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君色の旋律  作者: 咲哉
第一章 スタートライン
3/53

②視聴覚室

 北校舎三階の角部屋。その扉の向こうから、かすかに声が聞こえる。きっと原稿を読んでいるのだろう。はっきりとしたアナウンサーのような声は、放送部と言われても遜色ないほどに流暢な語り口だった。

 邪魔をするのは気が引ける。かといって、ここで尻込みしていては、帰宅がもっと遅くなるだけだ。さっさと話しをつけてしまおう。

 音を立てないようにそっとドアを開けて、身を滑り込ませる。


「え……」と思わず声が漏れた。


 大きなホワイトボードを背にして立っていたのが、小柄な女の子だったから。

 私とは対照的に、ふっくらと丸みを帯びた輪郭と、パッチリとした目。いわゆる、たぬき顔。後ろ髪は結んでおり、首元がすっきりとしている。片側だけ横髪が垂れていた。

 じっと見つめていた私に気がついたらしい。彼女は原稿を読むのを止めた。

 つまり、マイクに向かって声を発していた彼女こそが、三年生の先輩。


「もしかして……」


 柔和な笑みを浮かべながら、その人は首を傾げる。


「あなたが、弁論大会に出場する一年生かな?」


 マイクに通っている声は、先ほどまでのアナウンサー声ではなく、柔らかく弾むような可愛らしさを纏っていた。ふわふわなわたあめみたいな声。こっちの方がしっくりくる。


「えっと……」


 はい、と思わず頷いてしまいそうになったが、断じて違う。


「まだ出場すると決まったわけではないです」


「そうなんだ」


 マイクの電源を切ったみたいだ。スピーカーから音が消えた。


「それじゃあ見学、みたいな感じなのかな?」


 マイクなしでもよく通るし聞き取りやすい声だ。よほど喉が鍛えられているに違いない。


「見学、なんですかね? 秋田先生に、ここへ向かうように言われたので」


 プリントを持った先輩が、まっすぐな背筋を保ったままこちらに歩み寄る。道中で長机に置かれたクリアファイルにプリントを仕舞っていた。その様子もさることながら、一本の線上を丁寧に辿るような歩き方も、優秀な秘書といった印象を与えられた。


「何はともあれ、まずは自己紹介からだね。ボクは、三年二組の望月陽莉。今は一人しかいないけど、弁論部の部長だよ」


 よろしくね、と右手を差し出られる。

 まさかのボクっ娘キャラ? 秘かに衝撃を受けた。しかも、部員は先輩一人。


「えっと、一年三組の小波未羽(みう)です」


 差し出された右手に応える。


「よろしくお願いします」


 ぎゅっと手を握られたその瞬間、悟った。

 やばい、勝てそうにない。

 華奢だからと侮って軽く握ったつもりだったが、向こうの方が一枚上手だった。痛いほど力が強いわけではないが、その握手からは、筆舌に尽くしがたい自信を感じさせられた。


「素敵な名前だね」


 望月先輩は、慈しむような表情を浮かべている。


「未羽ちゃんって呼んでもいいかな?」


「え、あ、はい。お構いなく」


 二個上の先輩だから仕方がないのかもしれないが、私って本当に情けない。え、とか、あ、とか必要のない発音までして。初対面の相手になると、途端に気後れしてしまう。どんな立ち回り方をすれば、相手に不快な思いをさせずに済むのか、そんなことばかり考えてしまうからかもしれない。


「立ち話もなんだから、席についてお話でもしながら待ってよう?」


「そう、ですね」


 愛想笑いを浮かべて頷く。

 真っ白なうなじの上で丁寧に結えられたお団子を、ぼんやりと眺めながら背中を追う。

 まずい。完全に向こうのペースに呑まれてしまった。弁論には出ないと断って速攻で帰るつもりだったのに。どうして言われるがまま席についているのだろう。

 通路を挟んで向かい合うと、望月先輩が口を開いた。


「もう入学して一か月だよね。未羽ちゃんは、そろそろ学校に慣れてきた?」


「まだ少し……ですね」


「そうだよね。中学の時と違って勉強の難易度も一気に上がっちゃうし、ボクも初めはそっちで手一杯だったなあ」


 数か月前までの教科とは違って、国語も数学も分裂して複雑化している。朝課外授業なんてものもあり、希望制とは名ばかりな強制参加型だし。ついていけないわけではないが、朝も早いのに放課後までもが潰されてしまうのは勘弁してほしい。


「思ってたより、大変ですよね。高校生も」


「そう思うよね」


 薄く微笑んだ望月先輩は、少しの間をおいて言った。


「やっぱり、慣れないうちに、弁論大会に出ないかって言われても困っちゃうかな?」


 まさにその通り。ただでさえ失態の記憶がこびりついていて、その上まだ学校生活にも慣れていないのだ。断るための理由なら、他にもあった。


「そうなんですよ」


 この機を生かして、上手く切り抜けよう。


「さっき秋田先生には、何度も無理ですって言ったんですけど、中々聞いてもらえなくて……」


「それは災難だったね。秋田先生は、少し強情なところがあるから」


 あの人は、誰に対してもあんな感じだったのか。


「どうしたらいいんでしょうか」


 こうなったら先輩を味方につけて説得してもらい、この場を収めてもらおう。


「そうだなあ」


 望月先輩は、少し考え込むような仕草を見せた。


「一緒に黙って帰っちゃう?」


 なんて大胆なことを……。


「本気ですか」


「冗談だよ、冗談」


 望月先輩は悪戯っぽく笑って首を振る。


「さすがに怒られちゃうから」


 からかわれたみたいで釈然としない。けれど、お堅い人ではないみたいで安心もした。


「未羽ちゃんは、どうしても弁論大会には出たくない?」


「それは……まあ、できれば……」


「弁論大会に出るのって初めて?」


「え、あ……はい」


 もちろん嘘だけど、でも、失敗したなんて誰にも言いたくない。


「そっかあ。因みに、人前に出るのは苦手かな?」


「まあ、はい、そうですね」


 いつの間にか、またさっきと同じやり取り。この流れはもしかして……?


「人前に出て話をするのって、終始心臓がバクバクして落ち着かないもんね」


「そう、ですね。緊張しっぱなしです」


「ボクも発表が終わるまではずっと緊張してて、足が震えたり、手汗掻いちゃったりもするんだあ」


「それなら……やりたくないって、思わないんですか?」


「その緊張感も含めて、ボクは弁論が好きだから」


 その言葉が、深く胸に突き刺さった。さらっと好きだと口に出せる先輩のことを、羨ましいなんて思ってしまう。私は、言えないのに。


「未羽ちゃんは、声を出すのは、嫌い?」 


「それは……」


 嘘でも嫌いだなんて言ってもいいのだろうか。声で仕事をすることを夢見ていた私が、たとえ弁論から逃れるためとはいえ、嫌いだなんて言ってしまってもいいのだろうか。


「いえ……」


 言えるわけがない。


「声を出すのは、嫌いじゃない、です」


 その嘘だけは、絶対についてはいけない。

 刹那、望月先輩の瞼が上へと押し上げられたのがわかった。


「やっぱり」


 どういうことだろう、やっぱりって。私は、その言葉に続きを待った。


「ねえ、未羽ちゃん。今からボクが言う言葉の続きを言ってみてほしい」


 何だろう? とりあえず首だけで頷いておく。


「いくよ?」


 望月先輩は、口を動かした。


「あめんぼ あかいな あいうえお」


 なるほど、そういうことか。


「うきもに こえびも およいでる」


 要望通り応えてみせた。


 嬉しそうに、望月先輩は続ける。


「かきのき くりのき かきくけこ」


「きつつき こつこつ かれけやき」


 つられて、私の頬も僅かに緩んでいた。

 懐かしいな、この感覚。と思ったとき、やってしまったと頭を抱えた。

 もう誤魔化せやしない。

 北原白秋の『五十音』。それは、放送部や朗読部の練習メニューでよく使われている。中学生の頃、私も自宅でずっとこの基礎練習をやっていた。声優になりたくて……。

 おそらく、声を出すことを意識してこなかった人には、即答なんてできなかったはず。それに応えてしまったのだから、もう後には引けない。

 弁論大会には出たくない。その気持ちに揺るぎはない。だとしたら、私はそれに応えてはいけなかった。でも、そんなことできない。

 これまで必死に練習してきた自分自身のことを、真っ向から否定することなんてできるはずがなかった。


「未羽ちゃんの声、好きだな」


 いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げると、そこには望月先輩のこぼれるような笑顔があった。

 ずるい。そんなこと言われたら、断れるわけがない。


「ねえ、未羽ちゃん」


 優しく問いかけられる。


「弁論大会に、出てみない?」


 すぐに頷くことができたなら、どれだけ嬉しいだろうか。白状してしまいたい。本当は声を出すことが好きだって、感情を言葉にすることを諦めたくないって、そう言ってしまいたい。

 でも、あの日の無様な私が見下してくる。自分の言葉で大事な人を傷つけて、その上大勢の人の前で泣き崩れた。あんな失態を晒しておいて、もう一度だなんて。

 好きとできるは違う。そんなのは自明の理だ。あの日から声を出す練習だってろくにしていない。だから、簡単には取り戻せないかもしれない。でも、このチャンスを逃してしまったら、私はもう二度と立ち上がれない。そんな気がしている。

 だけど、やっぱり怖い。

 どうすれば――。


「大丈夫だよ、未羽ちゃん」


 望月先輩の温かな手のひらが、冷め切った拳を優しく包み込んでくれた。


「ボクも一緒にいるから」


 一人じゃない。望月先輩が、私のことを支えてくれるなら、挑戦できるだろうか。


「望月先輩……」


 頼りない、私の声。断る気力なんてなくなっている。この温もりがなくなってしまうと思うと、首を横に振ることなんて考えられない。

 膝をついて目線を合わせてくれている望月先輩から、目をそらさないようにして、なけなしの勇気を振り絞ってみる。


「……頑張ってみます」


 相当な練習が必要だろうな、なんて他人事みたいに思った。今の私の声には、覇気がない。だからこそ、逃げるわけにはいかなかったのだと鼓舞する。ここで逃げ出したら、声優に未練のひとつも残せない。もう一度挑戦する権利も剥奪される。

 だから、逃げてはいけない。


「一緒に頑張ろうね、未羽ちゃん」


 嬉しそうに笑うこの人のことを、信じてみよう。この人なら、きっと私を救い上げてくれる。保証なんてどこにもないけれど、今はそれに賭けてみたい。


「ようやく弁論大会に出てくれる気になったみたいだな」


 突如、二人だけの空間に、異質な声が混じった。


「びっくりした……」


 反射的に肩が跳ね上がる。


「いつの間にいたんですか」


 上機嫌に口角を上げて、秋田先生は八重歯を覗かせる。


「いやあな、二人が深刻そうだったから声かけんのやめたんだわ」


 その笑顔、なんかムカつく。


「それにしても、そっかそっかあ、よかったあ」


 もとはといえば、秋田先生が私なんかを推薦したからこんなことになったのだ。反骨心がふつふつと湧き上がってきた。


「やっぱり」


 手に握られている紙を一瞥する。


「何としてでも私に原稿を読ませるつもりだったんですね」


「まあそりゃあな」


 あっさりと認めるなんて、現金な人だ。自分じゃ駄目だった時のための保険までかけて。恥ずかしくないのだろうか、教師として。


「だって、そうしないと俺がもち――痛ッ!」


「あっ、ごめんなさい秋田先生」


 どうやら、立ち上がろうとした望月先輩が、体勢を崩して秋田先生の足を踏んでしまったみたいだ。


「大丈夫だぞ」


 秋田先生は、顔をひきつらせている。


「お前でも、よろけたりするんだな」


「不覚です」


 望月先輩は、体を畳むように頭を下げた。


「申し訳ありません、秋田先生」


 すごく綺麗だ。後姿を見ているだけで、気持ちがすっと凪いでいく。こんなにも丁寧なお辞儀をする人なんて、ビジネスシーンでしか見たことがない。ホテルマンや、携帯ショップの店員さん、あとはお母さんの仕事先の人とか。生徒会長と言われたら頷けなくもないが、この桜田高校の生徒会長は、違う人だったはず。

 何者なのだろう、この人は。ただの弁論部の部長だとは到底思えない。


「今日は顔合わせだけにして、これ刷ってきたから、各自でチェックしておいてくれ」


 A4用紙を一枚受け取る。

 どうやら、手書きしていた原稿をパソコンで打ち直してきたみたいだ。


『感謝によって気づけたこと 一年三組 小波未羽』


 平凡でありふれたタイトル。私じゃなくてはならなかった理由がどこにも見当たらない。原稿の内容だってたいしたことはない。いくら一年生から選抜しているとはいえ、絶対に私なんかよりも優れた原稿を書いている生徒がいたはずだ。


「軽く添削はしておいたから、小波は一通り読めるように練習しておいてくれ。あと、俺の解釈違いがないかも確認しておいてくれないか」


 その指示に黙って首を縦に振る。


「望月は、直した方がいいと思ったところがあれば、チェックしておいてほしい」


「わかりました」


「よし、それじゃあ今日はこの辺で、解散!」


 それを合図に、二人の間をすり抜けて、一目散に視聴覚室を後にした。

 始まってしまった後悔から、逃げ出すように。



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