第3話 約束
朝の練習を始めて、十日が経った。
シフォンヌにとって、それは宝物のような時間だ。
声を取り戻す練習といっても、ロアードは決してシフォンヌに無理はさせない。
毎朝、店の裏庭で笛と竪琴を合わせて、シフォンヌの呼吸を整えていくだけだ。
それだけでも、シフォンヌの胸の澱は、少しずつ溶けていく。
「シフォンヌ、も少し肩の力を抜きましょう。歌は、戦うものではなく、寄り添うものですから」
「はい……」
ロアードの言葉はいつも心を温かくする。
彼の笛の音は光の帯のようで、音を追うシフォンヌの奥に眠る想いを呼び覚ます。
――唄いたい
ある日、練習が終わると、ロアードは躊躇いがちに、口を開いた。
「……近いうちに、王都で『星しらべの祭り』が開かれます。ご存じでしょうか」
「はい、でも……私には関係のないお祭りですので……」
シフォンヌは俯いて、少し微笑む。
その祭りに出るのはアニーカだ。
裏方の伴奏にさえ、シフォンヌは呼ばれていない。
「関係ない、なんて言わないでください」
ロアードの声が少し強くなる。
彼の青い瞳が、まっすぐにシフォンヌを見た。
「僕は……僕はあなたに、出て欲しいんです」
「えっ?」
「声を、完全に取り戻せなくても構いません。あなたの竪琴の音と、ハミングだけで十分です」
シフォンヌは首を横に振る。
「でも、私なんか……」
「また『なんか』って言いましたね」
ロアードは微笑む。
「あなたの音は、真っすぐです、誰よりも。初めて会った日、あなたの弦が鳴りました。僕は驚いた。あれは、あの音は、心が奏でたもの。あれだけの音を出せる人は、滅多にいません」
シフォンヌは顔を上げる。
ロアードの言葉が、全身に沁みていく。
ロアードは懐から、書状を取り出した。
「僕は宮廷楽士として『星しらべ』の審査と演奏を任されています。その曲を、僕はあなたと奏でたい」
シフォンヌの頭の中で、ロアードの言葉が回っている。
意味は分かるが、現実味のないことだから。
「でも、アニーカ様も、出場されます。子爵家の立場もあります。叔父様たちは……」
「気にしなくていい。音楽に、身分は関係ありません」
確信に満ちた眼差しで、ロアードは言う。
「あなたの声は、誰の許しを得なくても、世界に響かせて良いのです」
シフォンヌの瞳が大きく輝く。
ロアードは頷く。
「一つだけ、あなたにお願いがあります」
「……何でしょう?」
「祭りの夜、あなたが唄いたい曲を、探して欲しい。一緒に」
カチリと、何かがシフォンヌの胸で響いた。
それは運命が、回り始めた音。
シフォンヌは小さな声で、ロアードに答えた。
「わかり、ました」
それは二人の約束。
風が空を渡る。
竪琴の弦が、ひとりでに鳴る。
約束した二人を祝福するかのように。
だが。
運命は上下に変動もする。
か弱い少女を揺さぶるように。
その夜。
オルランス子爵邸の居間では、アニーカが祭りの衣装を披露していた。
純白のドレスには宝石が散りばめられ、キラキラと光っている。
「まあ、なんて綺麗なの、アニーカ! まるで妖精みたい」
「でしょう? これなら、王族の目にも留まりそうよね」
アニーカは、うっとりとした笑顔を見せる。
その背後に控えた侍女が、アニーカに囁く。
「お嬢様。今日も『あの方』は街で男と会っていたそうです」
「あの方……シフォンヌのこと?」
アニーカの顔が歪む。
母は眉をひそめる。
「まあ、あの子ったら、何をしているのかしら。引き取ってやった恩も忘れて、男遊びとは」
侍女は恐る恐る言う。
「あ、遊びじゃないと思います。相手は楽士。銀髪の男だそうです」
アニーカの頬がピクリと震える。
「銀髪……楽士……まさか。ロアード様?」
自分で口に出した瞬間、アニーカの胸にどろりと流れる何か。
――アイツ。わたくしよりも先に、彼と知り合っていたの?
「お父様」
アニーカは作り笑いを浮かべ、父の袖を取る。
「星しらべの伴奏、シフォンヌに任せるのは止めましょう。男遊びなんて噂が立つだけでも、我が家とわたくしの名誉に関わりますわ」
子爵は、一つ息を吐き頷く。
「確かに。祭りの当日、シフォンヌは屋敷に留め置こう」
アニーカの唇に笑みが戻る。瞳には冷気が宿ったまま。
「ええ、それがよろしいと思いますわ」
お読みくださいまして、ありがとうございます!!
シフォンヌが、早く幸せになれますように~~




