①職員室
「嫌です」
反射的にそう答えていた。しまった、と思ったものの後の祭り。それどころか、スカートの裾を掴む右手にも力が加わる。
「嫌、か」
秋田先生の視線が、手元の原稿用紙に向けられた。
「小波のものが一番いいと思ったんだけどな」
そう言われても困る。中学の時だって、国語教師に促されて弁論大会に出てみたら、あのざまだった。もう一度なんて考えられない。それも、まったく同じ【青少年弁論大会】ならなおさら。
「発表するのが嫌だってことだよな」
カッターシャツの上からジャージを羽織った角刈り頭に、発表なんて口にされるとかなり違和感がある。上背があって筋肉質、浅黒い肌も相まってか、いかにも鬼コーチ。
国語教師なんて名乗らずに、いっそのこと体育教師にでも転任すればいいのに。
口には出さない。八つ当たりのように胸中で毒づく。
弁論なんて単語さえ出なければ頷いていた。それができなかったのだから、正直な態度をとってしまっても構わないだろう。
「人前に立って話をすることなんてできませんよ」
それに、と唇を噛んでみせてから、そっと吐き出した。
「向いていませんよ、絶対に」
発表中に涙を流してしまう、私になんか。
机に原稿用紙を置いた秋田先生が、腕を組んで黙り込んでしまった。
静寂紛いの錯覚から逃れるべく、周りの作業の音に意識を散布させる。心地いいタイピング音やお腹に響くコピー機の振動音に紛れて、楽しそうに教師と雑談する生徒の声。あちらこちらから漂うコーヒーの匂い。
どうしてこんなところにいるのだろう。早く帰ってゲームがしたい。
視線を正面に戻すと、ばっちりと目が合った。
「なあ小波。どうして自分には向いてないなんて思うんだ?」
小さな目が、射貫くような視線を向けてくる。気後れするが、ここで引いてしまったらきっと同じ轍を踏む。
だから、何としてでも断らなければならない。
「人の視線に晒されるのは、得意じゃないので」
「それが得意な奴なんてそうそういるもんじゃないぞ?」
「上がってしまうんですよ、私」
あながち嘘ではないだろう。
「それは――」
何かを言いかけて、秋田先生は言葉を詰まらせる。
「ちょっと考えなきゃならんかもしれんが」
何を言おうとしたのか気になるけれど、怯んでいる今が攻め時。
「だから、人前で発表するのは避けたいんです」
秋田先生は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「克服するためだと思って、な?」
言われなくても、いつかはしないとだめだと思っている。でも、何も今じゃなくたっていいはず。あれからまだ一年も経っていない。無理やり克服させようとすれば、ますます嫌いになるということがわからないの?
そこまで言っても駄目なら、仕方ない。
「……声にだって、自信なんてありませんよ」
「そんなことはないだろう。小波の声は凛としていて、よく通る声をしている」
声は、私にとって大事なものだし、それなりに練習して鍛えてきたもの。中学三年生の時には放送委員長を務めていたし、声優になりたいなんて思い上がってもいた。
今でもその気持ちは、胸の片隅に残っている。それくらい、声を出すのは好きだった。
高校に入学してから、まともに声を出したつもりはなかったのに、誤魔化せなかったのだろうか。しかし、どんなに破綻したことを言っていたとしても、頷くわけにはいかない。
「私がステージに上がっても映えませんよ」
「映えって、お前な」
呆れたと言わんばかりに、秋田先生が頭を掻く。
「弁論に見た目なんか関係ないんだけどなあ」
それはそうだ。何でもいいから、断る理由を引っ張り出したいだけ。
容姿に関していえば、寧ろ少し自信がある。色素の薄い瞳は、イギリス人の血を半分引いているお母さん譲りのもの。鼻筋も通っていて、よく羨ましがられる。肌だって真っ白だし、肩を撫でる髪は亜麻色。あえて欠点を述べるなら、目つきがきついところくらいだろうか。睨んでいるつもりなんてないのに、勘違いされてしまうことがある。
「まあ、なんだ、その……。小波は顔、整っている方だと思うから安心しろ」
頭を掻きながら、秋田先生は溜息を吐いている。
何これ。この空気。意味わかんない。
「保身のため言っとくが、セクハラとかいうのは勘弁な」
そんな失礼なこと言わないし、そもそも私が言わせたようなもの。別に容姿を褒められたかったわけではない。何だか空回りしているような気がする。
というか、どうしてこんなに必死に食い下がってくるのだろうか。代わりの生徒なんていくらでもいるはずなのに。
そっちがその気なら、意地でも拒んでやる。
「こんなに出たくないって言ってるのに、何で帰してくれないんですか」
生徒にここまで正直に言われれば、さすがに諦めざるを得ないだろう。
「あのなあ……。俺は、何としてでも小波に弁論大会に出てもらいたいんだ」
ことは上手く運ばなかった。しかも、縋るような目を向けられる。
「何でそうなるんですか。私は絶対に、弁論大会なんかに出たくないんです」
「弁論大会なんか、なんて言わずに、頼むから考え直してくれないか」
「利害は不一致です」
背を向ける。
「もう、帰ってもいいですよね」
「まあ待て待て待て」
背後で、椅子の動く音がした。仕方なく振り返る。
秋田先生は、額に脂汗を浮かべてかなり焦っているようだった。
「一度、視聴覚室に顔を出してくれ」
視聴覚室に? そのまま強引に練習させる気ではないだろうか。
「そこに弁論部の三年生がいる。そいつと一度顔を合わせてくれないか」
弁論部があるのなら、わざわざ一年生の中から選抜しなくてもいいのでは?
それに、二個上の先輩の誘いなら、断り切れないと考えているのかもしれない。なんて姑息で意地汚い大人だ。
「やるかやらないかは、そこで判断してくれ」
両膝に手をついて、頭を下げてくる。
「もしそこで小波が断るなら、俺ももう弁論大会なんかに出ろなんて言わない」
何だか皮肉交じりに聞こえた気がしたが、正直もう疲れたし、それで帰れるのなら引き受けよう。
「わかりましたよ。視聴覚室に行けばいいんですね」
「俺も作業を終えたらすぐに向かうから、先に行っていてくれ」
その安堵したような顔を軽く睨みつけてから、職員室を後にする。
「はあ、面倒くさい」
飛び出した本音に従ってボイコットしてやろうか。頭を掠めた幼稚な考えは、花火のように霧散した。代わりに、あの日の失態が呼び起こされる。
去年の【青少年弁論大会】の発表中のことだった。途中までは何事もなく順調に発表できていた。だというのに、機械のように言葉を発している自分のことが、急に怖くなった。作った原稿を頭に叩き入れて、伝えたい想いもなく、ただ単調に発表していたそんな自分が。
言葉の持つ、絶大な力。私はそれを知っている。人を喜ばせたり、楽しませたり、悲しませたり、傷つけたり……。
発した言葉は取り消せない。何があっても、なかったことにはできない。だから、言葉を発する側には責任がある。その言葉が、相手をどんな気持ちにさせるのか、きちんと考えておかなければならない。
そのことを思い出した途端、後悔が頬を伝って、声が出せなくなった。大勢の人の前で言葉を発している自分のことが、怖くてたまらなかった。
どよめく観客席。心配そうに私を見つめる国語教師。顔色一つ変えなかったお母さん。
結果は――惨敗。
もう二度と、ステージに上がるなんて考えられない。
どんな相手だろうと、何を言われようと、絶対に私の意志は揺らがない。