4:見知らぬ光景
頭の中に広がるぼんやりとした闇が、じわじわと白みに溶けていく。その狭間で、黒木遼は自らの存在がどこにあるのかわからないまま揺らめいていた。先刻まで、確かにサッカーの競技場にいたはずだ――あの瞬間、“1分前に戻りたい”と心の中で叫んだ。それなのに、いま聴こえてくるのはスタンドを埋め尽くす観衆の歓声でも、チームメイトの声でもない。おそらくは、自分の意識が混濁しているせいだろう。薄い膜ごしに、よくわからない人々の話し声が聞こえる。
はっとしてまぶたを開けると、見えるのは高い天井――古めかしい木材で作られているのか、ところどころ節のある梁が組まれ、ぬくもりよりも素朴さを感じさせる造りだ。それまでの黒木の記憶にはない空間。それだけでなく、身体の感覚が異様なほど小さい。どうにも四肢がうまく動かないし、声を出そうとしても舌がもつれてまともに発音ができない。
「……う、あ……」
なんとか声を出そうとするが、それはまるで赤ん坊の泣き声そのもの。目を凝らして周囲を見やると、自分のすぐそばにいる大人たちの姿が輪郭を帯び始める。
最初に視界に入ってきたのは、やわらかな表情でこちらを覗き込む女性。年齢は20代後半から30代くらいに見えるが、黒木にはまだはっきりと判断がつかない。彼女は顔の側面に長い髪を垂らし、全体的に機能的な衣服というよりも、中世ヨーロッパの農村で使われていそうな麻布や綿の服をまとっている印象だった。
「……リィア、よかった……あの子は、丈夫そう……」
聞こえてくる声は、日本語ではない。けれど微妙に似通った響きがあるのか、意味がまったく通じないわけでもない、という奇妙な感覚を受ける。黒木の意識は混乱するばかりだったが、その女性――おそらく自分を産んだ母親なのだろう――は愛おしそうに微笑んだ。
部屋の端には、がっしりとした体格の男性が立っていた。硬く結わえた短髪と、革のチュニックのような上着が目を引く。その姿は、やはり現代日本とはまったく異なる文化圏であることを強く示していた。男性は何やら神妙な面持ちでこちらを見ているが、彼の目つきには安堵がにじみ出ている。
「……イシュヴァル様、リィア様……お子様は大丈夫です。おめでとうございます」
そう告げる初老の女性は産婆なのだろうか。彼女も素朴な衣服をまとっており、家の中はどこか民家というよりも古い木造の建物の延長に見えた。窓からわずかに見える外の景色には、薄暗く広がる森のようなものが見えている。黒木には、明らかにここが日本でないことだけは確信できた。
部屋に満ちる空気は、かすかに木と土の匂いが混ざり合ったものだった。飼い葉のようなかすかな香りもする。今どきの日本の家屋ではありえない空気感だ。やがて、先ほど「リィア」と呼ばれた女性がこちらを優しく抱きかかえる。
「……ディアル……わたしたちの……ディアル……」
どうやら自分の名前を呼んでいるらしいと直感する。けれど自分は黒木遼、県立の進学校に通う二年生だったはずだ。状況がさっぱりわからない。だが、母親の腕の中から伝わってくる温もりだけは紛れもない真実感をもっていた。
新生児の身体は、小さな手足を動かすだけでも精一杯。頭が重く、首を支えるのが難しい。視線が定まらず、明確な発声もできない状況では、当然言葉で周囲に疑問を呈することは不可能だった。
しかし、黒木の意識には、先ほどまで確かにあったはずの記憶が存在する。県予選準決勝、痛恨のファウル、PK献上……そして「1分前に戻りたい」と呟いた瞬間の光景が脳裏を過る。あれは夢だったのか、それとも――。
すると、ふと古い記憶を辿るような感覚が頭をよぎる。どこかに書いてあった「転生」の物語――ファンタジー小説などでよく見る“死んだはずの人間が別の世界に生まれ変わる”というあれだ。まさかそんなことが現実にあるはずがないと、黒木は自分に言い聞かせようとするが、どう考えても今の状況は普通の“目覚め”ではない。
さらに耳を澄ませていると、父親と思われる男性が母親に話しかけている声が聞こえる。
「リィア、俺は少し村長のところに行ってくる。産婆への礼と、今後の手伝いを頼んでおきたい。ディアルが無事に生まれたことを、ちゃんと報告しないと」
彼の名を、産婆らしき初老の女性が「イシュヴァル様」と呼んでいた。リィア、イシュヴァル――いずれも日本人にはあまり馴染みのない発音だ。さらに「村長」という言葉も気になる。少なくとも現代日本のような行政区分は存在していないらしい。
ちらりと見た父親の腰には狩猟用なのか小型のナイフが吊るされているのが見えた。部屋の片隅には、簡素な木のテーブルと椅子、そして壁に掛けられた布が幾枚かある。どこを見渡しても、ガラス窓や電化製品といったものは存在しない。ここが中世ヨーロッパ風の生活様式をもつ世界である可能性が、少しずつ確信に変わっていく。
リィアがそっと微笑みかけ、黒木――今や“ディアル”と呼ばれ始めた赤子――の頬を撫でる。その手のひらは母性の温かさに満ち、黒木は思わず落ち着きを覚える。もしかすると、この世界で新たな人生を歩むことになるのかもしれない、と夢想が頭をよぎった。
だが、その心の奥底では、戸惑いと恐れ、そしてどこか不思議な期待が渦巻いている。自分が今感じている異様な“変化”は、すべて現実なのか。元いた世界と同じように、ここに流れる時間は進んでいくのか。言葉も文化も違うこの世界で、一体どのように生きていくことになるのだろう。
赤子の肉体のままでは、この先の道筋を考えることさえ容易ではない。しかし、いずれ知識や言葉を身につけ、成長していけば――そのときこそ、自分が失ったものと、今この手にある“新たな命”の意味を見出せるのではないか。黒木は漠然とそう感じ始めていた。
――こうして、赤子として産声をあげた黒木遼=“ディアル”は、見知らぬ光景と見知らぬ家族に囲まれながら、新しい世界での人生をスタートさせる。中世ヨーロッパ風の衣装と文化が示す独特の生活様式、そして父母のやわらかな笑顔。そこで生まれ落ちた小さな命が、やがて数奇な運命を辿ることなど、まだ誰ひとりとして知る由もなかった。