第1話 婚約破棄
その言葉の冷たい響きは、雨の日の記憶を呼び覚ます。
「シフォンヌ。お前との婚約、破棄することにした」
シフォンヌの胸が凍る。
暖炉の火は部屋を燈色にしている。
なのに漂う空気は重く足元に落ちる。
「どう、して……」
掠れた声が喉を抜けていく。
精一杯のシフォンヌの問いかけ。
サイネスは笑う。彼の顔が歪んでいる。
その笑みは、子どもの頃、庭で一緒に花冠を作っていた、少年のものではない。
「どうしてって、見ればわかるだろう。俺にはもっと、ふさわしい相手がいるからだ。お前みたいに声も出ない枯れた女じゃ、宮廷の宴で笑いものになるさ」
サイネスの隣で、アニーカの唇がキュッと上がる。
「しょうがないでしょ。わたくしの歌声を聴けば、男性は皆、うっとりするの。虜になるのよ」
アニーカの声が痛い。シフォンヌは思わず目を伏せる。
美しいのは間違いないだろう。アニーカの声も、その姿も。
だが、アニーカの響きには温かさがない。
心を包む柔らかさもシフォンヌには感じ取れない。
「お、叔父様には、お伝えに、なったの?」
小声で尋ねるとアニーカは鼻で笑う。
「勿論よ。了承して、喜んでいるわ。なんたって子爵家のためになるのだから」
そうか。
もう、決まっていたのだ。
自分の知らないところで。
サイネスはパンパンと手を叩き、シフォンヌに告げる。
「もう、俺に関わるな、シフォンヌ。ああ、婚約指輪は返せよ」
「は、はい」
小さな銀の指輪には、幸せだった頃の記憶が宿っている。
震える指で、シフォンヌはそれを差し出した。
泣くまいと思っても、シフォンヌの目の奥が熱くなる。
アニーカは勝ち誇ったように笑った。
「泣く暇があったら、楽器でも磨きなさい。あなたには、それくらいしか能力がないのだから」
シフォンヌは頭を下げ、無言で部屋を出た。
閉めた扉の向こうから、サイネスの笑い声とアニーカの媚びる高音が聞こえてきた。
シフォンヌは胸を押さえ、屋根裏の部屋に戻る。
静かに佇む竪琴にそっと触れてみる。
微かな音は、母の子守歌のようだ。
シフォンヌを慰めるような響きに、彼女は目を閉じた。
決まったいたことならば、早く教えて欲しかった。
幸せの小鳥は、もう帰って来ないのだろうから。
閉じた瞼から落ちる涙。
もう一度、会いたいな。
お母さま……。
その夜。
シフォンヌは夢を見た。
誰かが歌っている。
母の声に似ている。だが、少し違う。
男性の声だ。
星の瞬きにも似た、澄んだ音だった。
――あなたの声は、まだ消えていない。
シフォンヌにはそう聞こえた。
屋根裏の窓から朝日が差し込む。
竪琴の弦が朝日を滑らせる。
一日が始まる。
シフォンヌにとって、新しい朝だ。
どんなに泣いても、叶わないことがある。
だったら、顔を上げて歩いていくしかない。
昨日までの自分を、越えていきたいとシフォンヌは思う。
何から手を付けていこうか。
机の引き出しから、弦を取り出す。
まずはもう一度、あの店に行ってみよう。
完結保証、と言い切りたい(弱気




