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 *


「ごめん。分からなかったんだ、動転していたんだあの時は。わからなかった。ただ夢中で拳を振り上げただけなんだ。馬鹿だよな。それに、いままで謝れなかったことにも謝りたいんだ。俺、そんな資格どこにもないのに、どうお前に話せば良いかなんてうだうだ考えてたんだ。正直、キショいよな。分かってる。分かってる俺も」

 

 入るや否や、そんなふうに弁解した。上手くやったと思った。自分のことをキショいと前提に置いて、事後に距離を置かれるラインを保ちながら、謝罪もやった。でも、


「別に、いい」ケーゴが浮かべた表情はやっぱり笑顔。


「俺は簡単なんだ。単純なんだ」

「うん」

「仲直りしたら、それで良いんだ」

 なんで、そうなる。もう俺なんかに話すなよ無理しなくて良いよ、と言う。

 してねえよ俺は、と、脊髄反射じみた速度で、返答が来る。


「なんでだよ、しろよ、無理「はあ?無理あるだろお前と話さないなんてよ、お前、だから、どうでも良いって言ったろあんな奴らなんか」

 ああ、それが、嫌いだ。食い気味で、その、自分を疑わない在り方が。いつだってこいつは本当で本物、嘘をつく俺とは違う。俺が嘘をつくのは、誰かを騙すよりいい格好をするより第一に、自分を騙すためだ。俺が俺だからだ。だから今俺は本音を言う。お前だからだ。

 お前、面白いなって言われたいだろう、と聞いた。頷かれたので、

「面白くない人間にはなりたくない、だれだってそうだ、人生の分水嶺だと思う。俺といると面白くなくなる。笑う側に回れなくなる。だろ?友達だろ?友達だからだ。お前だからいうんだ。俺はお前のことを本当に思っているんだ」


 呟かれた。

 お前、嘘つくなよ、と。


「……は」


 乾いた笑いが漏れた。今、ぶっちぎりで言われたくない言葉だった。俺は人間ではなかった。

 俺にはなに一つ本物がなかったのだ!自分で信じた自分の本音でさえ、嘘だったのだ。いやそれよりも、まさかケーゴが、あのケーゴが、俺の不実を疑ったのか、許せないことだ、ケーゴに限って。まさかお前まで小説のように生き生きとし出すことは、恐ろしいことだった。


「俺みたいなさ、成績悪い奴と付き合わんがいいって言われたんやないの?母さんとか。お前そりゃあ、俺は」

 そういう意味か、単純だった、と胸を撫で下ろすと共に、やはり妙に腹が立った。期待を裏切らない、潔癖な正義感が根元にあるお前がかえって憎かった。お前の性格は本当にテレビ映えする。俺はテレビ越しにお前を見ることしかできない。

「違う。んなこと言われとらん」

「俺といたらショーライ危ういんだろ?」

 こっちの台詞だ。

「こっちの台詞だ」

「どっちの台詞だぁ?そうだよ、お前はいつもそうだ、台本の筋書きみてーなこと言いやがってよ、お前の言うことはいつだって人生一周したみたいな……芝居じみてんだよ、カッコ付いてんだ」

 彼は網かごに放られていたサッカーボールを手に取って手の中で転がしはじめた。赤と白の綺麗な奴で、ケーゴが使っているような黒と白の年季の入った奴じゃない幼稚な奴だ、ああ、それも見たくない。平静に生きるには見ていられないものが多すぎる。

「俺が芝居じみたことを言うのは、滑りたくないからだ。面白くない奴って、思われたくないからだよ」

「だろうな」

「滑ったら人生七割方終わったようなもんだろう。その綱渡りがきつかったからだ、その沈黙がきつかったから」

「いや、お前は面白い奴だよ」

「やめろよっ」

 怒鳴った。言葉の全てに汚い濁点がついていて、壁が甲高く鳴いた。飛んだ唾がケーゴの顔にかかって、咄嗟にごめんという言葉がでかかったが、そんな滑稽なことは出来なかったので、飲み込んだ。


 そして、決定的な一言が、飛び出た。


「俺は、お前と話したくない」咄嗟に出た。きっと一文字も用意していなかった暴言が出た。本音だったのだろうか。いや、それは一秒前まで嘘だった。今、変わった。


 は? とあいつの唇が弱々しく動く。ケーゴはフリーズする。俺はコンクリート製の部室の壁にもたれかかった。それは意外とひんやりしていた。気持ちよかった。


「楽しいよ。お前と話すの。面白いやつだし、良いやつだし、すげえ奴だから、もう、話したくない。辛い。俺ってクソだから、もうそれが辛い」

 なに言ってんだよ、と唇だけ動かしてケーゴはいう。


「もう、何言っても、わからないだろ」


 俺にもう面白いなんて、言わないでくれ、たった五文字で自分を表さないでくれ見ないでくれそんな、二、三分のユーチューブを見るような、消費する側の目で。

「もう俺に構わないでくれ、お前は違いすぎる」

「なにいってんだ、勝手に諦めんなよ、オレだって怖いんだよスベるのは」器用に足の先で放ったボールは網かごに収まった。「それが本音だ、お前と同じだ」

 「滑ったら死ねばそれで良いんじゃないか。面白い奴として死ぬほうが、面白くない奴として生きるよりいいんじゃないか。素晴らしいのは生きることじゃなく、カッコつけて生きることだ。生き恥のために死んだ戦国時代を否定するなんてのはいないだろう。今は、そういう意味の戦国なんだよ。白沢優の受け売りだった。最後の最後に俺に残るのは、結局、他人の言葉。

 

 俺は部室を出た。いつのまにか雨が降り出していて、生乾きの砂のグラウンドをふたたび黒く染めている。萎びた折りたたみ傘を取り出して、差しながら歩くと、雨は防げても、誰かの笑い声が降ってくる。雲はだんだん黒ずんでいく。


  *


 初めてこんな中途半端な時間の西鉄に乗った。人がホームから溢れ出そうなほどにいたから、いざ電車に乗り込む時なんてそれはもう、どんなふうだったろう、分からないが、ただ、あっという間に着いた。それぐらい心地良い時間だった。イチョウの細胞を顕微鏡でみたときの、細胞と、同じように詰め込まれた人々は、電車が揺れるたび、減速するたび彼ら連帯しては波立って一つの生き物のように動く。細胞が上下左右の細胞壁に仕切られているように、人はもともと一つだった。それが肌で仕切られ個人になった。あのイチョウの葉に映った間期の細胞が四角なのは、終期の細胞一つと、間期が三つに、四方を挟まれているからだ。俺は間期の細胞だ。もはや忘れていることだけど、いつか知ろうとすることだ。密着し、触れ合って、初めて、人間には肌があると、柔いあたたかい不可壊の壁があると知るのだ。今の人間は個で、孤で、子だ。だから共有したい確かめたい、でも、見てほしい理解して欲しい、自分という存在を他人に定義づけて欲しい、消去法で、型抜きみたいに。


 痴漢にでも間違われたらまずいから、両手で吊り革を握った。少しベタついていて、揺れるたびギシギシ鳴った。窓一枚隔てて真っ青な夜が横たわっているのに、ここだけは空気がベタついていて、古びた男があついねと言った。いやに声の通る女が答えた。そうだねと。この人たちはまるで生きているようだ。なぜそう思ったのか、理由はわからなかったし、それを求めることは正しくないことだ、これははっきりしているようだ。


 無理やり右手をねじこんでアイパッドを取り出した。毛羽だった中年が怪訝な顔でこちらを見たが構わず、誰かと話したかった。

 

「正しくなれない?」


「うん」


「正しくなりたいなら、人気者になればいいのに」

「正義だから強いんじゃなくて、強いから正義なんだーライクな?」


「うん。でもしょーじき今の時代、意味ないよ。今の時代善悪なんてナオミよりも尻軽なんだぜ?藤のとこでは自虐して、石田のとこで一発ギャグして(ちなみに私もストックはいつも三つはあるぜ)いおりのとこで誰かの悪口いってたら、勝手に人気者に慣れるのに。人気者はなるものじゃなくて慣れるものだよ。大人とおんなじ。プロデュースしてあげるよ、人気者になれるように、そんでもって小説にするとか。『オーツカをプロデュース。』ってやつ」

「パクリで草」


 話題は勝手にケーゴの話に流れていって、


「好かれたいなら、誰かのことを嫌いなよ。私だってイマガワのことディスってるし」

「なんで?」

「フジが嫌いだから、代わりに」

「あいつにも嫌いな奴いんのか」

「そ。だから、代わりに言ってくれると、助かるーっ、て」

「言わされてるのか」

「そ。でも内緒ね。あ、そういえば、なんかオナ禁ばれてたでしょ?それを小説にしようよ。『人のオナニーを笑うな』」

「パクリで草」

「そうなん?」

「というか女子がそんな汚い言葉使うなよ」

「あ、森喜朗だー、フェミだ、LGBTQダー」


 電車と電車がすれ違う。頭にキンと来る風が鳴く。揺れている。箱も空気も。なのに熱気は冷めるどころか、指数関数的に増していく。


「もしかして、今の会話も言わされてるのか?」

「いや。でも私はいいよ。いいよ、どっちでも別に。『どっち』も私。変わらないもん、言ったでしょ?私はコンテンツだから、別にいいの。だってそうでしょみんな」

「達観しとうな」

「ね」


 窓の外がぼやけ始めた。雨が降っている。誰かが空いた窓に手を伸ばす。


「ねえすごいよ人。満員西鉄。感動的だ。頭の中ではゼドの〈ビューティフル・ナウ〉が流れてる」

「ああ、MV好きだな。満員電車が好きなの?」「好きだよ」「私もだよ」

 

 あれ、それどっちの意味?とか言おうとして、やべえ俺、今、ハイになってるかもしれない、と思い直した。

 人を見るのは人と喋るために、人と喋るのは人と触れるために、人に触れるのは自分にかたちがあって、かちがあることを確かめるために、それで満足であるはずなのに、もう身体は、次を求めている。

「じゃあさ、六体不満足とか、どう?」

「パクリで草」

「草」

「なにわろてんねん」

「草ー。結局小説はどうなの」

「まあまあ。でもTwitterが辛いな」

「え、フォロワーが増えないの?あー、死活問題だね」

「あー、ライトなのじゃなくて、ヘビーな」

「あー、理解。信者が欲しいの?」

「信者?そんな憧れでできる関係じゃ遠すぎ。もっと理解してくれる」

「ネット上で?無理だよ、会わないと」

「実際に会っても、まざまざと見せつけられるだけだよ、壁を。高い高い「違う」を確かめ合うだけだ」

「ふーん。信者より……使徒みたいなのが欲しいの?」

「でも母数を増やすべきだよな、四桁いってないし」

「何言ってん、大事なのは数字じゃないの。イエス=キリストだってフォロワー13人しかいなかったじゃん」

「草」


 本当に俺の前では、なにか考えてしゃべっているわけじゃないのだ。白沢はありのままなのに、俺には肌があった。だから視野が広くなってしまって、見たくないものも増えていく。小説を書いてみるといいかもしれない。今まで俺は、小説を書きたいと思ったことはない。書かなきゃいけないと思ったことしかない。自分の存在に空白期間が出来るのが怖かっただけだ。みんなコンテンツだ。色とりどりの街の実相はそれだ。森林、自然、地球のあたたかな羊水に浸されて、金、サービス、すくすく育つ、胎の中。俺だってそうだ。自分自身じゃない。自分が持ってるパイをみんな欲しがり始める。大塚なんて誰も見てくれない。『文豪』なら見てくれる。『ヒロポン』だったら見てくれる。ケーゴだったら見てくれる。


「やっぱ二日市はばそろおりますね、先週まで東京いたんですけど、変わらんですね大して」と萎びた声で、なのに太く誰かがつぶやく。


 人と人の薄い切れ目から、風をタバコの煙みたいに吐き出す窓を覗いた。静謐な空気をまたいで天の川が見える。あそこに帰りたい。あの夜より闇よりも黒い黒い星に僕たちは帰りたい。吊り革をその天の川に掛ける、橋のように。そうすると、二日市に着いて、電車さえも、上気した頬で微笑っている。畜生。


 しおれたスーツを着た二人組が、笑いながら車両を降りる、何もないアスファルトで片方がつまづく。片方が支える。倒れた方が片手で詫びて、熱を帯びた人波に飲まれる。まるで青く肌に浮いた動脈のように、人の波はどくどくとホームに流れる。その血は夜の闇より黒黒としている。


 ついに、小説サイトを開けた。深く、息をついた。そして、優先席に座った。


 『アカウントは存在しません』


 昨日から、サイトにログイン出来なくなっていた。世界はあくまで正しかった。俺はこんなに不良品なのに、しっかり社会の歯車に組み込まれているのだ。不良品ならせめて不良品らしく、生きることも許されないのだ。正しさという肌に、また、阻まれる。抜け出せない、俺に肌がある限り。肌は生物の根源の壁だ。壁は阻む。喋る。触れる。セックスは、それを確かめ合う行為であって、結局それに阻まれる典型だ。帰りたい。家でもなく母の胎内でもない、でも、どこかに帰りたい。

 あの天の川に帰りたい。あの中に俺に向かって光る星がある。それは夜より闇より暗くて、それからしたら何もかもが眩しすぎる。この世は眩しすぎる。

 声が聞こえる、誰かが笑っている。誰だろう、俺が笑われている。いや、耳を澄ましてみる。俺が俺を笑っている。 


 ーーああ、俺だ、笑っているのは俺だ。

 

 俺が笑っている。そう気づいてから顔を震わせる。身体を意識がまさぐって分かって分かって笑気を集めて集めて声を絞り出して笑う。


「バキバキ」と。彼らが息を呑む。


「俺の性癖知ってる?」


「ああ、笑えるよね、血とか肉とか内臓に、興奮するんだろ?」


 そりゃあ、俺の隣には、誰もいない。



   米


 期末考査が終わった。成績は五、六番くらい下がっていた。もう少し俺の気分に合わせて下がってくれても良かったが俺は変わらなかった。いや、何も変わってなんかいない。変わり続けているのは、背丈と、皮と肉と多少のモツだけ。


 スケート靴のブレードをなぞる。踵の部分は噛んだ後の爪みたいにガタガタになっている。歩くのが不便だ、天狗の履いている下駄のように。

 僕は人を待っている。いつだって自分は待つ側だったような気がする。ガラス一つ隔てた先にすいすい氷上を飛び回る子供達がいる。合宿か何かでスケートリンクを貸し出されているらしい。彼らは自分の人生に疑問を持っていない。彼らは『今』なのだ。今生きているのだ。過去にも生きず未来にも生きない。何も持ってはいない。ただ彼らにとってスケートは人生の松葉杖で、他人から与えられた夢に縋って、それ以外のものは必要とはしない、ミニマリストな人生を送る。俺にはあれがあったから?私には何があったから?今、こうしていられます、ってか。誰も見てねえよ。死ね。


 国語の先生の言葉を思い出した。前の二者面談の時のだ。


「どうして俺は待つ側なんですかね。ケーゴと違って迎える側になれない。小説を書いてるんです。ケーゴはサッカーをしてる。何が違うんですか」

「それは、間違いなく、ケーゴは全然違うでしょう。間違いなく彼はサッカーのために寝ている。サッカーをする身体を作るために飯を食い、サッカーをする身体を休めるために風呂に入る。サッカーをするために、最低限の勉強をしている。彼はサッカーをしたいんじゃなくて、ほぼサッカーそのものだと思う」


「君は?」と言われたとき、自分の内側から湧き上がる岩漿のようにたぎるなにかが、奴の喉笛を食いちぎるところだった。見抜かれていた。俺の小説家になることへの、後ろ暗い思いも、全部。俺は何だ?僕は僕であって僕ですらない。

 僕なんかいない!僕は、ただの、皮と肉と多少のモツだ。なのにケーゴはサッカーだ。あの子供がこちらを見る。ガラス玉を嵌めた目で、俺を詰っている。後ろで柔軟をやっている子どもがいる。やらされている子どもがいる。こちらを、泣きそうな目で見ている。訴えている。


 彼らにはカトリコ御用達の免罪符がある。誰よりも頑張っているから、誰も自分に何も言えない。だから他人にも迷惑かけても仕方ないから。そう金魚、打ち上げられた金魚が口をパクパクさせるように、彼らは氷上で汗を滴らせ、現実に喘いで、助けてー、精一杯だよー、だってさ。俺たちにとっては、上野のシャンシャン見てるのと、そう変わらないのに。


「うるさいわ」


 何口をパクパクさせてんだよ。言えよ。言いたいことがあるなら言ってくれよ。察するわけねえだろ、馬鹿タレが。誰もお前のことなんか見てねーよ。


「叫べよっ」


 俺は立ち上がっていた。右手でガラスを叩いた。低い弦を鳴らしたみたいに揺れる。


「おまえ、おまえ、いつ生きとるんやて。誰の人生生きとるんやて。なんだその目ぇ、なんしてそんな目しとるんやて。なんか言えや。なにを、口ばパクパクしとらんでさあ、人生口パクしてんじゃねーよ。叫べよっ」


 ガラスには俺の顔が薄く反射して映っていた。ひでー顔をしている。鏡面から伝わる氷の寂しい冷たさに侵食されていく。


「やばいな。文豪。おもろ」


 背中のむこうから声がした。しおりとフジが立って上野のシャンシャンでも見るみてーな目でこちらを見ていた。


「あれ?白沢は?」

「インフルかかったってさ」


 妙にベタベタするビニール椅子に腰を落として「あっそ」。


「メールきてないん?」

「パッド置いてきたわ」

「マジか」

「あとさ」

「ん?」

「文豪じゃなくて、名前で呼んでくんね?」


 フジがいおりの分のスケート靴もぶら下げてやって来た。気が利くやつだ、フジはずっと、フジとして生きて死ぬまでフジなのだ。いおりは礼も言わずにそれを受け取る。


「オーツカァ、期末いくつ?」

「965」

「やば、東大いけるくない?」 これはフジ。

「きっしょ、死ね」 これはしおり。別に変な文章ではない。他人同士だって、会う時は「こんにちは」っていう。多様性多様性。

 

 そう言い捨てていおりは自分のより一回り大きいスケート靴をはめた。コツコツつま先で床を弾いて履き心地を確認して、そしてやはり不便だろう、ペンギンみたいに歩きながらスケートリンクへ向かっていく背中を見ていた。


 床も壁も天井も吐く息も白いこの空間に、まるで水の中に沈んでいるような圧迫感を覚える。足は生まれたての子鹿のように震え、スケートリンクのモルタル製の壁に手をついて、俺としおりはなんとか体を引っ張っている。対してフジはさっきからしおりの心配ばかりしているが、壁に手をつくようなことはしていない、いおりが手で払うと、フジはシャーシャー言わせながらあっという間に遠くに行ってしまった。

「プルプルやないか」

「やばい、ここの氷だけ、クソ滑るんやけどここ、宮地のギャグセンみたいやわ」

「はっ」

 僕はしおりのこれ見よがしに破れているジーンズのポケットから覗く、ジャラジャラした財布の鎖をなんとなしに眺めている。鉄製だからここじゃあ、見ただけでも冷たそうだ。

「さみー」「寒いな」「なんかおもろい話ないの?寒いわ」「ねえよ。お前は?」「あー、あるある」「何?」

「おまえさ、白沢んとことどうなん?ほら、アツアツやん?」

「お前程じゃないわ」

「うっさ、喋んな」


 といった途端、ズデン、と漫画みたいにすっ転んだいおりに仕方なく手を差し伸べると、無遠慮にそれを取ってたち上がった。ここで振り払う勇気がないから、いおりはいおりであれる。矛盾を抱えてなお、健康でいられる。


「あーやば、俺らもう中三やん」

「何がヤバいの?」

「や、なんとなく」

「はあ?」

「とにかくヤバいわ」

 

 スケートの上達はいおりのが速かった。高い身長と長い足で枝切り鋏みたいに進む彼の背中はゆっくりゆっくり小さくなっていく。でも、さっきの子供達が、周回差をつけて俺たちをぐんぐん抜いていく。抗いがたい冷気の波が足元を過ぎる。身震いをする。何か、攫われたような気がした。


「つかおまえマジで、まじでおまえ狙ってんの?白沢。無理無理。あいつケイちゃんとやっとうもん」

「ケイちゃん?」

「ケーゴのことな」「あっそ」

「知っとったん?」「なんとなくな」

「あ、そうそう」

「なに?」

「ケーゴさおもろいよな、あいつ」

「だろ?」とほくそ笑む。

「それに、母子家庭やし」一拍置いて「は?」。


 母子家庭=おもろい?


「いやあ、なんかドラマじゃね?そういう貧しい環境のやつが、サッカーで全国レベルの選手になるみたいな、夢があるよな、そういう過去とかバズるよな、すげえ」

「いや、いやいやその」

「マジでおもろいわー。つーか、いいよな、父の日とかなんも渡さんくて、羨ましいわ」


 絶句とはまた違った。呆れ果てたともまた違った、深くて青い絶望だった。甘く見ていた。俺はこんな世界に生きていたのだ。今の時代はこれがメタなのだ、だって信じられないことに、いおりは今のがウケなくて不思議だ、みたいな顔を本気でしているんだから。

 

「あいつサッカーとかすげえよな」「ーーあ?ああ、そうだな」「お前もインタビュー出るかもな」

「え?」

「いや、だってあいつの友達としてさ、なんか、伝記的な番組でさ」

 ああ、そうだなと返せなかった。体はとどまることをしらず、冷えて行った。


 スケートリンクから出て白くなった指の先をフーハー言わせて温めていると、フジが「温かい飲み物でも買ったら」と勧めてくれたので、自販機のコーンポタージュを買った時、同じくして合宿の子供達の練習が終わり、大勢が小さなガラス戸に我先に詰め寄っているのを、俺はじいっと眺めていた。学校の授業を腹痛でサボった時のことを思い出した。トイレにしゃがんでいると切り取られた時間と時間の狭間で、他は授業やってるのになあっていう異様なおかしみと静けさ。真っ白な、いや、無色の。それでもってたまに忙しい足音が俺を現実に呼び戻してくるからかえってうるさく。最後に抗いがたいチャイムが鳴らされていよいよ、水面から隆起する泡のように、うるさいは膨らんで、極彩色の喧騒になる。その色一つ一つに人生があるのが、やっぱりどうしようもなく怖い。俺も色のたった一つだと思いたくない。

 あの子供達が、これから世界をビビットカラーに染めていくのだ。赤が、青が、黄色が、真っ白なキャンバスを踏んで踏んで潰していく。


 で、俺たちは?


 そう言って、いおりたちは帰っていってしまった。


 *


 

「どうしたん?ケーゴとデートにでも行ってたん?」


 人の恋路にあれこれ聞くことは、ヴンヴン言わせて回転する扇風機の羽に指を突っ込んでみるような、スリリングな怖さがあった。帰りの電車で、優に聞いた。

「まあ、しゃあなくない?仕方ないやん。そうしなきゃいけないんでしょう?コンテンツだから。体裁上ね、そりゃケーゴが一番向いてるよな、いいよ」

「なにその後方彼氏面。草。キモイよ」


 ここで初めて口を開いた優の言うことも普通で安心する。彼女はまだ死んでいる。


「好きだからだよ」


 そう思っていた。


「え?」

「いや別に、好きだから付き合ってるんだよ。好きだからそうしているだけだよ」

「ええ、マジ?なんか、体裁とかそういうん漢字やないの?」

「どうしたの、誤字?もしかして焦ってる?」

「や」

「返信速いじゃん」


 なんてメタいこと言ってくるから、急に画面の外が見えるようになる。横席で、ぽつぽつ黒い頭が覗く電車は高架橋に差し掛かろうとしている。今までの会話が、文字になる。


「別に。てか明日の二者面談ダルくない?」

「いいの?何も聞かなくて」


 抵抗を試みたが、観念する。 

 俺、こんっっっなに、ガキだったのか、と。


「お前のこと、俺は大人だと思ってたんだけどな、今まで知ってる中で一番」

「なんで?」

「諦めてるじゃん。いろんなことを。大人になるってそういうことじゃないの?」

「そんな極端な話でもないよ。中途半端だよ、大人は」

「どちらにせよ、もっとドライだと思ってた。それじゃあなんか、どろどろな関係なわけ?」


 電車の中で、四角く切り取られた窓から、質量のある黒い雲が苦しそうに泳いでいく。合わせて事態はゆっくり曇っていく。太陽が隠れる。額に雨が滲む。心の中はすでに豪雨だ。言い聞かせる。彼女は悪くない。悪女でもない、俺が悪だ。俺が悪だ。俺だけが、悪だ。


「そうだよ。どろっとろに、好きなの。私、ケイちゃんでなら死んでいいくらい。だってカッコいいじゃん」

「まじ?」

「まじ。おおマジ」

「愛してんの?」

「なに。なに焦ってんの?いいでしょ、カッコいいんだから」

「まあ、確かに。でもさでもさ、なんかガキっぽいなとか思わないの?」

「いや?男子なんてそんなもんでしょ?」


 高架橋を潜って電車は進む。俺にとって、ガラス越しに車掌が力無く指差した信号は眩しすぎる。灰色の窓に雨粒が張り付いて横に流れる。雨が降っている。それを見て最近、涙を流した時を思い出した。ふかふかの敷布団の上、淡い押し入れの匂い。円く揺れる蛍光灯。横に流れる涙。目尻から出て、こそばゆさを連れて、こめかみを滑り落ちて、耳の穴にはいる。


「それにさ、俺の性癖バラしたの、ケーゴってことか、じゃあ」

「そうだよ、意外?いや、誤解しないように言うけど、私に言ったのがケイで、みんなに言ったのが私」


 反対側の耳を平手で叩いて、穴から流れ落ちた涙を指の腹で掬い取って、眺める。生暖かいとかじゃなくて、それには透き通った熱さがある。そして、舐めると遠い潮の感じがする。

 電車が減速する。飛行機が急上昇を始めたみたいな、食道がしなる。吊り革に縋る。こう思った。俺でよかった。報われないのが俺でよかった。そうあるべきだ。世界は正しかった。良かった。俺が今報われないから、傷ついているから消費されているから、報われている彼らがいる。こんな俺でも生きていて良かった。そう思うべきだ。そして、誰かの役に立っている、僕は、そんな俺が『大好き』だ。


「それにさ」

「なに?」

「おもろいじゃん、ケイ」


 喉元まで何かが出かける、肌を食い破って皮を押し広げて、僕が俺になろうとしている。口の中は、どうしようもなくしょっぱくて、ケーゴのLINEアイコンを覗く。俺には自傷癖もあるのかもしれない。容赦なく笑っているケーゴ、ユニフォームを携えて。ポロンと、どこまでも平和な音を立てて携帯が震えて、通知がぬっと顔を出す。それはケーゴの目元を匿名希望よろしく隠して、どこまでも彼を赤の他人にして、遠くさせる。


『重要 09535981様へ』俺の小説のユーザーIDだった。当たり前だが、名前では呼んでくれなかった。規約違反のための強制ログアウト措置を取られるという旨のメールが再度送られてきた。

 まあ、そりゃそうだよなア、妙に俯瞰した気分で思った。俺の行動は何にもならない、どうやら自分の運命や未来にとって俺はとことん赤の他人だったし、それと同時に、どうして俺なんだとも思っている。俺は運命に拒絶されてケーゴはそうでない、片想いと両想い、選ばれしものとそうでないもの、選ばれしものがまた人を選んで、負の連鎖。そうしてるうちに人生からログアウト。冷めるわ。


「いいんだよ、別に。あれ。キャラ付けじゃん。なんで人が皮剥がれたり内臓引き抜かれたりに興奮しなきゃならんのよ」

「ほんと?」

 ほんとだよ。誰だって生きたいなんて思ってない、死にたいとも。もちろん、臓器も肉もただ動くだけだよ、生きるだけだよ、今を。でも、今に一生懸命で、健気でいじらしい、



 二週間後に二者面談があった。僕はこれから裁かれる囚人みたいに白い机をじっと見ていた。かつ、かつと遠くから革靴の、ガベルの音がする。

「僕はナンになれるんですかね」と投げやりに言ったら溶けかけのアイスクリームみたいな顔した担任が言う。

「なんでもなれるよ。学者にも大学教授にももちろんどの大学にも入れるさ」

「小説家は、だめですか」心にもないことを言った。ただ、「机に手を沿わせたらささくれが刺さった」ライクな、順当で生理的な反抗心から、言った。何になりたいかなんて、ない。でも『夢』という柱に縋っていなければ立てそうもない。俺が縋っていたのは、小説を書くことでも小説家になることでも何者かになることでもなくて、自分が何者かになろうと努力してるポーズだったのかもしれない。でもそんな、自分を安心させたかっただけだった、なんてよくあるそんなテンプレに自分を押し込めたくない。だから何になりたいかなんて、ない。何になりたくないかは、これ以上どうしようもなくはっきりしているのに。

 だから次の言葉には衝激だった。

「小説で食べていこうと、思ってる?」

 『夢』という魔法の言葉に対して、これは、ないと思った。優しすぎる。それと同時に、厳しすぎる。そして、ズルすぎる。中途半端にやさしいことは、何より残酷なことだと思った。逃げるなよ、はっきりしろよ、子供じゃないんだから、上目がちにみるなよ、気持ち悪い。察して、察してー?ふざけんなって。俺は本音で話したいんだ。担任の言葉はただ人の言葉をなぞっているだけなんだ。だから芯まで意味がわからない。


「食べていくなんて、生々しいこといったって、いやですよ僕は。叶えたいんです」

「夢なんだ?」「違います」「夢だった?」「そうですけど」「けど?」どんどん尻すぼみしていく俺の語尾を的確に捉えて、死体蹴りは続く。この教師、溶けたアイスクリームみたいな顔をしているくせに強かだ。


「だって夢って言い切っちゃうと、叶わないような気がするんですよ。大多数にとって、夢は叶えるものでなく、追うものじゃないですか。


「君はその大多数だとは思えない、まだたくさん模索して良い時期なんじゃないの、君はまだ十五歳なんだってば」

「僕は十五歳じゃないです。死ぬまであと70年です」

「拗らせてるねえ」

「拗れている側からすると、みんなの方が拗れてるように見えますけどね」「君」やっと担任が芯の通った声を吐いた。


「準備の時期なんだ、そうね、未来へ羽ばたく、というか、生々しくなってしまえば、将来食うものに困らないくらいの飯を調達できるだけの職につかせてやるのが僕のやりたいことであり、使命だ。だからこれは持論だけどね、なんにでもなれるなんて無責任なこと、普通のやつには言わない様にしてるんだ、期待してるからだよ?君に期待しているからだ。君は特別だからだ。僕にとって特別だからだ。だから君は今に拘泥せずに生きるべきだと思うんだ」


「未来って今でしょう。今はイコール過去じゃないですか。みんな今を生きている。みんな今なんですよ。俺だって今なん」はぁーーーあ、と。

  長いため息が会話に割り込んだ。先生は肩を大袈裟におろして、そう……まるでうまい煙草を吸うように、息を吐いた。


「そうだね。分かるよ」(何様のつもりだ)「君のこと。みんな未来に生きてない、だから電気のつけ忘れも地球温暖化も終わんない、そうだよね?」


 どうやら会話はもう勝手に打ち切られてしまうようだ、「さてと」なんて、ザ、大人っていうつなぎを入れて、彼の声は暗く暗く、水面下に沈んでしまう。直後があ行なので、ジ、だったかもしれない。


「本題に入るとさあ、ケーゴくんがね凄い傷ついてるそうなんだ」

「そうなんですか」

「彼、母子家庭なんだけど友達にそれを話したらね」

「父の日なくてうらやましいって?」


「知ってたの?」何でも知らないだろうと思っていたらしい。ああ、子供だからな。畜生。


「いおりですか、あいつはいっつもそうなんだ。ひどいこと、言われたんでしょう?」

「君はわかっていたんじゃない?ケーゴくんのこと」


 ーーは。乾いた笑い。またケーゴかよ。間違ってる。俺の人生ケーゴ中心に回っているのか俺は地動説の世界にでも生きているのか?これはケーゴの人生なのか。……これはケーゴの人生だったのか。ちくしょう。


「なにも知らないですよ。知って欲しいんですか?それとも?」

「いや、そのまえにね」「何ですか」「仲直りしたいんだって」


 そういって重苦しく扉を開けたのは、ケーゴだった。息を呑んだ。顎に、脂溶性の汗が走った。

 貝に耳をあてているように、どこからかさざなみが聞こえ始めた。それは抗えない自分の運命で、寄せて引いては、自分の作った砂の城をあらかた攫ってしまう。砂浜は海ありき。ドーナツの穴はドーナツありき。俺はケーゴありきの、舞台装置。


「よう、ケーゴ」


 そう何でもないふうに言った。陽キャ語を話そうとしたが出来なかった。喉から迫り出した言葉で取り繕うと思うと、借り物の言葉で慰めようと思うと、どうやっても、喉を真綿で締められたような感じがして、泣きそうになる。


「よう、オーツカ」


 その俺を呼ぶ名前の響きに、その当たり前にある響きに、なんでもない眩しさに、ケツから俺自身を舐って這いずって逆流して捻り出した言葉をそいつにぶつけなきゃいけなくなる。


 目を逸らした。窓に四角く切り取られた空に、天の川を貫いて輝く一番星がうるさい。それに俺に向かって光っているのは落ち着かない。こっちを見ないでくれ。自分から光るなんて下世話なことしないでくれ、眩しい、見たくない。真似してみてくれ、あの月を、外国人の尖った乳房のような形を。でもそれは今見ると、ぼうっと光を纏っていて、あれっ、と思った。


 次に来たのは吐き気だった。笑うのと同じ要領で、体内の吐き気を集めて集めて、「おえっ」を聞いて初めて、腹の中身が胃をせり上がり始める。


「大丈夫?」「大丈夫です」こういうときだけうってかわって真剣な先生を手で制して俺は、


「ちょっと外行ってきます」「ケーゴくん」「はい、付き添います」という言葉に、


「や、よしてくれ」と言いながら面談室を出て、廊下を駆けた。走った。走れ。

 おい、という声が遠ざかる。心地よかった。


 驚くほど速かった。人間を感知して自動で付く廊下の蛍光灯が反応しないくらいにそれは速く走った。それでもケーゴは追いついてくるだろう、そもそもスペックが違うんだから。だから届かないだろうきっと、俺は煌々とした星には届かないと思う。伸ばした手にまとわりつくのはひたすら目が眩むほどの闇ばかりだ。それでも照らされる月にはなりたくない。じゃあ闇でいい。光らなくていい、不正解でいい。不正解な不正解なりに、大不正解を目指してやりたかった。確かにそれがあるのなら、掴みたかった。光る星には見えないだろう暗い黒い星があると思った。

 吐く息が白くなる。肺がぎゅっと縮む。外に出たのだ、と気づいた。

 見上げてみると、それは天の川ではなかった。薄く引き延ばされた帯の雲だった。空には凛々しい切れ目が入っていて、アサガオの汁を垂らしたように落日を受けたその紫は淡く強く雲に影を落としている。


「おい、オーツカ」


 強引に肩を引いた現実を、俺は睨め付けた。「何だよ」とケーゴは悲しそうな顔をしていったのかどうか、顔が半分夕闇に溶けてわからない。


「お前、母子家庭だったってな」

「なんで知ってるんだ」

「俺は知らなかった」「え?」会話のテンポを乱されて、ケーゴは素っ頓狂な声を上げた。

「なんであいつらにはそう言ったんだ、言わなければよかったじゃないか。いや違う。なんで俺に言わなかったんだ」

「なんで言わなきゃなんねーんだよ」

「だってお前は」

 友達だろ?と、言おうとして、ハッとした。言えるわけなかった。ましてや俺が、そんな名前のある関係を。あまりに捻れてしまった。

「お前は、白沢のことだって、言わなかった。そのくせ、お前、俺の性癖はいうんじゃないか、なんだよ、何被害者面してんだ」

「被害者ヅラぁ?」

「そうだよ。そうやって自分の積み重ねてきた努力も実績もカワイソウな過去もこの時のためのポーズだ。お前のこと少しは理解できたような気がするよ。お前と俺は何もかも違うってことが理解できたよ。俺が悪でお前が正義。良かったな」

「いや、悪いのは俺だ」

「はあ?」今更、何言うんだ。

「白沢のことは謝る。話の流れでお前の性癖が割れた」

「流れ?」

「いや、俺が、あいつを」

「笑わせたかったのか?」

「……そうだ」少々間をおいて答えた。三点リーダーいくつ分だったろうか。

「たぶんお前、笑わせたんじゃなくて、笑われてるんじゃねえか?なあ、そう言ってくれないか。あんたの母子家庭の話だってそうだったんじゃあないか?お前は自分の踏み込んで欲しくない聖域に土足で馬鹿どもを招き入れた馬鹿なんだよ」

「違うそういう話になったんだよ」

「話の流れで?」「そうだよっ」

 ケーゴの声圧が強くなる。

「正直さあ、ウケたかったんじゃないのか」「はあ?」「お前は馬鹿じゃないよ。あくまで打算的に、そう。結局、お前その過去をコンテンツにしてウケたかったんじゃねーのか。おもろくなりたかったんじゃないのかよ」

「はア、ざけんなっ」と怒鳴られるのまではよかった。はっとした。まるでケーゴを怒らせるために言葉を選んだようだ、と思った。俺はまだ、悪であろうとしていたのだ。また死のうとしていた。僕に望まれる『俺』を演じようとしていた俺だって生きていたいと思う。息をしていたい。誰からも望まれない、それでもありのままでいたい。ケーゴのものでも友達のものでも誰のものでもない、俺は俺でいたい。だって、痛い。

 

「ふざけてねえよ俺は、息してるだけだよ全身全霊でっ」

「オーツカどうしたんだよお前、いい奴だったろ」

「うるせえこれが俺だってそうなんだよ。誰かを笑わせるのに傷ついて傷つけてんだ、そんな息の仕方しかできねえんだよ」


「嘘ついてんじゃねえよ」


 その時、それを言われた時、やはり痛みがあった。たたらを踏んだ、上品な石床がやはり上品な音を立てた。それは何にも共鳴も反響もすることなくすうっと、空に一滴赤を垂らした。顎が地面に直角に上がって、夕空と地面が逆転した。


 嘘?嘘つけよ。嘘だったのかよ、全部、全部。俺は全部、曝け出した中に、何一つないというのだ。

 痛え。痛いのは俺だ、お前じゃない。お前、俺のこと本当に、何にも見てくれなかったって言うのか。喉がぎゅっと締まった。頬に一滴青が垂れた。季節外れの夕立だった。


「お前さあ、泣いてんのか」


「……なあ、ケーゴ」

「何だよ」

「お前が」

 涙と一緒に流れた言葉。

「嫌いだ」

 流れなかった思い。

 

 そして、走った。「おい」左手を掴まれた。振り払った。あいつの焦茶の肌を石灰を撒いたみたいな白い線が走った。僕の爪が引っ掻いた跡だった。「いってぇ」イタいのは俺だ。俺だよ。走る。あのガラス戸をぶち破る勢いで廊下に飛び込む。風が頬を切って俺を置いていく。窓の向こうの街が走る俺を置いていく。俺にはそう見える。ケーゴは俺を見てたんじゃない。ケーゴの俺を見ていただけだ。誰だってそうだ。それでいいんだ。俺が見ているものは全部本物じゃない。小説も夢も水が上から下に流れるように、ただあるがまま在るだけだ。なのに求めているのだ。求められ、もとめるままの虚像でしか、両の目には映らないのだ。実相が見えなくて当たり前だ。だから理解なんて出来なくて当たり前だ。


 なのに、嫌いだ。大嫌いだ。お前が、大嫌いだ。お前が嫌いで、お前を嫌う俺も、大嫌いだ。嘘の俺もどこぞの本当の俺も嫌いだ、俺を見てくる奴も見てこない奴も嫌いだ、社会が嫌いだ、いいように消費される草木も海も空も人間も消費するのも嫌いだ。全部全部ぜんぶ、嫌いだ。涙が溢れる。ガキじゃねえのに、なに言ってんだよ、僕よ。言い聞かせてくれよ。どうせそれが世の中だって。壊したいなんていつの話だよ。もう終わりだよ。俺はもう終わりだよ。じゃあ、終わりでいいよ。人間の実相なんて、肉と骨と、多少のモツだけ。


 螺旋階段をぐるぐるぐるぐる、三半規管を置いてけぼりに駆け下りると、だんだん意識と肉体が攪拌されていって気味が悪くて、気持ちがいい。肉体の感覚を手放すのが、気持ちがいい。

「お前は、笑わせる側だろうが笑う側だろうがっ」踊り場で俺が叫んでいる。上からケーゴが足を止めて俺を見下ろす。俺のカスみたいな声が悲しいくらい反響する。

「はあ?適当言うんじゃねえよ。お前は嘘ばっかりだ」ケーゴは勝手に会話に見切りをつけて、俺を追い始める。俺は逃げる。逃げる。逃げている。どこへ?分からない。脚はギシギシ悲鳴を上げるのに、のに、構わない。これからのこと、友達のこと、周りのこと、将来のこと。構わない。答えを出すだけ虚しいことだ。俺は虚しい人間だと思う。でも虚しいのなら空っぽなのなら俺はどうして涙を流している。笑えることだ。俺が笑っている。咳き込むのも、構わず。ヒュウヒュウ息が漏れる、構わない。構わず、生きている。生きているから、楽しい。

「そうだよ、お前には嘘に見えるだろうな、そうだろう、お前は嘘じゃないから、本物から見たら俺は偽物だろうな、でもとりあえず、お前が見てる俺は嘘だよ、俺はお前のために生きてるんじゃないんだよ、本気で息してんだよ。今だよ。今本気で生きてるんだよ。俺は今だ!今俺は本当なんだ。お前らの一歩に満たない分を必死で這ってる俺だからだ」


 そして勢いのまま、教室に駆け込んだ。

 さっと全員の視線が集まる。視線はまるで液体窒素みたいに、俺の肌をぶくぶく焼いて泡を吹いて心の水ぶくれになる。


「俺だって、這ってる側の人間だろうが」

 ケーゴは構わずに言う。ケーゴは構う人間じゃない、きっとそうだと俺も思っている。

「見栄えが違う。お前は生きてるだけで一等賞だ」

「何卑屈になってんだよ。それはお前も同じだろ。だってお前は」

 そうやって言葉に詰まって俯くのもわざとらしい感じがする。次への布石。周りの生徒がざわざわ河川敷の丈の高い草のように揺れるのもいかにも『モブ』と言う感じがする。ケーゴは全てにおいて真ん中で不文律で、俺は多分倒される障害でしかない。強い。彼は太陽のように大きな重力で、俺も白沢優も、母子家庭も運命も、引き寄せて全てないまぜにしてしょうもないハッピーエンドに向かわせてしまう。

「お前はなんだよ」と言った途端、ざわめきは膨らんで、溢れ出して、いおりが声を上げた。不愉快だ。「え?どしたんどしたんいきなり」

「笑ってんじゃねえっ」

「やば、ヒスっててオモロいんやけど」ビビったフリをして手を大袈裟にかざして、画面の向こう側にいってしまう。いや、画面はこちらなのだ、彼らにとっては、たぶん映画のワンシーンと変わらない。どれだけ、俺たちが本物でも、彼らにとってはフィクションでしかない。

「お前は俺のドーナツの穴だ。俺のその立場や、おまえに感じる劣等感も、嫉妬にも蓋してそれを踏んづけてみんなより少し高い所からの眺めで満足していた。俺はお前のドーナツの穴だ。ドーナツがいないと穴の俺はただの虚無だ何もない。でも、穴がなきゃ、お前はただのパンになってしまう。そう思っていた」

「はあ?そういうとこだぜオーツカ。そうやって適当な言葉で煙に巻こうとするから」

「撒こうとしてねえよ聞いてくれ。俺は言葉でしか俺を語れねえんだよ。許してくれ。お前は俺じゃなくていいんだろ?でも俺はお前みたいにそこにいるだけじゃ、安心できないんだ」「なんか名言くさい事言ってね?」なんていおりが画面越しに呟く。フジとポップコーンをつまんで、消費する側の目でこちらを見る。

「そうなんだよお前の言葉はいつもいつも、誰かの言葉を借りているような気がする。笑い方も唾を飛ばさないように歯を見せるように、誰かに見られるようにお前は笑っている。お前は多分、根っからの」

「根っからのコンテンツだって言いたいのか?」その時、俺の目の前が真っ赤になって、血液が回るのがいつもより何倍も速くなった気がした。下唇を噛み切って血が顎まで垂れた。ほとんど俺は叫んでいた。

「勘弁しろよ。何やられても傷付いちまう、難儀だよ。それでも良いから、俺にも劣等賞をくれよ」なんでか俺の言葉は一言一句話すたびに俺の身体から解脱していってふわふわ浮いて止まらない。自分がない。定義できないから、自分の言葉がないから、何言ってもそうなってしまう。だから俺の血は真っ赤だ。俺は、多分真っ赤な嘘なんだ。俺はなんだ。哀れだ。だから、笑われている。「何言ってんのこいつ」「ノっていくとやっぱおもろいなこいつは」なんて言いながらゲラゲラと。

「俺は一等なんかじゃない。いったろう俺は初めから大変だったんだ、一生懸命生きてきただけじゃないか」

「そうだ、お前はその過去を一生懸命生きるための糧にしたんだ、消費した」

「ふざけんな、分かったように言うなよっ」

「分かんねえって言ったろ、分かんねえよ。そうであって欲しいってだけだ。だったら、理解できるんだ。そうだよ。羨ましいよ。なんでそんな、テレビ映えする過去があるんだ」

「どういう意味だよ」

「時代遅れってこったよ」

「そうやって自分を嫌いにさせようとしてんだろ、分かってんだよ、オーツカ」

 勘づいた。ああ駄目だな、とここら辺でおもむろに勘づいた。どうしても、俺じゃあケーゴの正しさは止められないし、ケーゴは俺の真ん中であることをやめてくれない。俺の憧れであることをやめてくれない。だから、解れない。俺は、ケーゴが嫌いな俺が嫌いだ。

「クソ……」




「ああ、アーメン」


 


 生まれて初めて、生きたいと思った。生きるために、死のうと思った。


「落ちるぞっ」


 俺は窓に向かって駆け出した。ここは三階だった。窓には格子が付いていたが体を横にすれば簡単に通り抜けられそうな広さだった。教室が沸いた。地面が震えるほどに歓声が上がった。いよいよクライマックス。俺は床板を跳ねて教壇に飛び乗り駆ける。直線。

 でもケーゴの方が圧倒的に速かった。駄目だ、無理だ。やっぱり気づいた。俺は走り始める時にはもう、ケーゴに腕を掴まれる準備をしていた。俺はこの映画から抜けられなかったし、俺は俺でいることをやめられなかった。俺は何でもないのに。何でもないこと以外になれなかった。痛い奴だ、目を閉じた。


 すると。


 あれ、と思った。痛みがなかった。腕を掴まれなかったのだ。目を開けた。ケーゴの背中が見えた。俺を追い越していた。窓に向かって。どうしてか?いや、決まっている。その考えに行き着いた時、身体が冷えた。スケートリンクの時とは違う、体の芯からヒビが入るように、寒気が走った。


「どうしてお前なんだよっ」


 なんでおまえが飛び降りるんだよ。おまえが飛び降りるたら、全部ぱあじゃねえか。どうすんだよ。おまえ、俺が落ちる気なのに、どうして。そんなことも決めさせてくれないのか、また俺を殺すのか。いや、そもそもどうして俺は、ケーゴの腕を掴んでいるのか。


 あんなに嫌いなのにそれでもおれはケーゴの右腕を掴んでいた。彼の自殺をまさに止めんとしていた。どうして?これが本当の俺だったのか、ケーゴを助けたかった?何と都合のいい本音だろうか。いや違う。俺は嘘も、本物も、違う。俺は、今だ。でも、もう彼の左手はクレセント錠にかかっていて、落ちるのはもはや時間の問題だった。力は俺とは段違いに強くて、彼の腕に見たことない太い血管がいくつも浮き出て、俺ごと引きちぎる勢いで、たまらず声を上げた。必死に、必死になって、


「おい、見てんじゃない、助けてくれ。手伝ってくれ、落ちる、落ちるぞぉ」


 すると、



 するとだ。



 パチぱち


 パチ



 後ろで音がした。それは拍手だった。一度耳を疑った。でも、その音に世界が揺れた。


 パチパチパチパチパチ


 それはやはり拍手、喝采だった。総立ち。スタンディングオペレーションをしているのだ。愕然とした。エンディングクレジットで、みんな拍手。その中にかき消された声を俺の耳が、さらった。


「草」


 俺たちはコンテンツだった。たった今、消費されようとしていた。ケーゴですら、本物でなかった。嘘なら、多分全部嘘だったし、本当なら全てそうだった。とにかく、分かることは、嘘も本当もやはり尻軽だということだった。


「ごめん嘘だっ、今言ったことは嘘だよごめん行くなケーゴッ」ケーゴは止まらない。すでに俺たちは言葉で繋ぎ止められる関係じゃなかった。


「どうしてだよ」ケーゴは違うだろう。こいつは、違うだろう。こいつは消費される側じゃない。消費する側なのにどうして。変わらないのか?消費する側も本当はちがう誰かから消費されているのか?そんなの無間地獄じゃないか。ここは?どうして、今更お前は、俺と同じところに来てしまうんだ。理解させようとしてくるんだ。落ちないでくれ。堕ちないでくれよ。そのままでいてほしい、変わらないでほしい。


「合ってるよ」震えた声でケーゴが呟いたのを耳が拾った。「え?」「ウケたかったんだ。俺。合ってるよ」そうやって口角を上げた。鼻血が垂れた。体が震えてきた。窓の隙間から、風が割り込む。風を跨いで乾いた街の輪郭は、夜に溶けて分からない。

 この世に、生産者も、消費者なんてこの世にはいなかった。笑われるものを笑うものも、また誰かに笑われていた。変わらないで、いいや。一度だって俺は、ケーゴのこと、見ていなかった。話したことなど、なかった。

 

「俺、お前が思ってるほど、強くねえわ」

 

 そう言ってケーゴが窓を閉めた。クレセント錠から手を離して、俺から離れた。離した手に血が通って、じいんと痺れて、熱く、冷たくなった。からだもそうだ。今初めて血が通ったみたいに、さあっとではなく、じいんと、冷たくなったのだ、芯から。彼は振り返ることなく、乾いた靴音だけを響かせて、教室を出て行った。


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