9:知りたい
この世界では、読み書き自体が特別な技能であり、“書物”は非常に貴重品とされている。ディアルの住む大平原の小さな村では、聖職者がもたらす聖典を除けば、ほとんどの人が本を目にする機会など皆無だ。なにしろ紙もインクも高価で、大都市でもないかぎり容易に手に入らない。結果として、村の人々は文字が読めなくても生活に困らないので、その価値を深く認識していない。
だが、ディアルにとっては状況が違う。前世の日本で生きた“黒木遼”としての人生で得た数多くの読書体験が、彼の知識欲を根底で支えていた。子どもの身体とはいえ、学ぶことへの意欲はとどまるところを知らない。いまや言葉や文字を覚えるだけでは飽き足らず、さらに深い知恵や情報を求めるようになっていた。
村には、かつて周辺の集落や旅先で見聞を得てきた長老がおり、彼は数十年前に手に入れたという“古い書き付け”をわずかに保有していた。もともと虫干しすら十分にされていなかったため、紙はボロボロで文字もところどころかすれて判読が難しい。それでもディアルは「どうしても一度見せてほしい」と懇願し、長老を困惑させた。
いざ見せてもらったところ、ページの半分以上がちぎれているうえ、残った部分も文字がかろうじて判別できる程度だった。しかし、その数行を熱心に追うディアルの姿に、長老は目を丸くする。そして「お前のような若造が、何が楽しくてこんなガラクタを読むのだ」と呆れ半分で呟くが、ディアルは目を輝かせたままこう答える。
「この紙がどこで作られて、誰が書いたのか、それを知るだけでワクワクするんです」
さらに、村には年に数回、旅の行商人が立ち寄る。彼らは織物や薬草、細工物などを携え、時には隣接地域の情報ももたらす。ディアルはその中でも、めずらしく“地図”らしきものを扱う行商人に出会ったとき、大きな衝撃を受けた。
行商人が見せてくれた地図は、線や記号でざっくりと大陸の形を示したものだった。厳密な正確さは期待できないが、北の寒冷地帯や東部の湿潤地帯、西の大山脈といった特徴が、まるで絵画のように描かれている。「どうやら本当に、ここは大きな大陸の一部分なのだ」――ディアルは改めて、前世で得た地理の知識と照らし合わせながら、この世界が“広い”ことを実感した。
その地図を眺めている最中、行商人は「珍しいものを見つけたな」という風にディアルを見やり、「もし何か他に興味があるなら、次に来るときまで探しておこうか?」と提案してくれた。ディアルは大喜びで「ぜひお願いします!」と答えたが、その様子を見ていた村人たちは「変わった子だなあ」と首をかしげる。そもそも普通の少年がそんなものをほしがる理由など見当たらないからだ。
こうしてディアルは、村の長老や行商人から断片的に手に入る書物や地図の切れ端を大切に集めていった。紙そのものが脆く、字も満足に読めないほど欠けていることが多いが、そこに刻まれたわずかな情報からも、この世界が数多くの国や部族で成り立っているらしい事実がうかがえる。
ある書き付けでは「北部に強大な騎馬民族が存在する」「南方には古の帝国があった」というような記述が見られ、別の断片には「東方の商人は大きな船に乗って貴重品を運び込む」といった話も載っている。信憑性のほどは定かではないが、これまで村の中だけを世界のすべてと思っていた多くの人々にとっては、まるでおとぎ話のように感じられる内容だ。
しかしディアルは、その曖昧さこそが歴史や地理の“謎”を示していると考え、尽きることのない興味を抱く。いつか自分が成長して、さらに遠くへ行けるようになれば、本当の姿をこの目で見たい――そんな密かな夢さえ生まれ始めていた。
こうしたディアルの行動は、どうしても村の人々からは“変わった子”と映る。周囲の少年少女は、狩猟や農耕の手伝いに励むか、仲間同士で草原を走り回ったりするのが主な日常だ。余計な知識や道具を求める必要を感じておらず、「本なんて読んで何になるの?」という意識が大半。
そのため、ディアルが古い地図を熱心に眺めていたり、何も書かれていないように見える欠片を丹念に調べていたりする姿は、奇妙な光景にほかならない。ときには「もっと身体を動かせ」「農作業もまだ半人前だろう」と窘められることもあったが、彼自身は少しの時間でも本と向き合うことを望んだ。
それでも村がディアルを排斥しないのは、まず第一に彼が家族や仲間との付き合いを疎かにしていないからだ。朝早くから畑の手伝いをし、時には父イシュヴァルと一緒に狩猟の補助をする。何より、子どもの遊びにも積極的に参加し、部族の少年たちとの交流にも前向きな姿勢を示すので、ほかの子から反感を買うことはない。
さらに、ディアルが手に入れた書物の断片や地図をもとに「こんな地域もあるらしい」「こういう方法で川を渡るといいらしい」といった話をすると、村人たちもそれなりに興味を示すことがある。いざというとき役立つかもしれない知恵は、どんなに些細でも馬鹿にできないのだ。そうした実用面もあって、「まあ、読書好きなのは変わっているが害はない」と許容されていた。
ディアルは、そんな周囲の反応に少しばかりの照れを感じつつも、読書熱はやまなかった。実際、必要最低限の農作業や狩猟の訓練をこなしながら、本や地図を入手する機会を逃さないように日々目を光らせている。前世ではサッカーに打ち込んでいた彼だが、“本に没頭する時間”もまた自分を成長させる糧だと、記憶の片隅で知っていたのだろう。
その行動力の源泉には、単なる好奇心だけでなく“転生者”としてのアイデンティティが色濃く存在する。異世界に生まれながらも、日本の知識が頭に残っているという奇妙な状態で、自分の存在を確立するためには「もっと情報を得たい」「自分の視野を広げたい」という欲求が強くなるのも必然といえる。
夜更け、家の片隅で手に入れた地図の断片をそっと広げると、月明かりが僅かに線を照らし、ぼやけた文字が浮かび上がる。ディアルはそれを見て、何度も瞳を凝らす。いつか自分自身の足でこの大地を巡り、隣接する部族だけでなく、北方や南方、東西の国々をも訪れてみたい――そんな空想を巡らせながら、彼はいつしか眠りに落ちる。
その姿を見守るリィアは「こんなに本を読みたがる子は滅多にいないわね」と呟き、イシュヴァルも穏やかな笑みを浮かべる。「普通の生活だけじゃ満足できないのかもしれないな。まったく、誰に似たんだか……」と肩をすくめる父の言葉には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。
――こうして、大陸の広さや歴史への興味を胸いっぱいに詰め込んだディアルは、一歩ずつ次なる世界へと視線を向け始める。古い書物の断片や地図から得られる知見はほんの一握りだが、その小さな一歩が、やがてこの世界の広がりを大きく変える可能性を秘めていることを、彼も村の誰も、まだ深くは知らないままに。