2:試合開始
スタジアムに満ちる観客の歓声と、ピッチを照らす午後の日差し。主審のホイッスルが高らかに鳴り、県予選準決勝の大一番がキックオフされた。星稜館高等学校イレブンは、これまでの試合同様、落ち着いてパスをつないでいく形を基本としている。黒木遼は攻守の要としてボランチ気味に配置され、最終ラインとの連携と前線への展開を一手に引き受けていた。
序盤、相手はさすが強豪校らしく、前線から激しいプレスをかけてくる。黒木は左サイドへパスを散らし、そこから2列目を絡めたワンツーで少しずつ中盤を押し上げようと試みる。だが、相手のプレスはひとりが行けばすぐさまもうひとりが後ろからサポートに入る複数人による連携。単純に技術だけで突破しようとすれば、すぐにボールを失いそうな嫌な圧力を感じた。
対戦相手である清瑞高等学校は、県内でも幾度も全国大会へ出場経験をもつ伝統校だ。プロの下部組織に所属している選手もいるほどレベルが高く、フィジカルとスピードを組み合わせた戦術を得意とする。特徴的なのは中盤の構成で、相手は攻撃時にはボランチをひとり高い位置に押し上げてトップ下に近い形を取り、守備になるとそのトップ下を一気に自陣ゴール前まで戻してブロックを形成する。まるで指揮者がいるかのように、全員が連動した動きをこなし、星稜館の攻撃を寸断していく。
黒木が得意とするショートパス主体のビルドアップや、中盤でのポゼッションサッカーを繰り返しても、その網に捕まってしまえば効果的な縦パスを通せない。相手サイドバックも走力があり、スペースを埋めるのがとにかく早い。序盤からボールを支配する時間はごくわずかで、星稜館は自陣寄りでの攻防を強いられ始める。
時間が進むにつれ、清瑞のペースがさらに強まる。前線のエースストライカーを中心に、右サイドや中央で細かく連携をとり、ピンポイントでパスを回してくる。黒木は指示を出しつつ、必死にスペースを消そうと動き回るが、相手はワンタッチやツータッチの早い展開を得意としており、簡単には攻略できない。
ベンチから飛ぶ顧問の声は、守備のラインをコンパクトにしろというものだ。キャプテンの佐竹も必死に声を張り上げ、「上がりすぎるな」「ギャップを埋めろ」とみんなに呼びかける。しかし、相手の攻撃のバリエーションが豊富で、星稜館はほとんどカウンターのチャンスを作れずにいた。
そんな厳しい中でも黒木は、冷静さを保とうと心掛けていた。常に周囲を観察し、ボールがどこに転がっても味方が拾えるポジショニングを意識する。ボランチとトップ下の中間のような立ち位置で、攻めるときは一列前へ、守るときは最終ラインの前へと移動する。
その判断力は、幼い頃から読書で培ってきた知識の積み重ねと、サッカーへの情熱が合わさったものであり、このチームでは稀有な存在だ。もっとも、黒木の能力だけでどうにかなる相手ではない。清瑞の選手たちは皆、個々の技術と連動性が高く、ここぞという場面でミスをほとんどしない。もしも他の仲間との呼吸がずれてしまえば、一瞬で数的優位を作られてしまうほどの強敵だった。
前半の20分を過ぎたあたり、星稜館はようやく相手の勢いになんとか慣れてきた。松田がオーバーラップを仕掛けるタイミングをうまく変え、相手の攻撃を少しでも遅らせる工夫をするようになったのだ。また、佐竹も短いパスだけではなく、時折ロングボールを使って清瑞の裏を狙うことで、相手のラインを少し下げさせることに成功する。
黒木も絶妙な位置取りでパスを受け、サイドチェンジして流れを変える試みを続ける。さほど大きなチャンスこそ作り出せなかったものの、前半は失点なく0対0で乗り切ることができた。
短いハーフタイム、選手たちはベンチコートを羽織りながら集まり、顧問と佐竹が中心になって話し合う。清瑞がこれほど速い攻守の切り替えをしてくる以上、下手に中盤でポゼッションを狙いすぎてもカウンターを受けやすい。そこで「必要な時は思い切ってロングパスを入れて、相手の最終ラインを常に警戒させよう」という方針に落ち着いた。
黒木はボランチ寄りの位置で攻撃の起点となりつつ、機を見てドリブル突破やミドルシュートも狙うように指示される。チーム全体で「ショートパスとロングパスの緩急を使い分ける」という意識に統一されたのだ。失点を避けるためには無理をしない守備、だが奪ったら一気に相手を揺さぶる――これが後半戦の鍵になるだろう。
再びピッチに立った星稜館の選手たちだが、後半開始早々から清瑞の攻撃意識がさらに高まっているのを肌で感じ取る。前線の選手が積極的にプレスをかけ、中盤の底にいたはずのボランチが攻撃参加を増やしていた。少しでも隙を見せれば、そこにスピードのあるウインガーが駆け込んでくる。
黒木は、なんとか中央のスペースを埋めようと駆け回る。だが、このハイペースで守備に比重を置き続けるのは体力的にも厳しく、いずれ後手に回る危険があった。
時間だけは刻々と進む。清瑞も攻め疲れが出たのか、ゴールネットを揺らす決定打を決められないまま、スコアは依然0対0のまま推移していた。一進一退の攻防が続く中で、星稜館のベンチでは「このままPK戦を狙う」作戦が現実的だと判断する。県予選準決勝という大舞台、相手は総合力で勝る格上。ならば90分、あるいは延長を凌ぎ切ってPK勝負に持ち込むほうが勝機を見いだせる――それが顧問と佐竹たちの考えだった。
黒木自身も体力は限界に近づきつつあるが、「ここまで互角に踏ん張れているのだから、最後まで自分たちのペースを貫こう」と思いを新たにしていた。もともと例年なら2回戦止まりの星稜館が、準決勝のしかも後半残りわずかの段階で強豪校を相手に無失点を続けているのだから、チームメイトの士気は十分に高い。
残り時間は十分ほど。清瑞も焦りを感じ始めたのか、遠めからでも積極的にシュートを打ち込んでくるようになった。ゴールポストをかすめたり、キーパー山下が紙一重でセーブしたりと、危うい場面も何度か訪れる。スタンドからは大きな歓声と悲鳴が入り混じり、手に汗握る展開。
黒木の足も重くなってきたが、まだ意識だけはしっかりしている。ボール奪取の場面では果敢にチャージを入れ、数秒でも味方がポゼッションできる時間を作ろうと必死だ。松田や佐竹も同様で、ゴール前に押し込まれながらも粘り強く守り抜いている。
「あと少し……あと少しでPKに持ち込める」――そう思えばこそ、星稜館のイレブンは身体のどこかに残っている力を振り絞ることができた。ここまで苦しい試合展開を耐え、格上相手に同点のまま持ち堪えてきたという事実が、誰にとっても大きな自信となっていた。
暗くなり始めた空と、スタジアム照明の中で繰り広げられる攻防は、まさに息詰まる攻防戦。このまま0対0で終了し、延長戦の末にPK――それは星稜館の想定する最高のシナリオといってもいい。結果はわからないまでも、少なくとも勝利の可能性を得るための現実的な選択肢なのだ。
声援がいっそう大きくなる中、黒木は前線へ視線をやった。もし、この終盤に一度だけカウンターを成功させられたら――そんな希望はある。しかし無理は禁物。下手に前線へ飛び出せば、カウンターを逆に食らってしまうリスクが高い。黒木は思考を巡らせながらも、指示や連係で中盤を締め、まずは確実な0対0のキープを優先していた。
やがて時計の針は、残り数分というところまで来る。佐竹が再度声を上げ、「落ち着け、あと少しだ!」と呼びかける。黒木や松田らも応じ、ゴール前に固いブロックを敷くように陣形を整える。観客席からも「PK戦に行くぞ!」という部員保護者らしき声が飛び、チーム全体が同じ方向を見つめていた。
――この“後半残りわずかで同点”という状況こそが、星稜館にとっての最大の勝機。苦しいながらも最高のシナリオを前に、黒木たちはさらに気を引き締めていた。
次なる展開が激変しようとは、まだ誰も予想していない。ゆっくりと過ぎていく試合のラスト数分が、この試合の運命を大きく左右することになるのだ。