破
「おっちゃん、話って何?」
部活が始まるや否や、ケーゴが聞いた事だ。スポーツ刈りの頭の、こめかみの、触ったらささくれそうな部分を掻きながら。あのな、おっちゃんて、何度もいうけどやめろよ。もっとマシな頭文字取れなかったんか。というと、ひろちゃんってなんかガキっぽくね?と返されて苦笑した。部活は16時30分から18時まである訳だが、我らサッカー部は更衣、もとい談笑の時間に三十分取られるので実質一時間しかない。まあ、さっさとミニゲームしたいのでそれもまたよし。
「いや、俺のバイブスが平にバレてたんだけど」
「えっ?マジ?あの平に?」
意外そうな顔をしている圭吾は、青と白のサッカーボールを人差し指で器用に回すのをやめた。
「いや、俺お前にしか話した事ない気がしたんやけど、お前やないん?」
「え?何が?どういうバイブス?」
分かりきった事を聞き返すのも圭吾の癖だ。わざとなんじゃないかと思うくらい、でもこいつは結局良い奴……優しい奴なので、天然由来なのだ。潔癖ってわけじゃない、いい感じにだらける、でも、芯は正しい。彼は清く、正しい十四歳。ほら、見たらわかる、夕焼けに産毛までも白く眩しく照らされる彼の顔のこの無垢さよ。
「いやだから、リークしたの。話通じろな」
「ないないない。だってあいつ、他人の好きな子聞いていいふらさなかった事ないぐらいヤバい奴やん、終わったな、お前もう後一ヶ月は会うたびにイジられんよ?」
「だる」これは嘘。正直言うと、俺は寂しがり屋。
「まあよくね?大塚おもろいし、やべーな置いてかれちまうよ」
「もうええて」これは本音。本音はツールだ。本音と嘘は七対二くらいで使い分けてこそ……いや足して十やないやないかーい。わっはっは。なにわろてんねんなんもおもろくないわ、死ね。
「つか、お前のファンじゃね?リークしたん。お前に返り咲いて欲しいんやないの?トップオブザトップに」
「はあ?いい迷惑すぎる」
「いいの?」
まあ……そりゃあ。そんな予定調和を語りながら、わざわざ足を動かして廊下を歩く。歩くのは嫌だ。大人ならこう、カツカツ、と裁判のガベルのように振り下ろされる、きっちりした黒い革靴も、俺たちは、白いスニーカー、パタパタ、全身全霊が発露する情報は勝手に自分を定義する。
今日は木曜なので、向かうのは第一グラウンド。それは数ヘクタールもの面積を持った芝生で、西校舎の三階から見ると、スケッチの構図を決めるときに両手で、よくやる人差し指と親指のポーズ、その長方形にすっぽり収まる。その中の点々が、等速直線運動を繰り返している。あれ、あれは高校のサッカー部員だ、と気づいて初めて、ぞっとした。あの時潰した虫と何が違うのか、一つも分からなかったからだ。あのノミ一つ一つに思考があって、五体満足で、青春を生きていて、等価でひたすらひたすら重い命が宿っていることに、めちゃくちゃなおそろしさを覚える。いや、たぶんあれはノミだ。本当に、ノミなんだ。
で、僕は?
僕は……熱心にボールを追う彼らがノミなら、熱心に下世話な話をする僕は奴らは果たして。毎日のように来ない顧問も、サッカーで食っていく、と汗ひとつ見せずに言った部長の笑顔の意味も、僕には分からない。後ろで数人の、汚い笑い声がする。案の定恋バナしているらしい。というか、あいつらの会話は六割がたそれだ。後の四割は流行りのゲームと下の話。混ざりたいよ、心から。
「お前、気になってる奴いる?」
「居るわけないやん。つうかヤバい。あのクラス全員終わってる、顔面偏差値」
「30?」
「20」
あれで笑いが生まれるのだから男ってバカよねぇ、そう言って女も笑う。外面ばかりよくして、こう……自分には好きな人が居ません。何故なら僕って私って人に好かれるほど価値ないんで、そういう目で見られても困るし、見ることも出来ません。てか、俺は俺でやりたいことあるし……まあ、とにかく、恋愛にかまけてなんかいられませェん。……ってスタンス。馬鹿野郎、してもらいたいことばかりのくせに、誰もお前なんか見てねーよ。
と、心の中で毒突きながらボールとハンペンを取り出すのも、圭吾と僕だけ。後輩は後輩で仲良し子良しでやってる。やはり恋バナを。
「圭吾、お前隣の佐々木と仲良かったな、脈あんのか?」
「佐々木じゃなくて冴木な。それにねーわ。あいつ2組の田原と激アツやん」
ふーん、マジ?おしあわせに、と、テキトーに返す。昔の癖で、何を話すにも空気に合わせた話題を出してしまうのが悔しい。あれだけ嫌悪しておきながら、結局、沈黙を破るのに恋バナを使ってしまう。で、お前、好きな人いんの?と、事務的に問うのだから、どうしようも無い。
「いや、居らんけん?居ても実らんけん?三田やないんやから」
いや、そういうのいいから。間に合ってるから。次に、友達だろ?と続けようとしたがやめた。いくら適当でも、友達という言葉が薄っぺらく聞こえるのが、怖かった。
どうした?とケーゴが聞いて、僕は弾かれたように圭吾を見た。プツプツと、まるで画素の少ない写真のように汚いにきびを引っ掻いた跡が頬に額に広がっている。まるでそれは流れ星みたいに、きっとそうなのだろう。彼は流れ星……。
で、俺は?
それで、彼は沈黙に耐えかねたのか、一重をめいいっぱい広げて、戯けるように眉をそびやかした。難しい時期の人間にはあまりにそぐわぬ顔である。鼻から抜けるように息が漏れる。
「おっ前、もう十五の癖に、バカみてえな顔してるわ」
うるせえお前もだろ、とそっぽを向くのに、ふっと笑みが溢れた。あり得ねえや、コイツが秘密を暴露するなんて。もしそうだったら、人間不信になるだろう。
じゅうご、ねー、と、ケーゴは呟くと、思い出したように嗚呼!と高く慟哭した。何事かと尋ねれば、
「おい、どうするよ、俺もうエヴァにのれねぇんだけど」
などとどうでもいいような事を話すので、
「いいやろ、エヴァンゲリオンになんか乗らんて」
「バーロー。綾波に言われたくねーのか?愛してるって」
「原作でもいわねーわ、てか乗ったら歳止まるやろ、いいんか?」
「いんだよ」
そういって、彼はミニゲームの始まりを告げるホイッスルを鳴らした。
俺は十四のままで、いいんだよ、とそう言った時、やはりガベルの音がした。
※ ※ ※
焦る必要はない。止めればいいのだ自分は、奪う事はない。役割を考えろ。足の長さで描く円、その中に圭吾が侵入してきたら、逃げ下がればいい。役割はパスコースを塞ぐこと。着実にレフトラインに寄せて、割らせる。ただ、ヨーイドン……走り出しに負ける位置に圭吾を送ってはならない。そう、たった今、真横だ、そこに圭吾が移動しようとしているのを見て、僕は、そうはさせない、と意気込んで下がる。ただ、移動し切らないうちに圭吾は勝負を仕掛けた。
ただ、ボールを真すぐに蹴り出して走ったのみだった。それだけだった。
僕はあっさりと抜かれ、ただ木偶のように突っ立って呆然とする。そいで、置いていかれた風のみがやさーしくほおを撫でた。まあ、そりゃ無理があるよな。そんな諦観に囚われた。
体のスペックが違いすぎる、足のバネも足元の技術も、とにかく埋めがたい彼我の差。もしかすると、僕が守るのに夢中で、圭吾は視線だったり、足の向きだったりのフェイントをくれていたのかもしれないが、気づきすらしなかったのかもしれない。それで痺れを切らしたのかもしれない。とにかく、そのまま惚れ惚れするほどの放物線を描いたボールは、キーパーを翻弄した挙句ネットを揺さぶった。
※ ※ ※
「文豪、とにかくお前はわちゃわちゃしすぎ、お前がケーゴ止められるわけないやん動くな時間あるんだから周り見て対応しろ図体デカいくせに」
と、一息に言い切った飯田は、悪い、と返す僕に一瞥もくれずに立ち上がって、すぐに視界から消えた。それを確認した後、ため息をつく。コンクリートの手洗い場に右腕を預けると、ひんやりして気持ちいい。そりゃあケーゴに勝てるわけない。その通りだ。と、諦めると、胸が空いたような気分になる。胸に気持ちいい穴が開いて、気持ち良く痛む。この痛みがある限り、俺は生きているし、生きていけると思える。
主税は未だ口を聞いてくれないようだ。芝生にごろりと寝っ転がって、大して何もやってない癖に、何かやり遂げたように肩で息をしている。ただスタミナが無いだけかもしれない。
「お前、まだ仲悪いよなあ、潟下中とさ、アレまだ根に持ってんだろ?」
「仲悪いってか、一方的に嫌われただけだろ」と疲れ気味に言った俺を、
「うわー、せからしかー、ま、気にせんとー」と似非博多弁で励ます。もともとこいつは関西の生まれのくせにほとんど博多弁で通している。三歳から彼はサッカーをやっていて、今ではチームのエースというか、顧問兼監督より余裕で上手いので、もはやエースのチームである。
県でも上位の中学と戦った時のこと、確かに、プライドの高いアイツらにとって10-0は屈辱的だろうが、クラブチームとの契約でケーゴ抜きの大隅では当然で、僕の出た後半15分に3点入れられたからといって、三週間経った今まで絶交するのはあまりに酷だ。ていうか主税も後半15分は出てただろうが。それを棚に上げて戦犯戦犯と良く吠える……ガキがよ。と悪態を口に含む。
「まあ、どっちかが譲歩せんといけんくない?」ーーいけんくない?角の立たない表現を盛りに盛って、現代風に香りを整えた文法を最近のガキは操る。誰もが自分を傷つけたくなくて、あまりに屈折した優しさを他人に向ける。なのに、やっぱり、他人とは違いたくて、僕は、私は、今ここだけは貴方の前だけでは、『すっぴん』つって、カラコン付けて光を当てて、peace。……失笑。
「ーーよく、譲歩なんて言葉知ってんな」
舐めんな、とケーゴが苦笑した。大人として、抗えない波が両肩にのしかかっている。上から目線じゃない。上にいるからだ。謝る方が賢い。諦める方がずっとかしこい。主税は……僕は、緑の足拭きマットを跨いで、芝生に寝っ転がった彼に近づいた。途端、
あいだに、風が割り込んだ。
主税は僕を視認した途端に立ち上がり、すれ違い様に
「?」
何か一言、聞こえるか聞こえないかくらいの声で乏しく言われた。皮の破れた唇の端に浮いた黄色い泡に、俺が目を取られているうちに、そのまま去って行ってしまう。はっと気づいて、
「おい、まだ部活終わってねえぞ」
といえど、知らぬ顔で階段を登って行く。俺呼びに行くわ、とケーゴが早足で後を追えば、芝生に残ったのは僕と大量のハンペンとミニゴールだけである。この量を僕と後輩のみで運ぶわけだ。
「はー、やってらんねーよ」と、水飲み場から離れた途端、談笑していた後輩どもとすれ違った。まさかとは思ったが、この状況を放置する気らしい。
「おい、片付け」
と叫んで、ようやく振り向いた後輩にため息をついた。あの風は明日に向かって寂しさを孕んで、芝生を青から黒へと裏返していく。
※ ※ ※
部活終わりの事だった。
「……なんだこれ」
部室はコロナのせいで小寒くらいまで使えないので、現状更衣室である2の3に戻ると、机の上に見慣れぬピンクの紙切れが置いてあった。
「圭吾、お前俺の机になんかした?」と聞くが、ケーゴは訝しげにいやと首を振るばかりであった。
『明日の放課後、2の6に来てくれますか』と。筆跡のていねいな丸みだったり、字の大きさがいちいち揃っていたりするから、これは男ではないと考えるのは当然だった。
「えっ、おま、これ告白じゃね」と、周りに勘づかれたら不味いので、小声でケーゴが言った。
「いや、多分違う。教室はないだろ。もっと人気のないとこでやるよ」
まあ、大勢の前でやることで発言に責任を持たせようなんて意図もあるかもな、と付け足す。恐らくはメモの一ページであろうその紙片を四つ折りにして学ランの内ポケットに入れた。
「いや、おっちゃん、冷めてね?告白かもよもうちょい上がれよ。身も心もおっちゃんになっちまったかー」
「うるせえ、期待するだけ無駄だよ」
「昔は、イイ奴だったのに」
「ーー圭吾」
「え?」
「バイブス悪いよ」
「ーーああ、いや、マジごめん」
すぐさま、ケーゴはバツの悪い顔をして、鼻の頭を掻いた。
それをみて初めて、ツン、ときた。ワサビみたいな痛みだけど、胸に。掠れてるくらい小さかったはずなのに、聞き返せば、固執しているってことがバレるのに、口が滑ったというより、ほとんど自分の意思で、俺はそう言ったのだ。
「いや、なんも……いや、ごめんな。五秒前から、始めよ。嫌?」
「いいよ」
はーっ、おっちゃんってシケたとこあるよな、てか学年末やべえ、とか言いながらあいつは階段を降って行った。
※ ※ ※
その日の帰り道の電車のことだ。朝の電車と違って、夜のは、本格的にぶっ飛んだ奴がいる。
ぱんぱんの満員電車の中で、彼の座るところだけ、両隣が空いている。それを見て、しまった、と思う。たまにむてきなやつがここにはいる。皆決まって画面を見つめているのに、優先席に座った青年が貼られたシールに頬を押し当てて、何かぶつぶつ呟いている。彼に一定の距離を取りながらも囲んでいる周りの人々の様子はさながらドーナツのようだ。そしてスマホと指の間からチロチロ様子を伺っている。いつスマホの赤いマルボタンを押そうか、と。獲物を狙う蛇のように、ピンクの舌をチロチロ、と。
青年は窓からずり落ちながら顔を離す。窓にはてらてらと油ぎった跡が残る。肩に背負ったリュックから、萎びた柿の種の袋を取り出して、じゃらじゃら、出てきたのが五粒くらいのピーナッツを口にほい、と景気よく。そのまま、下げていた水筒をくっと傾けて、飲み干した。
そして、長い髪を振り乱して頭を抱えているのだ。胸が詰まった。
生きるために働いてんのに、みんな働くために生きるのは苦しいことだ。ブッダはそう悟っちまえば、そうすれば間違いなくこの世界はキリストじゃなくて仏教に染まってるというのに。いつの日かしおりが、通勤途中の社畜を肴に飲む酒は旨いだろうな、といっていた。俺は笑えた。唯一あいつの言っていることで笑った。ブッダもそう言ってくれればいいのに。そうすれば間違いなくこの世界は笑いと笑顔で満ちているのに。
色褪せた背広の群れが、巣箱に戻るための鉄の箱に揺られながら、そのほとんどが画面に釘付けになっている。画面を見て癒されているかどうかはそのシケた面を見たら分かる。僕もきっと同じ顔をしている。タイパとマジョリティで飽和した消費の波が何度も何度も小刻みに、打ち返す波に晒される砂の城のように、この街を浚って、少しずつ人から表情を奪っていった。
二日市の高架橋がどうとかで西鉄は徐行するため、減速するときはいつも、僕はつり革に縋る。なんでもないはずの重力が、このときに限って、胃に来る。うにゅうと、尺取り虫のように食道がしなって、吐きそうになる。たまらないから、この時だけiPadを閉じる。小説を書かぬ、そんな時間がいつしか待ち侘びるものになった。
すると、あの成年が顔を上げて、脂ぎったワカメのような髪と髪の間から、僕をみていた。
その時だった。
「なにわろてんねん、死ね」
虫の羽音かと思ったが、違った。彼の呪詛だった。
もちろん視線はすぐに外した。こういうのを大人の対応というやつかもしれない。かぶれていると言われればそこまでだが、ただ、子供と大人なんて名称だけ、背丈しか変わらない。大事なのは木のように水のように、ただそこに在るだけかのように、穏やかに受け流せるか。だろう?
そんな哲学者擬きな悟りを開くといつも、俺はやはり小説家になるべく生まれたのではないか、というような心持ちに駆られる。十分やったから、読んで欲しい。ゆっくり、心から、自分を見て欲しい、チラ見じゃ足りない、全く。そんなふうにチラ見、閉じて、面白い、の一言なんてやめてくれ。二、三分のYouTubeじゃないんだから。面白いなんて言わないでくれ。
みてくれ。それだけでいいんだ。
ケーゴが暇つぶしに書いた小説にも、数字では一度も上回れずにいる。サイトのランキングを覗く。今日も俺は誰かの暇つぶしに負ける=死ぬ。
つり革の尾っぽはピンと張って僕に従う。電車が揺れる。吊り革を握り直そうとしても、使い込まれた吊り革の脂が糊みたいにしてにっとりと、手から離れない。窓から臨む景色は減速と加速を繰り返している。僕からしたら電車は止まっていて、景色の方が置いていく側で、電線に巻き付くカラスの蔓の、ただ一匹に、何故か目を奪われた途端に、景色は加速し俺を置いてゆく。それがただ寂しい。執筆はとどのつまり一人で、孤独で。ふつふつと揚げ汚した油のように醜く煮えたぎっているというのに、それを共有する相手がどこにもいない。
成年が席を立った。いつの間にか電車は久留米駅についていた。容赦のない西日に目を細めていると、あの成年が通り過ぎていってしまった。彼の腹は、なにか孕んでいるかのように出っ張って丸い。
後ろでぱち、と音がなった。録画が終了した音だった。
※ ※ ※
家路に着いた時には、外は五時半なのに田んぼと堀の区別がつかないくらい真っ暗だった。そういえば今日、冬至の日ではなかったか、そう思うと、急に寒くなってきたので、すぐさま家に入った。
「ただいま」
かなり声を張ったつもりだったが、返してくれるのは、きいんと震えた金魚鉢のみで、仕方ないから、最近ぎこちなくなったノブを力をこめて回して、洋間に入ってようやく、
「おかえり」
ぱたぱたと祖母が歩いてきた。
「ごめんねえご飯作っててきこえんやったたい」
「うん」
「きょうのご飯はひろちゃんの好きなお肉でえす」
「うん」
「お弁当出さんね、洗うけん」
「うん」
都会に通うようになってから訛りが顕著になった祖母に、トイレに行く、と伝えて学ランを脱いでシャツを脱いでズボンを脱いでパジャマに着替えてから、弁当を出して床を軋ませ、トイレへ向かう。
その中途で、ああ、先のような畳み掛けるが如き単語と動詞は、単調で冷えたものを表すのに良いな、と思ってiPadを取りに帰って、ボットンに用を足しながら、メモに書き連ねる。
「また残して。お浸しくらい食べなさい」
「うん」
「あーちゃんねえ、お母さんの態度は好かんばい」またその話。最近はもう、脈絡なくそれが飛んでくる。
「なんでん数字数字、浅ましか。ひろちゃん似ちゃいかん」
「うん」
「いきてればよか。生きてこその物種やけんがら」
「うん」
別に生きたくは無い。まあでも、これといって死にたくもない。水だって流れたくて流れてるわけじゃない、生きているだけで理由を求められるなんて哀れなことなんて考えたくもない。だから最近は小説のことばかり考えている。ぼそぼそと飯を掻っこんでから風呂をさっとくぐるそんな刹那は、小説で始まって、小説で締める、そんな俺のペースメーカー。そんな俺の心筋洞結節。
また同じ。ストーブを点ける。牛乳を注ぐ。飲む。すると身体が冷える。ああ、牛乳、レンジで温め忘れてしまった。そんな小さな後悔の積み重ねで、多分、こうやって俺は死ぬ。これは十五年をかけた、もったいぶった自殺だ。
生きる、とは、壮大な自殺をすることだ。
そんなの嫌だー、ってテレビを点ける、それすら惰性。久しぶりに画面に命が灯る。地方のニュースをやっている。クラブユースがどうとかいっている。城南FCとかどうとか……城南FC?改めて画面を見つめる。
「城北FCが、初の準優勝を飾りました」というナレーションとともにチームが映し出される。しわくちゃのユニフォームに、顔まで泥をつけた彼らが、身を寄せ合って飛びはねている。皆、人差し指を天に掲げて。どうやら、彼らは喜んでいるらしい。すると場面は切り替わる。真ん中の一人にフォーカスする。彼は泣いている。ユニフォームの襟で顔を拭っている。覗く、割れた腹筋。小説書いてもああはならない。クソッたれ。ケーゴだった。みんなが喜ぶ中彼は泣いていた。恥も外聞も捨てて、いっそ気持ちいいくらい泣いていた。
そう。強く、強く泣いていた。
「もっと、ボール取りいって粘り強く行くべきだった」なんて、言ってる。他の奴らは「準優勝できて良かった」とか、「最高」とか、言っているというのに。こいつだけが、先を見ている。
すげえなあ。そう思うたび、胸の穴が広がっていく。ずくずく、痛みが増していく。
俺もあんなふうに泣けるかな、とふとそう思う。
泣けるわけないだろう、俺は大人だから。そう思う。
そうだろうか?と、同時に思う。
泣けない大人はただ、何もないだけだ。婆さんや母のように死ぬために生きるだけだ。昔話と自慢話しか、そのうち話さなくなるのだ。
俺は違う。じゃあ、かといって、もし小説が実らなくて、恥も外聞も捨てて泣けるだけのものを投げうってきたのか、俺は。その不安を毎日の努力で誤魔化している。結果を努力で誤魔化す。努力、努力、努力。
胸の穴が、広がる。俺はこれだけ努力しているのだから、未来のために生きているのだから。振り向かない未来が悪い。そんな自分に正直言って、安心する。そんな俺が、僕は好きだ。
ほかの全部が、嫌いだ。
SNSを始めることにした。人を使って小説を広める為だ。アカウントは学校のiPadで済ませてしまうかもしれない。親のは何かと許可が必要だった。利用規約を斜め読みして、実際よりいくらか背伸びしたプロフィールを書いた。
それで、目についた小説家の卵を手当たり次第にフォローしているうちに、自慰の後のような虚しさを感じ始めて、昨日の血の滲んだマットレスと、毛布の間に体を挟み込んだ。
頭ががんがんする。あとはどうすればいい。あとは?あとは?あとは?
まるで不安を紛らわせているようだ。そういうふうに、予防線ばかり張るのは、自分の小説に自信が無いからではないのか、いや、ああ、言ってしまおう。
小説を書きたくなかった。俺は、泣けない。何にも、なれない。
ただ、そう思いたくなかっただけだった。
※ ※ ※
「なんか、ゆうちゃんが大塚とメルアド交換したいんだって」
翌朝の事である。こめかみの髪の毛を指でくるくると巻きながら、フジは言った。いつの間に電車は久留米をまたがったようで、彼女が喋ったと同じくして筑後川を跨ぐ橋に電車が掛かって、ごおんごおんと唸った。
「え?なんて?」
あらかた内容は感づいていたけど、牽制のために聞き直したのは、フジという女のことが正直気に入っていなかったからだった。中一の時から、彼女のいつだって何かに寄りかかるような足捌きは目につく。喋る時も笑う時も説教される時だって何かに寄りかかって、その茶髪を弄っている。空気を読むのが得意というか、空気そのものみたいな。
さて、その何組かの白沢優という女子が、僕と喋りたがっているらしい。顔も知らない。名前も知らないその女の子が。
「ほら、オーツカって中一のときにあの子からかったでしょ、なんかそれの白黒つけたいんだって」
はあ、と訝しげに語尾を下げる。
「……だから、メルアド教えてって」
どんな理由だよ。と静かに呆れて顔を上げたとき、ようやっと登り切った朝日の鮮烈な陽光が、電車が揺れるたびに左の窓にさし込まれて、僕が目を細くしたことを、彼女は意味深に受け取ったようだった。彼女はバツが悪くなったか肩をすくめて、目を逸らすついでにポッケから端末を取り出した。
「なあ」
「え?」
いや……と、僕は言葉を濁した。放課後2の1の件はどうなったんだ結局。期待しただけ損だったのか結局、誰も来やしないのかそれともこれがその代わりなのか期待するだけガキなのだ。そう思っても、それは少し悲しかった。
まあでも、いちいち口実を作らないとメールも出来ない白沢という女子は、藤に比べては、まだ可愛げがある方だ。
「……」
「お前、いおりとはどうだよ」
ん?普通、と彼女は言う。普通、とは使い勝手の良い言葉である。藤の普通なんか、だあれも知りはしないんだから、話題づくりとはいえまずかったかもしれん。
「ふん、良かったな」
「え?なんで?」
「いや、普通、って結局一番良いよなって」
ジジイかよ、といって、場を取りなすように彼女は笑った。二人しかいないっていうのに、もうそういう性だろうか。だから、アレが彼氏とは何という皮肉だろうか。あの二人の間の空気はきっと何よりも綺麗で、寄せ付けない毒なんだ。たぶん、きっと。
「で、そんなこといいから、アドレス教えて」
「いや、俺コドモケータイ」
「……マジ?大塚スマホない?」
「大マジ。母さんが買ってくれねえ」
「人権なさすぎ」
驚いたような呆れたような声を出す彼女は恐らく、そろそろ頬に当たる逆光が眩しくなったのだろう、一度そちらを向いて目を細めてから、電車の優先席の向かいにある、車椅子などを置くのに勝手が良さそうな場所に移動した。一連の動作が終わるまで、彼女はその声色と打って変わって、一貫して感情といえるものが読めなかった。無表情にしては、あまりにこちらの情を誘うのに。
でも、それもマスクで分からない。マスクを皆が着用するようになってから、今が色褪せるのがずいぶん早くなってしまっている。
「じゃ、いいよあれで。iPad」
「アウトだろ、学校のだから」
「メルアドは?」
「え?」
「あの、あるでしょ、Twitterでさ、作れるよ。教えてあげる」
僕が試行錯誤を重ねてなんとか抜け道を見つけ、やっとの思いでメールアドレスを作ったのが一週間前であるのに、彼女はまるで落ち着いている。圧倒的にプロだという事だ。タブには、SNSのログイン画面が表示されていた。
「……なにオーツカ作ってんじゃんもう。それメール機能あるからできるよ」
お、ガチか、ご丁寧にありがとうございます、と、僕はメルアドとパスワードを打つ。多彩な機能を内包するSNSは便利である。そのことに気づかせてくれたフジもまた便利で使える……そんなこと、いおりだったら言うんだろうな。いおりは人生楽しいのだろう。なんて考えていると、驚くべきことに、正しい文言を入れたはずのログイン画面は、『パスワードが違います』と赤文字で表示されていた。再度ログインしてみると、
「あっれ?入れね」
何故に?と横目で聞いてくる彼女は、スマホをいじって、どうやら仲間との会話をしているらしかった。そう、仲間。友達でも他人でもなく、仲間。その響きがピッタリくる。
「や、なんかパスワード違うらしい」
え?もっかいしてみ、と言われた通りにするも、どうしても入れないのである。
「いいよ、じゃあ、ほかのでもメールできるから」
白沢って?と、電車の降り際に聞いた。彼女は答えた。良い子だよ、と。
パスワードが抜かれていたのに気づいたのは、あれから二日後であった。もう二度と誕生日にするのはやめよう、と思った。
※ ※ ※
部室が使えるようになった日、ふと電車の手垢まみれの窓に、貼られたホテルの広告が目に入った。太陽が窓越しに翳した手の人差し指と中指にかかったくらいだった。これから天気は崩れるらしい、太陽には乳輪みたいに、虹色の輪っかがかかっていた。窓の隙間からの風は容赦なく寒いのに、コロナのせいで閉めることができなくて、僕以外は誰も寄り付いていない。
「突然だけど、君のこと、けっこういいと思ってて」
そんなことを優は意外と早めに、はじめのおぼつかない挨拶からあんまり間髪いれずに伝えた。
「どういう意味?」
「けっこう面白いってこと。私が君の性癖バラしたんだよ」
「どうして」
「君に、また面白くなってほしいじゃん。私は君のファンだったよ。人前で堂々とものを言えて、ちゃんと笑われるじゃん。面白いよね。尊敬してる。だからさ、もう一回、もう一回だけコンテンツになってみない?」
なんだよ、それ。
なんだよ、それ。と思った。期待しただけ損だった。嘲笑。俺は、あんたのこと知らねえよ。ケーゴはおろか、飯田も主税も、
「白沢優?そいつ誰?」
「知らね、どこのAV女優?」
こんな調子であった。
「いいよ。関わらないでくれよ。人から笑われるのは、疲れた。そんなこと知らない」
最近、小説を書けない。書けないのだ。袖丈はどんどん短くなるのに、ケーゴはサッカーがぐんぐん上手くなるのに。窓から映る日々は僕を置いていく、一瞬で。
「そんな暇ない。今は小説書いてんだよ。文豪って呼ばれてんだよ」
「知ってるよ。でも本質は全然変わってないんでしょ?君さ、君だから文豪じゃないんだ。君、文豪がないと、君じゃないんだろ?」
僕は小説のために生きている。いや違う生かされている。『小説家』であるから俺は生きている。文豪と呼ばれるから俺は生きていける、いや、死なずに、すむ。そう僕から言われるたびに、俺の胸には穴が開く。でもそれで生きていける。それは法律より憲法よりあきらかな成文律でそう在るのに、小説はきっと自分のためには生きてはくれない、見てもくれない、ただ死んでいる。酸素はただそこに在るだけだが、自分たちが酸素に生かされているように、山に、海に、神に生かされているように、俺たちは死体をただ崇めている。ベッドに横になって、過ぎ去った幸せを大事に抱きしめることさえ、もはや味気なくなって、もっと心の深くにある傷を抱いて、自分がまだ在ることを確かめている。俺が不幸せで僕はほんとうに幸せだ。
「笑って欲しいが、読んで欲しいになっただけじゃないか。嫌になったって言うくせに、見て欲しいっていう根底は変わってない。面白いね」
最高におもろい。だから笑う。馬鹿みてえだよなあって、笑う。地獄は笑いで満ち溢れている。だったら天国より少しはマシなのかもしれない。
※ ※ ※
金曜は中学入試準備のために午前中で授業が終わった。僕が部室でパイプ椅子を引っ掛けて、ボソボソ冷飯をかきこんでいると、そこにケーゴもやってきて、ストローのついたアクエリアスと大きなタッパーを取り出した。彼も弁当を食うらしい。飯はゴムの味がする。それはあちこちに散乱したスパイクの裏にくっ着いた人工芝の匂いである。
「これでご飯三杯はいけてしまうわー」
「草」ケーゴと俺のスパイクだけが、靴箱にきちっとしまわれていて、むしろ浮いて醜い。ケーゴのスパイクの紐は左右で色が違う。ボールだってボロボロだ。不器用なくせに、彼の右手から絆創膏が取れたことはない。きっと同情してもらえるのに、彼はそのことについて自分から話したことはない。なんて正しいんだろう。ケーゴの声も姿も能力も性格も過去でさえも。テレビ映えする。いつでも画面の向こうの人間。
……で、俺は?
俺は、恵まれているから。全く、ウツクしいことだと思う。本当に、お前は。
ああ、駄目だ。俺が、間違っているところ全部、容赦なく、正しい。別に嫌味になるほど正しいわけじゃない。ケーゴは世の中の模範解答ではない。でもケーゴは俺の、唯一解のマルなのだ。
ああ美しい。こいつを美しいとそう思って、ふつふつ吹きこぼれる自分が、どうしようもなく醜い。俺は、不正解である。
しばらくして、ケーゴは、割り箸を器用に片手で割って、五目飯を口に運びながら、出しぬけに、
「あ、優さんとはどうなんすか、オーツカさん」
なんて言ってきた。口の中の枝豆が飛び出しそうになるのを、慌てて手で押さえて、
「何でお前知ってんだよ」
「いやー、ね?」と下手な唇を吹いたその姿すらもデフォルメされていて、チープで、とても様になっている。
「まあ、別に」
別にとは……なんだそれは、と自分でも笑って終いそうになるのを、顔を背けて誤魔化した。部室に放り投げられた角の丸いサッカーのバイブルが目に入った。きっとケーゴのものだった、あいつらが読むわけない。
「いや、誰にもいわんけんな、教えん?」また似非博多弁。
「な『に』を」に、の部分に強いアクセントを入れて拒否感を示す僕に、やはり引き下がるケーゴではなかった。
「なに喋るん?教えてや」そういってなれなれしく肩に手を回す。……馴れ馴れしく?もともと馴れた関係ではなかったか。俺は初めてこいつに対して、距離を感じたらしい。
「プライベートだろ。ガキだねえ、お前は」
は、あ?と語尾を上げたケーゴは、本気で不服そうに思っているようだった。
「お前な、ガキが大人がってないつも言うわな」
「まあ」
「なにが違うって話だよ。お前、なにが違うの?俺、どうでも良いと思うっちゃけど」
「まあ、それはあの、子供と大人がどう違うかっていう価値観の相違にも拠るが」
ケーゴは、まだ俺よりガキだから。ホコリを被ったはずの自尊心は、まだ胎の中でずむずむと自己主張を続けていた。
「大人かどうかなんて、ヤったかヤらなかったかの違いじゃね」
「や、オーツカ真面目な話な。下ネタは違うて」
「真面目な話だよ」
「嘘ぉ、ギャグにしてもイタいわ」そう言ってケーゴは笑ってくれた。師走の乾いた室内に、シーブリーズの香りがすると、いつも思い出す。ああ、最近、こいつアンダー十五が選抜がとか、ケーゴ、言われてたなあ、と。その時、いっつも、腹の底になにかがたぎる。それが俺の胸に穴を開ける。みずみずしく、生臭くなるまでほっておいたそれに、泣きそうになる。
「あれっぽいよな、お前って斜に構えてるバイブス、藤のこと囲ってる奴らに似てる」
「やだよ。あいつらの笑いはリスカみたいで。それより俺と弁当なんか食ってないでお前早く飯田とかいおりのとこ行けよ。食堂に」
「やだよ。あそこ人を傷つけないと息ができないだろ、あそこんバイブス暴力すぎん?」
「そんなもんだろ。そうやって人は大人になるのヨ」と俺は戯ける。しかし、ケーゴは顔を俯かせる。
「俺、お前とがいいわ。お前、面白いし」ざり、とささくれた自尊心が、十二指腸を撫でる。
「でも、お前、いおりとバイブス似てきてるけどな」たぎる思いに任せて、言ってしまった。しまったとおもったが、よかったとも思った。
「……俺がぁ?笑えんわ」
「ははは」
と笑った。多分これは、もういいだろ、って意味の笑いだった。鼻毛が見えていたかもしれない。いつもは気にしないことだが、さりげなく右手の甲で鼻を隠した。
「なあ、それ、がち?おれ、あいつらみたいんには、なりたくないんやけど」
「なんで?」
「なにいってん、おまえ、当たり前やん。おれいややわ」
「しゃーないって。今の時代のメタやん、あれが」
「嫌いやって俺、あのバイブス」
「マジ?」
「マジ。いや、これは本当にガチ」
文字に起こしたら、きっと笑えるんだろうな、ケータイ小説みてーなやりとりをしている。二行以上は話さない、自分が透けてしまうといけない。ケーゴと視線を絡めた。視線が破線となって目にみえるほど、強く、強く。
「お前はあっち側がいいって。高校なってもさ、お前そんな宙ぶらりんでいるわけ?第一、俺と話して楽しいか?俺だよ、俺だぞ?間を埋めようともしないし、笑えない、絶望的だろ」
「だからいんだよ、自然体で」
「自然体?人は自然体なんざなれねーよ。人は人から生まれてんだから男と女が汚ねえブツをまさぐって出来てんだから人工物だろ」
「セックスはもっと神聖なもんだろ」
「うるせえな、んなこと話してるんじゃないよ、結局、おめでただろ」
「な・にぃが」
「お前はあっち側だよ」
「勝手にひねくれてんじゃねーよ、どっちでもいいじゃんかよ。てか、いいよ俺は。嫌いなんだよ。あんな志のない奴ら嫌いだ。死んだしらすみたいな目をしやがって、反吐が出るわ」
そのときちょうど、ガタガタの引き戸をガシャガシャ鳴らして、主税たちがやって来て、あいつらは勢いよく、というより雑にバッグを放り投げた。もしかして、聞こえていやしなかったか、と思ったが、ケーゴはまるで無関心だった。
二人に沈黙が降りた。またシーブリーズが侵食し始めて、焦る僕とは別に、ケーゴはなにも話さない。あいつらとは違って、空白を無理やり言葉で埋めるようなやつではなかった。昔から、無理に言葉を探さないのだ。探さないでいいのだ、ケーゴだから。おれは必死こいて陽キャ弁を操って、共感を押し付けるように話して……。
「なあ」
「ん?」
「じゃあ、俺は志があるのか」
なんて、滑稽だ。結局、定義してもらいたいのだ、自分の答えを。便所を拭いた雑巾より俺はクソだ。それを絞って滲み出てくる真っ黒な汁、それが俺の言葉だ。自己愛と顕示欲と自己防衛に塗れているのだ。
「なに言いよるん、お前、文豪やん」
だから息が詰まった。花粉症で詰まった鼻から、つぶれたリコーダーみたいな音がした。どうして。凄すぎる。なんて容赦がないんだ。一点の曇りのない目で、それが言える。眩しすぎる。ああ、ダメだ、本当、頼む、死ねよ。
「僻みかよ、お前さあ」
ああ、まずいとどこか冷えた頭で分かっていた。これ以上はライン越えだと思うし、そのテープを僕は平気でぶっちぎってしまえる、という予感があった。口を閉じるのが正解なのに、幽体離脱みたいに、俺は、僕を見ていた。
「俺はお前にもPV勝てねえんだぞ、知ってんだろそんな簡単に言ってんじゃねえよ」
「そんなのお前、関係ねえだろ」
「ねえ訳ねえだろっ」
「馬鹿。見る人数じゃなくてお前、質だろ、面白いと思うものを書きゃついてくるじゃねえかよ。たったの百とかの違いとか、ドングリだろ、努力だろ」
喉元までせりあがった言葉を抑える。お前だからな。お前の理論はいつだって、ゴールが一つの阿弥陀籤。努力。努力。努力!!お前だからそれは言えるよな。なんて正しいんだお前は。すごい。どうして、なんでただしいんだそうあれるんだお前は、ふざけんなそうやって笑うなよ。惨めな奴を笑うなよ。
「努力したらなれんのかよサッカー選手に」
「なれる」
なんで言い切れんだよ。センスだろ?嘘つくんじゃねえよ。笑わせんなよ。同情で一等賞が取れるかよ。劣等賞だろう。そう思った時、
ぶっ、という声がした。声というか、笑いだった。主税が笑っていた。
「おいおい、なに笑ってんだよー」とケーゴが笑いながら言った。俺は笑えなかった。立ち上がって、主税に詰め寄っている。
面食らった主税の「は」とも取れないような湿った吐息が俺の顔にかかった。なんかイカ臭かった。
「なに、お前がキレてんだよ」
「何で笑ってんだよ」
正直、自分もどうしてキレているのか、その理由を探していた。単純に、友達が笑われたから怒っているのか、ケーゴが笑われてしまえば、僻んでいる自分はもっと惨めになってしまう、という承認欲求モンスターな理屈だったのかもしれない、ただ俺の代わりに笑ったこいつが、今はただ腹立たしかった。俺の腹の底が透けるなら、きっと今はグロテスクなまでに、黒。
「なに、こいつ怖、ヒスかよ。白沢かよ」こいつも白沢のことを知っていた。なんなんだよ。「オーツカくん、ダメやない?暴力は良くなくない?」そうやって、彼らはずっと口元にしょうもない笑みをたたえている。こいつ、この顔をするためだけにこの世に生まれてきたんだなって思うくらいそれがうまい。
「臭えんだよ。黙れよ、口臭え」また笑い声が上がった。
「もともとイラついてたんだよ、いっつもなんか僻んでる目をしやがってよ。浅ましいんだよ。醜いんだよ」
「それお前が言えることじゃないな?」
主税の、カッターでちょいと入れた切れ目みたいな目の中の、黒目がちの瞳に、俺が映っていた。
「黙れよ」
腕を振り上げた。腕を掴まれた。ケーゴだった。
*
「ふうん、結局どうして殴りかかったのか、結局分かってないけど」
今日、僕はケーゴに殴りかかったのが問題になって休学になっていた。というか、殴りかかったのは事実だが、殴ったのは俺じゃない。俺は寸前で止めた。止めに入った主税が執拗に俺をタコ殴りにしたから、学校側からしたら、その件の方が大きかった。どうやら学校では評判のよくなかった主税らが悪いと思われていて、俺は哀れな被害者と思われているらしかった。
一夜経っても主張を続ける痛み。額に大きなバツ証の傷跡。ハリーポッターとは似てるようで全然違う。あっちは奇跡でこっちは必然。あっちは丸で、こっちは罰。自分の罪の轍のように思えた。あの時のことは昨日のことの様に(実際昨日のことだが)鮮明に思い出せる、きっとそんな予感があるが、声だけ、音だけは戦前のラジオのように音が割れて何を言っているのか一向に聞き取れない。
「ごめん」
「私にいうべきじゃないよ」
「そうだな、情けないな、俺」
「そんなこと言うなんて、確かに情けないねー」
その通りだった。ついさっきまで僕は、原稿用紙を破っていた。殴られた夜から、ずっと。
紙に残した小説を全部びりびりに、破いてしまったのだ。そうしないと眠れなかった。
多分防衛機制のなにがしかが働いているのだろうが、……いや、なんてガキなんだ。だからなにをやってもうまくいかない。禍福は糾える縄の如しとかいうが、自分によりあわせることができるような太い芯なんてなかった。だからだった。
「ちょっと外出る」とだけ書いて俺は戸を開けた。
外は朝日に照らされ舞うホコリみたいに雨が吹き散らかしていた。すっかり枝ばかりになってしまった庭のフジは、その下の石畳に、誰かに置いてかれた影みたいな滲みがあった。これは五月だったか、花の蜜に寄ってきたアブだったか。それが死んだのが、染みになったのか。それとも、去年のイチゴにくっついていたナメクジをじっちゃんがすり潰した時のだろうか、どちらにせよ、それはアブのそれよりずいぶん大きく、温度がなかった。暖かいでも冷たいでもなく、無温だった。
俺は白いぼこぼこした壁によりかかった。手を沿わせると、手のひらが白くなった。横にはプロパンガスボンベがうんうん唸っていて、寂しさの湿った匂いがする。あれと似ている、夜中一人でトイレに闇を伝って降りていくときに、どこかでヴーンとうなっているのはきっと冷蔵庫なのだろうけど、それに似ている。すべてが、似ている。そう思ったとき、
死にたい、と思った。口にしてみた。
死にたーい。
気づけて、良かった。
「ねー、期末、わたしがかったら、どっか遊びに行かない?私春日原で君大善寺でしょ?じゃ、久留米あたりでさ」なんて優は話を変えてきた。
「いいけど、いいの?」
「何で?」
「いや、何でも」
俺でいいの?なんて空しいこと、どうして言おうとしたのだろう。でも、自分を謙遜するのと同じだ。自分を貶めるだけ、いい関係が作れるのは三角形の面積を求める公式より明快で正解で有名なことだ。
「いいよ。君のことを、良いって、言ったじゃん」
一度、白沢優らしき人間を見たような気がする。放課後、日が落ちるのと競うようにかけだして学校を飛び出る生徒と、花より団子みたいに固まって話すオトモダチと、その花の中心の、めしべみたいな子が白沢優なのだ。他の子はみんな、ミツバチやらクマバチやらアブやらを引き寄せるための花弁に過ぎない。
見てもないのに寂しさに息が詰まった。いやきっと、その目で見るより辛いことだ。花粉症で詰まった鼻から、つぶれたリコーダーみたいな音がした。ぬるい寂しさが鳴る。そして、熱く煮えたぎるのはただ、ケーゴを見る時と、何ら変わらないのだ。どこか、潮の香りがした。
「なに、いいって。マジな話?それともからかってるだけ?」
「うん、すきだよ」
「まじ?」
「うん、みんなのことが好きなの」
意外にも拍子抜けした。心に留め置かなければいけないことなのに、抜けた。俺を好きって、そういう意味だったのか、というガキな落胆だった。
「私はみんなのことが好きだから、みんなに好かれたいってこと。だから誰かに好かれるために誰かを嫌う。矛盾でしょ?でもそれでいいの。私はコンテンツだもん。『人間』じゃないのよ。私は人じゃないの。私で楽しむだけ楽しんで、あとは、ポイでもいいよ。すぐに違うコンテンツを消費して。私も、それで満足だもの。ねえ、打算的でしょ?」
「どうだろ、なんか複雑で分からん」
「いいじゃん。もっとシンプルに考えてさ、好きと愛とか、まるで足りていないって、そんな顔してみんな言うけど、まるで自分が世界一不幸ですって顔して言うけど、畢竟、努力してない、そんなスタンス。チャタルイ事件はならったけど、セックス?ジュウハッキンボン?ハッ。わっかんなーい、ていうこのスタンス。わかるでしょ?みんな、自分を愛するのに必死」
「笑える」
「みんな神格化してんじゃん、愛とか笑いとか。君もそうでしょ?」答えられなかった。白沢も、答えをもとめているわけではなかった。
「神格化された愛とか笑い、はやがて正義に、神になって、悪魔になるんだよ。だから私は君になりたかった。君は辞めちゃったけど、私はコンテンツでよかったの。何でだと思う?ねえ、聞いて」
「なんで?」
「証明できるじゃん。愛とか笑いとか、しょーもな、って。こんな血も涙もない消費社会で何かまだ崇めている。ギブアンドテイクじゃん、畢竟世の中全部、って。獣になりなよ、認めなよって。こんな世の中に中指立てたいの。ああ、全部言っちゃおう。私は、『私のこと好きな人』が大好きなの。クズみたいでしょ?でもみんな、どっかでそうでしょ?だからこれは罪滅ぼし。愛した分だけ愛されるの。みんなそうだよ。金も払ってないのにラーメンは食べれないよ」
「確かに」
「だから私は「コンテンツ」になる。例えば、ほら、ココの初代校長が、自分の爺さんと同姓同名なのって言って、わー、すごーい、ってなるのが分からない。でも笑うの。まあ、もう爺さん死んでるんだけどね、って言って、おー、ってなるのはもっと分からない。でも笑うの、私は」
「分かる、わけわからん、あれで笑えるの」
「正直、バイブス?なんてみーんな分かってないよ。必死なだけだよ。必死に生きてるんじゃなくって、必死に死んでるんだ。それぞれがそれぞれの役割に徹しているんだ、自分であるために。他人から、必要とされるために。人は一人じゃ息も出来ない。一人じゃ生まれてすらいない。固まってやっと生まれるんだ。その意味で言えば、流行りのバイブスってのは、一つの生き物なんだよ、アメーバなんだよみんな細胞でしかないんだ」
「会社でいう、歯車とCPUみたいなって、こと?」
「ちょっと違う。もっとグロテスク、生に対して、グロテスクなまでに愚直なんだ。ルールなんか知らない。ハダカデバネズミはなんであんな格好してると思う?生きるのに一番適しているから、あんな格好なんだ。醜いんだよ。十中八九醜いんだ。心臓や肺を直に見る時、目を細めるでしょう?でも、なんていうのかな、それらがどくどくみゃくみゃく動いているのを、いつの日かきれいだって、そう思うことがあるんだよ」
長文なんて、いままで送ってこなかった。行間も文字数も言葉遣いも漢字遣いも間の取り方も全部全部全部あの子を表していた。画面越しに、いや、そんな枕詞はほぼ必要ないくらいに、触れ合っている気がした。肌と肌を重ね合わせている。汗ばんでいる。匂いもわかる。彼女は緊張している。これ以上ないくらい。そして、それ以上に、興奮している。生きている生き生きしている。
「だからいるんだ。居らずにはいられないんだ。心臓であれと言われたら、そう願われたら私は心臓でありたいから、血を吐いて飲むだけの役割でいいから、そう。それくらい、みんなが、好きだ」
正直、言っていることが半分もわからなかったけど、わからないことを悟られたくなかった。優が、自分から生まれた言葉で、自分を語っていることに、なにを返しても誰かから借りた言葉では、はだかんぼうのまんまの言葉のままでは、割れてしまったガラスのように、ただ空虚だと思った。見当違いだった。生まれて育って拗れて擦れて、やがて青年になるまでのアルゴリズムの外れ値にいるもの同士、笑われる側に回ってしまったもの同士、温い毒に浸っていれば良いと思っていた。でも違った。彼女自身も一つの突き詰めた正解なのだ。いや、アルゴリズムに沿えば不正解なのはたしかなのだけれど、大不正解なりに、美しいと思ってしまった。
で、俺は?
空白を笑いで埋めようとして、口を開けて、ぽち、と雨が舌に落ちた。笑えなかった。
「手に足に心臓、胃腸に肝臓、みんな役割がわり振られて、そう、腎臓みたいな子もいる」
「腎臓?」
「腎臓ってさ、片方なくても生きていけるでしょ?」
上手い例えだった。だからめしべであれるのだろう。「草」って送ってしまおうか、と思ったがやめた。
「じゃあ、俺はどの辺なんだろな」
「心臓?」
「前はね。今は、十二指腸くらいじゃない?」
「草」
その文面を見て、自分もにやけてしまった、まるで面白い話をしたみたいに。こんなこと初めてだったし、なんだかひさしぶりに笑えてもらえた気がした。
「マジでいってる?.......んだろうけどさ、いいの?」
「いや、良くない。どうしてだろ、君の前だから、言えた」
前?あの子には一体、何が見えているんだろう。何処に実相が見えているのだ。この子にとってこれは文字と液晶画面ではないのだ。僕はこの子の、無邪気な傲慢さに対して、はじめて恐怖を覚えるべきだったと思う。でも俺は覚えなかった。
「やっぱり君が、特別だからかな」
なにも、答えなかった。
「....というか、このままじゃ私ソンだからさ、何か一つ言ってよ、秘密を」
「俺の性癖はどう?」
三点リーダー四つぶんくらいの、間が開いた。
「知ってるよ」
すべて、画面上の会話である、と注釈でも入れるべきだろうか。遠くで換気扇が回りはじめる音がした。そろそろ陽が落ちる頃だった。すっかり濡れてしまった服は、潮の匂いがほんのり香って、少し温かかった。生暖かった。羊水に浸ってるみたいで、気分が良かった。
話は小説の方に逸れていった。
「自分で自分のPVとか、ポイント増やすのはダメなの?」
「規約違反だとさ、Banだよ」
「バレなければ、いいんじゃないの?」
「無理だろ」
「それじゃあ、いつまで経っても無理だよ。ケイくんだって、知らないところでファールしてたりするかもよ」
知らない間にケイくん呼びしていた優にはこう、打算的な部分があるのだろうか、確かなことは分からないが、こういうずるい女は、大人になって、線香みてえな細いタバコを咥えて、世の中に煙混じりのため息をつくのだろうか。確かに、似合っている。
「そもそもさ」「うん」「俺が本気で目指してるのか、分からなくなったんだ、小説家だよ」
「分からなくてもいいんじゃないの?」
「え?」
「分からなくていいんだよ。順番が逆だよ、成ってから、そういうことは後付けでなんとかなるの」
「そんな」
「そんな、なに?小説って狭苦しい世界だよね、タイギメーブンが必要なんて」
「いや。みんなそうだろ。俺は」
「ねえねえ、違うでしょ。報われたいんでしょ?笑われて、今まで傷ついたこと全部、このためにあったって、思いたいんでしょ?分かるよ」
「なんで」
「私が、君に憧れてたんだもん。だから全部言えるんだよ。君、辞めちゃったけど。私だって人を笑わせたことはない。笑われたことしか。かといって笑いたくはない。笑わせたいんでしょ?報われたいから、その傷を契約書に押されたハンコみたいに、大事にしているわけだ。もしかして君、この世界にルールがあると思ってるんでしょ。そう信じたいんだ。だから潔癖でいたいわけだ。この世はお天道様が見てるって、本気で思ってるわけだ」
「そうだよ。だってそうじゃないとおかしいじゃないか。これだけ頑張ったんだから、そうだよ。努力だ。全部努力だろ。そうだろ?そのはずだ。そうじゃないのか。ケーゴだってそうだ。あいつに流れている血は青いのかもだなんて、全部才能なのかもだなんてそう思いたくないんだ。そう思わせてくれよ」
「そうやって大事に胸の穴を抱えていたって、誰も埋めてくれはしないよ」
「静かにしてくれ」
「世の中には人しかいないよ。ケーゴくんはその通りだ。ファールなんてしない。残酷だけど、彼は正義と勇気と愛の化身だよ。君が誰かに必要とされるには、胸を抉って、誰かの胸の穴を埋めるしか無いんだ。それしかないんだ」
「辞めてくれ。もう許してくれ」
「許されてるよ。ほら、これ」
「なに?」
「アカウントってこれ?」
そういって彼女は見覚えのあるスクリーンショットを送ってきた。間違いなく自分のアカウントだった。
「ポイント入れてあげたよ。あとは自分で決めてよ」
その日、ちょうど終電が過ぎたくらいに僕は初めて小説のランキングに載った。僕がアカウントを複製して、ポイントを入れたからだった。
たどりついた街を飲み込んでいく夜は、青ざめた顔で沈黙している。
*
明日学校へ行くと、厄介なことになっていた。生徒とすれ違うたびに振り向かれるのは居心地が悪かった。この大袈裟な湿布を取ってしまいたいと思ったが、取ったところで、ハリーポッターの出来損ないの様な額はそれもそれで目立つのだった。
それよりも厄介なのは、ケーゴに会うことだった。きっと俺は今日あいつと会う、そんな予感がする。あいつは俺に会って、あろうことか笑いかける。そして、
「よお、昨日は悪かったな」なんて恐ろしいことを言って手を差し出してナカナオリさせてこようとする。そんなことを想像することはやって良い事じゃないのは分かっているが、
あいつと会うたび、笑いかけなきゃいけない理由を考えるのは、もう疲れた。どうしようもなく嫌だったから、あいつと目を合わせるのを俺はやめた。悪いのは俺で良い。きっといい。
朝の電車に運ばれながら、家族の三つのアカウントを持ってポイントを入れた。もちろんPVは一万近くまで加速度的に上がっていった。自作自演をするたび、ブックマークを自分でつけるたび、なぜか浮かぶのはケーゴの顔だった。
二日放っておいた豆腐みたいな面談室で担任から呼び出されてことの経緯をつらつら述べていると、肌寒くなって、暖房をつけた。ホコリが上品に舞う。小説は俺の憧れだった。でも、ついに答えてくれた小説は、五月のフジに群がるアブの様に生き生きとし初めて、生活に息づき初めて、小さくなるのを、自分はそれを死んだ様な目で見ている。興醒めだった。俺はあの時のシミだった。みんな、生きているなーって、俺、死にてえなーって、思う。
熊本の授業を適当に受け流していたら、ケーゴがどこかで見た様な付箋を渡してきた。今度は緑がかったブルーだった。
「部室に来てくれ」
とのことだった。