3_伯爵令嬢なんて無理です②
彼らと一週間近くかけて移動し、辿り着いた彼らの住処だという広大な森は、国境から少し外れた自治区にあった。丸太でできた小屋にエリスの自室を用意してくれて、温かいスープと清潔な衣服でもてなしてくれた。本当に優しくて幸せだった。強張っていた心が溶け、この二ヶ月、それはそれは穏やかな日々を過ごした。
――しかし、今、どういうわけか椅子に縛り付けられている。
エリスは思った。
もしかして、自分は結構騙されやすくて、不運なのではないだろうか、と。
(まあ、運がいい方だなんて思ったことは無いけれど……)
「ねえ、なんで縛るのよ」
椅子の後ろ側で縛られた両腕をぷらぷらと揺らしながら、目の前に立つ二人――魔導士のローブを着た細身の老爺と、筋骨隆々で無口の老爺を見上げる。
「だって逃げようとしたじゃろう」
魔導士の方の老爺に気まずそうに言われた。
「違うわよ。妙なことを言い出したから、強めの薬を作ろうかと……薬草を採りに行こうとしたのよ」
「儂らは本気じゃ!」
「……で、何だったかしら、さっき言ってたやつ」
エリスが訊ねると、「わかった、もう一度言う。よく聞くのじゃぞ」と、わざとらしく咳払いをされた。
「お前さんは『運命の乙女』じゃ。だから伯爵家の養女になって、魔法救皇と仲良くなり、城の宝物庫にある『死者の鏡』を取り返してきてほしいのじゃ。……あれは儂らの村の宝でな。運命の乙女であるお前さんが魔法救皇に頼めば、絶対に叶えてくれるはずじゃ。なにせ魔法救皇は、運命の乙女の言うことには絶対に逆らえんからのぅ」
「……」
何度聞いても、意味が分からない。
エリスが黙っていると、大柄な方の老爺も説明してくれる。
「俺たちの目的は、五十年前に帝国に持っていかれた宝を取り戻すことだ。俺たちは帝国に伝手がない。だからいずれ魔法救皇と知り合うはずのお前さんに頼りたい」
「うーん、少しはわかりやすくなったような?」
それでもエリスは溜息を吐くしかない。
「魔法救皇と仲良くなるなんて無理に決まってるじゃない。私みたいなド平民がどうやってお近づきになるっていうのよ」
「おぬしは『運命の乙女』なんじゃぞ! 会えば絶対に恋が始まるはずじゃ!」
「それも信じられないし、そもそも会うまでが難しいでしょう」
「じゃから伯爵家の養女になるんじゃぞ!」
「うーん……」
エリスは首を傾げた。
「よくわからないけれど、もし伯爵家の養女になれる枠があるなら、別の子に譲ってあげて。私の身には余るわ」
「なんて欲が無いんじゃ、エリス! 幸せになりたいと思わんのか!?」
嘆くように言われて――実際、感情が視えるエリスには、老爺の嘆きが煙のように立ち昇っているのがしっかりと見えるのだが、それでも心は動かされない。
「だってもう幸せだもの。この森の家で穏やかに過ごせて、二人と一緒に毎日温かい食事をして……薬草のことや森の歩き方を教えてもらえて、本当に今までで一番幸せよ。二人のこと、大好きだもの。伯爵家になんて行きたくないわ」
「エリス……!」
素直な気持ちを伝えれば、二人の老爺から感激の輝きがぶわっと溢れ出た。
それからそれを掻き消すように、老爺たちは首をぶんぶんと振っている。彼らにはエリスのように感情など見えないだろうに、見事に動きに合わせて掻き消えていくのが少し面白い。
「いかん、いかんぞ……儂らは心を鬼にしなければならん。ここで引き下がってしまっては一生後悔するじゃろう」
魔導士の老爺が言えば、無口な方の老爺もしきりに頷いている。
「エリス、お前さんの好きにさせておいたら、きっとこの森から出んじゃろう。どんなに追い出そうとしても出て行かず、そうしていずれ儂らの面倒を見て、骨を拾って……それでも外には行かんじゃろう」
「そうね、何十年掛かってもいいわよ。二人ともきっちり私が看取るから安心して。墓を守りながらのんびり暮らすわ」
「なんということじゃ! 十六歳になったばかりの前途ある若者が、この先何十年も老人の世話と墓守に人生を捧げようというのか!? いかん、いかんぞエリス! 親心をまったくわかっとらん! そんなことのためにお前さんを攫ってきたのではないぞ!」
老爺たちは、いつも『攫った』と表現する。
ボロ雑巾のようになっていたエリスを欲しいと言えば、きっと叔母だって「ああ、要らないから捨てておいて」と言っただろうに。エリスの尊厳を気遣ってか、いつも『攫ってきた』のだと言ってくれる。
「――そう、お前さんを攫ってきたのは大きな目的があってのことじゃ。墓守なんぞにするつもりはない」
「ああ、目的があったのは最初からなんとなくわかっていたけれど」
あの村で老爺たちがエリスに辿り着いた時、楕円の鏡のような魔道具を持っているのを見た。魔鏡からは光が発せられ、ずっとエリスを指していた。その魔鏡に導かれて、老爺二人は帝国の東端から北西端のエリスの村へと辿り着いたようだった。
「そう、儂らは運命の乙女を探していた。死者の鏡を取り戻すためにな」
真剣な面持ちで老爺が言う。
「……死者の鏡って何? なんだか大切なものだってのはわかるけど」
死者の鏡について訊くと――二人は苦しそうに話し始めた。
彼らの村、ちいさな自治区に伝わる大切な魔法の鏡で、一人につき一度だけ、望んだ死者と対話ができる魔道具らしい。
大陸一の帝国は、彼らの村と隣り合っており、五十年前にその鏡を買い取ろうとしたそうだが、村の者は誰も首を縦には振らなかった。だが、国はどんどん値段を吊り上げていき――とうとう不作の年、「少し貸すだけならいい」と言ってしまった。国は「言質は取ったぞ。なぁに永遠に返さないわけじゃない。少しこちらで大切に保管するだけだ」と言って、なかば無理やり持っていき――五十年経っても、何度催促しても、返してもらえていないらしい。
「借りた物を返さないなんて、ひどいわね」
「そうじゃろう!? ひどいじゃろう!?」
……ひどい話ではあるが、「全然返してくれないから宝物庫から奪い返したい。そのために皇族に近づきたい。『魔法救皇』が皇子の中にいるはずだから、その弱点である『運命の乙女』に頼もう」という彼らの思考は中々飛躍しているとは思う。
(まあ、それほど他に打つ手がないってことなんでしょうけど……)
老爺たちの村は鏡魔法が得意な民族らしく、昔の先祖が作った『目的の人物を探す鏡』という魔道具を使って、『運命の乙女』の居場所を占わせ、エリスの元まで辿り着いたらしい。
――つまり、その占いで『運命の乙女』と言われなければ、エリスはこの老爺たちに助け出されることもなかったのだ。
「……」
そう思うと、その胡散臭い占いに、感謝するべきなのだろうか。
(いえ、でも、まったく信じられないっていうか……魔法救皇がどれほど特殊な存在だと思っているのよ。その運命の相手が私? ありえないでしょ。会ったことも話したことも無いし……そもそもどっちの皇子様なのかさえ、わからないんだけど)
困ったことに、当代の魔法救皇は、なぜか素性を隠している。
魔法救皇らしき人物が災害時や魔物討伐時に仮面をつけて救援に現れるという話は十年以上前からあり、この国の皇族――おそらく皇子二人のどちらかだろうということまではわかるのだが、会うならばどちらの皇子なのか特定する必要がある。
ちなみに老爺たちがエリスを見つけるのに使った魔道具は、一回で壊れるような代物だったらしく、『魔法救皇が今どこにいるか』をもう占わせることはできない。一回きりをエリスに使って良かったんだろうかと不安にもなる。
――そういうわけで、エリスはよく考えねばならない。
宝物庫から宝を盗むのは大問題で、遥か高い身分の皇子に「お願い。欲しいの」とねだる可能性まで含めて、エリスは慎重に老爺たちと話し合う必要がある。
「そりゃあ、先祖の宝物で、しかも死者と話せる鏡なんてものなら、取り返してあげたいとは思うけど……城の宝物庫って、相当管理が厳重なんじゃない……?」
椅子に縛り付けられたまま、エリスは老爺二人に呟く。
大柄な方の老爺が言った。
「難しいことはわかっている。だが頼む。……俺は妻に謝りたいんだ。夕食用の獣を獲りにいっている間に逝ってしまった。早く元気になってほしいと欲張った結果、病床の妻を一人で逝かせてしまった。寂しくなかっただろうかと、今でも悔やんでいる」
「……儂も、息子夫婦と孫に、助けてやれんですまなかったと、苦しみを代わってやれんですまなかったと言いたいんじゃ……いや、本当は、ただもう一度だけでいいから顔が見たいだけじゃ。どうしても願ってしまうんじゃ」
彼らは家族を亡くしていた。エリスが両親を亡くしたのと同じ時期、同じ流行り病で亡くなったそうだ。孫は、生きていればエリスと同い年だと言う。
「死者には会えん。それはわかっておる。きちんと諦めて生きていくのが正しいんじゃろう。じゃが、儂らは知ってしまっておる。顔が見られる方法がこの世にはある。儂らの近くに、かつてはあった。……知っておったら、諦めきれんのじゃ」
「…………」
そう言われると、断りづらい。
老爺二人の感情がエリスには視える。すべて本心からで、大切な家族を恋しがっている。少しも嘘は言っていない。一つたりとも、悪意や打算は浮かんでいない。
「……その鏡、本当に悪いことには使えないのよね? 国を滅ぼす大魔法が使えちゃうとか」
「そんな力があったら、五十年前に勝っとるわ」
「というか、もう一個、死者の鏡って作れないの?」
老爺二人が困ったような顔をする。
「知っておるじゃろう、代を経るごとに魔導士は弱体化しておる。現代の魔導士は、六百年前の十聖一人の一万分の一にも満たぬ能力じゃ。あの鏡はその頃の天才が作ったものでな……それに、奇跡が起きて同じほどの力量の者が生まれても、核となる魔石を用意することができぬ。儂らにはもうそんな金はない。少しでもあればこれから生きていく者たちに残してやりたいからのぅ」
ここは森の中にある隠れ家だが、もう少し行くと集落があり、これから育っていく子どもたちもいる。老爺二人は「バレたら大罪」になりかねないことを計画した時から、集落からは離脱したらしい。そして他の老人たちも、死者の鏡がかつて村にあったことは次世代には伝えないことにしているそうだ。手元に無いのに存在を知ってしまえば、ずっと求めてしまうから。
「……鏡を取ってくるだけよね?」
「そうじゃ」
この二ヶ月、温かいご飯と寝床を与えてもらった。森での自給自足の生き方も一から教えてもらった。どれでも好きな本を読んでいいと言ってもらった。毎日おはようとおやすみを言ってくれた。エリスがずっと望んでいた、家族らしい、宝物のような時間を過ごさせてもらった。……そのお礼に、彼らの悲願を叶えてあげたいという気持ちが無いわけでもない。
「……まぁ、仕方ないから、やってあげなくもない、かな……」
「エリス……!」
老爺二人に喜びが浮かぶ。手を取り合って踊り出しそうな勢いで、「心を鬼にしたかいがあったわい」とか言っている。
「……ちなみに伯爵様はどうして私たちに協力してくれるわけ? 私みたいなド平民を養女にするって、結構な愚行でしょ。他の貴族から馬鹿にされそう」
「亡くなった奥方と娘御を一目見たいそうじゃ」
「ああ、なるほど、『死者の鏡』目当てなんだ」
理由があるならば、皇子たちに近づくための協力者を得られたことにも納得はいく。
「それに、愚行にはならん。伯爵様は『運命の乙女』を自分の家から送り出せる名誉にお喜びじゃったよ。なにせ百年に一度の存在じゃからな」
(『運命の乙女』ねぇ……)
エリスはそこについてだけは懐疑的だ。
自分がそんな大層なものに選ばれるわけがない。両親と死に別れて、哀れに叔母にこき使われて、誰にも庇ってもらえず、誰の唯一にもなれなくて――それこそが十六年間で染みついた、自分の人生だと思ってしまうのだ。