9_深夜のふわふわ
夜、なんとなく寝つけなくてエリスがリビングに行くと、アシュレイがソファに座っていた。
――いや、多めの毛布を羽織って膝を抱え、まさに『丸まっている』という表現の方が近かったが、なにやらローテーブルに書類を広げていた。この人は、多めの布にくるまっている姿が似合う人だな、と思った。
エリスに気がつくと彼は顔を上げる。そして慌てたように毛布を引っ張って顔を隠し、エリスからなるべく遠ざかるようにソファーの隅っこに身を寄せ――それから「あ、いや、違う」と何かの弁明をした。
「き、君を避けているわけじゃなくて、あの、その、よ、夜に、男女が、あまり近いと良くないと思って……! こ、ここに、座るなら、こちらに、どうぞ!」
彼はソファーの真ん中をエリスに譲ってくれたつもりらしい。
(さっき話していた時はここまで狼狽えてなかったのに……)
老爺二人を含めて夕食を囲んでいた時は、わりと普通に話せていたのに、また会った当初のような緊張っぷりである。彼が言うように、夜に男女で二人きりだからだろうか。
そんなに落ちつかないのであれば、あまり彼のそばに長居するのも悪いかな、と思ったが、彼は大量の毛布の半分以上をエリスに向けて、「どうぞ」と隣に受け入れる仕草を見せた。
(べつに嫌というわけではないのかしら……?)
そっとソファーに座ると彼が毛布をかけてくれる。春だが、夜はまだ冷える。
「それにしても毛布が多すぎない?」
エリスが言うと、彼は苦笑した。
「寒くないようにって毛布をいっぱい貸してくれたんだ。……親切な人たちだね」
「そうよね……すごく手厚く接してくれるのよ。私も二ヶ月しかまだここにいないけど、もうお腹いっぱいってくらい親切にしてもらってるわ」
「二ヶ月……」
彼はぽつりと呟いてから、エリスを見つめる。
「……君を迎えに行くのに必要な魔道具だった?」
どきりとして、思わず彼を見つめ返してしまったが、彼は安心させるようにちいさく苦笑して、「ごめん、答えなくていいよ。もう仕事は終わったから」と目を逸らす。
「僕もね、なんでもかんでも、国のために、有事のために、って理由で家族のことに立ち入るのも好きじゃないから……どういう魔道具がこの世にあるのかは気になるけどね、いずれって言ってもらったからいいんだ」
それから彼は、「……それより今は、スープの心配をしている」と真剣な面持ちで言った。
「え? スープ?」
「うん、明日の朝食に僕がスープを作るって言ったけど――お口に合うかどうか、なんだか不安になってきちゃって……い、今から準備しておいた方がいいかな? ああでも出来立てを食べてほしいし、こんな時間からごそごそ準備するのも起こしちゃうかもしれないし……ねえどうしよう、エリス、普段君たちはどんなものを食べてる? 変なものを食べさせちゃったらどうしよう」
見るからに彼が慌てている。
「別に私たちの口に合わなくても良いのに?」
エリスが平然と言えば、
「え?」
と彼の目が丸くなる。
彼を落ち着かせるために、エリスはゆっくりと喋って聞かせた。
「だって私たち、好みのものを明日食べたいってわけじゃなくて、あなたの作るスープに興味があるのよ。だから背負いすぎなくていいの。あなたの自己紹介の一つなのよ」
「自己紹介……?」
彼が不思議そうに訊き返す。
「うん、あなたの言ったスープがどんなものか知りたいの。――たとえばあなたが『青色が好き』って言ったとしても、青色って世の中に幅広くあるでしょ? 空の色とか、花の色とか……それであなたが『一番好きな青色はこれだよ』って見せてくれたら、ああ、あなたの頭の中の一番好きな青色はこれだったんだ、ってわかって嬉しくなるの。だから私たちの好みと一致しなくても全然いいのよ。大事なのはスープよりもあなただから」
彼は目を丸くしていたが、ふんわりと表情をゆるめて毛布に顔をうずめた。
「そっか。……なんだか、いいな。そういうの」
彼は噛みしめるように、「いいな」ともう一度言った。
「本当に、優しい人たちだね、この家のみんなは」
「みんな? 私は優しくないけれど」
「ええー……?」
彼がものすごく首を横に傾げた。
「君こそ優しいのに……?」
「お世辞はいいのよ。……でも、本当にここ、居心地が良くて……ずっと暮らしたいな、って思っちゃう」
言いながら、後半はつい寂しげな顔を見せてしまったのだろうか、エリスを労わるように、彼がさらに毛布を分けてくれる。もう多すぎて身体が重さに引っ張られそうだ。ソファに身を預けていると、うっかり彼の方に傾きそうになる。彼はただ自然に「大丈夫?」と支えてくれた。なんだか隣が温かくて、離れがたい。
彼はどんな気持ちだろうかと顔を窺えば、彼はとても穏やかな表情で――エリスと同じように思ってくれているのだろうか、ふわふわと温かそうな『感情』が周辺に浮いている。――だが、そのままじっと見つめていると、ある瞬間に、ぶわっと様々な色が飛び出てきて、彼が「あ、あの」と狼狽え出した。
「え、どうしたの……!?」
彼は答えられそうにないほど顔を真っ赤にして、毛布の中に閉じこもって背を丸め、「み、見ないで……」と震える声で言った。
「どうしたの!? 具合が悪いの!?」
「ち、違う……! あの、俺、いや、違う、ええと、僕、あの、ごめん、本当になんともないから……!」
彼の周りに見える『感情』は、さほど不調そうには見えない。むしろ活発だ。
(……この感情の色……緊張と、羞恥と、喜び? あと、なんだろう)
あまりの色鮮やかさにまじまじと見つめながら黙ってしまえば、布の隙間から彼が泣きそうな顔を出して、弁解を始める。
「あの、その、僕、いや、ええと……――違う、違うんだ」
「まだ何も訂正すべきこと言ってないんじゃない?」
まるで冤罪を掛けられた人の訴えのようである。
別にこちらに感情が筒抜けだとも知らないだろうに、なにやら顔を手で覆ったり視線を彷徨わせたり、慌てふためきながら必死に弁解を試みる。
「なんて言えばいいのか……き、君が、可愛いから、目が合うだけで、す、すごいことだなって気づいてしまって……それで、僕は、挙動不審に、なります……」
「…………」
初めて聞くような妙な弁解だ。一体何の話だろう。
「だから、ええと、ごめん、僕が勝手に慌てていて……びっくりさせていたらごめん、全部僕が悪い……僕の問題、です……」
そう言って、彼は恥じらうように、ますます多めの毛布の中に引っ込んでしまった。
――つまり、彼は妙な態度をとってしまったので、こちらが気兼ねしないようにわざわざ自分の問題であると説明してくれたらしい。気遣いのプロである。
「つまり、女の子に慣れてないってこと? 全然気にしなくていいのに……」
「ご、ごめん、仕事とかなら話せるんだけど……」
そういうエリスも、年頃の青年に慣れているわけではない。叔母たちの村で働いていた時は、同世代はみんな楽しげに遊びまわっているような姿を遠くから見かけただけだ。その輪の中にエリスが入ることは無かったし、エリスはいずれあの村を出ていくつもりだったので、異性として誰かを見つめたこともない。
いつか恋愛をしたいと思ったこともないわけではないが――もう自由の身だから恋愛をしてもいいわけで。
(――いえ、私は、運命の乙女なんだっけ……?)
魔法救皇と――二人の皇子のどちらかと運命が繋がっているらしい。
本当に信じていいのかわからない上に、相手が皇子では気が引ける。
(私、皇子様と結婚って柄じゃないし、たぶん話が合わないんじゃないかしら)
豪奢な城で、最上級の物で囲まれ、最上級の存在として人々から扱われる。それが皇子が生まれてからずっと見てきた光景だろうし、そんな存在と夫婦になって支え合っていけるだろうかと心配になる。普通に話すだけでも、すれちがったりしないだろうか。
(『死者の鏡』のことが片付いて、それで、もし誰かと家庭を築くなら――)
つい、今日会ったばかりの、隣にいるアシュレイを見つめた。
こういう人はどうだろうか。……臆病すぎる人だけれど、でも、とても優しい感性を持っていて、エリスの言葉をそのまま受け止めてくれる。
(こんな人は初めてだし……なんだか放っておけないのよね)
彼の真似をして膝を抱えて顔を伏せ、隣のアシュレイをじっと上目遣いで見る。彼は毛布の隙間からエリスを見た。
「え、あ、可愛――じゃなくて、えっと、僕の顔、なにか気になる?」
「ううん。ただあなたのことをなるべく見ていたくて」
「!?」
ますます彼の顔が赤くなる。ふわっ、ふわっ、と何かの感情が連発して湧き上がっているようだ。
「……? ごめんなさい、びっくりしてる? ……私、あんまりまともに同世代と接してこなかったから、普通の関わり方がよくわからないの。たぶん何かが間違っているのよね。不躾に見つめてごめんなさい」
謝ると、ぶんぶんと彼が首を横に振る。
「い、いや、僕も人付き合いは経験が浅いけど――でもほら、よく『話すときは相手の顔を見なさい』って教えられるから、エリスは合ってるよ。きちんと人の顔を見られるのはいいことだよ」
別に礼儀とかではなく、ただ『この人、気になるなぁ』とゆったり眺めていたいだけなのだが、彼のお許しがもらえたので、お言葉に甘えて思うままに彼を見つめておく。彼は気恥ずかしいのか、そっと目を逸らし――でも目を合わせようという意思はあるのか、ちら、とエリスの顔を見ては、照れと一緒に、ふわっ、ふわっ、と何かの感情を発している。
(喜びとかに近い色だけど……本当にこれ、どういう意味なのかしら)
連発する様子は、焦っているように見えなくもないのだが、色合いからして負の感情でもなさそうだ。今日初めて見た形なので判別がつかない。
「……アシュレイ、今、どんなことを考えてるの? びっくりしてるの? 困ってるの?」
「こ、困るっていうか――なんだろう、初めての感情で……よくわからない」
本人もわからないなら仕方ない。
「つらいなら離れる?」
「えっ、つらくないよ! ……こ、このままがいいな」
「そう。それなら良かった」
眠くなるまで彼とゆったり話し、うとうととしてきたところで彼に就寝を促され、名残り惜しくも部屋に戻って眠りについた。