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5:不思議な力

 生まれ落ちてまだ数日も経たないというのに、主人公――今や「ディアル」と呼ばれる赤子は、早くもこの世界の“普通”から外れた存在を肌で感じ取り始めていた。それは具体的な見た目や音ではなく、空気の粒子の中にほんのりと滲むような、不思議な“力”のようなもの。たとえば母リィアの腕の中で呼吸をしているときに、部屋の壁際からしんしんと伝わってくるかすかな波動を感じ取ったり、父イシュヴァルが屋外から戻ってくる気配を察するときに胸の奥がわずかにざわついたりするのだ。

 それはもしかすると、この世界でいう“魔力”のようなものなのではないか――そう推測できるだけの記憶を、ディアルは前世である日本の読書経験やファンタジー小説の知識と照らし合わせて感じていた。しかし彼は今、赤子の姿である以上、その正体を自力で確かめるすべはない。ひとまずは“ここには何かしら目に見えない力が流れている”という漠然とした実感にとどめるしかないのだ。


 ある夜、リィアがディアルをあやしながら、「この子はきっと精霊たちに好かれているわ」とぽつりと呟いた。声色は優しく、どこか神聖なものを崇めるような響きを帯びている。ディアルはまだ言語をしっかりと理解できないものの、“セイレイ”という音と母の穏やかな笑顔から、何か特別な存在に守られているという意味が伝わってくる。

 リィアは窓の外に視線を移しながら、まるでそこに友人がいるかのように短くつぶやいた。英語でも日本語でもない言語であるのに、わずかながら意図が汲み取れるというのは、赤子ながらに驚きだった。彼女はおそらく“精霊さん、どうかこの子を守ってね”といったニュアンスのことを言っているのだろう。


 時間が経つにつれ、ディアルは周囲の会話に意識を向けるようになる。リィアとイシュヴァルが何気ない雑談をするなかで、“ブリュタの森”とか“ファルシナの山々”といった地名が頻繁に飛び出してくる。さらに村長の名らしきものや、近隣の集落との交易にまつわる話が、彼らの口から語られることもあった。

 前世で地理の知識をもっていたディアルにとって、その地名はどれも聞いたことのないものばかり。今自分が住んでいる世界は、少なくとも大きな大陸があるらしいと仮に分かっていたとしても、町や村の名称は完全に異世界のものだ。赤子の耳に入る情報は断片的でありながら、この土地が広大な世界のほんの一部であることは想像に難くない。


 ディアルが暮らす家は、いわゆる中世ヨーロッパの農村に近いもののようだ。食事時には煮込みスープのようなものを母リィアが作り、暖炉の火を使ってパンらしき生地を焼く光景が見られる。イシュヴァルが外出し、狩猟や農耕に関わる仕事で汗を流す姿もときどき窓越しに見える。

 部屋の装飾は非常に質素で、明かりはランプやろうそくに頼っている。屋外には馬や牛に似た生き物をつなぐ杭が設置されているらしく、朝方には家畜の鳴き声が聞こえてくる。電気・ガス・水道といったインフラは一切確認できない。しかし、家族が普段の暮らしの中で不便そうに嘆く様子も少なく、むしろこれが“当たり前”なのだとわかる。


 そんな光景を目にしながら、ディアルの頭にはいまだ鮮明に現代日本での知識が焼き付いていた。米や野菜の栽培、畜産の状況、あるいはサッカーに関する情報までもが記憶の片隅に存在しているのだ。赤子なので身体はまったく言うことをきかないが、思考そのものは高校二年生の黒木遼としての意識を強く保っている。

 ときに、彼は自分の体験してきた“社会”と、ここで垣間見る中世的な生活の落差に驚嘆しながら、なかば冷静に比較しようとしている自分を自覚することもあった。たとえば台所でリィアが水桶を汲みに行くとき、「どこから水を引っ張ってくるのか」「安全か」と考えてしまうのは、まさしく現代人の発想だろう。もっとも、自分で確認に行くことはできず、リィアの動きをじっと見守るしかないのが歯がゆい。


 数日の間にも、ディアルは徐々に自分が“転生”したのだという事実を飲み込まざるを得なくなっていた。あのサッカーの試合の最中に失ってしまった意識。その後に目覚めたこの世界で、自分は赤子として生を受けている。にわかには信じ難いが、前世の記憶をありありと持っている以上、それを否定する理由もないのだ。

 ただ、転生したとはいえ、今は言葉を発するのもままならない赤子。知識を使って家族に説明することもできなければ、自分の置かれている状況を詳細に調べることもできない。にもかかわらず、この世界には魔力や精霊など、“ファンタジー”というジャンルでしか見たことがない要素が実在しているかもしれない――そう思うと、不安だけではなく一種の好奇心も湧き上がってくる。


 夜更けになると、微弱ながら部屋の隅や窓の周囲を小さな光の粒子が漂っているように見えるときがある。普通に考えれば単なる虫の光、あるいは目の錯覚なのかもしれないが、ディアルにはそれが何か“魔力”のようなものを示しているのではないかと推察できる。

 この世界の住人たちが口にする“精霊”と、その薄い光の粒には、何らかの関連性があるに違いない。いつか自分がこの世界で歩みを進めれば、必ずその謎に触れる日が来るだろう。そう考えると、無力な赤子の状態にいながらも、ディアルの胸には新しい興味が芽生えていた。


 ベッドと呼ぶには粗末な藁敷きの上に寝かされながら、ディアルは小さな手足を動かす。母親のリィアがさりげなくかけてくれる布団は、やや薄くても彼にとっては十分な温かさだ。外からは夜風が吹き込み、父のイシュヴァルが戸を閉める音がかすかに聞こえる。その一つひとつの所作や音の存在が、ディアルの五感に“ここが新しい現実なのだ”と語りかけていた。

 まだ先はまったく見えない。だが、自分の頭の中には日本の知識と人生観がそのまま息づいている。もし言葉を覚え、歩けるようになり、この世界を少しずつ理解できるようになったとき、きっと役に立つ日は来るはずだ――ディアルはそう信じようとしていた。


――ごく初期の段階から感じ取る魔力と精霊の気配、そして断片的に得られる地理や生活の情報。転生者としての戸惑いを抱えながらも、ディアルは赤子の眼差しで新たな世界を受け止め始めている。今はただ、小さな身体を休め、明日も同じように呼吸を続けることこそが大事なのだと、自らに言い聞かせる夜が続いていた。

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