日は顔合わせだけにして、これ刷ってきたから、各自でチェックしておいてくれ」
A4用紙を一枚受け取る。
どうやら、手書きしていた原稿をパソコンで打ち直してきたみたいだ。
『感謝によって気づけたこと 一年三組 小波未羽』
平凡でありふれたタイトル。私じゃなくてはならなかった理由がどこにも見当たらない。原稿の内容だってたいしたことはない。いくら一年生から選抜しているとはいえ、絶対に私なんかよりも優れた原稿を書いている生徒がいたはずだ。
「軽く添削はしておいたから、小波は一通り読めるように練習しておいてくれ。あと、俺の解釈違いがないかも確認しておいてくれないか」
その指示に黙って首を縦に振る。
「望月は、直した方がいいと思ったところがあれば、チェックしておいてほしい」
「わかりました」
「よし、それじゃあ今日はこの辺で、解散!」
それを合図に、二人の間をすり抜けて、一目散に視聴覚室を後にした。
始まってしまった後悔から、逃げ出すように。