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なにわろてんねん

 *


 もうすっかり外は暗い。

 ケーゴはいなくなってしまった。少しぼうっとしていた。遠くでランニングしている、サッカーの部員たちを、眺めていた。


 俺は荷物を取って教室を出た。多分長くはここにはいられないと思っていたし、それは大体合っていた。白線を歩いて帰った。そういう遊びというより、暗くてそれしか辿れなかった。太陽に照らされる月。太陽があるから、月は月であれるなんて人は言うけど、そんなの月に取ってはありがた迷惑でしかないと思う。別にお前がいなくたって輝けるやい、いや、でも本当にいなくなるなんて御免だ。ケーゴ。


 白線を踏み外してしまった。三角公園の植え込みに景気よく足を突っ込んで底の板まで踏み抜いた。湿った音がして、しまったと思って足を引き抜くと、そこに頭の潰れた大きなコオロギが飛び出した。殺してしまったかと思ったが、違った。踏まれたにしては身体が綺麗に残っていた。おおかた子供の無邪気に殺されたのだろうその体は、ボクサー姿勢というらしい。人が焼死する時、筋肉が収縮してボクサーのように腕と足を曲げて発見されるあれとよく似ている姿勢で死んでいた。人間も虫もどうもそこは同じでよかった。


 そいで埋めてやろうかなんて考えて、いそいそと植え込みを直していると、自転車を引いた農家姿の場違いな婆さんが、じっとこちらを見てきた。皺に隠れた白目のない目で、赤ん坊に見つめられているみたいに。


 よくよく考えてみれば、自分が虫を埋めてやったとして、虫の得になるわけじゃなくて、最近話題の戦地に千羽鶴問題とよく似たおせっかいだ、と思い直した。


 すると前を行っていた婆さんの自転車が、車止めに引っかかった。雰囲気で「手伝いましょうか」とサドルを持つと、「触らないでっ」と手で振り払われた。ああ、どうもこの婆さんは俺を見ていない、俺の虫の体液で油ぎった手を見ているんだ、そんなふうに感じていたらあっという間にあの婆さんは、街に風景に滲んで見えなくなってしまった。


 また、満員電車に乗った。俺は人のベルトコンベアに流されるままに窓に押し付けられる、まるで魚拓でも取るかのように、強く、強く。


 俺はケーゴ、今宮圭吾と検索ボックスに打った。アンテナは二本しか立っていないが、構わなかった。ヒットしたのは、あるネットニュース記事だった。


 気づくと、窓が温もりを持っていた。電車に熱気がこもっているからかと思ったが、違った。俺が異常に冷たいのだった。皮が、肉が、モツが。さっきから吐いた息が窓に白く曇らない。俺は、多分今人間じゃない。人間は暖かいからだ。傷つくから、好きだ。心が、とかじゃなく、単に、体が。だから、好きだ。それは裏切らないからだ。

 気圧がらみの偏頭痛ばりに、担任の言葉ががんがんこめかみを叩いて現実に戻してくる。


 で、君は?


 で、君は?


 で、君は?


 そうやって、人と違うことを強要されるのは、嫌じゃない。俺も人とは違いたい。でも、それ以上に、一人になりたくない。人が一人でどう違える。人は一人じゃ違えない。他人と比べて自分を知るしかない。人とは違うことと、自分が芯からしっかりあることは、真逆のことだ。

 いいじゃないか、俺は、ケーゴになりたかったんだ。小説家じゃない、小説になりたかった。衛星でなくて中心にありたかった、いや、中心であると思っていた、俺は。そんな地動説を信じきっていた方が多分幸せだった。俺はどこまでいっても俺で、なのに俺ですらない。この考えすらテンプレなのかもしれない、10年後にこれが酒の肴にでもなって他人事になっていたら、悍ましいなんてものじゃない、他人の羊水にひたって生まれてくるかのようだ。俺の人生の四苦も八苦も喜びでさえもこの何千年もの歴史の中でテンプレ化された一つで、何百万人という人がこのフォーマットに沿ってロールプレイしているのなら、それは他人の人生を生きているのと同じだ。今ポッケで震えているスマホの方がよっぽど有機物だ。

 しかしスマホの震えはなかなか止まなかった。どうもメールでなくて着信がきているらしかった。


 ケーゴから。


 出てみると、ケータイは冷たい汗でじっとり湿っていた。どうも俺は、どうしてか、焦っているらしい。


「よう」「ああ、悪いな今電車でよ、全く身動きが取れないんだ」

「そうか、ところでお前さあ、好きな洋楽ってあるか?」俺は安堵しているらしい。よかった、これは他愛ない日常だ。

「なんだって?」「好きな洋楽だよ」

「悪いけどその話は後にしよう。また後でかけていいか?」

「ビューティフル=ナウのMV見た事ある?俺、あれが洋楽のMVんなかで一番好きだわ」

「はは、冗談よせよな、ケーゴ」


「オーツカ」


「ん?」


「俺、死ぬわ」


 息が漏れた。


「おい」と低い声でケーゴが言う。


「今、笑ったな」

「え?い、いや」


「なにわろてんねん、死ね」


 電話口から聞こえた声はこの世の怨嗟の全てだった。どっと吹き出した汗でケータイを握る手も服も夏の寝起きの枕のようにぐしょぐしょだった。本物の言葉はこんなに人を動かすものなのか、とどこか別のところで感心すらしていた。


「笑ってない。面白く無いよ、待ってくれ、聞いてくれ」そう言って俺は音をスピーカーに上げた。おかしなことに、電話口からも電車の軋む音が聞こえる。

「お前今電車にいるのか?」

 ブツッと音を立ててケータイが音を立てなくなった。緊張は絶頂にあった。俺はもう右足が出ていた。どうして?俺はケーゴを助けたいのか。いや、それ以外のなにがあるっていうんだ。乗客をかき混ぜて車内を奥へ奥へ進んだ、まるでメレンゲをつくるように。口の端に泡を立てて「なにやっとるんだ」「痛い」と彼らは非難する。おろしたてのセーターを着ればちくちくするように、その言葉は俺へと刺さる。俺がケーゴにかけた言葉はこんなものじゃ無い。痛みを分かち合うなんて気取れない。本当に、歩くしかない。

 でも圭吾。お前と同じだよ、俺はお前をありのまま助けようとしている。ありのままお前は誰かのマルであり続け、俺はバツであり続ける。間違いだ。間違い探しの違う方、アイウエ問題の誤っている一つ。だからお前のことはいつだって分からないんだ。分かろうとしている姿勢なんておためごかしもお前の前では続けられなかった。でも、足は進み続ける。いや電車からしたら逆行かもしれない。そんなことはいい、電車の外の人間が決めることだ。俺は歩いている。それでいいんだ。


 ただ、間に合わない。ケーゴはどこにもいないまま、電車は下大利に追いついてしまう。ここで彼は、俺を振り切るためにきっと降りてしまう。俺は電話をかけたが、おおかた予想していた通り、Pと rを口ずさんで液晶画面は発信中のまま沈黙する。出なかった。俺は舌打ちして携帯をしまうと、ホームへ足を下ろす。


「どこだ?」


 不可能だ。見つけられることはほとんど奇跡だった。五十メートルの鉄の箱に二十一個のドアから何百人と出て仕舞えば見分けなど、そいつが禿げか否かということくらいしかつきようが無い。それ以前に人の波に逆らうなんて無謀なことできるわけがない。あれよあれよと昇降口に流されてしまいには階段でつまづいて転けてしまう。痛みに声も出せなくなっていると、うしろの背広が舌打ちして、その先の尖った革靴で俺の脇腹を押しやった。その拍子に砂を食った。なかなか大人なお味だった。


 それでもふてぶてしく立ち上がると、俺はケータイを落としていることに気がついた。ケータイは俺の手を離れて下から五段目くらいに転がり落ちていた。拾い上げた液晶画面は粉々に割れて文字がやっと判別できるくらいだった。でも割って良かったかもしれない、着信中という文字が目に入ったのだ。


「おい、圭吾、今どこだ?」


 彼は答えない。耳をすませてみると、電車の軋む音は聞こえない、電車を降りたのか、いや、だとしたらそれはそれで奇妙だ。どうしてこんなに人がいるのに雑音が聞こえないのか。こいつは駅にいない。降りたんじゃ無い、本当は、元々電車に乗っていない。

 すると、カンカンカン、電話の向こうからくぐもった電子音が聞こえ始めた。


「お前、踏切にいるのか」あれは踏切の警告音だった。彼は踏切にいるのだ、高架橋下の踏切にケーゴはいる。そしてその事実は同時に、事態が考えられうる限り最悪であることを意味する。あまりに近すぎる。この人混みで電車は今だに春日原で止まっているが、出発はもはや時間の問題だった。


「お前嘘だろ、違うだろ、待てよっ」


 カンカンカン。答えは平坦でなんとも無慈悲で頑なだった。俺はおもむろに踏切の方に進み始めた。間に合うわけがなかった。でも、進まないわけがなかった。自分が離れていっている感じがする。理性の拒否と現実の許容のアウフベーヘンとして感情を選び取っただけだ。これはポーズだ。できるだけの努力はしましたっていう、言い訳をもうやっている。


 そうじゃないだろ。


「違う、待ってくれよ頼むよ、全部嘘なんだ、俺が悪かった」そんな言葉でこいつが止まらないことは分かっている。決意がカッコのついた言葉でどうにかなるわけがないこと、俺にはなにもないこと。「道化」であり「小説家」であり『文豪』なのに、「大塚宏」であり「醜く」て「イタく」て「ちょっぴりおもろい」で出来た人間で、全て人の物差しの自分であること、俺がケーゴと同じ所にいたことなんて、一度だって無いこと。


 だから、圭吾、俺はまだ一度もお前と話せてないんだよ。



 そういうと、少し向こうの雰囲気が変わった。


「オーツカ」

 

 ん?


「お前、」


 無いけど。


 ……そうかよ。ごめんな。じゃあ」


 じゃあな、と、圭吾は言った。


 電車の扉が閉まった。



     米




〈レアルに見初められた福岡の「怪物」サッカー少年の感動的な過去〉



『スペインの強豪サッカーチーム・レアル・マドリードが一目置く小学生の男の子が福岡県にいます。レアルが日本で開いた催しでMVPに輝き、スペインでのキャンプにも招待され、来年2月からはスペインのレアル・ベティスの下部組織で3か月間の練習に加わる資格も得ました。高い技術を持ちすでに中学生に混ざって練習する男の子。トッププレーヤーの戦術を分析。中学受験に向けて勉強する努力家の側面も。10歳にして世界を見据えています。

 

 豪快なボールタッチで相手を抜き去るのは福岡県飯塚市の小学四年生、篠原圭吾くん。


〈友達〉「あいつ、マジまじ怪物ですよ、レアルのカンテラとかいっちゃうんじゃないかなあ、だってあいつ朝から晩までやってるもん、サッカーするために生きてるようなもん」

〈圭吾くん〉「いやや。俺セレッソ行くわ。おれやったら高校までにいけんで」

 快活な表情を見せる圭吾くんですが、試合には真剣そのもの。タカのように鋭い縦パスでどれだけの走っても疲れを見せない、彼はまさに「怪物」。


〈監督〉「やっぱり運動神経はもちろんいいんですけど、やっぱり賢いプレーをするんですよね、あの子なりにどこにいったら相手と身体ぶつからんようにできるか、パスコースとかもボールタッチもそりゃあすごいけど、サッカーIQが高い。いつか世界に通用する人材になるんやないかと思います、本当、期待してます」


 と、監督から太鼓判を押される圭吾くん。

 しかし彼は勉学にも手を抜きません。朝六時から自主練、学校から帰り、夜九時までサッカーの練習をしたあとさらに中学受験のための勉強もしています。


〈圭吾くん〉「僕のうちお母さんしかいなくてそんなにお金があるわけじゃないから、大隈(福岡の私立中学校)とか(お金の面で)厳しくて、でも特待生取れたらいけるかもって、お母さんが言うから、勉強してます」


 彼は特別環境に恵まれているというわけではありません。彼自身の努力で人生を切り開き、世界を見据えているのです。彼は十年後、もしくはそれにも満たない日数で、世界へ羽ばたき、私たちに感動を送り届けてくれることでしょう。


  *


 何かが背中に当たったのを、ずっと感じていた。多分人の波に逆らえずに、壁にぶつかったのだろうと思う。これは多分走馬灯だった。圭吾の代わりに俺が見ていた。でも見えるのは過去ではなかった。今は過去を懺悔するべきでも贖罪するべきでもましてや歩みを止めるべきでもなくて、今、ありのままの今だ。自分はそこから来ていた。隠したい過去でも輝かしい未来でもなく俺は今の俺に従うのだ。

 辿り着いたそれは壁ではなかった。ボタンのように円かった。俺は迷わず押した。それは駅の緊急停止ボタンだった。おすやいなや鳴り始めたそのけたたましい音は、夕方の久留米で群れになって飛ぶ燕のさざめきを思わせた。そして、時間はようやく他人と歩幅を合わせ始めるのだった。


 一瞬、額の汗が頬を滑り落ちるまで、長い時間が経った。


「お前、今なにを一体なにしたんだ、おい」ケーゴは叫んでいる。俺はいう。


 今、俺が時間を作った。話せるだけの時間だ。俺は正直、お前がどこにいるのか分かっている。これから走ってお前を止めに行くことだってできる。でもやらない。お前は自身で助かるしかないからだ。いつだって一歩目はお前だ。俺じゃない。話し合おう。お前の太宰治みたいな自殺劇に終止符を打ってやるから。


 話し合ったとして、分からなくても、なにも見えなくてもいい、俺はきちんと圭吾を、もう一度会って、見たい。


 俺はお前といたい。


 部室で待ってる。そこで話そう。そう言って、俺は騒然としているプラットホームを縦断した。このあとすぐに駅員が飛んでくるだろうが関係ない。改札を降りたと同時に、街にぱっと灯がついた。

 照らされた闇はいっそう色濃くなる。でも、悪くない。

 月が電線でがんじがらめの空で、それでも輝いているように。


 *


 部室に着くまでに時計の長針は一周した。あの時と同じように打ち捨てられているサッカーのバイブルを俺は眺めていた。背伸びして吊り革に掴まる小学生を見た。新しいビルが生えていた。何本ものクレーンの触手が街を絡め取って、また様相が変わろうとしていた。家の裏の雑木林が消えた。蚊が大量に繁殖するからだそうだ。変わり続ける。それでも俺は変わらず待つ側だ。選ばれる側だ。でも、それを選んだ側でもある。後悔はない。俺はどれだけ間違えても、今でも、間違えているとしても悔しくはない。


 ポロン、とスマホが鳴った。ケーゴからだった。


『悪い、オーツカ。一人で考えて、スッキリした。ありがとう』と。フリーのスタンプ付きで。


 意味をとらえかねていると、ガラリと戸が開いて、一人の見知らぬ女が入ってきた。


 見知らぬ、といっても、ほとんど、本能的に誰かは解った。それは白沢優だった。


 *


 じわりと、鼻の奥のあたりが冷たくなった。鼻血だ!とわかると、途端にそれは去る。風が明日の匂いだけ残して去るように、白沢優だけを残して。随分と無責任な話だよな、ケーゴ。


「ふーん。もしかして興奮してるの?」「さあ。でも、していないつもりだ。そっちにはケーゴがいるからね」


 ボールを取り出す。空気パンパンで、カチカチのケーゴのボール。ボロボロで、ささくれだらけのケーゴのボール。柔らかくて、ツルツルの俺のボール。を手渡す、と返された。彼女いわく「あっちがいい」とのことだった。


 ケーゴのボールを細い腕で抱えて、萎びたパイプ椅子に腰を下ろして、細い顎を乗せる。彼女は今、冗談のように美しい。


「ケーゴは?」


「もういっちゃった」「あの世に?」「いや」


「そう」とだけ答えて、あとは何を話そうかと考えていたら、「ごめんなさい」と謝られた。「いいよ」と言った。


「謝らなくていいよ。君に謝られると自分も謝らなきゃいけなくなる」「どうして」「これから僕がブッ込むことにだよ」


 何それ、と言って彼女は笑う。顔の左半分が、夜に沈んで分からない。彼女はやはり、光り輝くより照らされる方が、綺麗だった。飛行機雲が空を割っている。夜でも飛行機雲が見えるのか、と思うと、今日は満月だったことを思い出した。


「じゃあ、先にぶっ込んじゃおうかな」「うん」「私、ヤっちゃった」「ケーゴと?」「うん」


 ホテルで?と聞いた。んなわけないでしょ、と返された。じゃあ家?彼女は答えなかった。代わりに、なに、もっとびっくりしてよ。私もう処女じゃないんだぜ?そう呟いた彼女の言葉は多分、僕に向けられたものではなかった。


「いや、そんなことないよ」と言うと、ずいと顔を傾けて、「なんで」、と。


「無理やりだったんだろ」「はあ?」「さっきメールが来たよ。ケーゴから。スッキリした、だってさ」


 いきなり彼女が立ち上がった。パイプ椅子が悲鳴をあげた。


「嘘つかないでよ。私には何も、言わなかったのに。君に言うわけないでしょ」僕はなにも答えなかった。ぐっと、白沢は怒りを堪えるように僕を見下ろしていた。

「想像と違った?ケイって奴は」


 そう言ってやると、にわかに彼女は人を見下すように高い鼻を先を僕に向けて、打って変わって繕い切った声で言う。


「もしかして、私のこと、可哀想だと思ってる?人に利用されて、笑われて」


 いいや。彼女は嘘。と言った。


「私は、ケーゴの白沢優なのよ。ケイは、カッコよくて、強くて、私を求めてくれるのよ。だから、私は」


 そこで言葉は途切れた。


「そう。で、私は?」と、多分俺は人生で一番残酷なセリフを、吐いた。

 

 私は非処女よ。もう子供でも人間でもないよ。白沢優なのよ。コンテンツなのよ。


 初めてだったのよ。初めてだった、そうよ、きっとだって痛かったもの。確かめるみたいに何度もいう彼女の横顔は夕闇に照らされながら三日月のように鋭くてすずやかで満月ではなくて、足りない故の美しさがあった。僕はなにも言えなかった。


 そう、私は抵抗しなかったのよ。きっと抵抗しなかった。それでいいと思った彼の気が晴れるなら、私は消費される側なのよ、分かってる。助けたかったらそうするしかないの。大好きなのよ?だから私は、対価を払うの。

 事実彼の顔は晴れやかだった、罪悪感もそこにはなかったわ、彼は大人になるのよ。消費した私をいつか捨てて大人になるの。でもいいの。そう。これは取引なのよ。体と心の取り引きなの。あなたが思ってるより、もっと薄っぺらいものだったのよ、良かったの、ただこれでよかったの。


 白沢。と僕は言った。君はそれで良かったのか?


 白沢は答えた。私は良いのよ。あんたはどうよ。あんたはずっと、イタかった。見てられなかったよ。結局なんだったの?ずっと、中途半端じゃない。


 苦笑した。深呼吸を、一つついた。


「それで良いのか」と。


 はあ?彼女の声が怒気を孕み始めた。


 痛くないのか?


 と聞いた。弾かれたように顔をあげた白沢。ボールを取り落として、彼女は肩を抱いた。


 痛いんじゃないのかよ、今。

 

 彼女は困惑した。生まれて初めて、その質問を聞いたかのようだった。痛くなんかない、と言われた。白沢、と言おうとしたら、「呼ばないで」と彼女は叫んだ。


 叫んだ。キモい。分かったように言わないでよ、私のセックスに下世話な心配でもしてるの?キっっしょ、私のナニよ、あんた。死んで。ねえ、死ねよ。誰も私のこと分かってないんだから言わないでよ。


 分かるよ。


 白沢がボールを投げた。ケーゴのボール。避けなかった俺の顔面にぶち当たって、てん、てんと転がるボールと、広がる鼻血。でも、今度こそは、流れて流れて、止まらなかった。ケーゴは、地動説を選んだらしい。痛みが、あった。


 彼女は呟いた。どうしてそう思うの、と。


 君を『けっこういい』と思っているからだ。


 なんで。と間髪入れずに彼女は言う。


 好きだからだよ。君が。


 なんで。


 だって、傷ついている女の子が俺の性癖(タイプ)だから。


 知ってるわよ。これは時間がかかった。彼女は、椅子からずり落ちた。


「こんなにカッコ付かないこともあるんね、イッタいわ」


 膝をついた。窓の外で透明な青が流れた。横に。

 彼女は泣いていた。手で顔を覆った。指の間から涙がこぼれた。そして、小さく、強く、痛い。と言った。痛かった。いや、今もきっと痛いよ。なんでよ、なんで痛いのよ。と彼女は叫んだ。靴を掴んで俺に投げた。並べたパイプ椅子を引き倒した。


 ちょうど靴が当たった。ポタ、と鼻血がまた床に落ちた。痛み。この、胸の穴。他人から受けた、笑い。だけじゃない、劣等感、悲しみ、心の奥の、傷……痛み。ああ、俺、痛いんだ、今。気づいたんだ。今まで、ずっと、痛かったのだ。ずっと、見て見ぬふりをしてきた、ものなのだ。白沢は初めて、俺に喋りかけたんだと、思う。


 満足なのに、どうして痛いの?望んだことだもん、ケイは悪くないの、分かってたもの、なにもしてあげられなかったのは私なのよ。最後なのに、私がしてあげられる最後、なのに痛かった。すごく。抱きしめられたとき、キスされたとき、挿れられたとき、全部痛かった。自分への価値とか、誰かと身を寄せ合う喜びとか、何も幸せとか、その前に、そんなこと関係ないくらい、身体が張り裂けそうなくらいに、痛かった。私の胸にはずっと穴が空いているの、本当はずっと、前から、前から。幸せなはずなのに、大好きなのに、全部、その穴から全部溢れてしまうのよ。でも、その穴があるから、だから私は生きていけるのよ。こんな自分を大好きだと思えたのよ。


「白沢。お前はコンテンツなんかじゃないんだよ」そういってハンカチを寄越した。はねっ返された。


「白沢!」彼女の涙を指で拭った。彼女は、「なにが言いたいの」と言った。


 君は、人間だ。当たり前の、ことだったろ。


 痛かった、と俺は言った。本当は、ずっと前から。ずっと、痛くても傷ついても見ないふり見えないふりをしてきた。痛みが俺を殺して、生かしてくれた。でも、生きたいんだ、生かされたいんじゃないだ、生きたいんだよ。人は一人で人なんだよ。人はコンテンツになれないんだよ。君は消費なんかされちゃダメなんだ、人は誰かがくれた痛みなんかで、生きていちゃいけないんだよ。


 嫌だよ。そんなの無理よ。人は一人では生きていけないのよ。弱いの。誰かに抱きしめてもらわないと、自分なんて分からないのよ。


 『自分』なんていないんだ。今しかないんだ。今生きるのは君だ。君しかいないんだ。抱き締めて幸せにしてくれる『誰か』なんかないんだ。


 君は、誰かがくれた痛みで生きてはいけないんだ。


 じゃあ、どうすればいい。誰かと一緒にいないと、自分なんてわからないのに。

 

 たぶん分からないし、分かれない。


 じゃあ、生きよう。じゃあ、生きよう。


 君は君が、君で、生きて、幸せにしなきゃならないんだ。

 君は、血と、肉と、多少のモツで出来た人間なんだ。君は暖かい。だから君はきっと生きていけるよ。


 だから、泣くなよ。


 無理、と彼女は言った。じゃあ私の代わりに泣いてよ。一人で生きてなんて、行けないよ。


 俺は弱くていい。でも、もっと全力で息をしたい。ありのまま、全力で生きていたい。ありのままに人と会って違いを確かめ合って、頼って頼られながら、それでも生きていたい。生きたい。昨日よりもずっと、俺は生きていたい。生きていく。俺は生きていくんだ。


 だから、君のために泣くなんて、そんな景気が悪いこと出来ないね。


 とうとう彼女は顔をくしゃくしゃにして、泣く手前までいった。しかし、ふっ、と緩むと、バッカじゃないの、と言って、笑った。

 

 俺は、人を笑わせた。


 そう思うとなぜか、じわりと、鼻の奥のあたりが熱くなった。涙だ!と分かると、やっぱりそれは溢れて、止まらなくなった。

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