伝えていればきっと違った
最後までご都合主義たっぷり!
しょぼーん、という効果音でも聞こえてきそうなくらいにマリエッタの父は落ち込んでいた。
マリエッタは侯爵家のご令嬢である。
そんなマリエッタには婚約者がいた。
アントン、という伯爵家の令息だ。
身分は彼の方が低いけれど、それでも家格が釣り合っていないというわけでもない。
それどころか、マリエッタの父トラヴィスと、アントンの父エンリケは親友と言ってもいいくらいに仲が良く、結果としてマリエッタとアントンの婚約は結ばれたようなものだった。
親の仲が良いから、という理由だけで勿論結んだわけではない。一応お互いの家に旨味はあった。
だがしかし。
マリエッタの目から見て、アントンという伯爵家のお坊ちゃんは最低のくそ野郎だったのである。
婚約を結ぼうか、という話が出た時点ではまだ二人は顔を合わせてすらいなかった。
けれども貴族の婚約など親が決めるという事は割とよくある話だし、顔もまだ見ぬうちから結婚相手が決まるなんてことも日常茶飯事で。
そうしてほぼ婚約は決まったも同然である、という頃になってから今更のように二人は顔を合わせる事になったのだが。
アントンは初対面、マリエッタの事を罵ったのである。
身分が上ってだけで可愛げも何もない女だと。
幼い頃、と言える程幼かったわけでもない。だからこそその頃にはマリエッタは侯爵家の令嬢として恥ずかしくない程度に礼儀作法は身につけていたし、最初の挨拶もだからこそ問題なかったはずだ。
だがしかし、アントンはそのソツの無さが気に入らなかったらしい。
やれ可愛げがないだとか、婚約者となるのであればせめて歩み寄ろうという努力をしたらどうだとか、お前は姑かと言いたくなるくらいそれはもうありとあらゆるものに難癖をつけてくれたのである。
マリエッタは今でも思うのだ。
何故この時、ここでアントンをボコボコに叩きのめしておかなかったのか、と。
あの時の後悔を再びしないようにマリエッタはこの日以降、手にしていた扇子を通常のものではなく、鉄を仕込んだ物にかえた。重さはその分増したけれど、これがあるからまだ大丈夫、というお守りのような物にもなっていたくらいだ。
これだけ暴言と言える発言をしでかしておきながら、しかしトラヴィスは鷹揚に笑って許したのだ。
そう、許してしまったのである。
若い頃の男なんてこんなものだ、とまるで自分にもそんな日があったとばかりに。
トラヴィスは気付いていなかった。近くにいた母――ロザリアの眼差しが絶対零度になっている事に。
あ、夫婦の仲に亀裂が生じたな、とマリエッタだって理解したのに父は何故だか気付かなかった。
まぁ、人間関係って当事者よりも外側から見てる人の方が気付きやすいって言うし……とマリエッタは父が自ら気付くまで言わない事にした。
暴言を諫めるのはアントンの父の役目だとしても、そこを許すのはトラヴィスではなくマリエッタだ。だというのに勝手にアントンの事を許してしまったので、マリエッタも父の事は許していない。
初対面の時点でこんなことを言われて、それでも婚約を結ぼうというのには恐れ入った。
まぁ、顔合わせの前にほとんど話は進めてしまっていたから、ここでやっぱり無かったことに、とするのも難しいものがあったのかもしれない。大人の事情ってやつだ。
その大人の事情に巻き込まれてしまった側はたまったものではないけれど。
アントンの母は数年前に病気で亡くなってしまったために、この場には残念ながらいなかった。
いたなら、今のこのアントンの聞くに堪えない言葉の数々を果たしてどうしていただろうか。
マリエッタの父がアントンの事を怒るでもなく笑って許してしまったが故に、アントンの態度が改まる事はなかった。調子に乗らせた、とか図に乗らせた、というのであればまぁそれはそう。
とはいえ、実のところアントンはマリエッタの事を心から憎んでいるというわけではなかった。
アントンは実際一目見て、マリエッタに心を奪われたのだ。
だが、相手の方が身分は上、そして結婚するのであれば自分が婿に行かねばならない、という状況から。
ここでガツンとどちらが上かをハッキリさせないと、この先の人生尻に敷かれっぱなしになってしまう、と思ったらしいのだ。
全てが終わった後で聞かされたけど、マリエッタからすれば知りませんわよそんな事、としか言えない。
確かに貴族は体面だとか世間体とか評判だとかを気にする事はあるのだけれど。
下に見られたらその後もずっとそうやって見下される、となることもあるので、わからないでもないのだ。
だがしかし、そういったものは主に社交の場でやることであって、決して初対面の婚約者相手にするべきものではない。
もしアントンがもっと普通に挨拶をしていたのなら、マリエッタだって彼が私の婚約者……と自覚するように小さく胸の内で呟きつつも、交流を重ねて彼に恋をしたかもしれない。
だがしかし、初対面でぼろくそ言ってくる男の何を好きになれというのだ。
生憎とマリエッタの価値観で男性は舌戦が得意な方が素敵、とかそういうものはなかった。これっぽっちも。
だからこそマリエッタは結ばれてしまった婚約と言えども家に帰るなり嫌だとごねた。母も一緒になってあんなのと結婚させるとか正気なの!? とトラヴィスに詰め寄った。
大体婿入りしたらあれがこの家に入るのだ。ロザリアが反対するのはそこまでおかしな話でもない。
だがしかしトラヴィスはにこにこと、これまた鷹揚に笑っていた。
男には一時的であってもああいう時期があるのだと。
事前に姿絵を見せていたけれど、エンリケから聞く限りアントンは照れているだけだと。
そんな事言われても、あの態度からそれを信じろというのは無理がある。
仮に向こうが本当にマリエッタの事を好ましく思っていたとしても、マリエッタはアントンの事を好きになれないレベルで嫌いになってしまっていた。
結婚前から夫婦の関係が破綻するのが確定しているようなものなのに、トラヴィスはまぁいずれは落ち着くさ、なんて暢気に言っていたのだ。
この後ロザリアがトラヴィスを扇で打ったので、一先ずマリエッタは留飲を下げた。いや嘘、全然下がらなかった。いいぞお母さまもっとやっておしまいなさい! そんな野次を飛ばすところであった。
もうちょっとしたら落ち着く、なんぞと言っていたトラヴィスではあるが、マリエッタは思った。
いつになったら落ち着くというのだ、と。
一応婚約者という事もあって、何かの折に贈り物をしあったりだとかはしていた。
マリエッタとしては正直アントンのために貴重な時間を割いてまで贈り物を選ぶとかしたくもなかったのだが、アントンが一応婚約者として最低限の事はしているので、こちらがそれをやらないわけにもいかず。
というか、そういった事を言われるような落ち度を自分から作るなど言語道断であった。
社交の場に行く時のドレスが贈られてきたけれど、そもそもそれを着ていざアントンに会えば、
「似合わないな」
と贈ったの貴方でしょう!? と言いたくなる始末。似合わないやつ選んで贈ってきたのそっちですけれども!? ととても言いたくて仕方がなかった。
この時点で早々にアントンのセンスをマリエッタは信用しない事にした。
一応両親は似合っていると言ってくれたけれど、マリエッタとしては社交辞令だとしか思えなかった。
そもそも嫌いな人物から贈られた物など嬉しいわけがない。
いくらこれが欲しくて欲しくてどうしようもなかったの! と言いたくなるような物が贈られてきたとしても、贈り主がアントンというだけで何か裏でもあるのではないかと勘繰りそうになるし、そうでなくとも贈られてきたドレスだけではない。装飾品だって身に着けたとしてアントンが一度でも綺麗だよ、といった社交辞令全開であろう言葉もない。
毎回貶す。
折角贈ったのだから、せめてそれに相応しい状態であろうとは思わないのか、だとか。
この頃もまだマリエッタの持つ扇子には鉄を仕込んでいなかったので、力任せに扇子でぶっ叩こうものならきっと扇子が駄目になっていた。
一応お気に入りのやつなので、流石にそれは惜しい。
そもそもアントンのせいでお気に入りを壊すなど、冗談ではなかった。
貴族たちが通う事を義務付けられている学園に入ってからも、アントンの態度は変わることはなかった。
それどころか学友たちにいかに自分の婚約者が駄目な女であるかを語るのだ。
それはさながら演者のような大袈裟感すらあった。身振り手振りを交えて語っているその姿を見て、マリエッタは今すぐ天候が悪化して雷雨にでもなってあいつの上に雷でも落ちないかしら……なんて、思わず妄想してしまったくらいだ。もしそうなっていたなら、悲鳴に見せかけた喜びの声を上げ快哉を叫んだ事だろう。
悲しいことに空はどこまでも青かった。
おかげでマリエッタは一部の人たちから婚約者にないがしろにされている惨めな令嬢、という風に見られるようになってしまったのである。
全体的に、ではなかったのはマリエッタが惨めなのはむしろあんなのが婚約者であるという事です、と友人たちに断言した結果であるのだが。
まぁ確かにまだ結婚もしていないうちから歩み寄る機会など一切ないのだとわかるような状況だ。
完全に外れを掴まされたと言ったって過言ではない。
挙句の果てにアントンは同じく学園で知り合った可憐な少女を引き連れて、少しは彼女のようなたおやかさや可憐さを身につけたらどうか? などと煽る始末。
その隣にいる少女はアントンのどこがいいのかは知らないが照れて顔を赤らめてもじもじしつつも、マリエッタにだけわかるように一瞬だけ勝ち誇った笑みを浮かべた。
まぁ他にも色々あったのだけれど、マリエッタからすればどれもこれもムカつくものばかりである事は言うまでもない。
さて、そんなわけでサクッとマリエッタは行動に移った。
学園に入ってからアントンとの交流が始まった、とかであればまだしもそれ以前からあったのだし、もうそろそろいい頃合いだろうと思って。
コツコツと物的証拠や目撃証言を集めた甲斐があったというものである。
それはアントンに決別を突きつける――事ではなく。
「お父様には当主の座を退いていただきたく存じますの」
という、実の父親への通告であった。
思ってもみなかった発言にトラヴィスは目を白黒させて「な、何を……!?」と困惑した声を出した。
「こちら、今までのアントン伯爵令息の言動を纏めたものとなっております」
ドサ、と重たい音を出してこれまた鈍器になりそうな分厚さの書類が目の前に置かれた。
くい、と顎を動かしてほらさっさと目を通しなさい、とばかりの圧をかける。
実の娘にまさかそんな態度をとられると思わなかったトラヴィスは、一応お父さんに対してその態度は失礼だぞ、と言いかけたもののしかしその隣にいる妻、ロザリアがマリエッタ以上の冷ややかな眼差しでもって、ぐずぐずしていないで早く目を通しなさい、本当に愚図なんだから。と言いそうだったので。
立場の低さを感じ取った父はかすかに震える手で娘が用意した書類を一枚手に取ったのである。
最初のうちはトラヴィスにとっては微笑ましいものだったはずなのだ。
アントンはどうにも素直になれなくて、つい照れ隠しにマリエッタに思ってもいない事を言ってしまうけれど、しかしそれでもマリエッタの事を心から想っているのだと。
アントンの父エンリケからその様子を聞いて、それくらいの年頃の時は自分にも心当たりがあったなぁ、なんてほんわかした気持ちで受け入れていた。
初対面の時は緊張しすぎてつい、といった感じだったのだろう。トラヴィスの目から見る限りではとても微笑ましいものだったのだ。
可愛げがない、だとかの発言はせめて自分の前ではもうちょっと甘えてもらいたいという意味であったり、贈った物を身に着けているマリエッタに似合わないと言ったのは、マリエッタが悪いのではない。
むしろ、似合うと思って贈ったけれどマリエッタの方が美しすぎて物が彼女の美しさに見合わなかったという意味だった。周囲にマリエッタを貶していたのは、要するにお前らが狙うような女性じゃないから絶対横取りすんなよ!? 絶対だぞ! という牽制だったらしい。下手くそか。
そんな感じでアントンは屋敷に帰った後で嘆いたりしていたらしいのだ。
マリエッタの美しさを次こそは引き出して見せる……! と見る目を養い商人を呼びつけてはあれこれ品を選び、そうでなくとも侯爵家に婿入りするのだからと優秀であらねばならぬ、とばかりに努力を欠かさない。
そんなアントンの頑張りをエンリケ経由で聞かされて、トラヴィスはとてもほっこりしていたのだが。
アントンが実は本当に好きな女にだけは浮いたセリフの一つも言えず、家に帰って後悔と反省を繰り返している、などという事をしかしマリエッタが知るはずもない。
一応父親からアントン擁護をされているが、そのせいでマリエッタの父に対する信頼とか尊敬とか好感度的なものはぐんぐん下がっていく一方だ。
そう、現状アントンが親密度を上げているのは本来愛しているマリエッタではなく、その父親トラヴィスである。これが恋愛ゲーム系の世界であったならマリエッタルートはとうに途絶え、代わりにトラヴィスルートに入っている。アントンは至急対策を練るべきだった。もう手遅れだが。
更にはマリエッタに甘え上手な令嬢を連れてきて彼女を見習え的な事まで言う始末。
周囲に無駄に媚を売るのではなく、あくまでも自分にだけという意味合いであるのは言うまでもないが、まぁ普通にマリエッタには通じていないしなんだったらその周囲にも伝わっていない。
好きな人の前だけで圧倒的ぽんこつになる男、それがアントンであった。
そのぽんこつの方向性も、せめてもうちょっとこう……あれが残念な生き物というものなのね、とマリエッタが苦笑しつつもでも可愛いので許します、みたいになれる感じであれば良かったが、もうただただひたすらにアントンに対して一秒でも早く死んでくれないかしら、とか思われる方向性に育っているのでどうしようもない。
そう、マリエッタから見て喧嘩を売っていると思われた行動の全てはアントンからすると求愛行動の一つなのである。お前異世界から来たの? とか言われてもおかしくないくらいにすれ違っていた。
そしてそんな一切伝わっていない愛情表現を積み重ねていった結果、マリエッタは父親に侯爵としての座をはよ自分に譲れと詰め寄ったのだ。
「いいですかお父様。お父様がいくらあのぼんくらを擁護したところで、世間一般の目はこれなのです。婚約者を蔑ろにし周囲に対して貶めるような事を言いわたくしの評判を下げる。
アレが本当にわたくしの事を愛しているとか言ったところで信じろと言う方が無理です。
どう見たってアレはわたくしと結婚した後侯爵家の入り婿という立場を忘れ自分が当主であると振舞い、更には学園で見繕った愛人を家に引き入れかねない……と思われているのですよ。
ちなみにこちらが証言をしてくれた人たちの言葉を纏めた書類です」
そう言われて更に追加された書類は、やはり分厚くまるで辞典のようだった。
言われるままに見てみれば、証言者はきちんと私が証言します! とばかりに身分と名前もしっかりばっちり、といったもので。
学園に通う男爵家から公爵家まで、実に幅広い証言が集まっていた。
公爵家まで!? とトラヴィスが驚きに目を見開いたのは言うまでもない。
一部は確かにマリエッタを真に案じての事であるが、それ以外は割と面白そうだしいいよ実際目撃もしたし、という軽いノリでの証言も多い。だがしかし、面白半分とはいえどもあまりにも数が多すぎて、これは嘘だと否定するにもそうなるとこれだけ多くの者たちがまとまって嘘を吐く事になった事態……というのは……と考える結果となってしまうわけで。
大勢でアントンを陥れるつもりだ、と言えれば良いが、仮に彼が評判の悪い王族であるなら、王位継承権を剥奪せよ、とかそういうノリでやられていると言えなくもないが一介の伯爵家の令息である。
国の中枢にがっつり関わるようなところでもない、まぁ概ねこの国の平均的な……と言っていいものかは微妙だが、ともあれ何の変哲もない伯爵家なのである。
それを陥れる事に対する利点は、となってもほとんどの家にはそんなものはないし、であれば面白半分だろうとこの家を破滅させるために、という貴族たちの悪ノリか、はたまたこれだけ大勢を敵に回したと考えるべきか。
「もうこれだけの証言が集まっている以上、いくら本人が違うそんなつもりはなかった、などと言っても間違いなく我が侯爵家の乗っ取りを企んでいたと思われているし、お父様はそんな相手をこの家に入れるという選択肢を選び続けてきた事にもなってしまっているのです」
「いやあの、流石にそんなつもりは」
「お父様がそのセリフを言ってどうしますの。大体、お父様が最初にアントンの無礼をエンリケ様にちくりとでも釘を刺しておけばこうならなかったかもしれませんのよ!?」
「う、それは……」
「仲の良い友達だか何だか知りませんけど、それでなぁなぁにして許した結果、あのボンクラはわたくしを貶めてもよい存在だ、と認識したというのが周囲の評価です。本来ならば侯爵家に対してあまりにも失礼な事だというのに」
「全くですわ。大体、いくらあれであの伯爵令息がマリエッタを愛していると言ったところで、当の本人であるマリエッタが信じられるはずもないでしょう。わたくしとてそうですよ、初対面であのような失礼な物言いをして、更にそこから数年間、あの令息の態度は改善する様子もありませんでした」
マリエッタだけではなくロザリアも追従する。
妻と娘に冷ややかな視線を浴びせられ、トラヴィスは気まずさについ視線をそらしてしまった。
その態度にマリエッタとロザリアは「あ、一応自覚はあったのね」と思った。思った事でより一層怒りが芽生えるだけでしかないのだが。
「しかもですよ? その結果、伯爵家が我が侯爵家を蔑ろにしてそれを許している、というお父様のせいで我が家の評判は今まさに! ぐんぐん下がっているのです! あの家は下に見てもいい、そう思う一部の貴族が残念なことにいるのです。えぇ、身分を笠に着て貴族としての役目など知ったことではない、というような低俗な家が多いのですけれども。
勿論、その気になればそんな家、如何様にもできますわ。ですが、お父様のせいで! その数が! バカみたいに増えているんですのよ!!」
くわっ! と怒りを全て吐きださんとばかりにマリエッタは言う。
その迫力はロザリアが真に怒りを出したときと同じくらいで、トラヴィスは思わずその身体をぎゅむっと縮こまらせた。
「このままでは我が家の行く末は明るいとは言えません。貴方が当主であり続ければいずれこの家は潰れるかもしれないわ。わたくしはそれを良しとはできませんの」
「ま、まさか……」
「お父様最近言ってましたわよね? 最近よく色々な家から声を掛けられる事が増えた、と。
でもそれ、単純に見下されてるだけですから。決してフレンドリーにお友達になりましょう、とかそういう感じで近づかれているわけではございませんの」
侯爵家の人間でありながら、一体どこの平民だ? というくらいにお人好しな部分もある父の事だ。
間違いなく自分の人徳だとか人望によって集まる人が増えたのだろう、とでも思っていたのだろうなと思ったら案の定だった。
よくこれで今まで家が成り立っていたものである。
全く才覚も何もなかったならそもそもマリエッタが幼い時点で家はとうに没落していたに違いない。
だがしかし、今まではそれでもどうにかなっていたとはいえ、これからはもうそういうわけにもいかないのだ。
これ以上、父を当主にしてはおけぬ。
彼は見下しても問題のない存在だと思われ始めているし、そうなればよからぬ輩がいかに騙して搾取しようとすることか。
彼だけが原因で、彼だけが結果酷い目に遭うのであれば自業自得な面もあろう。
けれども、このままいけばマリエッタもロザリアも巻き込まれかねない。更にはこの家に関わる使用人たちまでも。
家の財産を騙し、毟り取って挙句マリエッタとロザリアをどこぞの奴隷市場に……なんてやらかすような悪党がこの世の中に存在しないわけではないのだ。
以前までなら、流石に考えすぎだろうと思っていた。
けれどもそんな、どこか荒唐無稽だろうと思える想像が現実味をうっすらとであっても帯びてきたのだ。
故にマリエッタは反旗を翻した。
親の言う事を聞く従順な令嬢ではもういられない。
あの婚約者だって、婿として迎え入れた所で家を傾かせるとしか思えない。
父の話しぶりから、どうやら向こうで色々学んだり、なんだったら父から侯爵家の人間としてやっていけるように課題も出されているらしいけれど。
まだ身内ですらない人間を甘やかす父だ。どこまでそれが信用できるか……
「ちなみに、ここで反対したら」
「ありとあらゆる手段を使います。今はまだ手段を選んでいる状態ですの。今のうちに頷いた方がお父様にとってもよろしいかと」
「そうね、このままだとお父様やお母様にも話がいくでしょうし……」
ぽそっとロザリアが呟けば、トラヴィスは一瞬で顔を真っ青に変化させた。
ロザリアの両親、つまりは先代侯爵とその妻である。トラヴィスもまた入り婿であった。
入り婿が侯爵家の当主とは? と言われるかもしれないが、別にこれはおかしな話ではない。
元々マリエッタの母ロザリアは嫁に行く予定であった。そしてこの家の後継ぎに、と遠い親類から養子を迎えた、それがトラヴィスである。ところが、ロザリアの婚約者が事故に巻き込まれて死に、ロザリアの婚約は消え去った。トラヴィスは昔からロザリアに想いを寄せていたがその頃には婚約者がいたし、故に諦めていた部分もあった。だが、ロザリアの婚約がなくなったためにトラヴィスは前侯爵夫妻に必死に頼み込んだのである。ロザリアとの結婚を。
新たに他のところへ嫁に出そうにも、そう簡単に決まるものではない。だがしかし、ロザリアを行き遅れにしたくはない。そんなロザリアの両親の思惑もあって、二人の結婚は成立したのである。
入り婿、という言い方が果たして正しいかは微妙なところではあるが、わかりやすさを重視した結果でもあった。侯爵としての教育を受けていたのもトラヴィスであったために、彼が当主となったのはそういう経緯である。
マリエッタから見ての祖父母は引退した後は諸外国を巡ったり、領地の隅っこに新たに用意した自分たちの終の棲家で趣味を楽しんだりしている、マリエッタにしてみれば気のいいおじいちゃんおばあちゃんなのだが、怒ると怖い。とても怖い。
機嫌が悪いから、で八つ当たりのような事はされたことがないが、危ないことややってはいけないと言われていたことをいたずらでやろうとした幼いマリエッタを叱った時はそりゃもう怖かった。
なんだったら今思い出してもぶるっと身体が震えるくらいには怖い。
普段は素敵な祖父母なのだ。
怒らせなければ。
そんなある意味最終兵器おじいちゃんおばあちゃんが参戦すれば、間違いなくトラヴィスは叱られるなんてものではない。
今はまだ家族間での話し合いと言えるけれど、これ以上拗れた場合は侯爵家の危機だとかと称して祖父母召喚である。
叱られるだけで終わればいいが、最悪今からでもロザリアと離縁だとかそういう展開になったなら。
そんな想像をして、トラヴィスはぶわっと全体的に脂汗をかいた。
トラヴィスが今から実家に帰ったとしても、確実に彼の居場所は存在しない。
行くアテを失って、最終的にそこらの浮浪者のように野垂れ死ぬ、なんて未来がトラヴィスの脳裏をよぎった。
「わ、わかった……マリエッタに譲る。引退する」
トラヴィスが生き残る道は、限られていた。無いよりマシである。
だってトラヴィスはそもそもロザリアに惚れ込んで、どうにか結婚を認めてもらおうと必死だったのだ。そうしてロザリアの両親に認められた。安心してこの家を任せられるとなって、祖父母は引退したのだけれど……今回の件は間違いなくあの二人を敵に回す。いくらこちらが嫌だと言ったところでロザリアと強制的に離縁させられてしまえば。あの二人ならそれくらいやらかしたって何もおかしくはないのだ。
未来なんて想像する余裕すらない。
だからこそその後はとても落ち込んでしょぼーんとしていたが、まぁ、自業自得と言えなくもない。
――結果として、マリエッタが新たな女侯爵となった事で。
アントンの失礼な態度により、マリエッタは婚約破棄を突きつけたしそもそも不貞を疑われるように令嬢を侍らせたりもしていたのもあって、アントン有責で婚約は破棄された。
エンリケから待ってほしい、息子は本当に貴方の事を愛してるだのなんだの言われたが、父と同じように今までのアントンの失礼な言動や周囲の目撃証言だとかを渡してやれば、これでどの口が愛しているなどと言えるのだ、となったのだろう。
項垂れて、その婚約破棄を受け入れるしかなかったのである。
勿論アントンは抵抗した。だがしかし、一歩間違えば侯爵家を乗っ取ると受け取られかねない言葉も発言していたのだ。
マリエッタ直々に我が侯爵家を乗っ取らせるわけには、と言われ、侯爵家とかどうでもいい、愛しているのはきみだけなんだ! なんて叫んだけれど。
とても今更だった。
大体今までマリエッタ本人に向けて自分は貴方に好意を持っています、という態度でもなければ言葉だって伝えた事がないのだ。
今更言ったところで、そうまでして侯爵家を狙っているのね、とマリエッタにあしらわれる。
マリエッタ以外の、それこそ父やトラヴィスには自分がマリエッタをどれだけ好きなのか、が伝わっていたのもあって、マリエッタにも伝わると信じていたのにしかし現実はこの有様。
そうやって愛を囁けばコロッと騙されるとでも思われていたのね。
なんて。
冷ややかな目を向けられてマリエッタに言われ、何を言っても何一つとして響かない。
アテが外れて残念だったわね、なんて言い捨てられてそのままマリエッタに立ち去られ。
アントンは幼かった頃以来、それはもうみっともなく泣き喚いた。
言うまでもないが泣き喚いたのが幼児であるなら、或いは母親やその代わりに世話をしている者がやってきてあやしただろう。
だがしかし、マリエッタは一切振り返ることもせず去って行った。
「いやだわ……わたくしの事母親か何かだと思って反抗期でも拗らせてたつもりなのかしら」
屋敷の外にまで響くアントンのギャン泣きに対して、マリエッタが思った事なんてそんなものだった。
ちなみにとても余談ではあるがアントンのその後はというと。
まず彼有責での婚約破棄であることは当然知られたし、彼が侍らせていたご令嬢の誰かと結婚するのかと思われたが、しかし侍っていた令嬢たちは一部はマリエッタを嫉妬させたいから協力してほしいと頼まれていた事が発覚。
そんな頼みを引き受けるんじゃない、と令嬢たちの中には親に叱られた者も出たが、ではそれ以外はというと。
マリエッタに振られた事で今なら傷心真っ最中なので、それに付け込んで落とす事もできるのではないか? と思われた略奪系令嬢たちにも見放された。
あまりにも情けなさすぎたのだ。
事あるごとにめそめそめそめそ。
マリエッタに対するあの強気な態度は何だったのか、というくらいにくよくよくよくよ。
一緒にいてもときめくこともなくなって、むしろストレスがたまるばかり。
思ってたのと何か違った、とかいう理由でアントンに侍っていた令嬢たちはさっと離れていったのである。
まぁ、離れた所で今までアントンの取り巻きのような事をしていた事実は消えないので彼女たちの今後もそれなりに苦労する事にはなるのだけれど。
一番好きだった女に振られ、それ以外の女からもそっぽを向かれ、そもそも今までのマリエッタに対する態度だとかを周囲はよく見ていたのもあって。
社交の場に出てもアントンと親しくしようという者はほぼおらず、それ故にアントンはそっと家に引きこもるようになったのである。
後継者であり、他国へ留学していた兄が人目に触れないよう家の中での仕事を与えてはいたようではあるのだが。
いつしかアントンの存在は社交界でも噂される事もなくなり、ひっそりとその存在を忘れられる形となってしまった。
――女侯爵となったマリエッタは、確かに婚約が駄目になってしまったけれど。
だが他に相手がいないわけではない。
確かにアントンの振る舞いのせいで、そしてトラヴィスのせいで侯爵家を軽んじても良し、と思い込んだ一部の愚かな貴族はいるけれども、そんな貴族ばかりではない。
ただしくマリエッタの事を評価する者たちからすれば、彼女は突如舞い降りた優良物件である。家を継ぐ立場にない令息たちはここぞとばかりに売り込んだ。
とはいえ、今までの事を見ていた者たちである。
売り込むにしてもその売り込み方を間違えれば望みはないのは言うまでもない。
きちんと愛を伝えるだとか、地に下がりつつある評価を戻すだとか、そんな事を言って売り込んできた令息たちはあっさりとお断りされた。
最終的にマリエッタが新たな結婚相手にと選んだのは、やや落ち目ではあったが同じく侯爵家の三男である。
彼は見た目はパッとしないので、正直そこにいるかどうかもわからない、といったくらい影が薄かった。だがしかし、その影の薄さを活かして情報収集に努め、今までマリエッタの家を軽んじてきた者たちの醜聞ともいえる情報を纏め、
「我が家は露骨に彼らに見下されてはいませんが、それでもあの手の貴族は害悪でありますので。
これを機に、害虫退治と洒落込みませんか?」
などとマリエッタに持ち掛けてきたのである。
「王家もああいった家をいつまでものさばらせておくわけにはいかぬ、という考えのようですし。
あ、こちら許可証です。やるなら派手にやれとの事でした」
しれっと王族に話をつけてるあたり用意周到である。
今回の件に関して、王家は直接的な被害を受けたわけではない。
だが、今は侯爵家を侮るだけで済んでいるが、こういった連中はそのうち王家をも見下すだろう。とはいえ、今はまだそこまでいっていないので王家が出るわけにもいかない。
それもあって、話を持ち込んできた侯爵家の三男坊に許可を出したのである。一応彼と王子が学友である事もあって、話し合いは割とスムーズだった。
この男の誘いに乗ってマリエッタが害虫退治に洒落込むとなれば、いずれは王家に仇なすかもしれない家をあぶり出し、その上で潰した、という事にできなくもない。
あえて泥をかぶってそれをやった、という風に持っていけば、貴族として落ちていた名誉も前と同じまではいかずともそれなりに回復はするだろう。
「それからこちらを」
「これは?」
「結婚を前提にお付き合いしていただければな、と思っております」
……カパ、と指輪ケースを開けて言う男に、それ、普通最初に言わない? 順番逆じゃない? とマリエッタは思った。
「貴方に似合うデザインが店で見つけられなかったので、この際だと職人に頼み込み弟子入りして自分でカットしました」
努力の方向おかしくない? と思ったがそれも言えなかった。
確かに店で見かけるような宝石のカットとは少し違う。
けれども、マリエッタがそれを見て素敵、と思ったのも事実だった。
というか自分でカットしたって言った? 職人に弟子入り? 侯爵家の人間が? 三男とはいえ?
「貴方が何に喜んでくれるのかまだわからないので、一先ず自宅の庭で育てたクイーンローズで花束でも作ろうかとも思ったのですが、最初からそれを持ってくると目立つじゃないですか。バラの花束なんて見え見えすぎるじゃないですか。
ドレスを贈るにしても、私たちはまだそこまでの仲ではない。突然贈られても困るだろうなと思ったので、布は確保しましたがまだ仕立てておりません」
隣国で今流行ってる布なんですよ、と言われてマリエッタは最近そういや友人たちとのお茶会で聞いたわね……と思い浮かべた。
軽く、それでいて丈夫で、特殊な染め方をしているらしく色合いが特に素敵なのだと。
今までのドレスだとあれこれ飾り付けるとその分重たくなるのだけれど、この布で仕立てたなら軽い分今まで以上に飾りを増やしてもそれでも今までのドレスよりも軽いのだとか。
隣国で爆発的に人気になって、オーダーメイドどころか既製品のドレスですら入手困難という話だったはずなのだが……
その布を確保している。
「まるでわたくしの事が大好きみたいな態度ですわね」
「嫌いな相手に結婚を申し込んだりはしませんよ。後継ぎを作らないといけない立場だとかなら仕方なく政略というのもあるでしょうけれど、家を継ぐ必要のない気楽な三男坊ですよ。それなら恋愛結婚を望んだっていいでしょう」
望んだ先が自分、というのにマリエッタは理解が追い付かない。
家を継げない次男三男あたりに確かに結婚の申し込みはされていた。ただそれは、マリエッタを愛してとのことではなくその地位や肩書が魅力的だからであって。
だからわざわざ愛を伝えるなんてアントンの失敗を糧にするような言い方をしてきた相手だっていた。
ねぇそれ宣言しないといけないものなの? そうやって宣言しないと愛を伝えないの?
それじゃあわたくしの事は愛してもいないけれど、とりあえず伝えておけばいいだろう、とか思ってるとかではありませんの?
なんて、言葉に出さずともそんな風に思ってしまった事もあった。
面倒くさいメンタルであったな、とマリエッタは後になって思ったのだ。
けれども、長い間アントンにぼろくそに言われていたのもあって、その直後にそんな風に言われてしまえば。
嫌な方向に勘ぐるのも仕方のない事ではあったのだ。
あれがもうちょっと後で言われていたら何事もなく普通に受け止めていたかもしれないが、あの時は無理だった。
恋愛……この人は、わたくしとそういう関係を望んでいる。
正直見覚えがほとんどないので、以前どこで会ったかすら定かではないのだが。
「いつ貴方の事を? あの伯爵令息に貶されていた時ですね。それでも貴方の心は折れていなかった。ただ静かに相手を見据えて、いつか見てろよこの野郎……! みたいな闘志が瞳に宿っていたのを見てキュンとしまして。それからはもう何をしたら貴方が喜ぶのか、情報を集めたかったのですがあまり貴方の周囲の人に話しかけて付き纏おうとしている男がいる、などと噂をされてはよろしくない。
特にあの野郎はそんな噂を耳にしたら嬉々としてやれ不貞だなんだと騒ぎ立てそうですし」
聞けばさらっと答えられた。
そして確かにそうね、と納得もしたのだ。
自分は令嬢を侍らせておいて、自分の周りに誰か男性がいたならばきっと嬉々として責め立てただろうと。
あの時は自分の事が嫌いだと思っていたから、そうなれば婚約破棄のいい口実になるだろうかとも思ったけれど、しかしアントンは自分の事を好きだった――まぁ未だにマリエッタは信じられないが――となれば、それを口実に自分を閉じ込めるだとかの方向に舵を切っていた可能性もある。冗談ではない。
「わたくし、クイーンローズよりはサニーベルの方が好きですの」
「わかりました植えますし育てます」
即答だった。
クイーンローズは育てる事も難しいと言われる品種で、それら全部をひっくるめてまさに薔薇の女王だと言われているが、それを先程この人は庭で育てて花束になんて言っていた。
サニーベルというのも薔薇の一種ではあるのだが、こちらは更に育てるのが面倒らしいのもあって、実のところ市場に流通すらしていない。
極まれに、どこかで自生しているのを見かけることができれば運がいい方だ。
一応、育て方は本にも記載されているが、まぁ本当に面倒くさい。
そんな見ただけで面倒すぎて手を出したくないと思うようなものなのに、この人は即答だった。
この人はわたくしのために時間も労力も手間も何も惜しまないのだな、と思うと。
なんだか自分も彼に何かお返しをしたいな、と思い始めてきた。ちょろいと言ってはいけない。
「その、育てるときはわたくしも一緒に参加しても?」
「いいんですか? 大変ですよ?」
「えぇ、でも、貴方となら構わないかな、と思いまして」
言いながら、マリエッタは彼が手にしていた指輪ケースに向けて左手を差し出した。
「つけては、下さいませんの?」
まさかこの場で求婚に了承されるとは思っていなかったのだろうか。
先程までどこか飄々とした態度だった男は、一瞬ぽかんとした表情を浮かべて、
「~~~~っ!?」
意味を理解した直後、耳どころか顔も首も真っ赤になって震える手でマリエッタの指に指輪を嵌めたのである。流石に照れすぎて愛の言葉までは出てこなかったけれど。
それでも男がマリエッタの事を本当に好きだというのがその態度から明らかすぎて。
マリエッタもまたつられるように顔を真っ赤に染めていた。
そして、そんな二人の様子を。
侍女たちが控えている扉付近からそっと覗き込んでいたマリエッタの母ロザリアだけが。
うむ。
と満足げに頷いていたのである。
父親に似ず男を見る目があるようで何よりね、と言いそうな顔だった。
次回短編予告
乙女ゲームの世界に転生したヒロイン。
そんな彼女の前に立ち塞がる悪役令嬢。
っていうとてもテンプレなお話。多分ハッピーエンドだけど恋愛というよりかは……って感じのその他ジャンルの予定。
文字数は今回よりちょっと少なめ。