1:控室
ロッカールームの扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように消えた。床を踏みしめる音、ビブスをこすれる音、そして誰もが声を押し殺すような小さな呼吸――そのすべてが、自分の心拍と同調するかのごとく主人公の耳に響く。
主人公の名前は黒木遼、高校二年生。彼が通うのは地元でも有数の進学校・星稜館高等学校。サッカー部は人数こそそこそこいるが、どちらかというと部活動より勉学を重んじる風潮の強い学校だ。例年、県予選では早い段階で姿を消すのが常だった。ところが今年は、黒木の活躍もあり、チーム史上初の県予選ベスト4に進出している。
外ではすでに準決勝第1試合が終わったらしく、大勢の観客が次のカードを待ちかまえているはずだ。学校や部活のレベルを考えれば、まさに「ここまで来ただけでも大金星」という声はある。しかしチームメイトたちの視線には、まぎれもない“勝ち”への意欲が宿っていた。
ロッカールームの隅で、キャプテンの佐竹がゆっくりとアップシューズの紐を締めている。彼は3年生で、いわばこのチームの柱のような存在だ。体はさほど大きくないが、統率力があり、パス回しの要として活躍している。佐竹はふと黒木と目が合うと、小さくうなずいた。
「やるぞ。みんな、最後まで集中していこうな」
その声は決して大きくはないが、胸にストンと落ちてくる不思議な重みをもっていた。隣では2年生の同期でサイドバックを担う松田が、何度も肩を回している。いつもはどこか気楽な空気を漂わせている彼も、さすがに今日ばかりは表情が硬い。
一方、黒木の心は大きく揺れていた。サッカーが好きで、できればサッカー強豪校に進んで活躍したい――それが元々の夢だった。ところが両親は、「せっかく頭がいいんだから、安全な道を選んでほしい」と言い、一方で中学の担任は「トップ校に合格できる力がある」と強く背中を押した。結果として、星稜館高等学校に入学してからは“勉強のほうが大事”という校風の空気にのまれ、サッカーをどこかで諦めかけていたのだ。
さらに学年が上がるとき、今度は文系か理系かという壁にぶつかった。自分としては歴史や文学に興味があったため、文系コースに進みたかったが、「将来の進路の幅を広げたほうがいい」と教師に強く勧められて理系コースを選んだ。どれも自分の意志が薄いままに流されてしまった結果だと言える。
それでもサッカーをやめなかったのは、単純にボールを蹴ることが楽しく、心が躍るから。練習環境は決して恵まれてはいないが、放課後のグラウンドに立っていると、「今度こそ自分の力で道を切り開きたい」と自然に思えてくる。そして今日、準決勝という大舞台に立ったという事実が、その思いに報いるように感じられた。
高校生離れしたボールコントロールや状況判断力が、黒木の大きな武器だと指導者たちは口をそろえて言う。それは幼い頃からの読書量と、一瞬で局面を見極めるサッカー感覚が合わさった“分析力”のたまものだ。振り返れば、勉強もサッカーも自分なりに計画を立て、コツコツ進めるのが向いていたらしい。
しかし、実際にはいつも周囲の意見に従順すぎる側面があって、心のどこかで「もっと自分で選びたい」「自分自身で決断してやり抜きたい」という欲求があった。その矛盾に気づくようになったのは、思い返せば中学3年生の終わりごろ。あの頃、サッカー部の監督に「もっと強いチームで力を試さないか」と誘われながらも、結局両親に押し切られ、星稜館高等学校に行くことを選んでしまった。
今となっては「後悔」というより、「もし違う道を選んでいたら、どんな現在があったのだろう」と考えることがある。それでも、この進学校で周囲がそろって“無理だ”と言いながら挑んできた試合の数々を勝ち抜き、ついに県予選ベスト4まで勝ち上がった事実は、多少なりとも自信につながった。
周囲に目をやると、チームメイトたちはそれぞれの方法で緊張をほぐそうとしていた。ベンチコートのファスナーを上下させる者、黙々と音楽プレーヤーのイヤホンを耳に差し込む者、ストレッチをじっくり繰り返す者。それらの様子を眺めるうちに、黒木はふと自分の呼吸が荒れていることに気づく。
――ここまで来られたのは、決して自分ひとりの力ではない。真面目に戦術分析をしてチームを鼓舞する佐竹、最終ラインで声を張り上げ指示を出し続けるキーパーの山下、そして「もう少しで勝てそう」という妄想半分のポジティブ思考でチームのムードを盛り上げる松田。とにかく何かを変えようと必死に食らいついてきた仲間がいたからこそ、この場所に立っているのだ。
こうして試合前の数分間を過ごすうち、黒木の胸の奥には静かながらも確かな決意が芽生え始める。ずっと流されるまま生きてきたかもしれない。だが、この準決勝は自分で勝ち取り、自分たちの手で勝利をつかみたい。それが今の黒木の率直な思いだった。
やがて外のアナウンスが聞こえ、審判団と対戦校の足音がかすかに伝わってくる。そろそろピッチに出てウォーミングアップを始める時間だ。誰からともなく立ち上がり、全員が意識を一つにするように視線を交わす。佐竹がもう一度、小さくうなずいた。
「じゃあ行くぞ。星稜館の誇りを見せてやろう!」
黒木を含む部員たちは、思わず「おうっ!」と声をあげて立ち上がる。その声は控え室の壁を震わせるほどではなかったが、個々の胸にしっかりと響く合図となった。
ドアを開けて一歩踏み出すと、照明が落ちたスタジアム通路の先から、グラウンドの芝と太陽の匂いが微かに入り混じった空気が流れ込んでくる。視線の先には、誰もが目指す“勝利”という名の檜舞台。
黒木は心の中で深呼吸をする。「ここまで来たら、勝ちたい。絶対に勝ちたいんだ」――その思いが強くなるほど、かえって足取りが軽くなる気がした。不思議な昂揚感に包まれながら、彼は仲間たちとともにフィールドへと歩き出していく。
ウォーミングアップのためのグラウンドに出るまでのわずかな時間、黒木の頭の中には、これまでの選択が走馬灯のように浮かんでは消える。強豪校への進学を諦めたこと、文系への興味を抑えて理系を選んだこと。いずれも、あのときは大人たちの意見を“もっともだ”と感じて受け入れた結果だった。
――けれど、自分が心から望んだ道を選んでいれば、違う未来もあったのではないか。そんな「たられば」を考えたところで、今さらどうにもならない。だが今、この場所にいる自分自身は嫌いではない。たとえ半端に見えるかもしれないが、学業とサッカーの両立を続けてきた努力は本当だし、今日まで勝ち上がってきた事実も揺るぎないものだ。
「いつか自分の意志で勝ち取った結果を手にしてみたい」――その思いは、まさにいま行われる準決勝の試合にぶつけるしかない。
これまでの道のりで、黒木は“自分らしさ”を確立できたとは言い難い。しかし、少なくともこの試合には、自分だけのプライドをかける価値がある。仲間や顧問の教師、そして両親に対しても「この子を星稜館に行かせてよかった」と思ってもらえるだけの結果を出す。そんな熱い意志が、黒木の胸をさらに熱くする。
試合開始のホイッスルまで、そう時間はかからない。ピッチに降り立つ前の最後の集中が、控室での静寂とは裏腹に大きく燃え上がっていく。勝利への意欲、不安、そして何より“自分を証明したい”という思いがないまぜとなり、足の裏から頭のてっぺんまでを満たしていた。
――この静かな緊張から、波乱に満ちた「県予選準決勝」が幕を開けるのは、もうすぐだ。