婚約破棄
降り続いた雨により土砂が崩れ、馬よりも大きな石が二つ落ちて来た。
巻き込まれた馬車は全壊し、乗っていた者たちも巻き込まれた。
乗っていたのは子爵家の夫婦と幼い娘。
少女の母は、自らの命と引き換えるかのように、少女を励ます歌を唄う。
それは祈り。
泣かないで……。
悲しまないで……。
あなたは、あなたは……。
幸せになって……。
徐々に声がかすれゆく母は、ハミングで子守歌を贈る。
「お母さん! お母さん!」
母の声が途切れても、少女は叫び続けた。
「たすけて! だれか! たすけて!!」
やがて声は枯れ、少女の口元から血が零れた。
雨は少女の頬を濡らして落ちた。
◇◇星しらべの祭り
モースキー王国の夏至の夜には、王宮にて楽曲の祭りが催行される。
「星しらべの祭り」という。
種々の楽器の演奏披露や、歌による美声を競う催しもあり、身分階級を問わず、王国民が楽しみにしている催事である。
特に歌の審査には、宮廷楽団の指揮者はもとより、王族が多数居並ぶため、普段は謁見を許されていない下位貴族の子女たちも、こぞって参加する。
それは密やかな憧れ。
美声が認められたら……。
ひょっとしたら、王族への縁が、結ばれるのではないか。
そのために、練習に次ぐ練習を重ねるのだ。
オルランス子爵家においても、また然り。祭りへ参加する予定のアニーカが、歌の練習に励んでいた。
従妹のシフォンヌが伴奏している。
一見音楽を愛する一家の、なんということはない風景だ。
しかし、アニーカは気短で、いささか飽きっぽい性格をしている。
「また間違ってる!」
伴走者のシフォンヌの顔に、濡れた雑巾がぶつけられた。
アニーカが投げつけたのだ。
艶やかなブロンドヘアや紺碧色の瞳を持つ、まごうことなき美少女のアニーカは、見た目からは想像できない苛烈な性格をしている。
「すみません……」
「ああ、もういい! あんたは喋らないで! 婆のような声なんて聞きたくないわ!」
ぷいっと横を向き、アニーカは侍女と共に、練習部屋を出て行く。
残されたシフォンヌは、小さく息を吐き、雑巾を片付けた。
共に十四歳で、貴族が通う学校へ通っている。
アニーカは学校では、オルランス子爵令嬢と名乗り、シフォンヌは引き取られた親戚の子どもと言っているそうだ。
事実は逆であるのだが。
シフォンヌが、雑巾を絞ったついでに、室内の吹き掃除を始めると、侍女のマリベルが慌ててやって来た。
「お嬢様。それは、わたしが代わりにいたします」
「いいのよ、ベル。ついでだし」
マリベルは元々シフォンヌの乳母である。
彼女がいなかったら、シフォンヌはもっとひどい生活をしていた。
邸も領地も、安寧な日々も、叔父たちに取られたのだから。
「夕食は、いつものようにお部屋に運びますね」
シフォンヌはにっこり笑って、伴奏用の竪琴を持つ。
オルランス子爵家は、音楽の才能により、何代か前に爵位を賜った。
祖父は宮廷楽士。
母は、王国一の美声の持ち主と言われたほどだった。
シフォンヌも母に似た美声と、優れた音感を持っていた。
残念ながら、七年前の事故により、声帯を傷めてしまったが、音感と楽器の扱いの才は秀でている。
更に言えば、事故で失われたのは、シフォンヌの父と母の命もだ。
現在、子爵家は母の弟の叔父が継いでいるらしい。
アニーカは叔父の娘である。
「ふうっ……」
自室に戻ったシフォンヌは、竪琴の手入れを始めた。
此処は屋根裏。
空が近い。
空が近いということは、父と母にも近いということ。
叔父一家の生活領域から離れているので、多少の独り言や鼻歌も許される。
シフォンヌの竪琴は自作である。
母が使っていた高価な竪琴は、いつの間にかアニーカの物になっていた。
抗議しようと口を開いたら、いきなり叔母から平手打ちされ、口を切った。
王都には、母が懇意にしていた、楽器の製作を請け負う店がある。
シフォンヌは、領地の管理人から使わなくなった弓を譲り受け、楽器店から弦だけを購入し、十本の弦を持つ竪琴を作った。
シフォンヌは、美声を失ったが、音感は維持しているので、自分で調律することが出来るのである。
「あら……」
シフォンヌは、弦が一本細くなっていることに気付いた。
放置すれば、早晩切れてしまうだろう。
アニーカの伴奏中に、切れたりしたら大変だ。
明日あたり、お店に行ってみよう。
翌日、シフォンヌは楽器店を訪れた。
顔なじみの店主は、いつもの廉価な弦を渡す。
店の奥から、笛の音がする。
何だろう。
縦笛だろうか。
澄んだ音色。
でも、どこか哀しい音だ。
笛の音が止むと、奥から男性が現れた。
男性はシフォンヌと目が合うと、切れ長の蒼い瞳が一瞬開いた。
「ああ、紹介しようか。こちらは、ロアード……君。最年少の宮廷楽士だ」
銀色の髪を尻尾のように縛っているロアードは、確かにシフォンヌとほぼ同世代の若さを持つ。
襟元のピンバッジは、宮廷楽士の証だ。
「はじめまして」
すっと手を出すロアードは、どこかの貴族の令息だろうか。
流麗な所作である。
「シフォンヌです」
シフォンヌは店主の紹介に続いて挨拶した。
なるべく、しゃがれた声を小さくして。
「あなたも、星調べに参加するのですか?」
「え、ああ、伴奏するかもしれません」
「伴奏だけでは、勿体ないですね」
「いえ、こんな声ですから」
ロアードは首を少し傾げ、シフォンヌに言う。
「歌声と話声は、違いますよ」
ドクン!
シフォンヌの胸がざわめく。
今まで、そんなことを言ってくれる人はいなかった。
学校でも音楽の授業はあるが、教師はシフォンヌに、「無理に唄わなくて良い」と言っていた。
「僕でよければ、発声の練習、少しやってみませんか? あなたの声には、不思議な色がある」
私の声に、色?
それはシフォンヌにとって、目の前が明るくなるような一言であった。
浮き立ったシフォンヌの心は、子爵邸に帰った時に重くなる。
シフォンヌの婚約者、サイネスが来ていた。
来る予定の日ではない。
しかも客間からは、サイネスとアニーカの笑い声が響いている。
サイネスはパウガー伯爵家の次男で、シフォンヌが五歳の時に婚約した。
現当主のパウガー伯爵、たっての希望で結ばれた婚約だったはずだが……。
ノックして部屋に入ると、隣同士でソファに座っているサイネスとアニーカが、じろっとシフォンヌを見た。
「婆さんのお帰りか。遅かったな」
サイネスはシフォンヌのことを『婆さん』呼びするのだ。
「はい……」
「ああ、もう喋らないで」
眉を吊り上げるアニーカをなだめながら、サイネスはシフォンヌに告げる。
口調は憎々しさにあふれている。
「シフォンヌ。お前との婚約、破棄することにした」
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